学位論文要旨



No 127433
著者(漢字) 南,相旭
著者(英字)
著者(カナ) ナム,サンウク
標題(和) 三島由紀夫における「アメリカ」
標題(洋)
報告番号 127433
報告番号 甲27433
学位授与日 2011.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1100号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 教授 ロバート,キャンベル
 東京大学 准教授 田尻,芳樹
 筑波大学 准教授 平石,典子
内容要旨 要旨を表示する

本稿の課題は、三島由紀夫の小説作品にあらわれている「アメリカ」を、戦後日本文学における「アメリカ」という問題のなかで考察してゆくことである。これまで三島の「アメリカ」は、三島由紀夫研究においては、現実を離れた抽象的な表象としてしか捉えられてこなかったし、戦後日本文学における「アメリカ」表象研究においては、そもそも取り上げられることすらなかった。こうした先行研究に対し、本稿では、「花ざかりの森」、『金閣寺』、『鏡子の家』、『美しい星』および『音楽』の五作品を取り上げて、作中の「アメリカ」表象の下にある文化的な背景を強く意識して読んでいく。それによって、三島の「アメリカ」が、三島由紀夫の作品世界を理解する上で重要な要素であるというばかりではなく、二十世紀の日本における「アメリカ」化を理解する上でもきわめて重要な存在であることを明らかにしていくことが本稿の狙いである。

第一章で取り上げる「花ざかりの森」における「アメリカ」は、十九世紀から二十世紀にかけての世紀の転換期において、アジア・アフリカといった地域に、「近代」的な「もの」を提供することによって、住人たちがその地域「固有」の文化に接する機会を次第に得難くしていく存在であった。また、それと同時に、「日本」文化のような、「近代」とは異なる文化を求める存在としても現前していた。こうした「アメリカ」は、作品中の「いま」の時点である一九四一年に入ると、単なる「もの」という形ではなく、女性の主体性を強調する「文化」として表象され、独自の「家」の文化をもつ近代の貴族階級としての華族の女性に対して、その文化的なアイデンティティを揺さぶる存在へと変化していく。こうしたとらえ方は、「文化」としての「アメリカ」を、「大衆」という新しい文化的な主体だけの問題、あるいは「物質的」な側面だけを強調するものとして限定的に捉えようとした当時の言説と異なる、三島独自の見方である。「花ざかりの森」は、こうした「アメリカ」理解に基づいて、「脱我」及び「没我」の経験を重視する「文化」を、「日本」の文化として提示している。

第二章では『金閣寺』を中心に、占領期の「アメリカ」表象の問題について検討する。日本の作家にとって、占領者としての「アメリカ」を語ることは困難を伴うものであった。占領中においては、書きたいという自らの欲望と、書く対象を限定しようとする検閲との間で葛藤し、占領後においては、その時期の「自己」に対する反省と、「アメリカ」に対する記憶が、それを語る主体によってそれぞれ異なっていたためである。『金閣寺』は、「アメリカ」の占領の意味について、以下の三つの側面に焦点を当てている。まず第一に、作中での「アメリカ」は、日本の「伝統文化」と必ずしも対立するものではなく、むしろ積極的な理解者として自らを演出する。このことで、占領軍によって「承認」された「日本文化」のみが、まるで日本と世界において価値のある「遺産」であるかのような認識を生みだしている。第二に、占領期の「アメリカ」は、日本人に「暴力」をふるう存在でありながら、自らの「暴力」を検閲という装置を通して抹消することで、「日本人」だけを「暴力」的な存在として代理表象する存在として描かれている。特に『金閣寺』は、占領期の「アメリカ」の「暴力」に、日本人も関与していたことを示し、この時期の「アメリカ」の「暴力」の在り方に対する、日本人の責任にも触れている点で、奥行きのある占領期の「アメリカ」の「暴力」の問題を提起したといえよう。第三に、本作では「日本人」から「暴力」を奪った「アメリカ」が、一方で「日本人」に「平和」を齎したものの、人間の「自然」を奪う存在としても表象されている。こうした表象の背景には、人間にとって「暴力」は「自然」であるという三島の認識が横たわっている。

第三章においては、既存の法的・倫理的な秩序の破壊の象徴である「焼跡」が見られなくなる時期、具体的には一九五四年から五六年までの「日本」のあり方が、鏡子と四人の青年の生き方を通して語られる作品『鏡子の家』を取り上げる。作中当時の日本において、「アメリカ」は日本の法と文化と経済という三つの体系に影響を与えた存在である。GHQの介入によって創られた日本国憲法は、「鏡子の家」という新しい共同性の可能性を開いたものの、それは戦前における天皇と大日本帝国憲法の下でできた、青年達の共同性の可能性を閉じた上で、その引き換えとして成り立ったものである。こうした「鏡子の家」という共同性の空間において、青年達は、アメリカから伝わった「スポーツ」や「娯楽」という形の「暴力」文化に同化して生きようとする。が、こうした文化に馴れていた青年達は、やがて本物の「暴力」に直面して挫折することとなる。また、この作品における「アメリカ」は、日本の外部であるニューヨークという都市を通して直接表象されてもいる。「世界の中心」としてのマンハッタンの表象は、日本におけるマルクス主義に基づいた歴史観と、「反近代」を目指した戦時の世界観を、ともに相対化する一方で、「近代化」という名目において行われる「ナショナリズム」としての「日本」の復活を肯定する「証拠」として示されている。しかし、その一方で、ニューヨークは、「ガス灯の輝く巨大な蛮境」という表現が示す通り、「近代化」のなかで人間の様々な欲望が剥き出しになる「文化」を有する場所でもある。「アメリカ」のこうした両面性に気づかず、「市民的幸福」の表象としての「アメリカ」にのみ目を向けていると、やがて人々は「女性的な孤独」の淵に落ちてしまうのではないか、という問題提議が『鏡子の家』には含まれている。

