学位論文要旨



No 127438
著者(漢字) 安田,佳代
著者(英字)
著者(カナ) ヤスダ,カヨ
標題(和) 国際連盟保健機関から世界保健機関、ユニセフへ : 新しい安全保障としての「ポジティブ・ヘルス」の形成
標題(洋)
報告番号 127438
報告番号 甲27438
学位授与日 2011.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1105号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 後藤,春美
 東京大学 教授 古城,佳子
 東京大学 准教授 川島,真
 東京大学 教授 城山,英明
内容要旨 要旨を表示する

国際連盟(連盟)とは第一次世界大戦後に、二度と世界大戦を引き起こさないことを目的として設立された人類史上初の国際平和機構であった。しかし第二次世界大戦を引き起こしてしまったことから、戦後における連盟研究の焦点は「連盟はなぜ失敗したのか」に置かれていた。1980年代以降、世界各地で様々な経済および社会的国際問題が出現したことから、連盟研究の焦点は「連盟は何を成し遂げたのか」へと移っていった。連盟の衛生事業も、こうした研究動向の中で注目を集めてきた一つである。

本稿の関心は「連盟保健機関(LNHO)が何を成し遂げたのか」のみならず、その経験が、その後の国際衛生協力を含む国際政治の在り方にどのような意義をもたらしたのか、という点にある。こうした関心の下、LNHOから世界保健機関(WHO)とユニセフが設立されるプロセスを通じて、国際衛生事業が「技術的」問題から参加型の国際公共事業へと発展し、国際安全保障の新たな形態を築いたことを明らかにしていくことが本稿の目指すところである。「人間の安全保障」概念や人間開発アプローチといった、冷戦後の「新しい」安全保障概念の興隆が、連盟からの一続きの国際政治史の中で、何度もの浮き沈みを経て育まれてきたものであることを、本研究を通じて明らかにしていきたい。

二つのキーワードの説明をしておく。まず、「テクノクラート」とは経済や公衆衛生などの専門知識と国際的ネットワークを備えた国際高級官僚を意味し、第一次世界大戦後の国際社会において、新たな存在感と影響力を示すようになった。本稿ではLNHOテクノクラートの動きに焦点を当てることで、国連設立期に国際政治が新しい局面を迎えたことを明らかにしていきたい。二つ目のキーワード「ポジティブ・ヘルス」とは、「ヘルス」という言葉を広義に解釈し、人間の健康を取り巻く広範囲な衛生事業に取り組むことで、国際衛生事業をより身近な国際協調の場にしようという方向性である。本稿では国際衛生協力を通じて国際協調を形成しようという考えが、国際衛生協力に関与した当事者たちによって経験的に形成されたプロセスを明らかにしていく。

第I部「『ポジティブ・ヘルス』の出現」では、LNHOの経験と反省の中から、「ポジティブ・ヘルス」という概念が生み出されたプロセスを見ていく。19世紀以降、国際衛生協力の枠組みが形成され、第一次世界大戦終結時には、国際衛生規約と、それを監督する国際衛生機関が存在していた。しかし、第一次大戦後に既存の体制の限界が判明し、1921年にLNHOが設立された。LNHOはそれまでの国際衛生事業を、内容・規模・対象地域すべてにおいて拡大したが、連盟理事会の指揮・監督下に置かれるという体制は、その円滑な活動を阻んだ。この時の経験と反省は、移行期に取り入れられていく(第一章「国際衛生協力の歴史的系譜」)。連盟期の反省のもう一つの大きな柱が、活動の自立性と中立性の確保であった。この背景には、連盟期の国際衛生事業がとりわけ東アジアにおいて、国家間対立や国家の外交政策と密接に関わり合ったという経緯があった(第二章「東アジアでの事業展開と国際関係 1925-1938年」)。以上の反省の傍ら、LNHOはその存続期間中に「ポジティブ・ヘルス」という新たな活動の方向性を見出した。その直接の契機となったのは1929年の世界大恐慌であった(第三章「伝染病の撲滅から「ポジティブ・ヘルス」へ―栄養問題への多角的な取り組み1929-1943年―」)。

第II部「『ポジティブ・ヘルス』の実現に向けて」では、以上の経験と反省をもとに、移行期に「ポジティブ・ヘルス」が確立されるプロセスを見ていく。1940年以降、LNHOはレイモンド・ゴチエとイヴ・ビローという二人のテクノクラートによる体制になっていた。この二人は1943年に戦後の国際衛生機関構想を作成した。その後、幾多もの改訂が重ねられていくものの、以下四点は温存され、WHOの活動体制に反映されることとなる。その四点とは、第一に、LNHOの活動を戦後の国際衛生機関の中核に据えること、第二に、国際衛生機関は唯一であること、第三に、活動にあたっての自立性と中立性の確保、第四に、広く人間の健康を取り巻く衛生事業に関与し、事業を通じた国際協調を促進すること、であった。

