学位論文要旨



No 127435
著者(漢字) 李,禮安
著者(英字)
著者(カナ) イ,イェアン
標題(和) 中江兆民の思想と実践における自由・道徳・革命 : 兆民のルソー理解を踏まえて
標題(洋)
報告番号 127435
報告番号 甲27435
学位授与日 2011.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1102号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 准教授 斎藤,希史
 東京大学 講師 徳盛,誠
 東京大学 名誉教授 竹内,信夫
 大妻女子大学 元教授 井田,進也
内容要旨 要旨を表示する

本博士論文は、兆民におけるルソー理解に照明を当てることによって、兆民の思想と実践における自由・道徳・革命の様相を考察したものである。その基礎作業として、一方で、ルソーの原著と兆民の翻訳を比較検討し、他方では、時間軸に沿って、兆民によるルソー理解の変遷を考察した。そのことにより、兆民がルソーへの共鳴と批判を地盤にしながら、独自の自由・道徳・革命の思想を構築してゆき、実践に向かっている、その過程と様相を浮き彫りにすることができたように思われる。

第一章では、兆民による最初のルソー翻訳として「民約論」に注目して、ルソー『社会契約論』原著と「民約論」の比較検討を行い、また、その「民約論」の思想を踏まえて構想した政治改革案「策論」を中心に検討した。明治七年の時点で、兆民が『社会契約論』に注目したのは、そこにおける主権者概念であった。兆民は、『社会契約論』の主権者概念を中心に修正・削除・加筆を施しながら翻訳することをもって、「民約論」の中で、ルソーとは異なる主権者のあり方および政治体制として、衆意に基づく立憲君主制を提示していたのである。

このような「民約論」の思想を、一方では儒学的な道徳主義に基づき、他方では『学問芸術論』から汲み取った文明開化批判の視点に基づきながら開陳することで、有司専制を批判して立憲君主制樹立の実践策を提示したのが、「策論」である。その「策論」をもって政治改革に向かう兆民の活動を考察することによって、兆民にとってルソー思想がいかに実践的な思想だったのか、そのルソー思想を踏まえながら兆民がいかに自由民権運動に向かっていったのかが垣間見られたように思える。

第二章では、兆民におけるルソー『学問芸術論』理解、『社会契約論』理解そして儒学理解が、どのように接触融合しながら変容しているのか、そしてその理解を土台にして、兆民が到達した思想的見地はどのようなものなのかという問題に照明を当てた。兆民におけるルソー理解および儒学理解の変化の基点をなすものとして、明治十一年の漢文著作「原政」に注目する。そこにおいて兆民は、儒学思想と『学問芸術論』思想が、政治における教化主義の理念において一致することを言明するに至っているからである。「原政」が書かれた明治十一年を前後に、仏学塾関連資料および兆民の儒学観を検討することにより、「原政」を転換点として、兆民のルソー理解の重心が、『社会契約論』から『学問芸術論』へ移動している様子を明らかにすることができたように思われる。また、このようにルソーを理解する兆民の姿勢の変化と連動して、兆民が『社会契約論』に対して批判的視点に立つようになったことも窺えたように思える。

そして、明治十四年『東洋自由新聞』における「祝詞」および「自由之説」を中心に、兆民におけるルソー批判の所在、その批判を踏まえてのルソー理解の定立、そして兆民における自由思想の出発点を確認した。このように兆民が、明治七年「民約論」以来に長年にわたってルソー思想と向き合って、思索を持続した末に、そこで悟り得た知見を表したのが、『民約訳解』なのである。

第三章では、兆民が『民約訳解』の地盤として徳治主義に基づく法治主義を構築し、その思想を踏まえて、社会における自由として「人義之自由」を構想するその思考を究明するように努めた。兆民は『民約訳解』を叙述するにあたって、明治十一年の「原政」の教化主義の理念のもとで、一方では『学問芸術論』と儒学に基づいて風俗改良を要請し、他方では『社会契約論』に底流する道徳観念を前面に引き出しながら、徳治主義を語っている。兆民が『社会契約論』に沿って、社会契約による社会体制確立の趣旨を翻訳するのは、その徳治主義の理念のなかなのである。

