学位論文要旨



No 127393
著者(漢字) 増永,真
著者(英字)
著者(カナ) マスナガ,シン
標題(和) 米国の対日通貨政策の形成 : 1971-2003年の日米通貨交渉を事例として
標題(洋)
報告番号 127393
報告番号 甲27393
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1093号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 内山,融
 東京大学 教授 荒巻,健二
 東京大学 教授 古城,佳子
 政策研究大学院大学 教授 恒川,惠市
 日本経済研究センター 理事長 岩田,一政
内容要旨 要旨を表示する

為替相場の水準調整の問題を政府間で話し合う通貨交渉は、国際関係および世界経済に大きな影響を及ぼす主要な経済交渉の一つである。1971年のスミソニアン会議以降、米国は、日本や欧州諸国、中国などとの間で為替相場の調整を巡る様々な交渉を行ってきた。

ところが、しばしば通商問題と密接に絡み合いながら進行したドル円相場の調整をめぐる日米通貨交渉は、通商交渉に比べるとその政治過程はずっと複雑であって、通商交渉のように国内の産業界や議会などの圧力の下で一定の政策目標と政策手段に収斂するとは言えない事例が多々存在した。

米国の対日通貨政策の目標は、大きく分けてドル高・円安の是正、ドル高・円安の容認、ドル安・円高の容認、ドル安・円高の是正、の4つがあった。しかも、その選択は、利益集団の圧力で一定の方向に決まるという道筋を通らなかった。特に通商問題と絡んだ場合、産業界や議会の圧力の下で、米国政府としてはドル安・円高容認やドル高・円安是正の政策をとるものと予想され、実際当初はそうした政策が選択されることが多かった。しかし、そのような場合でも、比較的短期間のうちに米国政府が政策を変更して、ドル安・円高是正やドル高・円安容認を求める日本政府に協力するというケースがあった。

政策目標を実現させるための手段も、為替相場の変動を市場機能に任せる(放任的な通貨政策、いわゆるビナイン・ニグレクト)か、何らかの市場介入をおこなうか、市場介入をおこなう場合、協調か単独か、介入の規模とタイミング、関連する通貨政策以外の政策の内容、政策発表のタイミングなど、多様であり、協調介入の場合には相手国政府の政策手段にまで条件をつけるので、通貨交渉は、政策目標が決まっても、政策手段をめぐる交渉がさらに続くという特徴が見られた。つまり、米国の通貨政策は、その目標も手段も一定の方向に収斂する傾向のあった通商政策とは性格を異にするのである。

米国の対日通貨政策の目標と手段が多様なのはなぜなのか。産業界や議会の圧力の方向が、短期間の内に変化するためなのか。彼らはまた、多様な政策手段の選択にも影響を及ぼしているのか。もし利益集団の圧力によっては政策目標や政策手段を十分に説明できないとしたら、米国の通貨政策をより良く説明する枠組みはどのようなものか。

本稿は、以上の疑問に答えるために、1971年のスミソニアン会議から2003年の円高をめぐる交渉に至る8つの日米通貨交渉の事例を取り上げる。具体的には、(1)1971年のスミソニアン会議、(2)1973年の第二次変動相場制への移行の交渉、(3)1978年のドル防衛、(4)1985年のプラザ会議、(5)プラザ会議後から1987年のルーブル会議に至る過程、(6)1995年の円高、(7)1998年の円安、(8)2003年の円高である。これらは、1971年以降、米国内で対日通貨政策をめぐって政治問題化した事例である。

分析の対象をブレトンウッズ体制の崩壊後からとするのは、日米間の為替相場の調整をめぐる問題が米国内で政治問題化するのはこの時期からであることによる。そして、ブレトンウッズ体制崩壊後、現在に至る長期間の多数の事例を取り上げるのには、2つの理由がある。

第一に、米国の通貨政策について、事例毎のアドホックな説明ではなく、一般的な説明枠組みを探究するためには、多数の事例を比較検討して、どのような要因が共通して働いているのかを見極める必要がある。第二に、第二次世界大戦後の世界は、高い経済成長、商品や資金の流通量の爆発的拡大、諸国経済の不均等発展を経験してきたので、そうしたグローバル経済の変化が通貨交渉の環境に与えたかもしれないインパクトを無視できず、それを見るためには長期間の事例にあたる必要がある。

長期の変化という点で特に注目すべきなのは、1990年代以前と以後の間に、日米の経済競争力に大きな変化があったことである。そのために、1990年代以前の通貨交渉が米国の経済問題への対応を出発点にしていたのに対して、以後の交渉は日本の経済問題(景気低迷や不良債権問題)への対応に主眼が置かれるようになったと思われるのである。

