学位論文要旨



No 127389
著者(漢字) 伊藤,未帆
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ミホ
標題(和) ベトナム北部山間部における民族寄宿学校と少数民族 : 選抜メカニズムの地域的多様性と人々の選択
標題(洋)
報告番号 127389
報告番号 甲27389
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1089号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 有田,伸
 東京大学 准教授 清水,剛
 京都大学 准教授 伊藤,正子
内容要旨 要旨を表示する

社会主義体制を標榜する国家において、地方政府とは、中央政府によって立案・決定された政策や方針を、末端で生活する人々へと浸透させる、「上意下達」のための仲介的な機関としてみなされることが多い。ところがベトナムでは、こうした社会主義的な中央・地方関係のあり方とはやや異なる様相を示し、地方政府にも一定の自律性が確保され、時に中央政府の政策方針を変革しうるほど地方がそのイニシアティブを発揮することがある。本論文は、ドイモイ期ベトナムにおいて、教育訓練省が設立した少数民族のための「民族寄宿学校」制度と、この学校制度をめぐる各地方行政の多様な運用のあり方を検討することによって、単純な「上意下達」の構造に収斂されるのではない、社会主義国家における中央・地方関係の独自のあり方と、その結果、地域社会に暮らす人々にもたらされた影響について明らかにすることを目的とした。本論文第I部では、研究の目的および方法、先行研究の整理を行った。

ベトナムは、54の公定民族が居住する多民族国家である。1986年に導入されたドイモイ政策によって少数民族地域の発展構造の担い手をめぐる政策方針が大きく転換したことを受けて、1990年代初頭から、ベトナム全国において民族寄宿学校と名付けられた新たな学校制度が整備されていった。この学校制度は、1950年代以降、北部山間部を中心とする少数民族地域に建設された、民族青年学校と総称された学校群が一つのモデルとなっていた。そこで本論文第II部では、政府の政策文書および新聞資料の分析を通じて、民族青年学校の先駆けとなったホアビン社会主義労働青年学校(以下、ホアビン校)が担った目的と、その実態的役割を明らかにした。

1958年、ホアビン省の労働青年団による「地方のイニシアティブ」によって誕生したホアビン校は、学問的な知識の教育を行う傍ら、技術研修を行いながら生徒たちを労働力として育成し、自前の農場を経営することによって、自給自足的な運営を行っていた。設立からしばらくの間、教育行政の「外側」に置かれていたが、1970年代初ごろになると、教育行政の管轄下に組み込まれるようになり、山間部における公的な教育機関の一形態として認められることになる。その後、1980年代後半には、困窮するベトナム経済を背景に学校解体の危機に瀕したが、こうした状況を大きく変容させたのが、1989年に出された政治局第22号決議であった。政治局第22号決議は、市場主義経済の導入にともなって急速に拡大した、平野部と山間部の格差を是正することを目的に、少数民族地域をめぐる発展の担い手を、それまでのキン族から、地元出身の少数民族へと大きく転換するという方針を打ち出した。これに伴い、少数民族の中から、地元の地域発展の牽引役となるエリート人材を迅速に育成する必要性が生じた。そこで、それまでの民族青年学校を含む、既存のいくつかの学校モデルを改組、統一し、民族寄宿学校という名称を冠した上で、全国規模の学校組織へと編制する大規模な教育改革が行われることとなった。これが、1991年に教育訓練省によって開始された、民族寄宿学校の整備事業(通称第7プログラム)である。