このような政治の理念のもとで、そしてルソー批判を踏まえて、「人義之自由」は構想されている。兆民が問題にしているのは、ルソーの市民的自由概念を代替するものとして、「人義之自由」をどのように構想するかにある。兆民は『民約訳解』の地盤として構築した徳治主義と法治主義の理念のもとで、またルソーの市民的自由概念に対する共鳴の姿勢と批判の姿勢を同時に示しながら、独自に、その政治体制を生きる人のあり方に照明を当てている。一方では、『社会契約論』に沿って、ルソーの批判する家族国家説を批判して、個々人の自由・自主・平等・権利を主張し、社会契約による政治体制の樹立を要請する。しかし他方では、明治十一年の「原政」で、政治の理念として示した「人倫之道」を踏まえながら、儒学の道理に基づく父子関係を前景化し、また、それに基づく君臣関係を全面に導き出す。そして、そのような人間秩序を提示した末に、政治の原理として「義」と「理」があるべきことを言明する。さらに兆民は、その「義」と「理」を人間行為の規範にすることによって、人は道徳的判断主体になり、自分の利益だけを求めることをやめて、他人の利害禍福を自分のこととして受け止めることができ、共同体の一員として共に生きることができると説く。兆民の構想する社会状態は、社会と個人の関係ばかりでなく、社会における人と人の関わりを合わせて想定するものであった。政治体制のなかで、人が「義」と「理」を行動規範にすることによって、人と共に生きて行くそのあり方こそ、「人義之自由」の本質だというのである。さらに兆民は、その「人義之自由」の拠って立つ道徳主義を通して、「心之自由」に注目し、それを「人義之自由」と不可分のものとして語っている。『民約訳解』における「人義之自由」は、『社会契約論』の市民的自由概念を踏まえているものの、それとまったく異なる、新しいものとして、構想されている。ここにおいて、兆民は、社会における自由の新たな地平を拓いたと評価することができるように思われる。

第四章では、激動するアジア情勢のもとで、明治十五年の壬午軍乱を契機に著述された「論外交」を検討し、また、明治十七年、十八年に亘って玄洋社に参画して活動した時代を検討した。従来、「論外交」については兆民の道義主義に基づくアジア認識として評され、玄洋社時代の兆民については兆民のアジア主義として評されてきた。しかし、一見相反するように見えるこれら二つのアジア認識は、兆民のルソー理解という観点から捉えるとき、必ずしも矛盾するものではないことに気付く。兆民の提示する道義に基づく小国主義は、単に武力に反対して平和を堅持する消極的なものにとどまらず、西欧の暴力に対しては道義主義を死守し、またそのような道義主義に基づいて、隣国を教導するという積極的な意味合いを含むものになっている。

一方、兆民の玄洋社時代については、兆民が東洋学館と善隣館の設立計画において主導的な役割をし、義勇軍結成運動に間接的な形で関与したこと、そこにおいて清国転覆を目的に、志士養成を推進していたことを検討した。しかしそれと同時に、兆民の玄洋社参画の意図は、教化主義に基づくアジアの文明化にあったことも確認できた。このように玄洋社時代の兆民が、教化主義に基づいて、中国や朝鮮の専制政府を転覆し、文明に導こうとしたその姿勢には、彼が「論外交」の中で明治政府を批判し、道義主義に基づく文明を要請するその姿勢と共通するものを認めることができる。しかしながら、玄洋社時代の兆民が自らの使命を教化によるアジアの文明化にみていたとしても、そもそも玄洋社と共に、清国転覆を目的に、志士養成を推進していたこと、そしてそこにおいて兆民が武力を黙認していたことに変わりはない。それでは、道義主義に基づいてアジアを文明に導く道はどのようなものなのか。この問題を含めて、自由・道徳・革命のあり方を問うたのが『三酔人経綸問答』である。

