学位論文要旨



No 127400
著者(漢字) 山根,広大
著者(英字)
著者(カナ) ヤマネ,コウダイ
標題(和) 日本沿岸域におけるニシンの個体群構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 127400
報告番号 甲27400
学位授与日 2011.09.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3722号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大竹,二雄
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 准教授 山川,卓
内容要旨 要旨を表示する

ニシンClupea pallasiiは北太平洋に広く分布し,我が国においても重要な水産魚種の1つである。日本沿岸域においてニシンは遺伝的に異なる複数の個体群の存在が認められている。また,遺伝的に均一な個体群においても生活史多型の存在が知られている。したがって,ニシンの適切な資源管理方法を策定するためには,まずそれぞれの個体群を判別し,それぞれに特有の生活史を理解することが必要である。ニシンは一般的に沿岸域で仔稚魚期を過ごし,その後成長のため外洋域へ移動する。外洋域へ移動したニシンは追跡調査が難しいため,その個体群構造や生態には不明な点が多い。

そこで本研究では,個体の成長に伴う生息環境や生息場所の変化を記録すると考えられる耳石の微量元素組成からニシンの個体群構造に関する知見を得ることを目的とした。耳石の微量元素組成が生息環境から受ける影響は魚種依存的であるため,まず飼育実験によりニシンの耳石へ影響を及ぼす要因を調べた。また,日本沿岸域の主要な産卵場から産卵期の親魚を採集し,耳石の微量元素組成が生息場所の違いを反映し個体群構造の解析に有用であるか検討した。その後,個体の出生場所に関する情報を含む耳石のコア周辺領域における微量元素組成を産卵群間で比較し,出生場所が異なる個体群を判別し個体群構造を推定した。最後に,岩手県宮古湾に生息する地域個体群を対象に発育初期における生活史特性を明らかにした。

1.耳石の微量元素組成に影響を及ぼす環境および生物学的要因

耳石の微量元素組成に及ぼす水温と塩分の影響を明らかにする目的で塩分を一定(22psu)に保ち異なる3つの水温(9,13,17℃)で飼育した3実験区,水温を一定 (13℃) に保ち異なる3つの塩分(11, 22, 35psu)で飼育した3実験区を設けた飼育実験を行った。実験にはいずれも宮城県松島湾で採捕した親魚から採卵・孵化させた仔魚を用い,孵化から60日間飼育した。各実験区の仔魚合計147個体の耳石縁辺部分の微量元素組成(Na/Ca, Mg/Ca, K/Ca, Sr/Ca, Ba/Ca比)をレーザーアブレーション誘導結合プラズマ質量分析装置(LA-ICP-MS)を用いて分析した。その結果,水温の異なる3実験区間で耳石のNa/Ca, Mg/Ca, K/Ca, Sr/Ca比およびそれぞれの飼育水に対する分配係数,塩分の異なる3実験区間で耳石のK/Ca, Sr/Ca比およびK/Ca, Sr/Ca, Ba/Caの飼育水に対する分配係数に有意な差が認められた(いずれもANOVA,p<0.01)。同一実験区内における仔魚の成長差および成長段階と耳石微量元素組成との関係を調べたところ,耳石微量元素組成には個体の成長率の影響は認められず (Pearson correlation, p>0.05),一方,0-15日齢でMg/Ca比,15-45日齢でSr/Ca比が有意に変化(ANOVA,p<0.01)することが明らかになった。以上の結果から,耳石の微量元素組成が生息環境を異にする個体群の判別に有用な指標であること,また指標として用いる場合には同一の成長段階に対応する耳石領域の組成を比較する必要性が示された。