民族寄宿学校は、原則として少数民族のみを対象とした学校制度である。学校には寄宿舎が併設され、生徒全員がこの寄宿舎で集団生活を送りながら、普通学校と同じ教育カリキュラムによる教育を受ける。中学校と高校の中等教育課程に位置づけられるが、学費は無償であり、生徒には生活費として奨学金が支給される。全国統一的な教育機関であるものの、一方で、生徒の選抜方法に関しては、一定程度、地方の教育行政による自主的な裁量に任されたことにより、各学校の選抜メカニズムのあり方は、地域ごとの社会的条件、民族の居住状況に合わせて、さまざまなスタイルで発展していった。本論文の第III部では、2004年度の受験者データに基づく定量分析により、フート省とラオカイ省という二つの地域の民族寄宿学校で行われている選抜メカニズムを比較分析し、民族寄宿学校が、誰に、どのようにその恩恵を分配しているのかという問いを明らかにした。もともと平均的な教育水準が高いムオン族が集住するフート省の民族寄宿学校では、能力主義的な選抜方法、すなわち競争原理によって優秀な生徒を選抜し、補習授業など積極的に活用した教育方法を実践することにより、少数民族生徒の質的水準の向上を目指した。その結果、キン族が多く通う一般の普通高校と比べても、相対的に高い高等教育機関進学率が達成され、学歴エリート養成学校としての役割を果たすことになった。

これに対し、教育水準が低い民族が多く居住するラオカイ省では、入学試験での得点よりも、民族籍や出身中学校など、いくつかの優遇条件を設けて、それに当てはまる人々を積極的に選抜する仕組みが採られた。これにより結果の平等が保障され、普通学校にはなかなか進学することができない人々、すなわち僻地に居住していたり、人口の極めて少ない少数派の少数民族の子どもたちにも、高校に進学する貴重な機会を開いた。ただしその一方で、競争原理に基づかない選抜メカニズムを実践したことで、学校自体の質的水準は次第に低下し、高等教育機関への進学者数も減少していった。

フート省とラオカイ省の民族寄宿学校における選抜メカニズムの相違は、人々の進路選択をめぐる認識と行動にも影響を及ぼした。フート省、ラオカイ省、ランソン省の民族寄宿学校と普通中学校で行った定量調査データを分析したところ、フート省のムオン族や、彼らと同等の教育水準にあるランソン省のタイー族とヌン族にとって、民族寄宿学校とは、いくつかある高校進学の選択肢の一つとして認識されていることが示された。これに対し、ラオカイ省のモン族、ザオ族にとっては、民族寄宿学校以外の高校進学の選択肢はほぼ存在せず、高校進学とはすなわち民族寄宿学校に進学することにほかならない。さらに本論文では、地理的な枠組みを超えた民族別の進学行動を比較した結果、民族寄宿学校に対する進学行動のあり方が、民族寄宿学校を運営する各地方行政の管轄圏を超えて、民族の属性ごとに決定、共有されていることが明らかとなった。

そこで次に、フート省ムオン族に焦点を当て、ムオン族の中でどのような属性を持つ人が民族寄宿学校へ進学していくのか、民族寄宿学校への進学をめぐる規定要因を分析した。フート省民族寄宿学校と普通高校で行った定量調査データ(高校3年生対象)を用いて、中学校卒業時の成績を比較したところ、中学校卒業時点の成績の高さが、民族寄宿学校への進学に影響を与えていることが示された。ただし、県レベル民族寄宿学校(中学校課程)の出身者が、省レベル民族寄宿学校に進学する割合が高いことから、両者の間に何らかの関係が存在する可能性が浮かび上がった。そこでさらに、小学校卒業時点での成績と、親の職業と学歴の変数を軸に、県レベル民族寄宿学校への進学効果を分析したところ、親の職業と学歴による影響は全くないとは言えないものの、小学校卒業時の成績の方が、より大きな効果を持つことが判明した。これらのことから、フート省のムオン族に関しては、民族寄宿学校という学校制度は、あくまでも能力主義に基づく選抜のメカニズムが有効に機能し、親の職業による「コネ」の影響がより少ない形で、優秀な人々だけを選抜する、すぐれて平等なシステムであることが示された。

