学位論文要旨



No 127412
著者(漢字) 森山,至貴
著者(英字)
著者(カナ) モリヤマ,ノリタカ
標題(和) 〈わたしたち〉でいることの困難と技法 : 現代日本におけるゲイ男性のつながりの社会学的考察
標題(洋)
報告番号 127412
報告番号 甲27412
学位授与日 2011.09.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1097号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀬地山,角
 東京大学 教授 佐藤,俊樹
 東京大学 教授 市野川,容孝
 東京大学 准教授 清水,晶子
 東京大学 准教授 赤川,学
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代日本におけるゲイ男性の集団がどのような困難を個々のゲイ男性に課しており、その環境の中を個々のゲイ男性がどのような技法を用いて生き、集合性を維持しているかを明らかにするものである。

近年、社会的弱者やマイノリティの共同性が、当の成員に対して発動させる「圧力」が前景化されるようになってきている。そしてこの現実は、マイノリティの抱える問題はマジョリティからの差別やマジョリティとマイノリティの不平等な関係に還元できる、とする差別論の構図では描けないものである。現代日本におけるゲイ男性の集合性が個々のゲイ男性に課す「圧力」もまたこのようなものである。この「圧力」、裏返せばゲイ男性のゲイ男性の集合性に対する「ついていけなさ」が現代のゲイ男性の集合性内のどのような社会的条件のもとに発生し、それがいかに回避されようとしているかを探るため、序章ではこの問題意識を社会学、当事者性といったトピックとの関連で詳述する。その上で、本論文におけるゲイ男性同士の関係性をつながりという言葉で表し、本論文の戦略的拠点とすることを述べる。

第一部ではゲイ男性に特有のつながりの現代的特徴を描き、現代のゲイ男性の集団が解くべきある問題の現代的な解けなさがこの「圧力」の条件であるとの仮説を提示する。まず1章では、男性同性愛者という概念とそれで表される存在が誕生した1920年代ごろから現在までのつながりの様態を大まかに追うことで、ゲイ男性のつながりが、どのように発生し、どのように変化してきたかを追う。1920年代以降、性的アイデンティティを内面に埋め込まれた男性同性愛者(≒ゲイ男性)は特定の、同性との性的接触を求めるアイデンティティの所有者とのつながり=特権的な他者とのつながりと、このアイデンティティを持つ者全体の(可能的な)つながり=総体的なつながりを希求してきた。しかし、これらの二種類のつながり双方を可能にしていたテクノロジーは、時代を下るに連れてそれぞれを可能にするものに純化し、分化している。したがって現在のゲイ男性は、ゲイ男性同士のつながりを、特権的な他者との/総体的なものという、明確に分かれた二種類として生きざるを得ない状況におかれている。

他のマイノリティ集団には存在せずゲイ男性に特徴的なこの特権的な他者とのつながりについて、2章で論じた。異性愛者の場合、婚姻制度などによって承認される形で、特権的な他者とのつながりは「全体社会」の「例外事態」として人々に認識されている。しかし現在のゲイ男性のつながりの場合、そもそも総体的なつながりと特権的な他者とのつながりは分離しており、したがって両者の間に安定的な関係性が保持できていない可能性がある。この時、一方のつながりを求めるゲイ男性にとって、他方のつながりが発生させる文化や様式の過剰さは「ついていけなさ」を感じる原因となる。二種類のつながりの関係性の設定の難しさこそ、「ついていけなさ」を発生させる現代的要因なのである。

二種類のつながりの分離についてさらに跡づけ、また既存のゲイ男性の集合性をめぐる言論と本論文の異同を明らかにするために、3章では、1990年代中盤以降の日本におけるゲイコミュニティという言葉の使われ方を調べた。ゲイコミュニティという言葉の理想主義的含意は、ともするとゲイ男性がそのつながりに対して感じる「ついていけなさ」を忘却させる可能性があり、同時に特権的な他者とのつながりを排除する可能性が大きいことが明らかになった。この意味で、ゲイコミュニティとは本論文が考察したい対象=ゲイ男性特有の「ついていけなさ」を指し示さないがゆえに、ゲイ男性のつながりの同義語としては使えない。そして裏を返せば、二種類のつながりの分化と一方の重視こそ、現代日本のゲイ男性において「ついていけなさ」や「息苦しさ」が発生する構造的条件である可能性が明らかになった。

