学位論文要旨



No 127436
著者(漢字) 宮川,絹代
著者(英字)
著者(カナ) ミヤガワ,キヌヨ
標題(和) ブーニンの「眼」 : イメージの文学
標題(洋)
報告番号 127436
報告番号 甲27436
学位授与日 2011.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1103号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安岡,治子
 東京大学 教授 西中,村浩
 東京大学 准教授 村松,真理子
 東京大学 教授 沼野,充義
 北海道大学 教授 望月,恒子
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、イワン・ブーニン(1870-1953)の亡命後の作品を中心に、そのイメージから、自己と他者の問題を論じたものである。本論文におけるイメージとは、具体的に知覚される現象の表象である。これまでブーニン文学の可視イメージについて絵画的であると指摘されてきたが、それはブーニン文学の一面でしかない。鮮やかな可視イメージとともに存在する不可視のイメージを解明することで、様々な哲学的テーマを読み解き、また文学史におけるブーニン文学の位置を明らかにすることができる。

ブーニンの視線は「すべてを見る」ことができると言われるが、本論文は、まず「昼の眼」と「夜の眼」という観点から、ブーニン文学における視線に注目する。

「昼の眼」とは、現象光に照らし出された世界を捉える視線である。ブーニン文学における「昼の眼」は、絵画的と言われる鮮やかに彩られた風景描写に現れている。しかし、その絵画性は、文学テクストとしてのダイナミズムを孕み、単なる風景画とは異なっている。語り手の視線から明らかになるその特徴は、自己を取り囲む世界を他者として見ていないという点にある。自己は、絶対的な視線を持って、世界の「すべてを見る」のであり、世界はすべて自己の「私の中にある」。これは、パウストフスキーやトゥルゲーネフといった他の「風景画家」的作家とは異なる視線である。

一方、「夜の眼」は自己を取り囲む世界だけでなく、異なる次元へと向けられる。それは、ドイツロマン派やフランス象徴派の詩人たちによって語られ、ロシア文学の伝統においても育まれた形而上学的な夜のポエジーの流れの中で捉えることができるものである。そのポエジーを生みだす神秘的体験「ペレジヴァニエ」は、「魂の深淵」と「世界の深淵」に向けられる二つの視線によって特徴づけられる。ブーニン文学におけるその体験が現れた作品『夜』から、二つの視線とその結びつきが明らかになる。夜を背景に、語り手の自己は全感覚で、自己の外部の世界を知覚し、果てしない「世界の深淵」を捉える。そして、また同時に、その自己は、自己の内部に、「魂の深淵」へと眼を向け、そこに「イメージされる(感覚的な)記憶」という時間や空間によって制限されない自己の可能性が見いだされる。この記憶の現在における再現はベルグソンやプルーストを彷彿させるが、ブーニンにおいて無窮の世界は、自己の果てしなさでもあり、どれほど時間や空間を超えたイメージが語られようとも、その中心には自己がいる。

このように「昼の眼」も「夜の眼」も、一見自己を取り囲む世界に向けられるように見えるが、それは世界を自己に対する他者として捉えているのではなく、その視線は、ただ一人存在する絶対的な自己の視線である。ところが、恋愛というテーマとともに、ブーニン文学の自己は、絶対的な視線を失い、可視イメージの彼方に不可視のイメージを捉えるようになる。ブーニン文学の恋愛というテーマは、まさに不可視のイメージの現れと、それに伴う視線の絶対性の喪失によって生まれるテーマである。ブーニン文学の恋愛は、束の間の激しい恋であり、結婚といった日常への展開を一切拒むものである。そのような特徴が現れた短編『日射病』を、チェーホフの『犬を連れた奥さん』やナボコフの『フィアルタの春』との対比することで、ブーニンの恋愛では、現在において対象を見る日常的な視覚が損なわれ、自己と他者の真の関わりというものはないことが分かる。