なお、1990年代以降の事例をとりあげることには、それ以前の事例については既に多数の研究があるのに対して、先行研究が極端に少ない研究上の空白を埋めるという意味もある。

本稿は、以上の点を踏まえて、問題の所在を示す序章とこれに続く9つの章によって構成される。

第1章では、米国の通貨政策に関する先行研究を検討し、自分の分析枠組みを提示する。そこでは、まず国際システム・レベルに注目した研究を見るが、それらは米国の覇権の衰退の程度と、それが国際協調の有無にどう影響するかという点をめぐる議論であり、通貨問題については、日米間で対立と協調が繰り返され、妥協の内容(円ドル為替調整の方向と政策手段)も大きく変化することを説明できないことが指摘される。これらを説明するためには国内要因に注目することが必要なので、国内要因を通貨政策の説明に使った先行研究を見てみると、大きく分けて、利益集団や政治家の圧力に注目する研究と、通貨当局の独自の判断を重視する研究があることがわかる。本稿の分析枠組みでは、後者に注目して、通貨当局の判断を、その背後にある経済理論・ロジック(経済動向に関する因果信条)にまで分け入って分析することの重要性を指摘する。

国際通貨問題を米国の通貨政策を通して分析する本稿では、分析の中心に米国の通貨当局(財務省)を置く。ただし、それは米国通貨当局の意向が政策の方向を決めているということを前提としているためではない。一つには、米国の通貨政策策定・実施の責任が、法制度上は財務省に与えられているので、とりあえず財務省を中心に据えておくことに無理はないということがある。さらに、財務省を中心に、片方に米国内の他の関連するアクターを、他方に国際交渉の相手である日本政府を置くことで、分析枠組みを単純明快な形で組み立てることができる。

以上のような簡便な分析枠組みを措定した上で、本稿での論考を次の「事例の発端とアクターの選好」、「事例の経過と選好の変化」、「政策手段をめぐる調整と最終決着」の3段階に分けて進めていきたい。

第一段階である「事例の発端とアクターの選好」においては、為替相場の変動をめぐる問題が発生した時期の、通貨当局をはじめとするアクターの政策選好とその背後にある(為替相場とマクロ経済情勢の関連についての)因果信条を明らかにする。

分析の第二段階である「事例の経過と選好の変化」においては、日米交渉の過程と米国内でのアクター間の調整がメインテーマとなる。ここではまず日米がどのような争点を巡って交渉を行ったかを示す。その上で、米国通貨当局や他のアクターの因果信条がどのように変化したか、そして最終的に通貨当局が採用した政策目標は何か(ドル安・円高の容認・誘導、ドル安・円高の是正、ドル高・円安の容認)を見る。

第三段階である「政策手段をめぐる調整と最終決着」においては、政策目標決定後ないし、その途中での、政策手段をめぐる交渉である。政策手段とは、政策目標を実現するための具体的方法であり、政策目標を実現するために、まず市場介入を行うかどうかの判断があり、市場介入を行うとした場合に、これを協調で実行するかそれとも単独で行うか、介入の規模とタイミング、介入と共に公表する通貨政策以外の経済政策の内容、政策発表のタイミングなど、多様である。

第2章から第9章までの各章では、以上の段階に分けて先に挙げた8つの事例の分析を行う。そして、終章において、米国の通貨政策の形成過程を説明する上で、因果信条を説明変数として取り入れることが重要であり、通貨当局の判断が政策選択において重要な役割を果たしている事例が多いことを主張する。

本稿は、通貨当局の判断と利益集団の影響力のいずれが強いかにつき、複数の事例を取り上げて、長期の趨勢を観察する必要があることを示す点で、先行研究にはない知見を提示できるものと考える。

また、本稿の貢献は、通貨当局の専門知識や「アイディア」の中身を、経済理論や経済の論理に基づく「因果信条」の形で明らかにしたところにもあると考えられる。この因果信条は、為替相場と貿易収支の関係に注目する見方、為替相場がマクロ経済の安定性に与える影響に注目する考え方、為替相場が資本収支に与えるインパクトについての考え方の3つを中心に形成されるものであり、各事例において通貨当局がとった判断の根拠を示すものとして、本稿では注目する。こうしたアプローチは、従来の通貨当局の独自の判断に注目する研究においても、みられなかったものである。

