学位論文要旨



No 127434
著者(漢字) 永井,久美子
著者(英字)
著者(カナ) ナガイ,クミコ
標題(和) 物語絵巻に見る後白河院政期 : 『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』を中心に
標題(洋)
報告番号 127434
報告番号 甲27434
学位授与日 2011.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1101号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 今橋,映子
 東京大学 准教授 櫻井,英治
 東京大学 准教授 齋藤,希史
 学習院大学 教授 佐野,みどり
内容要旨 要旨を表示する

長寛二年(一一六四年)、平清盛の支援を受けて後白河院のために造営された仏堂である蓮華王院には、かつて宝蔵が存在していた。宝蔵は後に失われ、什物は火災や盗難の被害に遭い、その多くが散逸した。しかし出庫の記録などから、この宝蔵には多数の絵巻物が納められていたことが判明している。

蓮華王院宝蔵の絵巻群は、史料で確認できる限り、いずれも後白河院の時代に新たに制作されたものであった。絵巻群は、その内容から、行事絵と物語絵に大別することができる。行事絵は、後白河天皇の在位中(一一五五年~五八年)に、荒廃していた内裏が再建され、途絶えていた行事が復興されたことをうけて作られたものとみられる。承安年間(一一七一年~七五年)以降にも『承安五節絵』なる行事絵が作られるなど、絵巻の制作は退位後の院のもとでも継続されていた。一連の行事絵は、行事が盛大に行われた様子を記録することを通して、後白河院の天皇および上皇としての治世の盤石たることを確認する意図で制作されたものとみてよいであろう。

一方の物語絵は、主題が多岐に及んでいる。しかし一連の物語絵巻にも、何らかの共通する制作意図を考えてみてよいのではないか。これが本論文で中心的に取り上げる問題である。

物語絵には、名称が伝わるだけで実物は現存しない作品がいくつかある。そうした中で、『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』の三作品のみは、(『彦火々出見尊絵巻』は模本を通してではあるが)ほぼ全貌が今日に伝わっている。本論文はこれら三つの絵巻について、それぞれの制作動機を考え、共通点の有無を考察するものである。

議論をすすめるにあたり、特に詞書の本文が作成される段階に着目した。三つの絵巻は、絵は宮廷絵師であったとみられる常盤源二光長が、詞書の清書は藤原教長あるいは藤原伊経が主に担当したものと考えられている。二人はそれぞれ当代屈指の絵師および能書であり、それだけに、絵巻はきわめて高い完成度を示している。ただし、制作の順序から言えば、その前にまず詞書の本文が用意されるという段階があったはずである。これはある意味で、絵巻の内容をほぼ決定する作業であり、絵はその原稿をもとに作られたと考えるべきであろう。その際、既存の物語類からテキストが選び出されたり、あるいは新しくテキストが書き起こされたりする過程で、どのような主題が選ばれたのか、また原話の内容に変更が加えられたかどうかという問題に特に着目した点に、本論文の特徴の一つがある。

本論文では、詞書本文の作成は、蓮華王院で寺務を司っていた静賢が中心的に行っていたのではないかと推測した。後白河院が絵巻制作の院宣を静賢に下した例があったことが、『吉記』などの記録類から知られている。静賢は博学で知られた信西の子息の一人であり、絵師や能書に制作の命を伝える任務を果たすにあたり、本文も自分で用意したことが十分考えられる人物である。後白河院のもとで作られた絵巻の数々は、主に信西とその子息らの学識の上に成立したものではないだろうか。

本論文の各論は三編構成となっており、各編ではそれぞれ『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』を取り上げる。その順序は、内容の検討を通して推測される制作の順序にもとづいている。

第一編で論じる『伴大納言絵巻』は、伴善男の放火によるものとされる応天門の炎上事件、いわゆる応天門の変を描いた絵巻である。貞観八年(八六六年)に起きた事件が十二世紀後半に改めて取り上げられた事情として、これまでは、院政期までに御霊となっていた善男の霊を鎮魂するという制作目的などが考えられてきた。しかし詞書や絵の内容からみると、善男に同情的な姿勢が示されているとは断定しがたい。むしろ善男は、清和天皇を補佐する忠臣として描かれた藤原良房とは対照的な悪者として描写されていると解釈するのが自然であろう。太政大臣を辞した退隠中の身ながら、夜間に内裏に駆けつける良房の活躍を描くこと、そして、天道の裁きともいうべき力によって、善男がついには破滅するという結末を描くことこそが、絵巻の主題であると考えられる。詞書とほぼ同文の説話は『宇治拾遺物語』にみられるが、応天門の変を、忠臣の活躍と天道の力によるいわば勧善懲悪の物語に仕立て上げる説話は、絵巻の作成を契機に構想され、後白河院のもとでこそ成立したのではないかと推定した。

