学位論文要旨



No 127508
著者(漢字) 岩田,晋弥
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,シンヤ
標題(和) 極低温における単層カーボンナノチューブへの分子吸着に関する研究
標題(洋)
報告番号 127508
報告番号 甲27508
学位授与日 2011.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7594号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福谷,克之
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 丸山,茂夫
 東京大学 教授 吉信,淳
内容要旨 要旨を表示する

1.背景

単層カーボンナノチューブ ( Single Walled Carbon Nanotubes,SWCNTs )はグラフェンを円筒状にした物質である.SWCNTsは一般的にバンドルを形成し特徴的な構造を持ち,分子を吸着させたときに吸着しやすいサイトとして,グルーブサイト,チューブ外側,チューブ内側及びバンドル間がある.そこでの分子の吸着・凝集・脱離などの現象は,平坦な表面とは異なり未解明な点が多い.例えば,曲率のある面では平坦な面と比較して吸着エネルギーが変化することが理論的に予想されている.またグルーブ,チューブ内側及びバンドル間などの1次元的な空間内において,双極子・四極子相互作用の働く分子がどのような配列をし,相転移を示すのかは興味深い.しかし,試料の純度や極低温において分子の吸着・脱離を精度よく実施することに課題があったため,それらを明確に示す実験結果はほとんど報告されていなかった.

このような背景を踏まえ,SWCNTsへの分子吸着について以下の3点を目的として研究を行なった.(1) SWCNTsに吸着した水素分子,窒素分子及び一酸化炭素分子の脱離活性化エネルギーを昇温脱離スペクトルから求める.(2) 分子吸着サイトを特定し,そこでの脱離活性化エネルギーの変化を定量的に調べる.(3) SWCNTsの1次元的な空間内での一酸化炭素分子の配列状態を明らかにする.

2.実験

試料であるSWCNTsはアーク放電法で合成し,その後の塩酸処理及び真空中加熱によって,残留触媒やアモルファス物質を除去した.合成後のSWCNTsは,熱重量分析及び高周波誘導結合プラズマ発光分光により評価したところ,質量比収率は95%以上であり,高純度の試料合成に成功した.また,合成後の試料に酸化処理を施すことで,SWCNTsに欠陥を意図的に生じさせることができる.その効果をラマン散乱分光法及び透過型電子顕微鏡 (Transmission Electron Microscope,TEM ) で評価した.ラマン散乱分光では酸化処理の有無によってG/D比がほとんど変化しなかったが,TEM像では酸化処理前後のSWCNTsを比較すると,欠陥による変化が生じることを見出した.

ファンデルワールス力を主として相互作用する分子系を調べるために,図1に示す超高真空極低温熱脱離分光・赤外吸収分光装置を開発した.この装置は上段に四重極質量分析器を,下段にマイケルソン干渉計フーリエ変換型赤外分光装置を設置しており,2×10-8 Paの真空槽において10 Kから500 Kの温度領域で,任意のガスに対して測定が可能である.

3.結果と考察

3-1.水素分子の吸着状態

SWCNTs試料における水素分子の熱脱離スペクトルの測定を行なった結果を図2に示す.酸化処理の無い試料(as-purified SWCNTs)の熱脱離スペクトルは,20 Kに1つの特徴的なピークを示す.このピークは立ち上がりが急峻であり,通常の1次の熱脱離では説明できない.このピーク形状は,脱離速度を表す理論式において,前指数因子に温度依存性を持たせることで表すことができる.一方,酸化処理を施し欠陥を導入したSWCNTsは,20 K と27 Kの2つのピークを示すことを見いだした.さらに,重水素分子と水素分子の共吸着状態のTDSを測定することで,水素分子は分子状に物理吸着していることが明らかとなった.脱離ピークの温度に同位体効果が確認され,吸着の零点エネルギー差を0.6±0.24meVと求めた.熱脱離スペクトルに出現するピーク温度から1次の脱離を仮定して吸着エネルギーを算出すると,それぞれ51.6 meVと72.0 meVとなる.また,同様の実験を高配向熱分解黒鉛で行なったところ,吸着エネルギーは43.6 meVとなった.過去の理論計算の報告と比較し,水素分子はas-purified SWCNTsではグルーブサイト,また酸化処理SWCNTsでは,グルーブサイトに加えてチューブ内側とバンドル間に物理吸着していることが明らかになった.グルーブサイトやチューブ内では,水素分子は平坦面に比べて多くの炭素原子とファンデルワールス相互作用をするため,吸着エネルギーが大きくなったと理解できる.また,ラマン散乱分光ではG/D比がほとんど変化しないのに対し,熱脱離分光では明確な違いが観測されることを見いだし,この手法がSWCNTの欠陥に敏感な実験法であることを示した.