第五章では、『三酔人経綸問答』を兆民が自分自身の過去と向き合って書いた、痛切な反省の記録として捉える視点に立って分析した。まず、『三酔人経綸問答』で紳士君、豪傑君、南海先生の順で議論が進む構造を、兆民が過去を振り返って、その過去の時点から実際の時間軸に沿って、「論外交」の思考、玄洋社時代の思考、現在の思考を語ったものとして捉えた。そして、そのなかで兆民が、三人を通して、それぞれ過去の自分の思考を批判、修正しながら議論を進めており、さらにそのなかで、三人各々の論理のなかに論理的矛盾を孕ませることにより、三人各々にも自己批判の場を用意している、という立場から『三酔人経綸問答』を読み直した。兆民は、いわば批判の重層構造を設けているのだが、そのことにより、「論外交」の思考、玄洋社時代の思考、現在の思考を批判すると同時に、各々の時代における自分の思考的葛藤をも吐露している、と理解することができる。

このように読むとき、『三酔人経綸問答』における三人の議論は、先行研究で言われてきたように、必ずしも三つの思考を対比的に並べたものと見なすことはできない。また、そこにおける議論の争点は、外交論と政体論の範疇に収まりきるものではない。三人の繰り広げる「問答」は、まさに、各自が自己批判を行って、論理を揺るがしながらなお問い続けている、文明と開化の狭間、その道程としての自由・道徳・革命の問題をめぐって成り立っている。そこにおいて、紳士君の道義主義は必ずしも革命主義に基づく自由の獲得を否定するものではなく、豪傑君の武力主義は正義の観念に繋がっており、さらに自己犠牲をも甘受するものである。さらに、南海先生は両君の問題提起について、ことごとく正面から答えを出せず、苦心の末に、「恩賜の民権」という方策を出している。自由・道徳・革命をめぐる問題こそ、兆民がこれまで問い続けてきたものであり、いまなお問うている問題なのである。ここにおいて、兆民思想の集大成としての『三酔人経綸問答』の精髄をみることができると思う。

近代日本の直面した問題に対して、兆民は、一生をかけて、渾身の力を注いで思索し続け、身を持って時代の問題に応えようと格闘した。兆民による生前の遺言『一年有半』を読んだ黒岩涙香が、兆民を「操守ある理想家」と評したことに対して、兆民は大いに喜んで次のように語っていたという。「迂闊に迄理想を守ること、是小生が自慢の処に御座候、然に誰も此処を〓破し呉れず、夫れ奇才の、夫れ学者のと、予何の人に出る才あらん、唯自慢する所は理想の一点のみ」。兆民思想における「理」の意義を考える時、晩年の兆民による理想家の標榜は意味深長なところがある。兆民がルソー理解を踏まえながら追求した自由・道徳・革命の理想と実践はどのようなものか、本稿をもって垣間見ることができればと願う。

審査要旨 要旨を表示する

李禮安氏の「中江兆民の思想と実践における自由・道徳・革命―兆民のルソー理解を踏まえて」は、明治初期においてフランス政治思想の紹介に力を尽くし、自由民権運動の思想的指導者に擬せられていた中江兆民が、『社会契約論』をはじめとするジャン=ジャック・ルソーの著作をいかに理解し、また批判的に受容したかを、テクストの読解を通じてあきらかにし、さらに、兆民の自由主義的政治思想がいかなるものとして独自の発展を遂げたかを跡づけようとした研究である。兆民が『民約訳解』によってルソーの『社会契約論』を紹介したことはすでによく知られた事実であるが、『社会契約論』と『民約訳解』のテクストを実証的に比較検討し、これを兆民の思想の問題として論じた研究は、意外なほど蓄積を欠いている。李禮安氏の研究は、このような兆民研究の実状に一石を投じるものとして、重要な意義を持つ。また、兆民の思想形成にルソーの『学問芸術論』が大きな意味をもつとして、『非開化論』を軸に『民約訳解』を読み直した点は、兆民研究にあらたな局面を開くものと考えられる。

本論文は、本文五章と、兆民研究の課題を述べた序論、及び本論部分での議論を踏まえて、筆者の兆民理解全般を述べた結論からなる。以下、論文の構成にしたがってその概略を述べ、適宜これに対する審査委員の意見を記す。

第一章第一節では、兆民が明治七年に『社会契約論』の訳稿として作った「民約論」が検討される。兆民は "souverainete" を「君権」もしくは「君権即チ議会」と訳し、"souverain" を「君主」もしくは「君主即チ公会」と訳し、「政府」の語を以て言い換え、あるいは「帝王」と訳す。こうした訳語の選択が、兆民のルソー理解の初期の様態と、兆民による明治日本の政治構想を示すものとして論じられる。第一章第二節では、「民約論」と同じ時期に書かれた政治改革論「策論」が検討され、兆民の意図が論じられる。この部分の論述に関しては、審査委員から、史料の選択とその歴史的背景に関する理解に若干の認識不足があるのではとの指摘があった。