第二編で取り上げる『彦火々出見尊絵巻』には、『日本書紀』などにみられる彦火々出見尊とその兄の火闌降命の神話を主題としながらも、主な登場人物の名をほとんど明記せず、主人公の兄弟をただ「弟の御子」「兄の御子」と呼ぶのみであるという特徴が認められる。この弟の御子は、日本紀ではその孫が神武天皇となるのであるが、絵巻では御子本人が帝となり、兄の御子を従えたとされている。また弟の御子が結婚する龍王の姫君は、日本紀では出産後に海に帰ってしまうのだが、絵巻ではそのような結末は描かれていない。結婚と子の誕生による龍王一族との絆の深まりは描かれているが、その後の絶縁には説き及んでいない点もまた、絵巻に認められる独自性である。兄を従えた弟という神話の原型に基づきながらも、弟の御子について、龍王の一族との永続的といえる関係を築いたこと、ついには帝になる栄華をも手にしたことを前面に押し出す内容となるよう、物語を意図的に構成し直したものが、『彦火々出見尊絵巻』であると考えられる。

第三編では、『吉備大臣入唐絵巻』の分析を行う。唐土に渡った吉備真備が、唐人たちに次々と難題を持ちかけられるが、いずれにもみごとに対処してみせるという物語を取り上げた絵巻である。真備が挑戦した難題は、『文選』の読解、囲碁の勝負、暗号の詩「野馬台詩」の解読の三つである。絵巻では、難題に答えた真備がこれらの文物(『文選』、囲碁、「野馬台詩」)をみずから日本に持ち帰ったとされているが、事実とは認めがたい。『文選』は難解な舶来の古典として日本で知られており、これを読んでみせたというのは、唐人に匹敵する学者が日本に存在することを示すためであったとみてよい。また囲碁は、遣唐使たちの現地での対局ぶりが知られているもので、日本人の才能が唐の人々に対抗しうることを示すための恰好の話題であったと思われる。そして「野馬台詩」は、その作者とされる宝志が観音の化身として日本でも知られていたことから、この詩の解読は、真備を守護する日本の神仏の力を示すものと考えられる。

この『吉備大臣入唐絵巻』の詞書とほぼ同文の説話は、『江談抄』にみることができる。日本人が唐人に匹敵する才能を発揮する物語が後白河院に望まれ、『江談抄』から題材が選ばれたものと推測される。『江談抄』の成立の経緯およびその写本の伝来などを勘案すると、この題材選びには、信西の一族が関与したものと推測される。大江匡房の談話を記録してまとめた人物は、信西の父にあたる藤原実兼であり、『江談抄』の古写本の一つは、信西の子、勝賢から、その甥で信西の孫、成賢に伝わったことが知られているからである。

『伴大納言絵巻』では、『江談抄』所収の説話とは異なる視点から応天門事件が捉えられているが、絵巻の制作にあたっては、新たに物語を書き起こす文才が必要とされたはずであり、これについても信西につらなる静賢らの関与を考えることができるだろう。また『彦火々出見尊絵巻』についても、『日本紀鈔』を著わした信西のすぐれた学識を受け継いだ静賢などが、神話を継承しつつも新しい物語を作成した可能性が高い。

絵巻の制作は後白河院からの要望によるものと考えられるので、物語の作成や選択のあり方には、院への配慮があったと推定される。それでは、院はなぜ物語絵巻の制作を命じたのか。その動機としては、単なる個人の趣味というだけではなく、もっと広く、後白河院政期当時の社会情勢との関わりが想定できるのではないだろうか。

『伴大納言絵巻』で忠義の臣として描かれていると思われる良房には、太政大臣の座を退いた天皇の外戚という点で、平清盛との共通点が少なからずある。仁安二年(一一六七年)に清盛は太政大臣を辞任し、承安元年(一一七一年)には娘の徳子を高倉天皇に入内させている。後白河院は、清盛が隠居後も院や高倉天皇を補佐し、正しい政道が行なわれることを願っていた。そうした後白河院の願望を、良房と清和天皇の物語に重ね合わせるというのが、『伴大納言絵巻』制作の意図であったと推測される。

