学位論文要旨



No 127509
著者(漢字) 杉本,敏樹
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,トシキ
標題(和) アモルファス氷表面における水素分子の核スピン転換
標題(洋)
報告番号 127509
報告番号 甲27509
学位授与日 2011.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7595号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福谷,克之
 東京大学 教授 押山,淳
 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 准教授 井上,慎
 東京大学 教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

水素分子は核スピン1/2を持つ2個の陽子から成り、合成核スピンI=1の状態をオルト水素、I=0の状態をパラ水素と呼ぶ。同種原子核交換に対する波動関数の反対称性から、パラ水素は分子回転量子数J=even、オルト水素はJ=oddをとる。これらの核スピン異性体(オルト-パラ)間の転換は気相の孤立系では禁制であるが、磁性体や金属の表面吸着相においては転換が促進される。固体表面-吸着子間の相互作用を研究する基礎的重要性、及び水素の液化貯蔵の際にはパラ水素化が必須であるという工業的要請から、オルト-パラ(O-P)転換触媒に関する研究が精力的に行われてきた。現在の物理モデルにおいて、磁性体表面上での転換は表面不均一磁場による磁気双極子相互作用、金属表面上での転換は表面電子系との電子交換を介したフェルミ接触相互作用によって説明されている。

一方、水素は宇宙の星間分子雲において最も豊富な分子種である。この分子雲中で、アモルファス氷(ASW)は星間塵を覆う主要な固体物質である。近年、分子雲中でのオルト/パラ異性体比から求まる水素の核スピン温度と回転温度の不一致が赤外観測によって多数報告されている。水素のO-P転換は気相の孤立系では起こらないため、これらの天文観測結果はASW表面上での水素のO-P転換を示唆していると考えられる。しかし、極低温の超高真空下でASWを再現し、その表面に吸着させた微量の水素分子のオルト/パラ比を測定する有効な実験手法が未確立であったことから、これまで定量的に転換時間の測定に成功した実験例はない。また、氷のような反磁性絶縁体の表面におけるO-P転換を説明する物理モデルも存在しない。したがって、ASW表面における水素分子のオルト-パラ転換は宇宙科学のみならず凝縮系物理学における未解決課題である。本研究では、実験で転換時間を定量的に解明し、さらに転換機構を説明しうる物理モデル(電場誘起核スピン転換)を提案する。

本研究では、水素分子のO-P転換を促進する酸素等の不純物を含まない氷試料を作成するべく超高真空装置を構築し、定量的に水分子線蒸着を行なうためのガスドーザーの設計・開発を行なってきた。清浄Ag(111)表面に水分子が非解離吸着することを利用し、超高真空中でASW膜を作成する基板としてAg(111)表面を用いた。Ag(111)表面はアルゴンスパッタリング及び800 Kアニーリングによりクリーニングし、低速電子線回折(LEED)、及びオージェ電子分光法(AES)を用いて表面の構造と化学組成を評価した。LEEDパターンは面心立方結晶の(111)表面の3回対称性を反映した1 × 1パターンを示し、AESスペクトルは水分子の解離吸着を誘起する酸素等の不純物の無い清浄な銀表面のスペクトルを示した。次に、10 Kに冷却した清浄Ag(111)表面に分子線ドーザーを通じて水分子を吸着させ、四重極質量分析器(QMS)を用いて水分子(氷)の昇温脱離(TPD)スペクトルを測定した。150 K付近にピークを持つ0次のスペクトルが得られ、解離吸着した水分子の再結合脱離反応に由来する300 K近傍の脱離ピークは見られない。これより、Ag(111)表面で水分子が非解離で吸着・凝集していることが確かめられた。