第四章において取り上げる『美しい星』で描かれた一九六〇年代初めの日本は、「本土」から多くの米軍基地が撤退することによって出来た「跡」をめぐって、自衛隊の基地として使用を検討していた当時の日本政府と、生活の安全と土地の権利を主張する地域住民とのあいだの闘争が始まる空間である。同作品において三島は、「アメリカ」から「暴力」のみを引き受けた自衛隊も、「権利」と「生活」のみを守ろうとする市民運動も、米軍基地を通して「アメリカ」が残していった思想が背景にあることを語ろうとしている。また、「核」に関する文脈での「アメリカ」は、物語の表層においては、「己に克つ」ことができない、「愚かな人類」「人類の敵」として表象されている一方、物語の深層においては、これまでの「人間」概念を変えた存在として位置づけられている。「核」は「人間」にとって、「知的な外観的な世界像」と「巨大ならざる自分の感受性」とのバランス、もしくは「眺める」‐「眺められる」という関係を喪失することに大きく影響を与えたものである。『美しい星』では、「人類の滅亡」という「デカダンス」が極めて輝かしく表象されているが、それは、「アメリカ的生活様式」がまだ完全に浸透していない限りにおいて可能であると三島はとらえていた。三島にとって「アメリカ的生活様式」とは、一方では「人間」を道具のような存在としてみなすことによって、他方ではあらゆる「暴力」を排除することによって成り立つ「平和」の表象を生活空間において演じてみせる、生を肯定するものと認識されていたのである。

第五章に取り上げる『音楽』では「精神分析医」という職業が登場する。これは、「高度成長」という名の下で行われた「アメリカ化」によって生じた日本人の「心」の病を、アメリカ式の精神分析という「知」によって治療し、もう一度「アメリカ化」しつつある「日本」に連れ戻すという機能を果たしている存在である。「精神分析医」そのものが、一九六〇年代における日本の「アメリカ化」が、知の形式を取ることによってより安定的な構造をもつようになったということを示唆している。一方、『音楽』における「精神分析」は、「日本人」と「アメリカ人」の表象を変えるものでもある。「精神分析」は、戦後の日本における「性」に対する意識を、女性が「性的な快楽」を求めることは「自然」であるというものに変えることによって、戦後創られた「純潔な日本人」の表象に影響を与え、これまでの強い「アメリカ人」の表象を、罪の意識に苦悩する「アメリカ人」、或いは既存のアメリカ社会における「自己」の表象のために自分の欲望を抑圧する存在としての「アメリカ人」に変容させる。こうした「人間」の表象を創り上げる「精神分析」への批判に対し、『音楽』の「汐見」は、自分の「精神分析」を「アメリカ」や「日本」といったナショナル・アイデンティティに対立する存在として意味づけようとする。このことは、一九六〇年代の日本における「アメリカ化」が、「科学」を強調する「近代化」という名の下で容認されてきたことを示唆する。精神分析医汐見にとって、麗子の兄が住む「山谷」は、「高度成長」への「不適応」を示す人々が集まり、未だに「暴力」という形の「人間」の「自然」が残されている唯一の場所として期待されるが、「山谷」は「暴力」と「文化」とのかかわりが切れているということを生々しく見せる「現実」にほかならない。

以上の考察が示す通り、三島の作品世界における「アメリカ」は、常に両面的な性格をもつ存在であるが、ことに日本にとっては外なる他者から内なる他者へと変わりつつ、戦後日本人の文化認識と「人間」の表象に大きな役割を果たした存在として語られている。三島にとって「アメリカ」は、「暴力」と「文化」との境界線をはっきり引くことによって、日本における「文化」の意味を矮小化させただけではなく、こうした「文化」のなかを生きる「人間」の生の可能性を制限した存在であった。