2.耳石の微量元素組成の地理的差異

日本沿岸域の5地点(北海道苫前沖,石狩湾,厚岸湾,風蓮湖および岩手県宮古湾)で2008年1-5月に採集した産卵魚合計150個体を実験に用いた。宮古湾(1月と3月)と石狩湾(3月と5月)で異なる月に採集された産卵魚の耳石も併せて分析し,耳石微量元素組成の採集月の違いによる差異を検討した。採集時期の環境を反映すると考えられる耳石縁辺部分の微量元素組成(Na/Ca, Mg/Ca, K/Ca, Cu/Ca, Sr/Ca, Ba/Ca比)をLA-ICP-MSを用いて分析したところ,2005年および2006年級群のいずれも地点間に有意な差が認められた(MANOVA, p<0.001)。非線形判別分析から算出した正判別率は2005年級群で87-100%,2006年級群で78-100%であった。また,宮古湾と石狩湾の採集個体の耳石微量元素組成における採集月間の違いは小さく,正判別率への影響はなかった。以上より,耳石の微量元素組成は個体の生息場所の地理的違いを反映して異なり,生息場所の違いに基づく個体群判別の指標として有用であることが示された。

3.ニシンの個体群構造解析における耳石の微量元素組成の有用性

岩手県宮古湾,青森県尾駁沼および北海道厚岸湾において2008年3-5月に採集された3つの産卵群を用いた。これら3群は,遺伝的および生態的に異なることが知られている。ICP-MSによる耳石微量元素のバルク分析には合計55個体を用い,LA-ICP-MSによる生活史断面に沿った分析には合計27個体を用いた。耳石微量元素のバルク組成は3群間で有意に異なり(MANOVA, p<0.001),非線形判別分析に基づいた正判別率は88-100%であった。Na/CaおよびK/Ca比の生活史断面における変化パターンは同一群内の個体間で類似した。耳石のコア周辺領域(直径150μm)の微量元素組成を3群間で比較したところ,Li/Ca, Na/Ca, K/Ca, Mn/Ca, Sr/Ca, Ba/Ca比に有意な差が認められた(Kruskal-Walis, P<0.01)。これらの結果は,本研究で用いた3つの産卵群の出生場所や回遊履歴が異なることを示唆しており,従来の知見と矛盾しない。これより,耳石の微量元素組成はニシンの個体群構造の解析に有用であることが明らかとなった。

4.日本沿岸域におけるニシンの個体群構造

本州太平洋沿岸域(青森県尾駁沼,岩手県宮古湾,山田湾,越喜来湾,宮城県松島湾),北海道日本海沿岸域(石狩湾,苫前沖),北海道太平洋・オホーツク海沿岸域(藻琴湖,風蓮湖,厚岸湾)において採集された産卵魚,および宮古湾において採集された稚魚合計460個体を分析に用いた。これらの個体は採集場所,年級群,採集月により合計25群に分けられた。各個体の仔魚期に相当する耳石コア周辺領域(直径300μm)の微量元素組成(Li/Ca, Na/Ca, K/Ca, Cu/Ca, Rb/Ca, Sr/Ca, Ba/Ca比)の分析にはLA-ICP-MSを用いた。複数の群が採集された採集地点において耳石の微量元素組成を群間で比較したところ,宮古湾では2009年3月に採集された2006年級群を除く各年級群と稚魚群の間で有意な差は認められなかった(Tukey & Kramer, p>0.01)。松島湾でも年級群間での有意差は認められなかった (T-test, p>0.01)。一方,尾駁沼と石狩湾においては,複数の年級群に有意な差が認められた(Tukey & Kramer, p<0.01)。本州太平洋沿岸域5地点の12群について,宮古湾で2009年3月に採集された群(他の年級群と組成が有意に異なった)を除き,地点ごとに異なる年級群を1つの群にまとめて非線形判別分析に供したところ宮古湾,山田湾および越喜来湾の群間で正判別率は低く(18-53%),これらの3つの産卵群の出生場所や回遊履歴が互いに類似していることが示唆された。これらの群を1つの群にまとめ,尾駁沼および松島湾の群と比較したところ,70-82%の確率で判別が可能であった。一方,採集時期と採集場所が異なる4群が含まれる北海道日本海沿岸域の2005年級群について解析したところ,正判別率は75-79%であった。また,2006年級群のみからなる北海道太平洋沿岸域の3群の正判別率は78-95%であった。耳石コア周辺領域の微量元素組成が地理的に異なる産卵群間において有意に異なったことは,日本沿岸域においては出生地を異にする産卵群が複数存在することを示す。また,宮古湾の稚魚の耳石微量元素組成が宮古湾の産卵魚の組成と同様であったことは,宮古湾産卵群を構成する個体の多くが宮古湾由来であることを示し,ニシンに産卵回帰性があることを示す。なお,宮古湾の稚魚の耳石微量元素組成を指標として2008年級群の宮古湾と松島湾との交流率を推定したところ,宮古湾の産卵個体群の約7%が松島湾由来であり,松島湾の産卵個体群の約10%が宮古湾由来と考えられた。このことと2009年3月に宮古湾で採集された2006年級群が宮古湾とは異なる個体群であったことを考慮すれば,ニシンの産卵回帰性は強くないものと考えられる。