次に、QMSを用いたTPDスペクトルの測定より、10 Kに冷却した30層相当の多孔質ASW表面に物理吸着したH2, D2, O2の脱離特性を明らかにした。H2(D2)のスペクトルは低被覆率の曝露量において25 Kにピークを持つ。曝露量が増すにつれピークは低温側にシフトし、10 Kから30 Kにかけてブロードな脱離スペクトルが得られた。これは、ASW表面には、水素結合ネットワークが不完全な2配位・3配位の水分子が多数存在し、種々の脱離活性化エネルギーをもつサイトが不均一に分布しているためである。TPDスペクトルの解析から、H2(D2)は10 Kの多孔質ASW表面において30~70 meVの脱離活性化エネルギーを持つサイトに物理吸着することを明らかにした。また、低被覆率の曝露量においてO2のTPDスペクトルは55 Kにピークを持つ。このことから、多孔質ASW表面に吸着したO2は55 Kのアニーリングで除去可能であることを明らかにした。以下の、H2(D2)のO-P転換時間の測定実験では、この30層相当の多孔質ASWを事前に55 Kでアニールして氷試料として用いた。

水素分子を回転状態(O・P)別に分光するために、多光子共鳴イオン化法(REMPI)を立ち上げた。色素レーザーを用いた波長可変の光学系に凹凸レンズを組み合わせたテレスコープを組み込むことで、従来に比べ約10倍大きなイオン化効率を実現した。これによりREMPIは数分子に対して感度を持ち、装置内の~10-7 Pa雰囲気のH2(D2)をO・P別に高感度分光することが可能となり、REMPIをプローブに用いたH2(D2)のTPDスペクトルの測定に成功した。図1(a)に、10 KのASW表面へ10秒間H2を曝露し、その約25秒後に昇温速度1.8 K/sで35 Kまで氷を昇温させた結果を示す。横軸は実験の時間経過、縦軸はイオン信号強度である。時刻0秒付近に水素曝露中の装置内圧の上昇に起因するシグナルの立ち上がりが見られ、時刻40秒付近には昇温脱離に起因するシグナルの立ち上がりが見られる。このとき、J=1のオルト水素、J=0のパラ水素の脱離スペクトル強度は同程度である。図1(b)に、10秒間の水素曝露から約450秒後に昇温脱離させた場合のスペクトルを示す。約25秒後の脱離時に比べ、J=1は減少し、J=0は増加するスペクトルを得た。これは、ASW表面に吸着している間に、O-P転換が促進されていることを示している。D2O-ASW、H2O-ASWの表面に対してそれぞれにH2, D2分子を吸着させ、上記の測定によって得られたTPDスペクトル強度の時間変化を解析した結果、H2はD2O-ASW表面において時定数 秒、H2O-ASW表面において時定数 秒で転換することが明らかになった。D2はD2O-ASW表面において時定数 秒、H2O-ASW表面において時定数 秒で転換することが明らかになった。H2、D2共にD2O氷とH2O氷の表面の場合で転換時間に有意な差は現れなかった。

O-P転換が促進されるためには、電子基底X 1Σg+状態のオルト水素とパラ水素間の波動関数の直交性を破る摂動が必要である。水素分子は氷表面において双極子が誘起されて赤外活性となることから、表面-吸着子間の相互作用として表面の(不均一)電場が重要な寄与をしていると考えられる。考察の結果、D2分子は氷表面の電場勾配との核四重極結合(NQC)によって転換していることが明らかになった。しかし、核四重極能率を持たないH2の転換は、既存の物理モデルで説明できない。そこで不均一電場下の水素分子の電子状態を摂動論で考察したところ、不均一電場による電子状態混合によって分子内に磁気相互作用が誘起され、その結果X 1Σg+状態のO-P間の直交性が破れて転換が起こることを見出した。この電場誘起核スピン転換モデルでは、分子内フェルミ接触結合(Intramolecular Fermi contact coupling: IFCC)、スピン軌道結合(spin-orbit coupling: SOC)、シュタルク結合(Stark coupling: SC)の3つの効果で状態混合が誘起される。図2に、その状態混合経路の一つを示す。