審査要旨 要旨を表示する

1971年にブレトンウッズ体制が崩壊して以降、為替相場は各国の主要な関心事項の一つであった。国際通貨交渉は各国の国益のぶつかり合う場として、多くの研究者の関心を呼んできた。特に基軸通貨国である米国の通貨政策は極めて重要な研究対象であるが、米国の通貨当局は状況に応じて多様な姿勢をとってきた。あるときはドル安誘導を選好し、またあるときはドル高を容認するなどしてきた。こうした選好は、貿易交渉のように国内の産業や議会の圧力という観点からは必ずしも説明することはできない。では、こうした通貨政策の変化はどのように説明されるのだろうか。

本論文「米国の対日通貨政策の形成―1971-2003年の日米通貨交渉を事例として―」は、こうした問題に回答するため、通貨当局の持つ「因果信条」が果たす役割に注目しつつ、1971年から2003年という長期にわたる米国の通貨政策の変化を説明しようと試みた労作である。

本論文は序章とこれに続く9つの章によって構成される。

序章では問題設定が行われている。米国の対日通貨政策の目標には、ドル高・円安の是正、ドル高・円安の容認、ドル安・円高の容認、ドル安・円高の是正の四つがあるが、時期によってその目標は異なっていた。また、政策目標を実現するための手段にも多様な選択肢があった。米国の対日通貨政策における多様な目標と手段のうち、特定のものが選択される理由はどのように説明されるのか。これが本論文の基本的な問いである。

第1章は、先行研究の検討と分析枠組みを扱っている。米国の通貨政策に関する先行研究には、第一に、覇権論に代表される国際システム・レベルに注目するものがある。しかし、日米通貨交渉においては、日米間で対立と協調が繰り返され、妥協の内容も大きく変化するため、このアプローチでは説明できない。第二に、国内要因に注目する研究があるが、それには利益集団や政治家の圧力に注目する研究と、通貨当局(財務省)の独自の判断を重視する研究がある。本論文は、利益集団・議会の圧力と通貨当局独自の判断とのどちらが影響力を持ったのかという問いを設定した上で、通貨当局の判断をより重視し、その判断が「因果信条」(経済理論など)によって規定されるとの枠組みを提示する。

第2章以降は事例研究を扱っている。1971年のスミソニアン会議から2003年の円高をめぐる交渉に至る8つの日米通貨交渉の事例が取り上げられる。

第2章は、1971年6月の米国の新経済政策の発表から同年12月のスミソニアン会議に至る過程を分析する。この事例では、各国通貨の切上げとドルの対金切下げという政策目標の決定において、米国通貨当局の経済的因果信条に根ざした判断が重要だったとは認められない。それは産業界や政治家の圧力によるとも解釈できるからであり、米国政府全体として安全保障問題への配慮が大きかったという側面もあったからである。

第3章は1973年2月の変動相場制移行の事例を分析する。この事例においては、米国内の諸アクター間でコンセンサスが形成され、円切上げを要求する対日交渉が開始されたが、円の切上げ水準について具体的な数値目標を決めることなく、日米交渉は変動相場制移行で妥結した。数値目標を決めないままで変動相場制に移行することに米国が合意したのは、変動相場制へ移行すれば為替市場において間違いなく円買い圧力がかかり、米国通貨当局が目標とする水準まで円が自然に切り上がるとする米国通貨当局独自の判断があったためである。

第4章は1978年のドル防衛の事例を分析している。この事例では、初期においては、米国の通貨当局と産業界が共に、ドル安は経常収支赤字の縮小と通商摩擦の緩和をもたらすとする因果信条を持っていたが、インフレが深刻化すると、両者ともドル防衛へと転換した。ドル安容認については産業界が先行して通貨当局が追随したが、ドル防衛については立場が逆転した。その背景には、為替市場における円の影響力の再評価という通貨当局の専門的な判断があったのであり、そこでは通貨当局の因果信条の転換が大きな役割を果たしている。

第5章では1985年のプラザ会議の事例を扱っている。レーガン政権は市場機能を重視する傾向が強かったが、経常収支不均衡が極端に悪化し、保護主義的な圧力が強まると、ドル安誘導を政策目標として選択した。この場合は、市場を重視する通貨当局の因果信条が、産業界などの圧力によって変えられたと見るべきである。しかし、その後はプラザ会議の終了時まで、米国通貨当局の政策目標は変わらなかった。他方、米国の保護主義の激化を恐れる日本は、保護主義に先手を打つ手段として、円高容認を選択した。

