学位論文要旨



No 127466
著者(漢字) 金,鐘訓
著者(英字)
著者(カナ) キム,ジョンフン
標題(和) 生物の知覚能力に基づいた空気質評価法に関する研究
標題(洋)
報告番号 127466
報告番号 甲27466
学位授与日 2011.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7552号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加藤,信介
 東京大学 教授 坂本,慎一
 東京大学 教授 立間,徹
 東京大学 教授 大岡,龍三
 東京大学 准教授 前,真之
内容要旨 要旨を表示する

1980年代より欧米を中心にして室内環境の悪化による在室者の健康被害(シックビルディング症候群)が話題となった。国内でも、1996年頃より建材から放散する様々な揮発性有機化合物が居住者の健康に悪影響を与える(シックハウス症候群)ことが問題となり、それに対する研究および対策が行われてきた。現在は様々な化学物質に対する室内空気中の濃度測定標準試験法および濃度基準値の制定によって、ある一定の室内空気質の改善が得られた。化学物質の空気中濃度を測定するためにはHPLC(High performance liquid chromatography)やGC/MS(Gas Chromatograph/ Mass spectrometry)などの高度な化学分析装置が主に利用されているものの、検出器の検知値の限界や未知の物質に対する定量の不可能などの問題点が存在する。

一方、シックハウス問題を契機に、より快適な室内環境づくりに関する人々の関心が一層高まる中、室内で発生する可能性のあるにおいに対する消臭方法が脚光を浴びっている。居住者の健康に被害がなくても、においの影響によって居住者が不快と感じる環境は望ましくない。建築環境分野では、こういう人間の感覚(Sensation)により知覚(Perception)される空気質を知覚空気質(Perceived Air Quality、PAQ)という。一般ににおいは様々なにおい物質が混合された複合臭である。化学分析装置(例:におい識別装置、においセンサー)はこのにおい物質の相互作用によるにおい質の変化を評価できない弱点を持っている。また、化学分析装置は前述したように検知値の限界という問題点を持っている。そのため、知覚空気質を決める一つの要素であるにおいの評価には化学分析装置を用いるのは相応しくない。

なお、シックハウスの一つの原因として人体が知覚できない程度の低い化学物質濃度による長時間曝露が挙げられている。特に幼児や児童は成人に比べ化学物質の影響を受けやすいため、その低濃度である化学物質を検知し、健康への影響を評価する必要がある。前述した化学分析装置を用いた測定手法は、未知の化学物質に対する濃度を求めることが困難であり、ある化学物質に対しては濃度が求められたとしてもその値から健康影響の程度を予測することは容易ではない。また、高度な化学分析装置を用い、長時間に渡って空気質の汚染程度を監視するには費用や手間が掛かる問題点がある。

生物は、嗅覚、視覚、聴覚、触覚、味覚、皮膚感覚、平行感覚などの感覚により常に外界からの物理刺激を受け入れている。更に、受け入れられた感覚に本能や過去の記憶、経験、思考や知識などが影響を与えることによって、生物は外界環境を知覚することができる。すなわち自分の周囲環境変化を総合的に認知する(Cognition)ことが可能となる。従って、生物の知覚能力に基づいた環境評価を行うことは、分析装置の検出器やセンサーを用いた測定に比べある環境における具体的あるいは総合的な生物応答を知ることが可能になると期待される。

そこで、本論文は、室内空気質を向上することを最終目的とし、生物の知覚能力を用いた空気質の評価方法を検討した。

本論文は以下のように構成される。

第1章では、本論文の研究背景として、室内空気質の評価に主に利用されている従来の高度な化学分析装置のみでは、においと長時間曝露により健康影響を与える低濃度化学物質に対して評価するのが容易ではないことに着目し、生物の知覚能力を用いた評価方法を模索するという本研究の目的を述べた。

第2章では、においの評価に適していると考えられる人間の嗅覚の特性、従来のにおい評価尺度および評価法について概説した。なお、人間の感覚により評価される知覚空気質に影響を与える可能性の高い建材臭を評価対象においとした上に、現在審議中であるISO 16000-28案の建材臭評価標準試験法の内容と建材臭評価法における日本の現状を調べることによって人間の嗅覚による建材臭評価法の必要性を強調した。

第3章では、ISO 16000-28案に基づき、知覚臭気強度を求めるために必要とされる放散試験用小型チャンバーと参照ガスサンプルの調整方法について検討を行った。検討結果より、放散試験用小型チャンバーの種類の違いによる臭気レベルへの影響は少ないことと製作したアセトン混合ガス希釈・提示装置による参照ガスサンプルの調整が可能であることを示した。さらに、検討したアセトン混合ガス希釈・提示装置を用いたパネル訓練法の検討を行い、臭気強度の数値化(知覚臭気強度に表す)が可能であることを示した。

第4章では、ISO試験法による臭気測定法と国内の臭気測定法を用いてヒノキ、スギ、合板、畳、PVC材などの5種類の建材に対する臭気評価を行い、建材臭の強さおよび質を数値化した。さらに、ISO試験法により得られた知覚臭気強度と国内の三点比較式臭袋法や6段階臭気強度表示法により得られた臭気濃度と臭気強度の中での相関関係を明らかにした。

第5章では、長時間曝露により健康影響を与える低濃度化学物質に対する評価を行うために、マイクロバブルによる空気中化学物質の水への溶解と多様な有害物質に反応を示すメダカをバイオセンサーとして組み合わせたシステムを提案した。また、室内空気中の代表的な化学物質であるホルムアルデヒドを対象として、気中のホルムアルデヒドの水への溶解量を測定し、さらにホルムアルデヒドに対するメダカの異常行動の分析実験を行った結果を示した。その結果、気中のホルムアルデヒド濃度の検出手法として今回検討したシステムは有用であることが確認された。