『彦火々出見尊絵巻』では、ついには帝となった弟の御子に擬せられているのは後白河院であり、兄の御子には保元の乱で対立した崇徳院が該当するものと考えられる。そして、弟の御子が兄を従える力を手に入れるのに協力した龍王には、福原に拠点を構えていた清盛が、龍王の姫君には、清盛の娘の徳子が重ねられているのではないか。もっとも、徳子が入内したのは高倉天皇であり、その点からすれば、弟の御子はむしろ高倉天皇に当たると見ることもできよう。しかし絵巻の主人公はあくまで後白河院であり、その趣意は、清盛の一族が高倉天皇とその父後白河院の強い後ろ盾であると強調することにあると推測される。

『吉備大臣入唐絵巻』に関しては、嘉応二年(一一七〇年)に後白河院が福原で宋人と謁見したこと、そして承安二年(一一七二年)に宋から「賜日本国王」との書状を付した供物が届き、後白河院と清盛が宋に進物を送ったことが、絵巻制作の背景として考えられる。唐人たちと互角に渉り合う真備の物語が選ばれたのは、宋との対等な交渉を望む院の強い意向を反映したものであっただろう。

『伴大納言絵巻』および『彦火々出見尊絵巻』における良房と龍王の役回りからは、清盛が後白河院を補佐する重臣として大いに期待されていたことを読み取ることが可能である。『吉備大臣入唐絵巻』については、絵巻の中に清盛に相当する人物は認められないものの、宋との貿易の推進は清盛に負うところが大きかったという背景がある。三つの絵巻の制作時期は、清盛の協力のもと憲仁親王(のちの高倉天皇)が立坊した後、清盛が太政大臣の座を退いた仁安二年(一一六七年)頃から、後白河院と清盛との間に決定的な対立が生じはじめる以前、安元二年(一一七六年)頃までの間と推定することができる。

兄の崇徳院や子の二条天皇との対立などにより、天皇および治天の君としての立場が不安定であり続けた後白河院にとって、みずからの正当性と、自身を支える重臣の存在を確認することは、必要不可欠であったと考えられる。物語絵巻は、一連の行事絵と並んで、後白河院の王権の揺るぎないことを確認するために作られたとみてよいであろう。院の在位中は主に信西が、そして退位後、信西が没してからは、静賢らが絵巻制作の指揮をとったものと思われる。詞書のみが現存する「道鏡法師絵詞」や、断片的に物語の内容が伝わる「末葉露大将絵」でも、正しき政道が行われること、平家一門の協力を得ることが趣意であったと推定することができる。本論文では、『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』の三作品は、信西主導の絵巻制作態勢を静賢らが引き継ぎつつ、高倉朝の安定を期する後白河院に精神的な支柱を提供するものであったと結論づけた。

『粉河寺縁起絵巻』や『信貴山縁起絵巻』など、制作地について議論の分かれる絵巻も、後白河院のもとで作られたことが十分考えられる作品である。これらの絵巻の趣意は、院が粉河の千手観音や信貴山の毘沙門天の利益を受けるに値する存在であることを示す点にあったのではないだろうか。後白河院は、政治面、さらには信仰面で、行事絵と物語絵によってその正当性を保証されることを切実に望んだ法皇であったということができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「物語絵巻に見る後白河院政期――『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』を中心に」と題し、十二世紀後半に後白河院のもとで制作されたり、蓮華王院の宝蔵に収められたさまざまな絵巻のうち、物語絵巻について、同時代の政治・社会状況とかかわらせてその制作意図を明らかにし、これに深く関与した人物を推測したものである。考察の対象は美術史・日本史・日本文学の領域に及び、渉猟した史資料や参考論文も多数にのぼる労作である。全体は序章と終章を挟んで本論の三編から成る。

序章では、後白河院にかかわる絵巻十四点を挙げたうえで、数多く制作された行事絵の問題、後白河院政を支えた信西(藤原通憲)とその一族の絵巻とのかかわり、副題の三つの物語絵巻の伝来など、より大きな視点から研究史の現在を展望する。

第一編「『伴大納言絵巻』における良房像と清盛――忠臣としてのイメージ」は、貞観八年(八六六)に伴善男が引き起こした応天門の変を描いた絵巻をめぐる考察である。善男の陰謀が露見するきっかけが子ども同士の喧嘩にあったという詞書独自の語り方について、『日本三代実録』の史実や『江談抄』の説話と比較して確認したうえ、ことが露見したいきさつについても、一つには無実の罪を着せられた源信が天道に訴えたことがあり、そこには菅原道真が左遷されたのち天拝山で無罪を訴えた説話の流入があるのではないかと指摘し、二つには、政務を弟の良相に譲っていた太政大臣藤原良房が嵯峨天皇のもとに馳せ参じ、早まった裁定をくださないよう諫めた結果であるという。