第二章第一節では、先行研究においては習作と位置づけられてきた明治十一年の漢文著作「原政」をとりあげ、兆民がルソーの『学問芸術論』の文明批判に学ぶことで、徳性の涵養をめざす教化の重要性を認識し、ルソー理解と儒学思想との融合を図ったことが、『民約訳解』を準備する兆民の思想的成熟の過程として論じられる。第二章第二節では、兆民の「自由之説」にみられる自由の概念を、「心思ノ自由」(liberte moraleの訳語)と「行為ノ自由」(liberte politiqueの訳語)の両面に関する記述から探り、日本の政治状況に関する現実認識から、市民主権論が批判され、「君民共治論」が打ち出されてゆく思想的経緯が描き出される。

第三章第一節では、明治十五年から十六年まで『政理叢談』に連載された『民約訳解』が、ルソーの『社会契約論』の翻訳でありながら、幾多の加筆、削除、書き換えを通じて、兆民独自の思想を反映するものとなっていることが論じられ、兆民があくまで徳治主義に立脚した法治を構想する点が指摘される。第三章第二節では、『民約訳解』において、「天命之自由」(liberte naturelleの訳語)と対比される「人義之自由」(liberte civileの訳語)が、人間主体の「心之自由」を重んじるかたちで定義されるところに、兆民が『非開化論』を経てルソーを批判的に摂取しつつ、儒学的な「士」の思想に接合してゆくありさまが読みとられる。審査委員からは、ルソー批判と儒学思想との結びつき、兆民の漢学的発想については、より深い考察が求められるのではとの見解が示された。

第四章は、兆民のアジア認識を論じる。第一節では、明治十五年に発表された「論外交」が、文明の西欧と野蛮のアジアという対立構図のなかで、道義と信義を掲げた小国主義を説く点に着目し、これがルソーの文明批判を踏まえたものであることが論じられる。つづく第二節では、この道義主義にもとづくアジア認識が変化してゆくさまが、玄洋社時代における東洋学館及び善隣館設立運動において辿られることになる。

第五章は、明治二十年刊行の『三酔人経綸問答』をとりあげる。第一節では、『三酔人経綸問答』の登場人物である洋学紳士、豪傑君、南海先生に、それぞれ無抵抗道義主義、武力主義、折衷主義という兆民の三つの思想的側面を割りあてようとする従来の解釈に異議を唱え、三人各様の論理的破綻が兆民の思想的自己批判として意識的に惹起されていることを、『三酔人経綸問答』の構造そのものから読み解こうとする。第二節では、そのような兆民自身における思想的葛藤が、自由、道徳、革命をめぐる問いのなかに、もっとも先鋭にあらわれていることが確認される。

結論部では、先行の各章の議論が総括されるとともに、「人義之自由」とこれを支える教化主義が兆民の思想の核心にあったことを重視すべきであることが主張される。

中江兆民とルソーの関わりに関しては、多くの先行研究がある。そのなかでルソーの『社会契約論』と、兆民の「民約論」『民約訳解』の本文を詳細に比較対照し、兆民の思想的営為をテクスト読解の場から立ち上げようとする研究は、まだ緒に就いたばかりであると言える。本論文は、こうした面での研究を大きく進展させた点で高く評価される。また、本論文が韓国および中国における兆民の著作の受容のありさまを、東アジアの思想状況として歴史的文脈のなかに描き出すことを志す李禮安氏の、確固とした出発点を画するものであることは間違いない。

審査委員からは、主に「自由」と「道徳」を論じる前半部と、主に「革命」を論じる後半部とで、論述の態度に若干の違いがみられること、漢籍の参照と漢学的教養の考慮においてやや不足する面があることなど、さらに史料解釈上の問題、テクストの解釈に関する疑問などが指摘された。また本文中の誤記等に関する訂正意見も出された。ただし、これらは本論文が挙げた学問的成果を本質的に損なうものではない。

よって本審査委員会は、李禮安氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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