気相の孤立状態において、IFCCにより1Σu+-3Σg+ 間でO-P状態混合(電子・核スピンの同時singlet-triplet状態混合, 'I=1,Iz=0 ⇔ I=0', かつ'S=1,Sz=0 ⇔ S=0')が発現する。電子波動関数・振動波動関数を再現し、 間のIFCC係数を計算したところ、IFCC係数は振動準位間のエネルギーマッチングに大きく依存し、D2に比べてH2の方が2桁大きく10-5でO-P状態混合が発現することを見出した。フェルミ接触相互作用は電子スピン-核スピン間の相互作用であるが、核の磁気モーメント差に加えて核の質量差に起因した同位体効果が大きく寄与することを明らかにした。

分子軸方向の角運動量 が1より大きい電子状態では、SOCによって電子スピン異重項混合が発現する。通常、核電荷の小さな水素分子においてSOCは無視される。しかし本研究では、主量子数nや軌道量子数l の大きなリュードベリ状態において、水素分子のSOC係数が弱電子相関効果で10-2程度にまで増大されることを見出した。さらに外部からの不均一電場に誘起されるスピン軌道相互作用のハミルトニアンを定式化し、~1021 V/m2の不均一強電場の下で、弱電子相関系( )のSOCが増強されることを明らかにした。

表面電場によるSCでこれらの状態間が補完されることによって、X 1Σg+状態のO-P間における波動関数の直交性が破れる。この電場誘起転換モデルを多孔質ASW表面上のH2の転換結果に適用した場合、氷表面の不均一電場として~1011 V/mの強度、~1021 V/m2の勾配を仮定することで実験結果を説明できることが明らかになった。

本研究の実験結果・理論的考察から、NH3やNaCl, CaF2, Al2O3, TiO2等の従来転換に寄与しないと考えられていた閉殻の極性分子・イオン性固体の表面も、表面電場の効果で水素分子のO-P転換触媒として寄与する可能性が示唆される。また、本研究で理論的に提唱した外部電場によるSOCの増強モデルは、今後のスピントロニクスの発展にも寄与しうる基礎的なアイデアである。

図1: 10 Kの多孔質ASW(H2O)表面にH2を10秒間曝露し(0.2 L)、(a)曝露停止から約25秒後、(b)約450秒後に1.8 K/sで35 Kまで昇温した場合のJ=0及びJ=1の脱離スペクトル。横軸は実験の時間。ガス導入中の雰囲気の圧力は1.8×10-7 Pa、導入停止後の待機時の圧力は3×10(-8) Pa。REMPIレーザーの強度は~400 μJ/pulse。

図2: 不均一(強)電場下で可能となるX 1Σg+のオルト-パラ状態混合経路の一つ。状態混合は、分子内フェルミ接触結合(IFCC)、シュタルク結合(SC)・増強スピン軌道結合(ESOC)の3つの寄与で誘起される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「アモルファス氷表面における水素分子の核スピン転換」と題し,非磁性絶縁体である氷表面での,水素分子のオルトーパラ転換に関して論文提出者が行った研究の成果をまとめたものである.

論文は8章から成っている.

第1章は序論である.水素全般に関する研究背景を述べた後,本研究の主題である水素分子のオルトーパラ転換過程とアモルファス氷に関して,宇宙科学的な観点にも言及しながら歴史的な経緯を要約し,これを踏まえて研究の具体的な課題設定を行っている.

第2章では,「水素分子と固体表面におけるオルトーパラ転換」と題し,水素分子の基本的性質特に核スピン異性体について概観した後,固体表面でのオルトーパラ転換の基本的な理論として,磁性体表面および反磁性金属表面での転換理論を紹介している.

第3章では,「アモルファス氷表面」と題し,アモルファス氷表面の構造と電子状態,さらに本研究で重要となる表面電場について,過去の理論的研究を中心に紹介している.単一の水分子から出発し,その凝縮系である氷表面では,電気双極子が強め合う結果,不均一な強電場が存在することが述べられている.続いて,本研究での主題である水素分子と氷表面との相互作用について,相互作用ポテンシャル,ポテンシャルの異方性,それらの不均一性について,詳述している.

第4章では本研究で用いた実験手法の原理について述べている.特に表面に吸着した分子の吸着状態を調べる手法として昇温脱離法,脱離した分子の核スピン状態を調べる手法として多光子共鳴イオン化法について,述べている.