第二部では、二種類のつながりの間の安定的な関係性の現代的な成り立ち得なさを明らかにし、ゲイ男性のつながりをめぐる現在の隘路を描き出す。4章ではゲイ男性のアイデンティティ、5章ではゲイ男性のライフスタイルを戦略的拠点に、この成り立ち得なさを跡づける。

4章では1990年代以降にカミングアウトについて書かれた文章をとりあげ検討する。二種類のつながりの間に安定的な関係性が成立するには、そもそも個々のゲイ男性が1章で挙げた2種類のつながりに安定的にアクセスできている必要がある。しかし、カミングアウトという言葉の現在の用いられ方からわかるのは、個々のゲイ男性は、総体的なつながりへのアクセスのみが争点化される中で生を営んでおり、総体的なつながりを通じて特権的な他者とのつながりへとアクセスすることが想定されていないという事態である。このような、2種類のつながりに関する言論の構図上の不全が、第一部で挙げた問いを解けなくさせていること、それゆえ「ついていけなさ」が言論の構図上発生せざるを得ないことが明らかになる。

5章では「ゲイライフ」といううたい文句を掲げているゲイ雑誌『Badi』(2005年9月号~2007年10月号)を分析の素材とし、ゲイ男性が共有するとされるライフスタイル像について検討した。『Badi』は本論文と同じ「ついていけなさ」という問いを引き受けているとみなすことができるが、その「解法」は事態を世代論に回収することによって弱毒化するものである。また、そもそもこの記事に描かれている事態は、個々のゲイ男性の総体的なつながりへの接続自体が安定的に成立しておらず、2種類のつながりの関係の成立という解かれるべき問いを問いとして析出させることすら出来ていない状況を示している。したがって、隘路は完全な隘路として明示化され、第一部で挙げた問いの現代的な解けなさが完全に指摘されることとなる。

第三部では、第二部で論じたような隘路、すなわち多層化したつながりにおける共有の規範を解除し、「ついていけなさ」を回避するために呼び出される相互行為上の技法について論じる。ゲイ男性のつながりは現在総体的なつながりと特権的な他者とのつながりに分離しているので、前者についての技法を6章で、後者についての技法を7章で論じる。

6章では、「こっち」という直示的な呼称についてのゲイ・バイセクシュアル男性へのインタビューの結果を分析する。ゲイ男性(とバイセクシュアル男性)の集団を指す「こっち」という「婉曲的」な呼び名は、「こっち」が何かにわざわざ言及せずとも、「こっちにいるからこっち」というトートロジーによって発し手と聞き手が同じ「仲間」であるとみなされることを可能にする。したがって、「仲間意識」を強く志向するこの語彙を用いることによって「仲間意識」を発生させることも可能である。曖昧さをもったトートロジカルな「こっち」という言葉の内実の空虚さは、ゲイ男性の間に規範的にならない形で共同性を立ち上げる、すなわち総体的なつながりの成立し得なさを組み込んで総体的なつながりを最低限維持しようとする、複雑な実践を可能にしている。

7章では、ゲイ男性の間での言語実践としてのタチ/ネコという用語系を取り上げる。この用語は2章で述べた特権的な他者とのつながりにかかわる要素のうち、おそらくもっとも全域的に共有を想定されているものである。ゲイ男性の人々のタチ/ネコというこの曖昧な用語の利用は、特定の行為を人に結びつける3つの様式(「中立的に」/欲求を媒介に/能力を媒介に)の混在に整理できる。そして、この3つの様式の混在は、ゲイ男性が自らの欲求と相手の欲求を折り合わせながら、自らにとっての特権的な他者を上首尾に選別し関係を築いていくことを可能にする。この用語系においては、「他の人でなくその人を選びたい」という欲求の位置価が格下げされ、特権的な他者とのつながりの持つ排他性がある程度解除され、その成立可能性が高まる。同時に、それでも生まれる共有規範を、所詮異性愛男女の様式であるから従う必要がない、というレトリックで解除することができるようにもなっている。