5.宮古湾におけるニシン仔稚魚の分布と生息環境

宮古湾の中央部から湾奥の河口域にかけての砂浜域6地点において小型の船曳網(43x3m,目合い1x1cm)を用いて,2010年4月4日から8月1日までの期間中約2週間ごとにニシン仔稚魚の採集を試みた。5月22日に湾奥の東側で11個体(全長 27.7-30.5 mm), 湾奥の中央部で9個体(全長 27.5-31.0 mm),津軽石川河口域で2個体(全長 31.5, 32.0 mm),また6月5日,7月4日,7月17日に湾奥の東側のみでそれぞれ19個体(全長 34.5-94.5 mm),6個体 (全長 37.5-65.5 mm)および 2個体(全長 66.0, 85.5 mm)が採集された。これらのことからニシン仔稚魚は宮古湾奥の東側付近を成育場として利用していることが考えられた。

湾奥部から湾中央部付近までの水温,塩分および溶存酸素濃度の時空間分布を明らかにする目的で,この水域を網羅するように設定した25地点において2008年5月31日から2010年8月29 日までの期間合計83回の調査を実施した。宮古湾表層の塩分は津軽石川の河口をはじめ全ての地点で低い値(5-33 psu)を示した。一方,底層の塩分は多くの地点で高かった(33 psu程度)ものの,湾中央部付近および仔稚魚の成育場である湾奥の東側では20-28 psuと特異的に低いことがわかった。これらの地点では塩分が表層から中層にかけて33 psu程度まで一時的に上昇するものの再び底層で20-28psuまで低下する傾向がみられ,海底湧水の存在が示唆された。これより,宮古湾に生息するニシン仔稚魚は河川水と海底湧水によって形成される低塩分水域を成育場として利用していることが明らかになった。

本研究の結果から,耳石の微量元素組成はニシンの個体群判別に有用な指標であり,これまで遺伝学的に判別ができなかった宮古湾および松島湾個体群を明確に判別し,交流率を推定することができた。また,ニシンの各個体群は基本的に産卵回帰性により維持されているものの,産卵回帰性が強くなく,他の個体群との交流が資源の維持,あるいは資源変動に大きな役割を果たしている可能性が示唆された。宮古湾個体群は本来海洋性個体群である宮城県万石浦個体群の移植放流により定着したものである。宮古湾個体群の稚魚が低塩分水域を成育場所としていたことは,ニシンの初期生活史における低塩分水の利用がニシン個体群に共通する生活史特性である可能性を示唆する。本研究により得られたニシンの個体群構造とその初期生活史に関する知見は,ニシンの資源変動メカニズムの理解や資源の保全管理に大きく貢献するものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,日本沿岸域に生息するニシン(Clupea pallasii)を研究対象として,まず発育初期における生息環境特性を明らかにし,さらに生息場所を異にする地域個体群間における耳石微量元素組成の差異を検証,その結果に基づいて天然魚の産卵回帰性,回遊履歴が異なるものの遺伝学的手法では区別できない個体群の判別,地域個体群間の交流率の推定を行い,日本沿岸域のニシンの地域個体群の構造や資源維持機構について考察を加えたものである。