永井氏は、良房の果たした役割が、ちょうど太政大臣を辞して出家し、娘徳子を高倉天皇のもとに入内させた平清盛の政治的な立場に近いことに注目し、この時期、安元の大火以外にも火災が頻発したこと、絵巻制作のまとめ役として信西の息子の静賢が考えられることなどから、後白河院が高倉天皇の補佐・支援を清盛に期待するという願いがそこにこめられていたと論じる。

第二編「『彦火々出見尊絵巻』における龍宮と龍王――厳島および清盛のイメージ」では、記紀神話の海幸山幸を題材とする同絵巻について、記紀や『信西日本紀抄』ほかの中世日本紀の類と比較しつつ、後白河院政期の動向との関連を考察する。絵巻詞書の独自性を数多く指摘し検討する中で、永井氏は、弟の御子の対面相手が海神でなく龍王と呼ばれていること、弟の御子は龍王の姫君の出産場面をのぞき見るが、その後も龍王の一族との関係は途切れず再訪して援助を受けること、弟の御子が帝になることなどに着目する。

龍王という呼称からは、『源氏物語』若紫巻に「海龍王の后になるべきいつきむすめななり」と見える明石入道の一族の物語が連想され、龍宮に近い蓬莱にたとえられる厳島社を厚く信仰した清盛が思い浮かぶ。すでに美術史・日本史においても明石一族や清盛らの平家納経と関連づけた研究があるが、永井氏はそれらの論の不備を批判し、絵巻の制作時期を清盛娘の徳子の入内や安徳天皇懐妊の時点と見る説を排し、その中間にあたる後白河院の厳島御幸以後間もなくと推定し、制作の意図は崇徳院の弟皇子である後白河院が清盛をあくまで王権の補佐役にとどめることにあったとする。

第三編「『吉備大臣入唐絵巻』の真備像に見る信西のイメージ――後白河院政期における対外関係と絵巻」で取り上げる絵巻は『江談抄』の説話にもとづくものである。『江談抄』は文人政治家大江匡房の言談を弟子の藤原実兼が記録したもので、学者政治家の信西は実兼の子、後白河院の腹心で「後三年絵」の制作に関与し、蓮華王院の執行をつとめた静賢は信西の子であった。

絵巻の粗筋は、入唐した奈良時代の政治家吉備真備はその才能を妬まれ幽閉されるが、霊鬼の協力を得て三つの難題を解決し、無事帰国するというものである。いずれも史実ではないが、真備は日本に『文選』・囲碁・「野馬台詩」をもたらしたと称えられる。

当時は清盛らにより日宋貿易が盛んであり、後白河院が宋人を謁見した記録の残ることも知られており、絵巻から後白河院の屈折した自国優越意識を読み取る説や真備の人物像に学者出身の道真を重ねる読みもあったが、永井氏は新たに信西の像を重ねる読みを提案する。

終章では以上の三編をしめくくって、三つの絵巻が後白河院と平清盛の関係が良好であった時期に、信西亡きあと、父後白河院と対立する二条天皇にも奉仕していた清盛を味方に付ける狙いで制作させた可能性があること、制作のまとめ役には『江談抄』『信西日本紀抄』が手元にあり、『源氏物語』にも通じた後白河院側近の人物がふさわしく、静賢の可能性が最も高いことをいってまとめとする。最後に、本論では取り上げなかった「長恨歌絵」「道鏡法師絵詞」や『粉河寺縁起絵巻』『信貴山縁起絵巻』などについても簡単な考察をおこなっている。

永井氏の功績は、これら三つの物語絵巻の制作には信西の一族が深くかかわっていたことは確実で、具体的には静賢の名が挙げられるとしたことであろう。絵巻と同時代の政治・社会状況とのかかわりとか、後白河院側の制作意図とかについての考察の結果も、先行研究を批判的に検討したうえで初めて提出したもので、今後は一説としてかならずかえりみられねばならないものと判断される。ここまで絵の分析については言及しなかったが、三つの物語にわたってそれぞれ行き届いた研究史の整理をおこなった後、従来指摘されていた見方をより徹底させたり、独自の着眼から物語の筋とからめた読み取りをおこなうなど、研究を大きく前進させたことは間違いない。

審査委員からは、静賢については今後さらに追究する必要がある、絵巻をだれが鑑賞したのか、清盛にも見せようとしたのかどうか踏みこんだ判断があればよかった、物語を史実と付き合わせることについて方法的な自覚がやや甘いのではないか、考察してきたことの最後のまとめが簡略すぎないか、もっと緻密な表現を心がけてほしいなど、厳しい注文も出されたが、学問的に境界領域にあたるこの分野できわめて貴重な成果を挙げていると評価する点で全委員の意見が一致した。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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