恋愛において、見る主体は可視イメージを捉え、さらにその彼方に不可視のイメージを追い求める。その不可視のイメージを本論文では「胎内的なもの」と呼ぶ。この「胎内的なもの」は内的なものであるが、精神的蓄積による内的なものではなく、精神よりも肉体と結びつき、知性や理性が及ばない、感覚的に知覚しうる内的なものである。この不可視のイメージは、知覚できるものであり、それゆえに肉体に対する精神とは異なる。これは服を纏い、装う可視イメージがあるからこそ、見る主体に不可視のものとして認識されるのである。さらに、「胎内」とは、生死の区別のない領域であり、可視イメージの陰に隠れた「胎内的なもの」は、ただ物理的に覆われた部分を仄めかすだけではなく、ブーニン文学における生死のメタフィジカルな問題に食い込んだものとして考えなければならない。

「胎内的なもの」は、「胎外」の生死の原理を超えたものであるが、軽々と「胎内」から外へ溢れ出るイメージとして、「軽やかな息」など、息や風として表象される。『ミーチャの恋』に見られるように、対象に宿っていたこの不可視のイメージは、特定の肉体に縛られるものではなく、その肉体を離れ、全世界に広がり、それを変容させる。しかし、「胎内的なもの」は、果敢なく失われるものでもある。それが失われたとき、自己は救いようもない孤独に陥り、世界との関わりの幻は消失してしまう。

ブーニン文学の恋愛は継続せず、しばしば性的交渉によって終わりを迎えるが、それも不可視のイメージとの関係で考えることができる。「胎内的なもの」は「見ること」、可視イメージを前提としたときに生まれる不可視のイメージであるが、性的交渉は「見ること」を放棄した性の追求であり、それによって、対象と一体になるのではなく、対象が一つの関わりえない完結した存在として現れてしまう。死もまた、対象から「胎内的なもの」を奪い、可視イメージと不可視のイメージとに分裂した不完全な存在から、その人物を一つの完結した存在へと変えてしまう点で、性的交渉と重なるものである。「胎内的なもの」の失われた存在は、死んだ対象と等しく、もはや関わりうる存在ではなくなり、恋愛は継続し得ない。このように、可視イメージの彼方に不可視の「胎内的なもの」を捉えたときに始まる恋愛は、「胎内的なもの」が失われたとき、終わりを迎える。

しかし、そのような不可視のイメージは、一つの肉体を去ったとき、必ずしも完全に消失してしまうものではない。それは、生死の境界を越え、記憶のイメージとして、新たに知覚されうるイメージとなる。そのような生死の境界を越えるイメージは、息や風のモチーフだけではなく、『最も美しい太陽』に見られるように、光というモチーフによっても語られる。ブーニン文学において、光はいくつか異なる現れ方をする。一つには、「昼の眼」を支え、風景を鮮やかに照らし出す光である。また、『日射病』の場合のような、恋愛における視覚を奪う光もある。さらに、もう一つ「夜の眼」が捉える形而上学的光がある。この生死の境界を越える光に注目すると、絶対的自己の「夜の眼」には、さらに「見られる」存在としての自己の現れ、つまり他者との出会いという新たな展開の可能性が見えてくる(『遅い時刻』)。

現在の恋愛においては、不可視性を生んでいた光は、記憶というテーマとともに、可視イメージとして現れ、知覚できるものとなる。恋愛をテーマとした作品集は『暗い並木道』と名付けられているが、一つ一つの作品が「恋愛の暗い並木道」であると言える。そして、その「暗さ」は、中にいるときは対象を見る視覚を奪う「暗さ」であるが、外から見たとき、つまりそれが過ぎ去り、記憶となったときには見ることのできる「暗さ」なのである。これは現在の恋愛と記憶との相違であるが、どちらも「並木道」という空間であることに注目できる。

恋愛と記憶は、ともに空間として語られ、しばしば旅の目的地となる。どちらも、イメージによって自己が時空を超えて他者と関わり、一体となる場として語られる。亡命後、ロシアの記憶を語る際も、それは、歴史的物理的な断絶が語られるのではなく、存在の孤独として語られる。ブーニン文学は亡命を経て、成熟とともに、恋愛をテーマとした作品に急激に傾斜していくが、それは、ロシアの喪失が生んだ自己と他者の断絶を克服すべく、恋愛という他者とのイメージにおける関わりの空間へと向かっていったのだと言える。自己は、客観的現実を知覚しながら、見えない領域を認識することで、イメージを新たな現実として捉えることができるのである。