ニシンの発育初期における生息環境特性について,岩手県宮古湾のニシン仔稚魚の分布と湾内の物理環境との関係を詳細に調べ,ニシン仔稚魚が河川水と海底湧水からなる低塩分水域を成育場としていることを見出した。

続いて耳石微量元素組成の地域間の差異を生じさせる要因を明らかにするため,飼育環境下において,水温,塩分,個体の体成長率および成長段階が耳石微量元素組成に及ぼす影響を調べた。その結果,耳石のNa/Ca,Mg/Ca,K/Ca,Sr/Caは水温から,K/Ca,Sr/Ca,Ba/Caは塩分から, Mg/Ca,Sr/Caは個体の成長段階の影響を受けることを明らかにし,耳石の微量元素組成が生息環境の異なる個体群の判別に有用な指標である可能性を示した。また,耳石の微量元素組成を個体群の判別指標として用いる場合に同一の成長段階に対応する領域を比較する必要性があることを指摘した。次に野外環境下において個体が経験した環境の違いにより耳石微量元素組成に差異が生ずるか否かを耳石縁辺部分の微量元素組成(採集直前の環境を反映すると考えられる)を用いて検証した。日本沿岸域の複数地点で採集された試料間で耳石縁辺部分の微量元素組成を比較したところ,個体の生息場所の地理的違いをよく反映することが示された。さらに遺伝学的に異なりかつ生息場所も生活史を通じて異なることが知られている3つの産卵個体群(厚岸湾,尾駁沼,宮古湾)を用いて,耳石微量元素のバルク組成(生活史を通して経験した環境の積分値を反映する)と耳石コア部分の組成(出生場所に関する情報を記録する)をそれぞれ個体群間で比較した。その結果,耳石微量元素のバルク組成とコア部分の組成のいずれも3つの個体群間で異なり,これより耳石微量元素組成が生息場所を異にするニシン個体群の判別に有用であることが明らかとなった。

耳石コア部分の微量元素組成から日本沿岸域のニシンの個体群構造と個体群間における交流率を,本州太平洋沿岸域(青森県尾駁沼,岩手県宮古湾,山田湾,越喜来湾および宮城県松島湾),北海道日本海沿岸域(石狩湾および苫前沖),北海道太平洋・オホーツク海沿岸域(藻琴湖,風蓮湖および厚岸湾)で採集された産卵個体群を対象に検討した。特に宮古湾で孵化した個体群の判別には宮古湾で採集された稚魚の耳石を指標として用いた。その結果,宮古湾の産卵個体群には宮古湾を出生場所とする個体が多く含まれ産卵回帰することが証明されたが,年によっては出生場所が不明の個体群も来遊していた可能性が示された。また,宮古湾と松島湾の産卵個体群の間には交流があり、交流率は7-10%と推定された。北海道日本海沿岸域には石狩湾系群、北海道・サハリン系群、テルペニア系群の3系群が同所的に分布することが知られているが、耳石微量元素組成からもそのことが支持された。また,これまで人工種苗の標識放流実験から交流の可能性が指摘されていた厚岸湾と風蓮湖の個体群間の交流率は0-5%と推定された。

本研究では,ニシンの発育初期における生息環境特性を明らかにするとともに,耳石の微量元素組成がニシンの個体群の判別に有用な指標であることを検証した。また,耳石の微量元素組成に基づいて天然魚の産卵回帰性を証明するとともに,産卵個体群の個体群構造や産卵個体群間の交流率の推定を行うなど,水産学的、生態学的に重要な知見を研究成果として得た。また,それらの結果を総合してニシンの各個体群は基本的に産卵回帰性により維持されているものの,他の個体群との交流が資源の維持に重要な役割を果たしている可能性を示した。本研究により得られたニシンの個体群構造に関する知見は,ニシンの資源変動メカニズムの理解や資源の保全管理に大きく貢献するものと考える。これより審査委員一同は本論文が学術的価値が高く,博士(農学)学位論文に十分に値するものと認めた。また,申請者の山根広大氏の学識については,論文審査での質疑応答から博士(農学)を授与するに値するものと判断された。

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