3-2.窒素分子と水素分子の共吸着

窒素分子は水素分子と比べると分子サイズが大きく,ファンデルワールス力も強い.吸着エネルギーの異なる分子を共吸着させるとサイト占有の競合が起こり,より明確に吸着サイトの情報を得ることができる.また窒素分子と水素分子のファンデルワールス 直径は,それぞれ0.42 nmと0.30 nmである.一方,バンドル間に内接する円の直径は,0.34 nmである.つまり,分子サイズから,水素分子はバンドル間に侵入することができるが,窒素分子は侵入することができないと予想される.窒素分子の熱脱離スペクトルを測定し,水素分子と同様に吸着サイトと吸着エネルギーを明らかにした.さらに,水素分子と窒素分子の共吸着状態の熱脱離スペクトルの測定を行なった.

図3は酸化処理SWCNTsに10 Kで窒素分子を吸着させた後に (a) 31K (b) 57 Kまでそれぞれ加熱し,再び10 Kで水素分子を吸着させたときの熱脱離スペクトルである.図3 (a) より窒素分子は30 Kと70 Kに,水素分子は30 Kにピークが出現することが分かった.窒素分子の70 Kのピークに相当する吸着エネルギーは193 meVであり,水素分子と同様に,平坦なカーボン面よりも吸着エネルギーが大きくなることが分かった.さらに,窒素分子と水素分子はチューブ内側に吸着していることが分かった.また.図3 (b) より,57 K まで加熱した場合は,窒素分子は70 Kに水素分子は20 Kにそれぞれピークが出現し,水素分子がグルーブサイトに窒素分子が内側サイトにそれぞれ吸着していることが確認された.

これらの結果は,吸着時における分子の拡散の効果を反映している.つまり,31 Kまで加熱した場合は,窒素分子の拡散が不十分なためチューブ内側にはまだ空きがありグルーブサイトは窒素分子で占有されている.そこに水素分子を暴露すると,グルーブサイトには吸着できず,チューブ内側の空いたサイトに吸着する.一方,57 Kまで加熱した場合は,加熱の過程で窒素分子は拡散してチューブ内側に吸着し,その後に水素分子を曝露すると空いているグルーブサイトに吸着することになることを示す.

3-3.一酸化炭素分子の吸着

一酸化炭素分子は電気双極子を持ち,1次元的な空間であるグルーブサイトやチューブ内側では双極子相互作用により配列することが期待される.分子の吸着状態での配向や分子間の配列を調べるため,熱脱離スペクトルと赤外吸収スペクトルを測定した.

酸化処理を施したSWCNTsからの一酸化炭素分子の熱脱離スペクトルでは,29 K,32 K,49 Kおよび64 Kに脱離ピークが出現することが分かった.それぞれ,多層吸着,チューブ外側,グルーブサイトおよびチューブ内側に吸着した一酸化炭素分子に由来する.

図4(a)は一酸化炭素分子を吸着させた後に36 Kまで加熱した後に,10 Kに冷却して測定した赤外吸収スペクトルである.2138.5 cm-1に吸収ピークが確認できる.これは,COの伸縮振動に対応しており,CO固体(α相)に特徴的なピークと類似している.また,2142cm-1にもピークが観測された.さらに,2200 cm-1付近には伸縮振動と格子振動のカップリングに起因する吸収が観測された.図4(b)は2138.5 cm-1のピークの拡大図であり,吸収ピークは非対称的な形状をしている.Voigt関数でピーク分離を行なったところ2138.5 cm-1と2139.5 cm-1に吸収ピークが存在することが分かった.

図4(c)は加熱温度を変化させたときの伸縮振動の吸収強度を熱脱離分光の強度と共に示したグラフである.41 Kまで加熱した場合は,一酸化炭素分子のチューブ内側への拡散が開始していると考えられる.吸着後の加熱温度が上昇するに従って,2138.5cm-1と2139.5cm-1の赤外吸収スペクトルの積分強度の比率が変化し、2138.5 cm-1のピークの比率が大きくなることが分かった.出現したピークはいずれも,気相の伸縮振動から低波数もしくは高波数側にシフトしていることから,シフトの大きさを振動シュタルク効果を用いて定量的に求め,SWCNTsの吸着サイトにおけるCOの配列モデルを求めた.

図1:実験装置の模式図.上段に四重極質量分析器,下段にフーリエ変換型赤外分光装置を配置し、試料はクライオヘッド先端にセットされ任意の高さに移動できる.

図2:SWCNTsに吸着した水素分子の熱脱離スペクトル.(a}as-purifiedSWCNTs(b}酸化処理SWCNTs.酸化処理によってチューブ内側及びバンドル間に由来するピークが出現する.(c}曝露量と脱離量の関係.

図3:酸化処理SWCNTsに吸着した水素分子(点線)及び窒素分子(実線)の熱脱離スペクトル.加熱温度(a)31K(b)57K.

図4:(a)酸化処理SWCNTsに吸着した一酸化炭素分子の赤外吸収スペクトル.(b)COの伸縮振動に起因する吸収スペクトルをVoigt関数で2つに分離した結果.(C)加熱温度を変化させたときの伸縮振動の赤外吸収強度と熱脱離スペクトルの強度の関係.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「極低温における単層カーボンナノチューブへの分子吸着に関する研究」と題し,カーボンナノチューブにおける分子吸着状態に関して論文提出者が行った研究の成果をまとめたものである.