約15年の長きに渡り、LNHO保健部長を務めたルートビッヒ・ライヒマンというテクノクラートも、1943年9月に戦後の国際衛生機関構想を発表した。ライヒマンは1939年に連盟を追い出されていたが、その構想は上記四つの柱を軸としており、LNHOのテクノクラート達が一つの将来像を共有していたことを印象付けられる。一方でライヒマンは、衛生事業を通じた国際協調を促進するために、より踏み込んだ構想を提示し、数多くのアメリカの公衆衛生界の有力者たちに構想を送付し、実現化を目指した。実際、ライヒマンはゴチエ達より一足早く、連合国救済復興機関(アンラ)のもとでその構想を実現する機会を得た。現在、WHOが国際衛生事業における、より専門的な側面を扱うのに対して、ユニセフは母子健康事業を中心としつつも、WHOのサポート的な役割も担っている。両機関の微妙な違いは、起草者の違いに求めることができる(第四章「テクノクラート達の戦後構想 1943年」)。

続く第五章「国際連盟保健機関から世界保健機関へ 1943-1945年」では、以上二つの構想が実現へと導かれたプロセスをみていく。1943年秋にアンラが設立されると、アンラとLNHOの間には協調関係が確立された。しかし、連合国への伝染病供給業務においてLNHOは次第にイニシアティブを失っていき、存亡の危機に立たされた。このような厳しい風向きの中で転機となったのが、1945年4月から6月にかけてのサンフランシスコ会議であった。この会議では、国連憲章が起草され、国際安全保障の維持にあたって軍事力による事後措置のみならず、経済及び社会的国際協力を通じた予防措置の確立が憲章に盛り込まれた。保健衛生問題に関しても、国連の専門機関として国際衛生機関が設立されること、設立のための国際衛生会議を開催することが決まった。

第III部「『ポジティブ・ヘルス』の行方」では国連の下で確立された「ポジティブ・ヘルス」が戦後の国際政治の中でどのような位置づけを占めるようになったのかを連盟期と比較しつつ検討していく。サンフランシスコ会議にて、国際衛生機関が国連の専門機関になることが決まった以上、ゴチエとビローは構想を実現していく上で、連合国の支持を得ることが必要になり、連合国としてもLNHOのテクノクラート達の経験に頼らざるを得ず、両者の関係は緊密化していった。他方、ゴチエ達は、実務と国際協調の担い手として専門家の役割を重視した。連合国の保健省役人と国際機関で活躍する専門家、各々の役割分担を認識し、働きかけるという手法は、国際協力の現場と国際政治動向の双方を熟知した、テクノクラートならではの巧みな戦術であった。その後、1946年6月に開催された国際衛生会議でWHO憲章が作成された。憲章の序文では1943年構想で謳われた通り、「ポジティブ・ヘルス」の方向性が明記された。(第六章「世界保健機関の設立と初期の活動 1945年9月-1946年6月」)。

ここまでWHOについてみてきたわけだが、もう一つの国際衛生機関としてユニセフについて第七章「戦後初期東アジアにおける国際衛生事業 1946-1953年」でみていく。第四章でみた通り、ライヒマンはアンラの活動に深く関与し、1946年12月にアンラが消滅すると、その活動を引き継ぐ目的でユニセフを設立した。1949年までユニセフの活動の中心はヨーロッパ戦災国での復興支援活動であった。1950年代以降、アジアでの活動を拡大し、その一環として日本でも救援活動が行われた。この活動は復興期の日本を助けたが、アメリカにとっては国連の基金と日本の関係を更に緊密化させ、日本を冷戦における西側に組み入れるための絶好の機会であった。復興が落ち着いた後も、国連とその加盟国との国際協調を促進する目的で、日本はWHOとユニセフとの関係強化に努めた。

LNHOの経験と反省の上に、テクノクラート達は「ポジティブ・ヘルス」という新しい方向性を見出し、この方向性は、彼らの巧みな戦術と、国連設立期の国際安全保障構想の進展に助けられる形で、国連のもとで、制度として確立された。LNHOが第二次世界大戦を挟んでWHOとユニセフへと引き継がれた歴史とは、軍事力偏重の従来の国際安全保障の在り方から、軍事力と国際協力双方によって支えられる、新しい国際安全保障の在り方への転換とも見ることができる。