こうした選抜メカニズムと、その結果もたらされた民族寄宿学校の進学実績は、地域社会の人々に、自らの「少数民族」性を認識させる重要なきっかけをもたらした。第IV部では、1992年度から2004年度にかけて、フート省ヴィエトチー市に所在する中央民族大学予備校に在籍した、少数民族生徒の民族籍を分析し、親と本人の民族籍の継承関係を調べた。その結果、フート省民族寄宿学校のように、機会の平等を重視した選抜メカニズムを実施するいくつかの地域では、「少数民族」籍の選択という現象が生じやすい傾向にあることが明らかになった。彼らにとって民族籍とは、自らのエスニシティと一致するものでなかったとしても、高等教育機関への進学という行動の過程において、より有利な条件を得るために交換可能なものであり、巧みに利用できる一つのツールとして捉えられている。キン族から「少数民族」籍へと変更することで、少数民族優遇政策の恩恵を巧みに利用しようとする行動のあり方とは、学歴主義的な成功モデルが急速に普遍化しつつある現代のベトナム社会において、国家による制度的な枠組みに対する、草の根の人々からのしたたかな反応の一断面を表している。反対に、民族寄宿学校へ進学することが、必ずしも自らの高等教育機関進学の可能性を拡大してくれるわけではない地域では、キン族から少数民族への民族籍の変更は生じにくいことも示された。

以上の考察を踏まえたうえで、本論文は次のように結論を導いた。

民族寄宿学校制度をめぐる地方ごとの運用のあり方を実証的に分析した結果、民族寄宿学校をめぐる選抜メカニズムが、結果と機会、いずれの平等を重視するかによって、この学校に進学できる人々の層が大きく異なることが明らかとなった。これは、各地方の教育行政が、地域内の社会的基盤の特性を十分に理解した上で、より適切な資源分配を実現するための創意工夫の結果として生み出されたものであった。同時に、地方の教育行政がこうした自由なイニシアティブを発揮できたのは、中央政府、すなわち教育訓練省の側にも、各地方の主体性を尊重する「余地」があらかじめ設けられていたからであった。

他方、民族寄宿学校という学校制度それ自体に着目してみれば、この新たな学校制度の導入は、山間部に生きる人々の暮らしと認識に大きな変化をもたらした。市場経済化によって進学熱が急速に高揚しつつある今日の山間部社会において、「少数民族」の進学を優遇するために設けられた民族寄宿学校が、国からの優遇政策とそこから得られる恩恵を、自分たちの日常生活の中で可視化させる役割を果たしたからである。この結果、人々は自らの主体的な意思によって優遇政策の恩恵の受け手となるか否かを選択するようになり、その過程で、自由な自己実現のための戦略的なツールとして、エスニシティに新たな価値が見出されていった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ドイモイという改革が行われている現在のベトナムで、少数民族の教育に大きな役割を果たしている民族寄宿学校の沿革をたどりつつ、それが地方ごとの教育行政によって多様に運用されていることを解明し、民族寄宿学校が少数民族社会に与えている影響を、フィールドワークの成果もふまえて、実証的に検討した論文である。

論文はV部から構成されている。第I部は序論で、問題の所在、先行研究と本論文の目的、調査方法が述べられている。この中で、本論文が、(1)民族寄宿学校が、そもそも何を目的として導入された少数民族優遇政策だったのか、(2)この学校制度の運用は地方ごとにどのような多様性を持っているのか、(3)そして、この優遇政策の実施によって、少数民族社会における人々の認識にどのような変化がもたらされているのか、という三つの点を解明することを目指すものであることが指摘されている。

第II部「少数民族教育政策と民族寄宿学校をめぐる歴史的展開」では、政府の民族政策の歴史的展開の中で、民族寄宿学校が位置づけられている。第1章「ベトナム教育政策の展開と少数民族」では、ベトナム民主共和国の独立以来、少数民族の間でも、精力的な識字運動、学校教育の普及がはかられたが、少数民族の間での成果は、少数民族のベトナム語への馴染みの薄さ、多数民族キン族教員の山間地への不定着などのために、限定されたものだったこと、ドイモイの開始とともに、学校教育への補助金が打ち切られ、キン族教員の派遣を支えていた職業分配制度が廃止されたため、一時、少数民族地区の教育は危機に瀕するが、1989年の共産党政治局第22号決議で、山間地の地域発展の担い手は基本的に地元出身の少数民族であるべきだという政策が明示されて以降、少数民族出身のエリート養成に本腰が入れられるようになり、ドイモイ下での経済発展の中で「学歴社会」化が進展し、高等教育進学者が急増するようになる中で、少数民族は、依然、進学率では多数民族に劣るものの、その伸び率では少数民族地域のほうが高い傾向が出ていることが指摘されている。第2章「民族寄宿学校の誕生」では、前身として1958年にホアビン省で誕生した社会主義労働青年学校(民族青年学校)の役割と実態が検討され、それが、自給自足による学校運営を行う、教育行政の「外側」に位置づけられた、地方ごとの特性に応じた制度であったことが明らかにされ、その公教育への取り込みが困難に直面していた1980年代の末の共産党政治局第22号決議で提示された、少数民族の中から地元の発展の牽引役となるエリート人材を育成するという課題に応えるべく、従来の民族青年学校などを改組、統一して、民族寄宿学校という制度が全国規模の学校組織として展開されることになり、その数も、1989年から99年の10年間に、中央レベルで1校から10校へ、省レベル(高校課程)で10校から43校へ、県レベル(日本の郡に相当、中学課程)が68校から190校へ急速に増大したことが示されている。

第III部「民族寄宿学校をめぐる運用の地域的多様性」では、この全国一律の学校制度である民族寄宿学校が、実際にはそれぞれの地域の特性に対応して、きわめて多様に運用されていることを検討している。第3章「民族寄宿学校の制度と運用」では、民族寄宿学校は原則とし少数民族のみを対象とした学校制度で、学校には寄宿舎が併設され、生徒全員がこの寄宿舎で集団生活を送りながら、普通学校と同じ教育カリキュラムによる教育を受ける、県に中学校、省に高校が置かれ、中等教育課程に位置づけられており、学費は無償で生徒には生活費として奨学金が支給される、全国統一的な教育機関であるものの、一方で、生徒の選抜方法に関しては、一定程度、地方の教育行政による自主的な裁量に任されたことにより、各学校の選抜メカニズムのあり方は、地域ごとの社会的条件、民族の居住状況に合わせて、さまざまなスタイルで発展していったことが指摘されている。第4章「民族寄宿学校の選抜メカニズム」では、2004年度の受験者データに基づく定量分析により、フート省とラオカイ省という二つの地域の民族寄宿学校で行われている選抜メカニズムを比較分析し、民族寄宿学校が、誰に、どのようにその恩恵を分配しているのかを検討し、次のような点を解明している。もともと平均的な教育水準が高いムオン族が集住するフート省の民族寄宿学校では、能力主義的な選抜方法、すなわち競争原理によって優秀な生徒を選抜し、補習授業など積極的に活用した教育方法を実践することにより、少数民族生徒の質的水準の向上を目指した。その結果、キン族が多く通う一般の普通高校と比べても、相対的に高い高等教育機関進学率が達成され、学歴エリート養成学校としての役割を果たすことになった。これに対し、教育水準が低い民族が多く居住するラオカイ省では、入学試験での得点よりも、民族籍や出身中学校など、いくつかの優遇条件を設けて、それに当てはまる人々を積極的に選抜する仕組みが採られた。これにより結果の平等が保障され、普通学校にはなかなか進学することができない人々、すなわち僻地に居住したり、人口の極めて少ない少数派の少数民族の子どもたちにも、高校に進学する貴重な機会を開いた。ただしその一方で、競争原理に基づかない選抜メカニズムを実践したことで、学校自体の質的水準は次第に低下し、高等教育機関への進学者数も減少していった。第5章「少数民族の教育達成と民族寄宿学校」では、フート省とラオカイ省の民族寄宿学校における選抜メカニズムの相違は、人々の進路選択をめぐる認識と行動にも影響を及ぼしたとして、以下のような分析が行われている。フート省、ラオカイ省、ランソン省の民族寄宿学校と普通中学校で行った定量調査データを分析したところ、フート省のムオン族や、彼らと同等の教育水準にあるランソン省のタイー族とヌン族にとって、民族寄宿学校とは、いくつかある高校進学の選択肢の一つとして認識されている。これに対し、ラオカイ省のモン族、ザオ族にとっては、民族寄宿学校以外の高校進学の選択肢はほぼ存在せず、高校進学とは民族寄宿学校に進学することにほかならない。この傾向は、地域横断的に見た場合にも、民族を軸として同様の結果を示していることから、民族寄宿学校という学校制度が果たす役割は民族ごとに多様化していると言える。次に、フート省ムオン族に焦点を当て、民族寄宿学校への進学をめぐる規定要因を分析している。フート省民族寄宿学校と普通高校で行った定量調査データ(高校3年生対象)では、中学校卒業時点の成績の高さが、民族寄宿学校への進学に影響を与えていることが示された。ただし、県レベル民族寄宿学校(中学校課程)の出身者が、省レベル民族寄宿学校に進学する割合が高いことから、両者の間に何らかの関係が存在する可能性が浮かび上がった。そこでさらに、小学校卒業時点での成績と、親の職業と学歴の変数を軸に、県レベル民族寄宿学校への進学効果を分析したところ、親の職業と学歴による影響は全くないとは言えないものの、小学校卒業時の成績の方が、より大きな効果を持つことが判明した。これらのことから、フート省のムオン族に関しては、民族寄宿学校という学校制度は、あくまでも能力主義に基づく選抜のメカニズムが有効に機能し、親の職業による「コネ」の影響がより少ない形で、優秀な人々だけを選抜する、すぐれて平等なシステムであることが示された。

第IV部「優遇政策が少数民族社会に及ぼした影響」では、民族寄宿学校の進学実績が、地域社会の人々に、自らの「少数民族」性を認識させる重要なきっかけをもたらしたことを解明している。第6章「『少数民族』を選ぶ人々」では、1992年度から2004年度にかけて、フート省ヴィエトチー市に所在する中央民族大学予備校に在籍した、少数民族生徒の民族籍を分析し、親と本人の民族籍の継承関係を検討し、フート省民族寄宿学校のように、機会の平等を重視した選抜メカニズムを実施するいくつかの地域では、「少数民族」籍の選択という現象が生じやすい傾向にあることを明らかにしている。こうした「少数民族」籍選択者にとって民族籍とは、自らのエスニシティと一致するものでなかったとしても、高等教育機関への進学という行動の過程において、より有利な条件を得るために交換可能なものであり、巧みに利用できる一つのツールとして捉えられている。キン族から「少数民族」籍へと変更することで、少数民族優遇政策の恩恵を巧みに利用しようとする行動のあり方とは、学歴主義的な成功モデルが急速に普遍化しつつある、現代のベトナム社会において、国家による制度的な枠組みに対する、草の根の人々からのしたたかな反応の一断面を表している。反対に、民族寄宿学校へ進学することが、必ずしも自らの高等教育機関進学の可能性を拡大してくれるわけではない地域では、キン族から少数民族への民族籍の変更は生じにくいことも示されている。

第V部「終章」では以上の議論をまとめ、二つのことが強調されている。まず第一に、山間部少数民族社会に暮らすほぼすべての人が、少数民族優遇政策と自らの日常生活とを結びつける接点を意識するようになったという意味において、民族寄宿学校という学校制度は、ベトナムの社会に大きな変化をもたらした、ということである。また第二に、民族寄宿学校の運用をめぐる多様なあり方とは、各地方の教育行政が、地域内の社会的基盤の特性を十分に理解した上で、より適切な資源分配を実現するための創意工夫の結果として、生み出されたものであり、地方がこうしたイニシアティブを発揮できたのは、中央政府(教育訓練省)の側に、地方の主体性を尊重する「余地」が設けられていたからであった、ドイモイ政策によって市場経済化が進展するベトナム社会において、国内の社会・経済的な格差がますます拡大しつつあるなか、なお国民国家というまとまりが存続し、多民族社会としての秩序が維持されている背景には、このような緩やかな中央-地方関係における相互作用の中で、中央からの政策が、うまく地方ごとの状況に合わせて運用されていくという、ベトナムの「伝統的な」創意が、今日もなお効果的に機能していることを示しているのではないか、としている。

本論文の意義は、次のような点にあると考えられる。まず第一に、ベトナムの民族寄宿学校については、今日のベトナムの少数民族教育において重要な役割をもっていることは従来から指摘されていたが、その実態を解明した研究は少なく、本論文が、民族青年学校からの系譜性を明らかにした上で、フィールドワークをふまえて、その実像を浮き彫りにしたことは高く評価できる。特に外国研究者による本格的民族寄宿学校研究としては、きわめて先駆的な成果である。第二に、本論文は、民族寄宿学校が、ホアビン社会主義労働青年学校の系譜につながることを実証的に解明した、初めての論文である。第三に、本論文は、民族寄宿学校の選抜方法が、フート省とラオカイ省という地方ごとで大きく異なっていることを明らかにし、民族寄宿学校という制度が果たしている役割も多様であるという、ベトナムにおける中央‐地方関係という視角から見てもきわめて興味深い知見をもたらした。第四に、本論文は、進学との関連で少数民族籍を選択するケースが存在することを実証的に明らかにしているが、これは、優遇政策とエスニシティとの関係という、ベトナムに限定されない、世界的な課題に対して、貴重な情報提供になっている。さらに第五に、本論文は、筆者自身がフィールドワークで入手した、定量分析にたえる規模の、それ自体がたいへん貴重な成績・進路データを活用して、ロジスティック回帰分析などの手法を用いて、民族寄宿学校という制度がいかに機能しているかに関する計量的な証拠を提示しており、これは教育社会学あるいは階層研究に関するベトナム少数民族研究からの大きな貢献となっている。

審査の過程では、本論文に対する批判も、いくつか提起された。第一に、本論文は、民族寄宿学校が、少数民族の人々に、優遇政策を自分たちの日常生活に結び付くものとして意識させ、進学熱を広げる役割を果たしたとしているが、モン族やザオ族などの間では、ベトナムの国民教育による「教化」に反発し、進学熱に背を向けている人が依然多いことなど、民族や地域によっては異なる動向があり、本論文の議論は一面的なのではないかという疑問が出された。第二に、本論文では、民族寄宿学校など教育の普及度が民族ごとに相違しているとしているが、それはベトナムの統計が民族単位で集計されているためで、原因は地域格差や貧富など社会階層の相違である可能性もあり、より慎重な吟味が必要であるとの指摘がなされた。第三に、民族籍選択の問題が、どれほど民族寄宿学校の延長に位置づけられる課題なのかは、本論文の分析では十分に説得的とはいえず、提示されているデータをもっと別の角度から深く読み込むことができるのではないかという指摘もなされた。また第四に、本論文が、教育社会学の土俵でも通用する議論となっている点は評価できるが、逆に教育社会学のディシプリンでは割り切れない点を地域研究として示すという面が弱いのではないかという指摘もなされた。しかし、審査委員会は、こうした点は、本論文の意義を否定するようなものではなく、今後の研究の進展と、論文の公刊の過程で克服されるべき課題であると考えた。したがって、本審査委員会は全員の一致で本論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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