このようなブーニンのイメージは、見る主体に対し見られる対象が客体として存在する19世紀的リアリズム文学とは異質のものである。けれども、それは、同時代の文学においても独特のものである。そのイメージは象徴派に見られるような超越的観念にリアリティを見据えたシンボルではなく、あくまでも現象世界のイメージである。しかし、それと同時に、イメージは、可視的現象世界に縛られることなく、新たな現実を生み出すものである。ブーニン文学は、19世紀的な主観と客観を共に受け入れつつ、銀の時代にあって主観が捉えるイメージのリアリティを押し広げた。ブーニンの「眼」は、ただ「すべてを見る」だけではない。それは、「昼の眼」だけでも、「夜の眼」だけでもない。ロマン派や象徴派の流れと繋がる「夜の眼」も、写実主義的、アクメイズム的と言える「昼の眼」も、ブーニンには備わっている。そして、その両方を兼ね備えた「眼」は、不可視のイメージを捉える。視覚の限界まで見て、さらに見えない領域を認識するとき、ブーニン文学の自己は、絶対的自己と絶対的他者の間で揺らぎながら、他者を求める存在として浮かび上がってくる。「昼の眼」は現象を捉えるが、「夜の眼」は可視的現実がすべてではないことを知っている。それだからこそ、現象を見ながら、それを否定することなく、同時に見えないものについても語ろうとする。そこに、自己と他者を繋ぐブーニンのイメージの文学が構築されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、20世紀ロシアの作家イワン・ブーニン(1870‐1953)の文学作品において、可視・不可視のイメージが果たした役割に着目し、そこから自然、恋愛、記憶といったブーニン文学に特徴的なテーマを検討したものである。

本論文は三部から構成され、序論、結論、図版、参考文献表を含み原稿用紙換算766枚となっている。内容は以下のとおりである。

第一部では、ブーニン文学における視線を分析するが、光に照らし出された世界を捉える「昼の眼」と、現象世界とは異なる形而上学的次元に向けられる「夜の眼」に分けて考察する。「昼の眼」は、絵画的とも言われる鮮やかな風景描写に現れているが、語り手の視線から明らかになるその特徴は、トゥルゲーネフやパウストフスキーなどとは異なり、語り手の自己は絶対的な視線を持って世界の全てを見るのであり、世界はすべて自己の「私の中にある」とする感覚である。一方「夜の眼」は、神秘的体験によって語り手は自己の外部の世界を全感覚で知覚し、「世界の深淵」を覗き、また同時に自己の内部、すなわち「魂の深淵」に眼を向け、そこに「イメージされる記憶」という、限られた個人の記憶の枠組みを超えた可能性を見出す。ブーニンの「イメージされる記憶」は、ベルグソンやプルーストを彷彿させるものの、ブーニンにおいては、どれほど時空を超えたイメージが語られようとも、その中心は自己である。しかし、ブーニン文学の主体は、常にゆるぎない絶対性をもつ自己だけではない。

第二部では、恋愛というテーマにおける不可視のイメージが論じられる。恋愛において見る主体は可視イメージを経て、さらにその彼方に不可視のイメージを追い求める。この不可視のイメージを本論では、ブーニン自身が使った些か珍しい「胎内的なものutrobnost'」という語で表す。この「胎内的なもの」は、内的なものではあるが、精神よりも肉体と結びつき、知性や理性が及ばぬ、直感的に知覚しうるものである。ブーニン文学では、可視性が揺さぶられ自己の絶対性が失われるとき、他者を求める恋愛が始まる。また「胎内」とは、生死の区別のない領域であるがゆえに、これは、ブーニン文学における生死に纏わるメタフィジカルな問題にも関係してくる。ブーニン文学における恋愛が、しばしば性的交渉や死によって終わることも、そこには不可視のイメージ、つまり「胎内的なもの」の喪失が作用していることで説明できる。不可視のイメージは、不完全な自己が関わりうる他者を求めることを可能にするが、性的交渉や死は、対象から不可視のイメージを奪い、それによって自己と恋愛の対象の他者は、それぞれに孤独な一つの存在として完結してしまうからである。ところでこの不可視のイメージは、一つの肉体を去った後、生死の境界を越え、記憶のイメージとして再生する。