終章では本論文全体の議論について要約し、本論文のインプリケーションを述べた。現代のゲイ男性は、その集合性が発生させる「ついていけなさ」という問題を生きなければならない。本論文は、その困難の要因を正確に同定し、その上で現在の困難を食い破る技法を現在の中に見て取った。ただし、「個人と社会の対立」を安易に解消してしまわないよう、それでも残りうる「ついていけなさ」を看過しないよう注意が喚起されるべきである。

本論文のマイノリティ論、社会集団論一般に対するインプリケーションは以下のとおりである。第一に、社会集団とその「外部」の関係性について、差別論的構図に巻き込まれず、社会集団がその「外部」を活用し、自らの集合性を存立させるメカニズムを記述することの重要性を指摘した。第二に、ある社会集団が集団固有の文化的特徴を希薄化させることで安定的に存立する事態を描出していくことの意義を指摘した。

補論では、筆者を含むアカデミズム内の人間にとってもっともなじみ深い教育の現場に本論文の論じてきた「ついていけなさ」の回避の技法を軟着陸させ、同時にゲイ男性以外のセクシュアルマイノリティをめぐる状況に、本論文の議論を拡大するために、(高等)教育の現場における招き入れとしてクィア・ペダゴジーの実践について論じた。授業実践に基づき考察した結果、知っている/知らないという事態をめぐって繰り広げられる応酬は、「ついていけなさ」を感じさせる権力への抵抗として現れたものと解釈できる。したがって、クィア・ペダゴジーとは、このような抵抗の含意を十分に汲み上げる形で技法として鍛え上げられる必要があると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代日本におけるゲイ男性が、いまだ十分な社会的承認をえられない環境のなかで、どのような技法を用いて生き、その個人性と集合性を保持しようとしているかを、親密な関係性をめぐる高度に理論的な考察と、当事者たちの言説的実践の経験的な分析の両面から明らかにしたものである。そしてそれによって、ゲイ男性のみならず、現代社会におけるマイノリティ集団のあり方や、異性愛もふくめた親密性が抱える問題群を広く照らし出す論考となっている。

近年、社会的弱者やマイノリティの共同性が、当の成員に対して発動させる「圧力」が前景化されるようになっている。この現実は、マイノリティの抱える問題はマジョリティからの差別やマジョリティとマイノリティの不平等な関係に還元できる、とする差別論の構図では描けない。「差別」や「抑圧」に対する「解放」という文脈では、マイノリティ集団自体が成員に対してはらみうる「圧力」を記述できないからである。

現代日本におけるゲイ男性が感じる「圧力」にもそれはあてはまる。本論文はこの「圧力」を、個々のゲイ男性がゲイ男性の集合性に対して抱く「ついていけなさ」としてとらえ、それがどのような社会的条件のもとに発生し、ゲイ男性の間でいかに回避されようとしているかを研究したものである。著者は、ゲイ男性同士が取り結ぶ関係性を「つながり」という言葉で表し、そのあり方が現代社会において抱える固有の困難を明らかにする。それをふまえて、ゲイ男性における「ついていけなさ」の構造とその回避策の方向性を描き出すことで、どのような乗り越えが可能であるかを探っていく。

本論文は序章、1章から3章の第一部、4章から5章の第二部、6章から7章の第三部、結論部分の終章、及び補論からなっている。

序章では論文全体の課題が設定される。まず、現代日本のゲイ男性が抱える固有な問題を「ついていけなさ」という言葉で拾い上げ、それが当事者性や差別論などの既存の議論では、いかにすくい取れないものであるかを述べる。さらに「個人と社会の対立」という社会学の伝統的な議論の中で、これがどう位置づけられるのかをふまえて、つながりのあり方の構造に注目してその条件を解明し、解決を求めていくという道筋が示される。

第一部ではゲイ男性に特有のつながりの特徴を描き、彼らの感じる「圧力」の前提として、現代のゲイ男性がおかれている歴史的・社会的な文脈を指摘する。まず1章では、1920年代ごろから現在までの男性同性愛者のつながりの様態を大まかに追うことで、ゲイ男性のつながりが、特定の、同性との性的接触を求めるアイデンティティの所有者とのつながり=「特権的な他者とのつながり」と、このアイデンティティを持つ者全体の(可能的な)つながり=「総体的なつながり」の二種類に分化していったことが示される。現在のゲイ男性は、「特権的な他者との/総体的な」という、明確に分かれた二種類のつながりの元で、生きざるを得ない状況におかれている。