論文は8章から成っている.

第1章は序論である.カーボン材料と分子吸着に関する研究背景を要約し,続いて本研究に着手する動機となった先行研究の紹介を行い,これを踏まえて研究の具体的な課題設定を行っている.

第2章では,カーボンナノチューブに関する基本的事項を述べている.カーボンナノチューブの種類や特性について述べた後,試料作製方法とナノチューブの酸化処理効果について述べている.

第3章は,「吸着」と題し,分子と表面の相互作用について,ファンデルワールス力や軌道混成など基本的概念について述べている.

第4章では,本研究で用いた実験手法の原理と装置について詳述している.振動モードを観測することで作製したカーボンナノチューブを評価するラマン散乱分光法,試料に吸着した分子の吸着状態を調べる昇温脱離分光と赤外吸収分光の基本原理を述べ,本研究において開発した実験装置に関して述べている.超高真空環境で不純物の影響を取り除き,極低温で物理吸着分子の熱脱離スペクトルと赤外吸収スペクトルが測定できることを示している.

第5章では試料の作製法について述べている.試料作製に用いたアーク放電法,さらに高純度試料を得るために行った化学処理,酸化処理,加熱処理について述べている.

第6章は,実験結果である.はじめに,合成した試料を種々の評価法で評価した結果をまとめている.ラマン散乱の測定結果から合成した試料の直径を解析し,透過電子顕微鏡による測定結果からカーボンナノチューブの長さを評価している.また透過電子顕微鏡像を詳しく解析することで,酸化処理によりナノチューブの壁面に乱れが生じることを述べている.続いて,昇温脱離スペクトルと赤外吸収スペクトルの測定結果を詳述している.酸化処理を行っていない試料に,水素分子を吸着させ昇温脱離スペクトルを測定したところ,約20Kに単一の脱離ピークを示すことを見いだした.これに対して酸化処理を施した試料で同様の測定をすると,20Kの脱離ピークが拡幅化し27Kに新たな脱離ピークが出現することを見いだした.また,水素分子と重水素分子を順番をかえて試料に共吸着させた実験を行い,昇温脱離スペクトルは吸着順序によらず同じ形状を示すことを見いだしている.同様の実験を窒素分子について行い,水素分子の20Kと27Kに対応して,46Kと58Kに脱離ピークが現れることを見いだした.さらに,窒素分子吸着後に水素分子を吸着させる共吸着実験を行っている.水素分子を吸着させる前の試料処理温度を変化させると,窒素分子の脱離温度は変化しないのに対して,水素分子の脱離温度は低温側にシフトすることを見いだした.最後に一酸化炭素分子吸着について,昇温脱離スペクトルと赤外吸収スペクトルの同時測定の結果を示している.赤外吸収スペクトルには,分子内伸縮振動に由来する吸収ピークに加えて,伸縮振動と分子重心振動との結合モードが現れることを見いだしている.

第7章では,実験結果に基づき,分子の吸着状態について考察を行っている.酸化処理によって,カーボンナノチューブ壁面に欠陥が導入されていると議論し,これに基づき熱脱離スペクトルの解釈を行っている.酸化処理を施していない試料で観測された脱離ピークはカーボンナノチューブバンドルのグルーブサイトへの吸着に対応し,酸化処理によって現れた高温側の脱離ピークはナノチューブ内部またはバンドル間への吸着に対応すると結論している.脱離スペクトルの解析によりこれらのサイトでの分子吸着エネルギーを見積もり,過去に行われている理論研究の結果と比較し議論している.また,水素分子の昇温脱離スペクトルにおける同位体効果を,質量差に起因する零点振動の違いで解析し,吸着ポテンシャル中での振動エネルギーを評価している.一方,水素分子と窒素分子の共吸着実験の結果を考察し,吸着エネルギーの大きな窒素分子が水素分子の吸着を阻害するサイトブロッキングが生じると議論している.特に処理温度の違いに見られた実験結果を,窒素分子のチューブ内部への拡散により解釈した.一酸化炭素分子について,赤外吸収スペクトルに観測された伸縮振動の振動数を振動シュタルク効果に基づき解析し,ナノチューブにおける分子の配列構造を議論し,グルーブサイトでの1次元的な分子配列構造の提案を行っている.

第8章は,本研究の結論であり,結果の要約とそこから得られた知見が述べられている.

以上を要約すると,論文提出者は,高純度の単層カーボンナノチューブを合成し,極低温昇温脱離法と赤外吸収分光法によりカーボンナノチューブへの分子吸着を実験的に調べることで,分子の吸着位置と脱離温度を明らかにし,分子配列に関する新たな知見を得た.これらの成果は物理工学として顕著な寄与があったと評価できる.よって,本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる.

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