第三部では、記憶とイメージの問題を取り上げるが、第二部で取り上げた恋愛のテーマを通して明らかになった、他者との関わりを求める自己に焦点を当てる。ブーニン文学のテーマは多様であるが、イメージにはどれも、他者との関わりを探究する自己が現れている。記憶は現前する空間として語られ、恋愛同様に、イメージによって他者と一体になる可能性をもつ。また、そうした場として旅が多く語られる。ブーニン文学がロシアやそこでの過去との断絶という亡命の現実を乗り越えることができたのも、記憶や恋愛のイメージのリアリティによると言える。

最後に、ロシア文学史のコンテクストの中に位置づけるとすれば、ブーニンの文学は、見る主体に対して見られる対象が客体として明確に成立していた19世紀のトゥルゲーネフやチェーホフの文学とは異なり、主観と客観を融合させる詩的なイメージがその特性である。他方、あくまでも現象世界のイメージを描写するという特性は、その可視・不可視のイメージを、超越的イデア界のシンボルとして受け取ろうとしたシンボリスト達の姿勢とも異なる。19世紀から20世紀のロシア文学の影響を受けつつなおそれらとは一線を画す独特な文学世界を創り出したといえる。

以上が概要である。本論文の主たる功績は以下の点にまとめられる。

まず、創作の軌跡が非常に長いブーニンという大作家の作品をなるべく多く取り上げて、それらの作品を有機的に結び付けうる一つのテーマを決め、力技でまとめあげた力量が高く評価できる。その際、ブーニンの作品のみならず膨大な先行研究、また、トゥルゲーネフ、チェーホフ、ナボコフなど他の作家との比較に関連する文献などもしっかり押さえている点も立派である。

本論文の白眉は、恋愛小説を分析した第二部であるが、特にブーニンの文学の中でも真骨頂とされる恋愛をテーマとした作品群は、プロットや思想を分析しても読みこぼしてしまう部分が多い。その読みこぼしを補う方策として、本論では、可視・不可視のイメージに着目してそれを切り口として丹念にテクストを分析したこと、すなわち、ブーニン文学では、現象世界を視覚によって微細に描写した上に、さらに可視世界のかなたに不可視的イメージをも見出し、単なる生理的描写に止まらず「自己と他者」や生死をめぐる形而上学的問いも投げかけていることを説得力をもって立証し、ブーニン文学の解釈に世界的なレヴェルで見ても大きく貢献した。たとえば従来、ブーニンの小説における恋愛と死の結びつきに言及する研究者は多かったが、両者がいかにして結びつくのかを、本論は、不可視的イメージである「胎内性」の存在によって初めて明快に分析することに成功した。

他方、審査では、次のような問題点・要望が指摘された。1.本論文におけるキーワードである「イメージ」および「胎内性」について。イメージにはいくつかの意味があり、この語の定義づけは本論の最初になされてはいるものの、いまだ不十分である。utrobnost'というロシア語も複数の意味を持つ語であり、内的・根源的な何かという意味もあることから、子宮を連想させる「胎内性」という訳語を選ぶ必要があっただろうか。2.ブーニン文学の中で視覚を特権的に扱い、そのことによって、読みを深めた点は大きいが、他方、狭めた点もあるのではないか? ブーニン文学にとって、他の知覚、例えば音楽に通じる聴覚の果たした役割の大きさにも注目すべきであろう。

しかしこれらはいずれも、本論文の全体としての質の高さを本質的に損なうものではない。本論文が、この領域において大いなる貢献を果たしたことは間違いないと判断される。

以上から、本審査委員会は、全員一致で、本論文が博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定した。

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