但し、理想の体制が構築されたからといって、戦後において「ポジティブ・ヘルス」が順調に進展したわけではなく、冷戦期に一旦停止した。ただ、戦前と異なる点は、冷戦の真最中にも感染症対策や復興支援活動といった、伝統的な国際衛生事業を中心に、事業が継続され、それらの事業を通じて国際協調が進展したということである。その後、冷戦が終結し、広く人間をとりまく安全保障への関心が高まると、WHOとユニセフは途上国での衛生インフラの整備等を通じて、再び「ポジティブ・ヘルス」に向けた動きを活発化させた。このような経緯を一望すると、冷戦後の「新しい」安全保障概念の興隆とは、連盟からの一続きの国際政治史の中で、何度もの浮き沈みを経て育まれてきたものと位置づけることができる(「おわりに―国際政治の中の国際衛生事業―」)。

審査要旨 要旨を表示する

提出論文は、国際衛生事業の展開を、国際連盟期から国際連合初期にいたるまで実証的に解明した研究である。国際連盟に関する研究は、かつては安全保障領域に集中し、その成果についても消極的な評価が支配的であったが、近年の研究では、国際連盟の社会政策へ関心が寄せられるようになり、連盟の達成した成果についてもより肯定的な見解が示されることが増えている。本研究も、このような研究史の流れにそうものである。提出論文の構成及び要旨は、以下の通りである。

「はじめに」では、国際連盟研究の関心が、「連盟はなぜ失敗したのか」から「連盟は何をなしとげたのか」に移行してきたことを指摘したうえで、連盟の国際衛生事業を再検討することの研究史的意義を述べている。そして連盟の国際衛生事業に関わったテクノクラート達の軌跡を追いかけることの意味づけを行い、人間の健康を取り巻く広範囲な衛生事業に取り組むことで、国際衛生事業をより身近な国際協調の場にしようという方向性を「ポジティブ・ヘルス」という概念で捉えることを提唱している。

「第I部「ポジティブ・ヘルス」の出現」は、国際連盟設立期から、第二次世界大戦勃発までの歴史展開を扱いながら、連盟保健機関の経験と反省から「ポジティブ・ヘルス」という概念が生まれていく過程を検証する。「第一章 国際衛生協力の歴史的系譜」は、国際連盟設立前の国際衛生事業の展開を前史として扱い、連盟保健機関の設立経緯を論じている。「第二章 東アジアでの事業展開と国際関係 1925-1938」では、連盟保健機関の東アジアでの事業展開を実証的に検討し、それらの事業が日本や中国の対外政策とどのような関わりをもったかを明らかにしている。「第三章 伝染病の撲滅から「ポジティブ・ヘルス」へ-栄養問題への多角的な取り組み 1929-1943年」は、世界恐慌を契機に、健康を単なる伝染病の撲滅だけではなく、より広範な社会・経済的問題から捉えようする方向性が浮上していく文脈を検証し、「ポジティブ・ヘルス」という概念が登場したことの意義を強調している。

「第II部「ポジティブ・ヘルス」の実現に向けて」は、第二次大戦前の連盟の活動に対する反省に基づき、戦中期の国際連盟から国際連合への移行期に、「ポジティブ・ヘルス」が確立する過程を論じる。「第四章 テクノクラート達の戦後構想 1943年」は、連盟保健機関の2人のテクノクラート、レイモンド・ゴチエとイヴ・ビローと、連盟保健機関部長を長年勤めたルートビッヒ・ライヒマンの戦後構想を対比的に扱い、両者の構想の違いが、それぞれ世界保健機関とユニセフの微妙な違いとして、第二世界大戦後に継承された所以を明らかにしている。続く「第五章 国際連盟保健機関から世界保健機関へ 1943年―1945年」では、1943年秋に設立された連合国救済復興機関と連盟保健機関との微妙な関係を辿りながら、ダンバートン・オークス会議及びサンフランシスコ会議における保健衛生問題をめぐる議論を分析している。

「第III部 「ポジティブ・ヘルス」の行方」は、国際連合によって確立した「ポジティブ・ヘルス」の諸相を、連盟期と比較しながら、戦後初期の国際政治の動向のなかで検討する。「第六章 世界保健機関の設立と初期の活動 1945年9月~1946年6月」は、サンフランシスコ会議で決定された国連の専門機関として国際衛生機関を置く構想を実現するために、ゴチエやビローが連合国の保健省役人と中小国の専門家に、それぞれの役割分担を認識しながら双方に働きかける巧みな戦術を取ったことが分析されている。そして、世界保健機関の憲章で、「ポジティブ・ヘルス」の方向性が明記されるに到る過程を検証している。「第七章 戦後初期東アジアにおける国際衛生事業 1946年-1953年」は、世界保健機関と並ぶいま一つの国際衛生機関であるユニセフの戦後初期東アジアにおける事業展開を論じている。本章では、ユニセフの対日援助活動が、一方ではアメリカの冷戦戦略と重なる側面を持ちつつも、ユニセフの活動自体は比較的中立且つ自立的に行われたことが指摘され、国際衛生事業は冷戦の直中にも、「ポジティブ・ヘルス」の実現に向けて小さな前進を続けていた、と結論づけられている。