第5章では実験装置と装置の性能を評価するために行った実験について述べている.試料作製に用いたAg単結晶基板の準備,試料冷却のために自ら開発したクライオスタットと試料ホルダー,アモルファス氷作製と水素分子吸着のために開発したガスドーザーに関して述べている.さらに,本研究の中心的役割を担う昇温脱離スペクトル測定と多光子共鳴イオン化スペクトル測定について詳述し,実験の再現性と測定精度を評価した予備的実験結果を述べている.

第6章は,実験結果である.はじめの課題は,試料の作製である.解離生成物や他の不純物がないアモルファス氷を準備するため,清浄なAg(111)表面を準備し,その上に10Kで水分子を蒸着することで60層のアモルファス氷を作製している.酸素分子が不純物として存在すると測定の妨げになるため,酸素分子の脱離温度を観測し,それに基づき加熱処理することで最終的に高純度のアモルファス氷試料を得られることを示している.この様にして得られた,清浄なAg表面とアモルファス氷表面に水素分子を吸着させ,昇温脱離スペクトルを測定し,Ag表面では18 Kにピークを示すのに対して,アモルファス氷では被覆率とともにピークが25 Kから17 Kへとシフトすることを見出している.昇温脱離スペクトルの解析から吸着エネルギーが,Ag表面では40 meV,アモルファス氷表面では30~70 meVであることを明らかにした.続いて,Ag表面およびアモルファス氷表面での水素分子のオルトーパラ転換時間の測定結果を述べている.試料表面にノーマル水素またはノーマル重水素を吸着させ,一定時間ののち多光子共鳴イオン化法を用いてオルト水素・パラ水素別に昇温脱離スペクトルを測定した.表面に吸着させる時間が長くなるにつれ,オルト水素の強度が減少することを示した.実験結果から減衰の時定数を解析することでオルトーパラ転換時間を求めている.その結果,転換の時定数はAg表面で710 s,アモルファス氷表面では410 sであることを明らかにした.アモルファス氷については,氷を重水素置換して同様の測定を行い,転換の時定数が誤差の範囲で変わらないことを見出している.また,重水素分子のオルトーパラ転換時間の測定を行い,転換時間が2140 sであることを明らかにした.さらに,オルト水素とパラ水素の昇温脱離スペクトルを解析し,両者には吸着エネルギーとして6 meVの差があることを示し,これが表面ポテンシャルの異方性に起因すると議論している.

第7章では,アモルファス氷表面におけるオルトーパラ転換機構の考察を行っている.2章で紹介した磁性体表面と反磁性金属表面での転換理論では,非磁性絶縁体であるアモルファス氷表面でのオルトーパラ転換を説明できないことに言及した後,D2分子については,表面不均一電場と重水素原子核との核四重極相互作用で核スピン転換が可能であり,実験で求めた転換時間を説明できることを示している.これに対して,核四重極モーメントを持たないH2分子のオルトーパラ転換は既存の概念では説明できないことを述べ,新たに電場誘起転換モデルの提案を行っている.提案モデルの骨子は,シュタルク効果による電子励起状態の混合,スピンー軌道相互作用による電子スピン3重項状態の混合,フェルミ接触相互作用による核スピン異重項間の結合,である.それぞれの相互作用における,電子スピン,核スピン,回転量子数,の選択則を導き,オルトーパラ転換が可能であることを示している.さらに励起状態での電子・振動波動関数を文献の値から構築することで,結合係数を半定量的に評価し,表面電場が~1011 V/mであれば,実験結果の転換時間を説明しうることを示している.

第8章は,本研究の結論であり,結果の要約と今後の展望が述べられている.

以上を要約すると,本研究は,アモルファス氷表面における水素分子のオルトーパラ転換時間を実験的に求め,転換の理論モデルの提案を行ったものであり,表面物理学・宇宙科学の進展に大きな寄与があったと評価できる.また,これらの研究成果は,水素をエネルギー媒体として利用する技術の基礎となるものであり,物理工学としての貢献が大きい.よって,本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク