学位論文要旨



No 127390
著者(漢字) 森田,健嗣
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,ケンジ
標題(和) 単一言語主義とその限界 : 戦後台湾における言語政策の展開(1945-1985)
標題(洋) Monolingualism and its Limitation : The Evolution of Language Policy on Post-war Taiwan: 1945-1985
報告番号 127390
報告番号 甲27390
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1090号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 岩月,純一
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 石井,剛
 早稲田大学 教授 若林,正丈
 一橋大学 教授 松永,正義
内容要旨 要旨を表示する

現代台湾は中国語、台湾語、客家語、先住民族諸語、日本語などが用いられる多言語社会である。近年では国民党一党支配時期の公定中国ナショナリズムに代わり、多文化主義的な統合理念が登場している。それは目下、民主化期に擡頭した台湾ナショナリズムの一部が期待するように、それまでの国民統合の結果を「台湾文化」に置き換えるというものではなく、かつての不平等と行き過ぎた一元化とが是正されたものである。その顕著な一例が、1990年代以降の小学校における母語教育等の多文化主義的言語教育政策である。

その国民党一党支配時期の下では、言語・文化面においても厳しい統制がとられ、外省人(人口上は圧倒的な少数派だが、政治権力を有する)の言語・文化に、本省人(人口上は多数を占めるが、政治権力はあまり有さない)を同化させる政策が進められた。その中心となったのが、日本統治時代に普及された日本語や、台湾在来の言語である「台湾語」などを排しつつ、「国語」(中国語)普及を進めることだった。本論文ではその具体的な経過、特に単一言語主義から多文化・多言語社会への移行に至った契機とその世界史的潮流における特徴を明らかにすべく、戦後台湾における言語政策の展開を論じる。考察にあたり、台湾における脱植民地化の過程が本省人の主導ではなく、新たに統治権を握った国民党政権によって行われたこと(「脱植民地化の代行」)、戦後一時期に新たな「国語」(中国語)を主体的に学ぶ姿勢を示した本省人が、その後は半ば受動的に「国語」学習を強制されるようになった経過をみる。

第1章では戦後初期(1945-49)における日本語の排除に代表される「脱日本化」と「国語」(中国語)の普及という「祖国化」とがいかにして進められたかを考察する。1945年当時、台湾では日本語がすでに十分普及されていたものの、統治者らは急速に「国語」普及を推進しようとし、本省人側も自発的に「国語」を学ぶ熱意を有していた。だが本省人は来台した外省人へ幻滅を感じ、「国語」への情熱も冷めていった。「二・二八事件」(1947年)発生後、統治者側は事件の原因を本省人の「祖国」とその言語への理解不足であると認識したため、日本語の禁止のみならず、台湾語や客家語などの使用も減らし、必ず「国語」のみで教育するという方向性をうち出す。しかし「国語」学習の期間が短かった当時の本省人教員にとり、「国語」のみでの授業は不可能であったため、教育現場では台湾語が混用され、単一言語主義の達成は不完全なものであった。

第2章では、1950年代を中心とする状況の変化を見る。国民党中央政府の台湾移転に伴う「国語」教育の急進化は、台湾語などの諸言語への圧迫をさらに強めた。学校では「国語」能力の低い教員は任用されなくなり、「方言」を話すと罰を与える方法が採られるなどした。学生らは「国語力」を身につけるとともに、政権が示すイデオロギーを吸収し内面化していった。また軍内部では外省人指揮官と「国語」を解さない本省人兵士との意思疎通を円滑にするため、積極的な「国語」教育が行われた。

一方、日本統治時代に教育を受け「国語」を理解しない多数の本省人への「国語」補習教育は順調に進まなかった。よって彼らは政権が上から提示する言語・文化においては「周辺化」された。このような状況を前にして、政権側は本省人らを取り込むため外省人に台湾語を学ばせた。そのほか、娯楽として、また政令や実用的な知識の伝達手段として台湾語ラジオ放送が利用された。また、台湾語映画の制作は政権からの圧力にもかかわらず存続し、台湾基督長老教会では台湾語や教会ローマ字聖書が用いられ続けるなどした。つまり、学校や軍のような「公的な空間」の外側には強固な「私的な空間」である台湾語の世界が広がっており、人々は「国語」学習を続ける目的をあまり有しなかった。こうして「公的な空間」と「私的な空間」の間に「国語」普及度の差が開き、「国語」の普及が他の言語を消滅させるような状況はあまり生じなかった。

第3章で取り上げた1970年代のテレビ番組を巡る「方言」論争は、60年代以降視聴者獲得などのため制作された「方言」番組に対し、立法院での質疑で提起されたものである。外省人立法委員が「方言」番組制限を主張したのに対し、70年代における台湾の国際的場面での孤立化にともない、蒋経国ら中枢エリートは農村を安定した社会基盤にするため、人々が「方言」を多く用いる事実を十分理解し、「国語」政策推進の一方、「方言」番組を温存させた。しかし結果としては外省人立法委員が主張する「方言」制限の根拠法が成立するものの、米国から「人権」概念を取り入れた民主化運動勢力が、言語権の立場から「方言」制限反対の主張を展開する。さらに台湾基督長老教会では、60、70年代から政権の主張する国家アイデンティティに反する言語をとり政権の禁忌に触れたため、政権側は教会ローマ字聖書を没収するなどしてその活動を抑え込もうとした。それに対し、教会側は憲法に記された信仰の自由をもとに抵抗する。この時期における中枢エリートがとった対応の背景には、台湾の「外部正統性」が失われつつある中、「内部正統性」を強化するため、農村部を中心とする台湾内部の基盤を安定化しようとする考えがあり、台湾語の温存を試みていた。だが結果として、政権側が台湾語の存在を少なくとも黙認したことにより、民主化運動家らに下からの言語権主張などの機会を与えたのである。

以上の考察に基づく結論は以下の通りである。「国語」の普及そのものは、主として学校を通じ、罰則を付与して在来言語を排しながら順調に進展した。「国語」とは唯一の公的、教育言語であり、本省人にすれば「国語」を習得することである程度は社会的に上昇できた。この状況とは「代行された脱植民地化」という、旧植民地宗主国、そしてその被支配者の存在がないままに、新たな統治者がハイカルチャーとして示す「国語」を本省人が学ぶというものであった。だが「国語」を必ずしも必要としない人々の言語使用は、「国語」と台湾語というダイグロシアへと向かった。また、70年代には言語権の主張がもたらされる。この下からの言語使用の要求とは世界史的においても普遍的にみられることだが、戦後台湾の場合、その要求の発端となる条件が異なった。なぜならば70年代には台湾の国際環境における「孤立」という要因があったためである。これに対応して政権側が国内の支配基盤を強化するため台湾語で民心を掌握しようとしたこと、さらには民主化運動家の登場、および彼らが外から移入した「言語権」等の人権概念が組み合わさり、単一言語主義の限界が示されることとなる。そして「『代行的脱植民地化の植民地主義』からの脱却」がはかられ、多文化・多言語主義登場の道筋が開かれた。ゆえに近年の研究で明らかにされている多言語主義的政策を生み出す空間が台湾にもたらされた点を指摘できることになる。

なお附章では山地に居住する先住民族への「国語」教育への初歩的な検討を行っている。主として政権は先住民族の言語が平地と異なることを警戒し、また先住民族に対し「国語」教育をはじめとする教化策を進め、山地を中国共産党の侵入から防ごうとした結果、先住民が有する言語・文化を消失させたことを論じる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後台湾における中国国民党政権の言語政策について、台湾の日本植民地統治離脱から民主化展開前夜の時期に当たる1980年代中頃までの展開を、その実施過程に焦点を当てて跡づけた労作である。著者は、国民党政権の言語政策を、土着諸言語を排除して上からの「国語」普及の推進を目指す単一言語主義であったと性格付け、それが一定の成功を収める70年代以降様々な側面で限界に突き当たり、このことが民主化期における言語政策の多文化主義的転換の前提を形成していたと主張している。

論文は、序章と終章、及び附章を含め全6章からなる。論文本論は、A4版166頁(附章を含む)で、注は脚注として付されている。また、本文中の関連部分には、該当部分にかかわるデータを整理した表5点が挿入されている。巻末には、参考資料として、附章「山地における単一言語主義の展開と「白色テロ」」と史料・文献一覧(全19頁)が付されている。

序章「課題と方法」では、先行研究のサーヴェイを行った上で本論文の視角が示される。台湾現代史研究においては、二・二八事件に関連する戦後直後の言語政策上の混乱と衝突、50年代以降の上からの「国語」普及政策を含む国民党政権文化政策全体の展開、および民主化期からの多文化主義政策の展開過程などについて、一定の厚みのある先行研究が存在するが、その言語政策遂行の実態や政策転換前夜の情況については必ずしも明確な把握が行われていない。そこで、戦後国民党政権の言語政策を単一言語主義と性格付け、民主化前夜にはその政策展開が限界に突き当たっていた、との仮説を呈示する。そして、多様なソースの史料を検討することを通じて、先行研究では必ずしも十分とは言えない「国語」普及政策実施の過程に焦点を当て、そこでは台湾本省人の母語である台湾語の存在を完全には否定しない「ある程度の空間を残さざるを得なかった」ことを明らかにしていく、としている。

第1章「遺制の排除と単一言語主義の模索」では、日本統治離脱から中華民国中央政府台湾移転までの時期を扱う。日本の台湾総督府に取って代わった台湾省行政長官公署は、教育機関接収とともに「国語」教育を実施に移すが、急進的な日本語排除とそれへの本省人の強い反発、接収全般の混乱や二・二八事件勃発とともに急速に冷めていった本省人の「国語」学習熱、教員資源のミスマッチ(教育技術は高いが「国語」能力は低い本省人教員、日本人教員の引揚による教員の絶対数不足とその穴を埋めた外省人教員の質の低さ、教科書の不足など)などで現場での混乱が続いた。学校教育以外にも、日本が残した国語講習所を使い未就学民衆への「国語」補習のプログラムが実施されたが成果が上がらなかった。ただ、こうした混乱の中でも「国語」普及推進の模索は続けられ、のち50年代になって全面的に採用される、小学校での直接法による「国語」教授の実験教育が開始された。

第2章「単一言語主義の急進化とその空間」では、1950年代と60年代の情況が述べられる。この時期の「国語」普及政策は、「共産中国」と政治・軍事的に対峙する状況下で新たに「反共復国」のイデオロギー注入の任務を負荷され、国家が直接に掌握できる学校教育と軍において、まさに単一言語主義と呼び得る急進性を以て強行的に推進され成果をあげていった。小学校においては、前述の直接法が実験段階を終えて全面的に採用されるとともに、「国語」力が不十分とされた本省人教員は淘汰され、また「方言」排除のための「方言札」による生徒の懲罰方式(戦前の沖縄、台湾でも行われたやり方)が広く採用された。軍においては、本省人新兵の入営前「国語」補習が各県市の負担で実施され、それが一段落すると60年代初めからは入営後の補習が軍の任務として制度化されていった。こうした強行的普及策は、中学校不足による進学競争の激化が生徒・父兄の「国語」受容に拍車をかけるといった皮肉な現象を伴いながら成功を収めていったが、未就学民衆に対する補習プログラムは続行されたものの成果に乏しかった。そして、章の末尾には、農村への政策宣伝のためにラジオ放送には台湾語を用い続けたこと、台湾語映画の大ヒット、さらには台湾語ローマ字記述の聖書使用禁止への台湾長老教会の抵抗など、統治者が干渉しきれない、ないしその必要を切迫して感じない台湾語の空間が依然残されていたことに注意を喚起して次章への伏線としている。

第3章「単一言語主義の限界と言語権の主張」は、1970年代初めから80年代中頃までの、民主化による多文化主義への転換過程に入る前夜の時期を扱う。60年代に開始された「中華文化復興運動」の余勢を駆って単一言語主義的「国語」普及策のいっそうの遂行を求める立法院の圧力のもと、1975年末にはラジオやテレビでの「方言」使用を制限する「ラジオ・テレビ法」が制定された。しかし、この間、長老教会は引き続く圧力にもかかわらず台湾語ローマ字聖書の使用を堅持することに成功し、70年代の新たな政治空間で成長していった「党外」と称されたオポジションは、台湾語使用の自由の主張を公定中国ナショナリズムのレトリック内部の族群的な「尊重と承認」の言説から、そして普遍的な人権(言語権)の観点から言説化していくに到った。そして、84年には教育部が公共の場での「方言」使用禁止を制度化しようとする「語言法」を政府内で提案したものの、行政院(内閣)は同法案の提出見送りの決断を迫られた。「単一言語主義の限界」が明白に露呈されたのであった。

終章「世界史的潮流における戦後台湾の言語政策史」では、第1章から第3章までの内容が要約された上で、次のような結論が示される。50年代、60年代の「国語」普及政策の上からの強行により「国語」の支配的地位が確立されたにもかかわらず、台湾語を必然的に衰退させるという現象は起こらず、結局戦後台湾の言語情況は、「国語」の優位のもとでの「国語」と台湾語のダイグロシア(diglossia)に向かって変化した。そして70年代になると、台湾の「中華民国」の国際的孤立を背景に、国民党政権は民心把握のため台湾語の「温存」に舵を切らざるを得ず、その中でオポジションからは人権としての言語権主張を根拠とした母語に関する権利が主張されるようになり、単一言語主義は限界を露呈し、ここに多文化主義への転換の契機が形成されるようになった。これを本省人側から見るならば、本省人による下からの言語使用の要求が登場したことにより、ようやく「国語」普及の単一言語主義を典型とする国民党政権の戦後台湾統治における「代行的脱植民地化の植民地主義」を脱却するための条件ができたのだと意義づけている。

以上が本論文の概要である。本論文の成果としては次の点が挙げられる。

本論文の成果は、何よりも、戦後台湾国民党政権の1980年代半ばまでの言語政策を単一言語主義と性格づけて、その展開を、1940年代後半の混乱の中での模索、50年代、60年代の確立と展開、70年代から80年代中頃までの動揺と限界の露呈という形に把握したことである。国民党政権言語政策の単一言語主義という枠組そのものは先行研究で呈示されていないわけではないが、本論文を価値あらしめているのは、その豊かな実証である。著者は、台湾の学界でしばしば先端的な問題提起と資料・史料発掘が見いだせる修士論文レベルまで拡げて二次文献を徹底的に捕猟するとともに、台湾省政府・省議会広報、立法院公報その他の政府公刊文書はもちろんのこと、教育部を初めとする未公刊〓案史料、各時期の新聞と雑誌、政治家よりは目立たない形で発表されている教育関係者さらには当時の教育を経験した人々の回想など多様な一次史料を博捜、活用して、上記プロセスを、国民党政権の政策展開に対する台湾社会の下からの多様な反応も含めて論述している。そこで提示される事実関係には立体的な奥行きが付与されており、今後に様々な問題発掘の可能性が提示されていると言える。審査委員会では、

(1)戦後直後中国大陸との大きなギャップの下に行われた「国語」の学校教育への導入時の混乱の模様の多面的な把握

(2)70年代から80年代にかけての「方言」制限をめぐる動きの中での、単一言語主義をさらに進めようとする立法院外省人議員、教会ローマ字聖書を政権の干渉から守ろうとする台湾長老教会、「国語」番組よりは台湾語番組を歓迎する圧倒的多数のテレビ聴取者という市場を前にしたテレビ局、声を挙げ始めた本省人のオポジション、そして国際的孤立による外部正統性の欠損を前に単一言語主義のさらなる推進に二の足を踏む蒋経国など国民党指導層の間のせめぎ合いの描出

(3)未就学民衆への社会教育が成果を上げ得ない情況の把握

などが、史料博捜のメリットが生かされている肉付け豊かな部分として特に指摘された。

また、やや付随的ではあるが、上記のように先行研究が極めて丹念に取り入れられているため、戦後台湾の言語政策史研究と史料状況の詳細なレビューとなっていることも本論文のメリットといえる。

ただし、こうした本論文にも問題点が無いわけではない。審査委員会においては、次の点が指摘された。

第一に、豊富な実証に比すれば、それらを意義づけていく概念的用語の検討が不十分なことである。中心概念たる単一言語主義、台湾の事例の特色づけに援用されている「代行的脱植民地化の植民地主義」、さらにはより基本的な「台湾語」、「同化」といった用語についての著者の把握と論述における運用には曖昧さがある。その結果、単一言語主義の展開と限界という明快なストーリーが提出されている一方で、史料博捜によって豊かに描出されている台湾社会の多様な反応や、政権当局者の時期毎に異なる思惑を背景とした動きなどが、「国語」対「台湾語」の二項対立的理解に流し込まれており、本論文がその豊かな実証によって補足可能であったかもしれないより重層的なダイナミズムを単純化している嫌いがある。

また、著者は、結論において戦後台湾の単一言語主義が限界に逢着し多言語主義的な方向に政権当局者が「重い腰をあげる」という展開を「世界的潮流」としつつ、これが「代行的脱植民地化の植民地主義」からの脱却として展開したことに台湾の事例の特色があるとしているが、世界のその他の事例との比較ないし対照の議論は不十分であり、今後に待つべきものが大きいとの指摘も審査委員会においてはなされた。

しかしながら、審査委員会は、上記の欠点は本論文の成果を著しく損なうものではなく、この分野での研究を前進させるものであるとの認識で一致した。よって、本審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定するものである。

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