2章では他のマイノリティ集団にはない、ゲイ男性に特徴的な、特権的な他者とのつながりと総体的なつながりとの関係が、ニクラス・ルーマンの親密性の分析を参照しながら、理論的に考察される。異性愛の場合、特権的な他者とのつながりは婚姻制度などによって囲い込まれ、社会全体のなかの局所的「例外事態」として位置づけられている(=「圏」のゼマンティク」)。それに対して、現在のゲイ男性の場合、総体的なつながりと特権的な他者とのつながりが並列的に位置づけられ、両者の間に安定的なゼマンティクを構築できていない。そのため、一方のつながりを求めるゲイ男性にとって、他方のつながりが発生させる文化や様式が過剰さとして経験される。この二種類のつながりの間の関係性の難しさこそが、「ついていけなさ」を発生させる要因となっている。著者はそれを「圏のゼマンティク」とその機能的等価として定式化し、ゲイ男性のつながりが抱える困難とその調停の可能性を探るという論文全体の方向性を示す。

3章では、1990年代中盤以降の日本における「ゲイコミュニティ」という言葉に着目する。この語の持つ理想主義的含意は、ともするとゲイ男性がそのつながりに対して感じる「ついていけなさ」を忘却させる可能性があり、それを通じて特権的な他者とのつながりを排除する可能性が大きいことが明らかにされる。そのため、現在の「ゲイコミュニティ」はゲイ男性のつながりを十分に表現する言葉になりえず、むしろ二種類のつながりの分化と一方の重視を自明視する効果をもつ。それが現代日本のゲイ男性における「圧力」や「息苦しさ」を発生させる構造的条件になっていると述べられている。

第二部では、近年の文献資料にもとづいて、二種類のつながりの間で生じる問題の現代的な姿を示し、ゲイ男性のつながりをめぐる現在の隘路を具体的に描き出す。4章ではゲイ男性のアイデンティティ、5章ではゲイ男性のライフスタイルを焦点にして、議論が展開される。

4章では1990年代以降にカミングアウトについて書かれた文章をとりあげる。その用いられ方から、個々のゲイ男性は、総体的なつながりへのアクセスのみが争点化された状況におかれ、総体的なつながりを通じて特権的な他者とのつながりへとアクセスすることが想定されていないという事態が指摘される。このような、二種類のつながりの関係の不全によって、カミングアウトという「解放」の実践が「ついていけなさ」を言論の構図上発生させつづけることが明らかにされる。

5章では「ゲイライフ」といううたい文句を掲げるゲイ雑誌『Badi』を分析の素材とし、ゲイ男性が共有するとされるライフスタイル像について検討する。この雑誌の語りでは、「ついていけなさ」が「若いゲイはしばしば違うスタイルを持つ」といった形で片付けられがちであり、二種類のつながりをめぐる困難を世代論に回収することによって弱毒化する傾向をもつことが指摘される。ここでは、つながりの関係の不全がゲイ男性の共有する課題ではなく、その世代的な断絶として主題化されることで、それを解く試みまでもがあらかじめ封じられており、つながりをめぐる困難を現代において解くことが如何に難しいかを、あらためて示すものになっている。

第三部では、第二部で論じたような隘路を回避するために呼び出される相互行為上の技法が論じられる。ゲイ男性のつながりにおける総体的なつながりと特権的な他者とのつながりの分離に対応して、6章では前者についての技法を、7章では後者についての技法を論じている。

6章では、「こっち」という呼称についてのゲイ・バイセクシュアル男性へのインタビューの結果を分析し、このゲイ男性の集団を指す婉曲的な呼称が、「こっち」が何かに言及することなく、ある種の「仲間意識」をゆるやかに立ち上げることが見出されている。この呼称の用法は、総体的なつながりを積極的に押し出す困難と危険を織り込みながら、集団性を最低限維持しようとする、複雑な実践を可能にするものになっている。