審査要旨 要旨を表示する

南相旭氏の「三島由紀夫における「アメリカ」」は、戦後日本を代表する作家の一人である三島由紀夫の作品において、アメリカがいかなるものとして描かれているかを跡づけた研究である。アメリカは、戦中は敵として、敗戦後は占領軍として、日本人が強く意識せざるを得ない対象であった。また講和後においても、アメリカが日本において示す軍事的、経済的、文化的存在感、影響力は圧倒的であった。そのようなアメリカを、戦後を代表する日本人作家であり、日本文化の独自性を意識し、これをみずから喧伝することのあった三島由紀夫が、いかに受けとめ、いかに作中に描いたかを論ずることは、三島の文学的営為の解明に資するのみならず、戦後日本の文化状況の一面を明らかにすることにもつながるであろう。南相旭氏の論文は、そのような大きな射程を持ちうるテーマに果敢に取り組んだものとして、まず評価される。

本論文は、三島由紀夫における「アメリカ」を取りあげる意義と方法論を述べた序論と、本文五章、及び結論からなる。以下、論文の構成にしたがってその概略を述べる。

序論では、まず、十六歳で日米開戦を、二十歳で日本の敗戦を経験した三島が、戦後においては比較的豊かな滞米経験を持ったこと、作品の英訳によりアメリカに読者にもったことなどが確認され、その上でその小説作品にあらわれる「アメリカ」を論じることの意義が主張される。ここにいう「アメリカ」とは、登場人物たちによってイメージされ、作品の結構において機能する、アメリカという文明の総体であり、アメリカが持つ価値と意味である。序論ではさらに、本論文で取りあげる作品を「花ざかりの森」、『金閣寺』、『鏡子の家』、『美しい星』、『音楽』の五篇とすることと、その理由が述べられる。

第一章では、昭和十六年に発表された「花ざかりの森」における「アメリカナイズ」された母の形象が取りあげられる。華族の血を引く母が「アメリカ」を進んで摂取するさまは、語り手「わたし」の批判的まなざしの対象となる。ブルジョワ的物質文化と規定される「アメリカ」が貴族的文化の対立項となり、同時に日本的アイデンティティを浮かびあがらせるものとして機能することが論じられる。

第二章では、昭和三十一年に発表された『金閣寺』をとりあげ、占領期における「アメリカ」表象が論じられる。まず、占領期についての三島の見方が「江口初女覚書」(昭和二十八年)や「鍵のかかる部屋」(昭和二十九年)等にも伺うことができることが確認されたあと、『金閣寺』において、「アメリカ」が日本文化を表象する際の鏡の役割を果たすこと、また暴力を行使しつつ暴力を隠蔽する「アメリカ」、自然を奪い破壊する「アメリカ」などが、きわめてアレゴリカルに描かれていることが指摘される。

第三章では、昭和三十四年に発表された『鏡子の家』において、「アメリカ」が無秩序としての焼跡をもたらし、廃墟のなかに新しい共同性が成立することを促した存在であることが指摘される。また、大衆娯楽文化、肉体への関心、スポーツ等も「アメリカ」を表象するものとされ、第二部の舞台となるニューヨークが、経済原理を体現する巨大都市として、また市民的幸福の実現を裏切る場として描かれることも確認される。

第四章は、昭和三十七年に発表された『美しい星』をとりあげる。『美しい星』は、円盤を目撃したことで自分たちは宇宙人であるとする人々を描き、米ロ冷戦期の核戦争の脅威を背景とした政治的な含意が色濃いが、人々が円盤を目撃する場所がことごとくGHQ及び米軍と関わること、米軍に関わる政治的事件が作品中に巧みに取り込まれていることなどが指摘される。作品に描かれるのは、米軍基地のあとに残された「アメリカ」であり、人間の概念に変更を迫る「アメリカ」であるとされるのである。

第五章は、昭和三十九年に発表された『音楽』をとりあげ、精神分析と「アメリカ」との結びつきを論じる。経済の高度成長を歩みはじめた日本において、精神分析は、アメリカ的「知」の一つと見なされるとともに、アメリカ的生活様式に深く関わるものとして、性の解放、清教徒的良心等への関心を喚起した。同時に、それによって「アメリカ」的価値観に必ずしも馴染まない視点が浮上することも指摘されるのである。

結論では、三島における「アメリカ」は、単に「西洋」や「近代」の同義語ではない固有の意味を担うことが、論文全体の論旨を踏まえながら、あらめて確認される。

本論文においては、主な論述の対象となった五つの作品のみならず、三島作品の総体がつねに参照されるとともに、「アメリカ」を描いた戦後同時代の数多くの小説が論じられ、論述に奥行きが生まれている。また、戦後の日本に生じた様々な事件や、社会現象等が丁寧に紹介され、三島の作品が生まれた歴史的文脈が明らかにされている。これらは、本論文の大きな特色とされるであろう。

審査委員からは、問題設定がやや狭いという印象があること、分析に用いられる概念・用語等の一部に生硬なものが残ること、テクストの内部と外部の関係、文学研究と文化研究の関係についての意識が不十分であること、作家論を避けたために論述が窮屈であること、などが指摘された。個々の作品の読みについて異なる見解が示されることもあった。また、『禁色』、「百万円煎餅」等の作品が取りあげられないことへの不満も表明された。ただし、これらは本論文が挙げた学問的成果を本質的に損なうものではないことも、審査委員によって確認された。

したがって本審査委員会は、南相旭氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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