第6章では、代表的な化学物質であるホルムアルデヒドとトルエンをはじめ、蒸散性の高い農薬であるジクロルボスを対象化学物質とし、メダカへの影響が少ないと予想される溶剤や界面活性剤を用いてそれらの溶解量を増加させる事が可能であるかどうかを検討した。その結果、ホルムアルデヒド、トルエン、ジクロルボスともに、水への溶解度に比べ極めて低い濃度で平衡に達することが確認された。なお、ジクロルボスを取り上げ、マイクロバブルの発生方法、具体的には、超高速旋回式と加圧溶解式の違いによる溶解量を検討した。その結果、超高速旋回式に比べ加圧溶解式のマイクロバブル発生装置を用いた場合、溶解量を大きく増加させることが確認された。

第7章では、メダカを用いたバイオセンサーの様々な有害化学物質に対した検知範囲の拡大のために、有機農薬の一種類であるジクロルボスと室内有害物質であるホルムアルデヒドやトルエンに対するメダカの応答を検討した。その結果、移動距離、鼻上げ角度、水面滞在時間、底面滞在時間の中、移動距離を用いてメダカの応答による有害物質の健康への影響を評価することが望ましいと考えられる。

第8章では、全体のまとめを行い、本研究の成果と今後の課題を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「生物の知覚能力に基づいた空気質評価法に関する研究」と題して生物の知覚能力を用い、高度な化学分析装置のみでは評価の難しいにおいの数値化と長時間曝露により健康影響を与える低濃度化学物質の検知方法について検討したものである。

室内空気中の化学物質の濃度を測定するためには、主に高度な化学分析装置が利用されているものの、検出器の検知値の限界、人間により知覚される空気質に対する測定や未知の化学物質に対する濃度を求めることが困難であり、ある化学物質に対しては濃度が求められたとしてもその値から健康影響の程度を予測することは容易ではない。また、高度な化学分析装置を用い、長時間に渡って空気質の汚染程度を監視するには費用や手間が掛かる問題点がある。

生物は、嗅覚、視覚、聴覚、触覚、味覚、皮膚感覚、平行感覚などの感覚により常に外界からの物理刺激を受け入れている。更に、受け入れられた感覚に本能や過去の記憶、経験、思考や知識などが影響を与えることによって、生物は外界環境を知覚することができる。すなわち自分の周囲環境変化を総合的に認知することが可能となる。従って、生物の知覚能力に基づいた環境評価は、分析装置の検出器やセンサーを用いた測定に比べある環境における具体的あるいは総合的な生物応答を知ることが可能になると期待される。

そこで、本研究では、生物の優れた知覚能力を用い、高度な化学分析装置のみでは評価の難しい(1)においの数値化と(2)長時間曝露により健康影響を与える低濃度化学物質の検知方法を評価している。

(1)については、室内知覚空気質に影響を与えると知られている建材臭を対象とし、人間の嗅覚を用いた定量的評価手法を検討している。まず、においを感じる人間の嗅覚の特性、においの評価尺度、嗅覚測定法を概説した上に、現在審議中であるISO 16000-28案の建材臭評価標準試験案の内容とともに建材臭評価法における日本の現状を明らかにし、人間の嗅覚による建材臭評価法の必要性を強調している。なお、ISO 16000-28案に基づき、ISO案の評価尺度である知覚強度を求める方法をパネル訓練および嗅覚評価により検討している。その上に、代表性のある5種類の建材に対し知覚強度を確認している。更に、国内悪臭防止法の評価尺度である6段階臭気強度と臭気濃度を用いた測定を行い、知覚強度と6段階臭気強度と臭気濃度との相関を明らかにしている。

(2)については、室内の代表的な人体に健康影響が懸念される化学物質であるホルムアルデヒドとトルエン、屋外の空中に散布されて窓や換気口を通して室内に流れ込むことを想定した農薬(ジクロルボス)を対象化学物質としている。健康影響物質が対象となるため、倫理上人体を用いることはあり得ない。ここでは、既に水質検査用センサーとして活用されているメダカを用い、室内空気中の低濃度の化学物質を水に溶かし、その際に観察されるメダカの行動変動から空気汚染程度を見つけることを検討している。まず、各対象化学物質に対する水中への溶解量を調べる実験によって、各対象化学物質の水中への濃縮量を確認している。検討の結果、導入された物質の多くは十分な接触機会を得ないまま水面から放出され、各対象化学物質の水中への溶解度に比べ極めて低い濃度で平衡に達したものの、有機溶剤の添加、マイクロバブル発生装置の改善により、濃縮量を増加させることが確認されている。なお、水中に濃縮された化学物質に曝露された際のメダカの異常行動を検討する実験によって、各対象化学物質は、メダカの行動変化(移動距離、鼻上げ角度、水面滞在時間、底面滞在時間)に影響を与えることが確認されている。

(1)の検討により、国内悪臭防止法の評価尺度を用いた嗅覚測定結果からISO案の知覚強度を予測することができ、知覚強度を求めるために必要とされる訓練時間や手間を省くことが期待される。なお、人間の嗅覚による建材臭評価法は、建材開発、居住環境における知覚空気質の評価、建材臭低減効果の評価などで応用されると予想される。さらに、評価法に沿った建材等級付によりにおい物質の低い建材の使用が優先されることで、知覚空気質の向上と共により快適な室内環境作りに貢献すると期待される。なお、(2)の検討により、維持管理の容易な水中生物の持つ優れた物質認識機能を利用して気中に含まれる物質の危険性を検知することができる一方、従来の機器分析に比べ精度の低いものとなることが予想される。そのため、完全に機器分析にとって変わるものではなく、機器分析の弱点を補うものとしての実用化も期待される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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