7章では、ゲイ男性の間での言語実践としての「タチ/ネコ」という用語系が論じられる。この用語は特権的な他者とのつながりの中で、ゲイ男性が自らの欲求と相手の欲求を折り合わせながら、自らにとっての特権的な他者を選別し関係を築く手段であると同時に、その排他性がある程度解除され、さらにはそれでも生まれる共有規範を、所詮異性愛男女の様式であるから従う必要がない、というレトリックで解除することができるようにもなっている。その点で、二種類のつながりの分離による問題を幾重にも緩和する実践であることが明らかにされる。

終章では論文全体の議論を要約するとともに、そのインプリケーションが述べられる。現代のゲイ男性は、そのつながりのあり方による「ついていけなさ」という問題を生きている。本論文は、その困難の要因を同定し、その上でそれを乗り越える技法の可能性が彼らの言語的実践の中に見て取れることを示した。さらに、その成果はマイノリティ論、社会集団論一般に対しても二つの点で重要な意義を持つ。第一に、社会集団とその「外部」の関係性について、差別論的構図に巻き込まれず、社会集団がその「外部」を活用し、自らの集合性を存立させるメカニズムを記述することの意味を指摘した点。第二に、ある社会集団が集団固有の文化的特徴を希薄化させることで安定的に存立する事態を描出していく可能性を提起している点である。

以上のような内容を持つ本論文には、次のような長所が認められる。

第一に、現代日本のゲイ男性の直面する「ついていけなさ」を、特権的他者とのつながりと総体的つながりとの矛盾として定式化した点である。まず、「ついていけなさ」という差別論では切り取れない問題を摘出し、さらに、それを多様な文献資料やインタビューを使って、ゲイ男性における二種類のつながりの歴史的な展開に結び付けることで、問題の位相を整理し、「圧力」や「息苦しさ」がどこに起因するかを解明した。これは本研究を、同性愛をめぐる社会学のなかで位置づけたときに、特筆してよい顕著な貢献である。

第二に、この矛盾を、ルーマンを介してより一般的な理論枠組みのなかで位置づけ、緻密な議論を展開している点である。異性愛の世界であれば、婚姻や家族という解によって局限化されている事態について、同性愛の場合にどのような独自の問題が生まれるかという形で整理することで、単なる実態の記述にとどまらない深い考察を可能にしている。そのことが(異性愛の)家族や恋愛などでの親密性のあり方を裏側から照射する視座を提供することにもつながっている。

第三に、上記二点と関連して、「ついていけなさ」の隘路を回避するゲイ男性の技法を示すことで、さまざまな社会問題への応用可能性を開いている点である。「ついていけなさ」という視角自体が差別論や当事者論の盲点を突くものであり、さらにある社会集団がその集団固有の文化的特徴を希薄化させることで逆に安定的に存立しうるという指摘などからも、本論文での考察が幅広い分野へ貢献できることを示すと考えられる。

もちろん、本論文にも問題点がないわけではない。第一に、さまざまな文献資料や発言をめぐる執筆者の解釈には、それが一義的に正しいといえる根拠が十分に提示されたとはいいがたいケースがいくつかある。あつかう対象の性格上、当事者の語る言葉は断片的で曖昧なものにならざるをえないが、それだけにより注意深い読み解きが望まれる。第二に、クィア・スタディーズについて論文中でしばしば言及しているにもかかわらず、その位置づけが必ずしも明確に述べられていない。その結果、クィア・スタディーズによる研究の蓄積とどのような関係にあるのかが見えづらくなっている。第三に、ゲイ男性以外の親密性や集団形成を視野に入れていく際には、用いる概念を整備することで、もっと明瞭な議論が展開できるのではないかとの指摘があった。

しかしこれらの問題点は本論文の価値を損なうものではない。各種の文献に当たりつつ、多くのインタビューをこなし、日本の男性同性愛の「現在」を記述するとともに、そのつながりが抱える矛盾と可能性を、独自の理論的考察をふまえて指摘した点は、審査委員一同一致して、高く評価するところである。今後、細部を詰めて部分的な改良を加えることで、本論文は、同性愛をめぐる社会学だけでなく、家族や少数派集団研究などの分野でも広く参照される文献となると期待される。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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