「おわりに-国際政治のなかの国際衛生事業」は、これまでの議論を要約しつつ、冷戦終焉後における「ポジティブ・ヘルス」への関心の再度の高まりを指摘して、本論文の現代的意義を述べている。

以上が提出論文の要旨であるが、本論文は次のような点で評価することができる。第一に、本論文は、国際連盟期における国際衛生事業の歴史的展開を包括的かつ実証的に研究した邦語文献としては、初めての試みであることがあげられる。国際連盟研究が、「連盟はなぜ失敗したのか」から「連盟は何をなしとげたのか」に移行してきたことは著者の指摘する通りであるが、国際衛生行政について提出論文のような密度で掘り下げた研究は、これまで日本国内では存在しなかった。この意味で、国際連盟保健機関から、国際連合における世界保健機関、ユニセフへ到るまでの歴史的経緯を丹念に検証した本論文は、近年関心がとみに高まっている国際連盟の社会政策に関する研究のひとつの事例研究として、今後たえず参照されるものになることであろう。また本論文は、国際衛生行政という分野に即したグローバル・ガヴァナンスの歴史的研究としても読むことができ、広くグローバル・ガヴァナンスに関心を有する研究者にも刺激を与えるものである。

第二の長所として、本論文では、連盟の国際衛生事業を担ったテクノクラート達の思想と行動について、一次史料に基づいた丹念な検証がなされていることが挙げられる。ジュネーヴの国際連盟文書館やパリのパストゥール研究所文書館の未公刊史料を渉猟しながら、著者は、ライヒマン、ゴチエ、ビローといった国際衛生行政のテクノクラート達の軌跡を再構成した。これらの人物は従来ほとんど言及されないか、言及されても、特定の争点に即して触れられるにとどまり、本論文のように、体系的に彼らの活動を検証したものはほとんどなかったといえる。本論文によって、機能的分野における国際協調の担い手について、より陰影に富んだ理解が可能になった点は、評価できよう。

第三に、本論文は、「ポジティブ・ヘルス」という概念を導入することで、国際連盟期の経験と反省がどのように国際連合に継承されたのか、という視野の広い問題設定を、国際連盟の社会政策研究に与えた点が評価される。このことにより本論文は、国際衛生行政という特定分野を扱いながら、国際連盟から国際連合への継承関係、とりわけ経済・社会政策分野における継承関係について、さまざまな問いを引き出し得る興味深いものになっている。

他方、本論文にも弱点といえる箇所がないわけではない。第一に、本論文は、国際連盟期には国際政治の動向によって翻弄された国際衛生行政が、テクノクラート達の巧みな戦術により、次第に自立性・中立性を獲得する側面を高く評価するという筋書きを描いているが、「ポジティブ・ヘルス」のような包括的な概念が、このような「行政」の「政治」からの自立性・中立性のみによって実現し得るのかは、少なくとも論理的には疑問が残るのではないか。人間の健康を経済・社会の広い文脈のなかで定位すれば、再度、「政治」による「行政」への介入が要請される、というやや逆説的な問題が、そこにはあるように思われる。その意味で、本論文における「政治」と「行政」の比較的静的な二分法は、より動態的に捉え直す必要があるのではないだろうか。

第二に、本論文では国際衛生行政の担い手としてテクノクラートの活動が重視されているが、一口にテクノクラートといっても、狭義の衛生行政にのみ関わった人々だけではなく、経済政策・労働問題など社会政策全体に関わった人々がそこにはいた筈である。テクノクラートも一枚岩の集団ではなく、専門分野の違いや、現業部門と政策統括部門の違いなどによって、衛生事業の位置づけ方にも微妙な差異が生じてくることを、より腑分けして論じたほうがよかったかもしれない。

しかしながら、これらの点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。総じて、本論文は、国際連盟期の国際衛生事業の歴史展開を実証的に扱った邦語文献としては初めてといってよい本格的研究であり、学界に対して多大な貢献をしたものと認めることができる。以上の点から審査委員会は、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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