第6章ではプラザ合意から1987年のルーブル会議に至る過程を分析する。この事例においては、米国通貨当局の当初の選好は、1978年の場合と同じように、経常収支赤字の縮小と通商摩擦の緩和のためには、ドル安が必要というものであった。その内容は産業界や政治家の選好とも共通していた。しかし、1978年には米国世論全体をドル防衛に傾かせたインフレ懸念が1986年にはなかったにもかかわらず、通貨当局は自らの選好を転換し、ドル安是正を政策目標に掲げるようになった。すなわち、通貨当局自身の判断が1978年時より強く働いたといえる。

第7章では1995年の円高の事例を分析する。この事例では、ドル安・円高是正を自分の因果信条に基づいて主張するルービンが財務長官として通貨当局の指揮をとっていた。日本側は円高が経済にマイナスであるという因果信条を持っていたので、米国のドル安・円高是正政策は歓迎されるべきものであった。したがって、その後の日米交渉は、為替市場を円高是正の方向に動かすために日本がどのような政策手段をとるかという点をめぐっておこなわれた。日本の通貨当局と日銀が米国側の評価する政策(金融緩和、資本規制緩和)を迅速に実施したため、交渉はスムーズに妥結し、数次にわたる協調介入に米国も協力した。

第8章では1998年の円安の事例を分析する。このとき、日本側では、円安は日本経済の長期低迷の表れであり、それがさらに投資や消費を冷えさせることで景気低迷を長引かせることが懸念された。米国でも円安を放置できないという点で通貨当局をはじめとする諸アクターが一致しており、米国通貨当局の見解が、彼らの政策選択の上で決定的であったかどうかは判断できない。しかし、政策手段をめぐる日米交渉においては、交渉にあたったルービン財務長官率いる通貨当局が決定的な役割を果たした。日本がどのような政策を打ち出して発表するかが争点であり、彼が金融専門家の知識と経験に基づく判断によって、それに合意したとき、協調介入が実施された。

第9章では2003-2004年の円高の事例を分析する。米国内では、産業界やその議会での代表者は日本の市場介入を批判する声を高めたが、安全保障上の考慮をするブッシュ大統領や、デフレという特殊な状況下の一時的な資金供給対策として市場介入の効果を認める通貨当局が日本擁護を続けたために、議会や産業界は通貨政策に影響を与えることができなかった。すなわち、この事例では、安全保障上の配慮でブッシュ大統領が通貨当局の立場を支持したことを背景に、通貨当局者の専門家としての判断が、最初から最後まで重要な役割を果たした。

終章では結論を提示している。上記の実証分析から、利益団体や議会の圧力よりも、通貨当局独自の判断が影響力を持った事例が多かったこと、通貨当局の判断にはその因果信条が大きな役割を果たしたことが明らかとされる。また、問題がドル安・円高是正を政策目標にするものだったかどうかという案件の性格と、日米経済の相対的競争力の変化と市場で取引される資金量の増加という2つの長期的趨勢が、米国の通貨政策において通貨当局者独自の判断の重要性を上げる最も重要な要因であったとする。

本論文の長所は、第一に、1971年から2003年という30年以上もの長期間にわたる米国の通貨政策の変化を、一貫した理論枠組みで説明したことである。通貨政策という比較的閉ざされた政策分野において、資料へのアクセスの困難さを乗り越えて歴史的叙述を行った点は、論文提出者の長年の努力の賜物である。また、一貫した理論枠組みで通貨政策の長期的変化を説明するのに成功した先行研究は(特に日本では)そう多くなく、その点でも本論文は高く評価できる。第二に、通貨当局の判断と利益集団の影響力のいずれが強いかを明らかにするためには、複数の事例を取り上げて長期の趨勢を観察する必要があるが、本論文はこうした観察を行ったことにより、先行研究にない新たな知見を得ることができた。第三に、これまでの米国通貨政策は覇権理論や利益集団理論などによって説明されてきたが、本論文は因果信条を主要因とする理論枠組みを設定することにより、これまでにない新たな説明を提示した。特に米国にとって一見不利に思われる円高是正という選択がなされる理由は、因果信条に着目しないと説明が難しい。このように先行研究の欠落点を補完した学問的貢献は大きい。

しかしながら本論文も短所とは無縁ではない。理論面では、因果信条の内容やその果たす役割について、必ずしも十分な説明が行われていない。また、為替レートに対する金融界の選好の中立性など、所与とされている諸前提にも疑問が残る。実証面では、通貨政策に関わる因果信条について、各アクターの言説に関する資料といった強固な証拠に基づいた、より綿密な検証を行うべきだったと思われる。

もっとも、こうした短所は、長期にわたる政策変化を一貫した枠組みに基づいて説明するという野心的な研究姿勢の代償ともいうべきものであり、本論文の学術的価値を根本的に損なうものではない。したがって、本審査委員会は、論文提出者に博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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