学位論文要旨



No 127544
著者(漢字) 吉川,敬一
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,ケイイチ
標題(和) マウス生体組織で作られる嗅覚受容体リガンドの同定
標題(洋)
報告番号 127544
報告番号 甲27544
学位授与日 2011.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第724号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 教授 青木,不学
 東京大学 准教授 松本,直樹
 東京大学 教授 渡邉,秀典
 東京大学 教授 片岡,宏誌
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

脊椎動物の嗅覚受容体遺伝子は、ヒトやマウスにおいて全遺伝子数の2-3%を占める多重遺伝子群を形成し、七回膜貫通型のGタンパク質共役型受容体をコードしている。嗅覚受容体タンパク質は鼻腔内の嗅神経細胞に発現し、外界の揮発性物質を匂いとして受容する。これら嗅覚受容体を利用することで、生物個体は外界から食物の在り処、天敵や交配相手の存在などの情報を獲得している。一方で、一部の嗅覚受容体は、鼻以外の組織細胞でも発現しているという知見が蓄積されており、周囲の代謝系や内分泌系などの状態を反映する物質を感知している可能性が示唆されている。嗅覚受容体の役割を理解するためには、受容体が発現する組織レベルにおいて、どのような情報物質を識別しているのかを明らかにすることが不可欠である。近年、合成香料レパートリーを用いたリガンドスクリーニングが盛んに行われており、いくつかの嗅覚受容体についてリガンドとの対応付けが報告されている。しかし、自然条件下でどのような物質が嗅覚受容体のリガンドとして認識されているのかについては殆ど知見がなく、また、鼻以外の組織に発現する嗅覚受容体についても生体内の情報を担う内在性リガンドが同定された例はない。本研究では、鼻と卵細胞の双方で発現するマウス嗅覚受容体Aに着目し、それがそれぞれの組織においてどのような情報物質を認識しているのかを明らかにすることを目指した。

【本論】

1.生体組織からの嗅覚受容体のリガンドスクリーニング系の確立

嗅覚受容体Aは、当研究室でマウス卵細胞に発現することが明らかにされた。鼻以外の組織細胞にも発現しているということから、嗅覚受容体のリガンドはマウス生体内に存在していることが予想された。様々な化学物質が混在する生体組織からリガンドを効率よく探索するためには、リガンドと嗅覚受容体との結合を高感度に解析できるアッセイ系を確立することが不可欠である。一般的に受容体とリガンドとの結合を評価する方法には、リガンドに応答を示さない細胞に目的の受容体タンパク質を発現させ、リガンドの結合により引き起こされる細胞応答を測定する方法が用いられる。

本研究では、マウス組織抽出物に対してバックグラウンド応答を引き起こさなかったアフリカツメガエル卵母細胞を嗅覚受容体の発現系として選択した。この際に、嗅覚受容体と共に嗅覚系特異的Gタンパク質Gαolf、シャペロン因子RTP1S、および嚢胞性線維性膜貫通調節因子CFTRを発現させることで、嗅覚受容体とリガンドとの結合を、膜電流を指標として高感度に評価できることが明らかになった。

この測定条件を用いて、鼻と卵細胞の両方で発現するマウス嗅覚受容体嗅覚受容体Aについて、マウス組織中にリガンドが存在するかどうかを検証した。11種類のマウス組織についてメタノール抽出物を調整し、嗅覚受容体Aを発現させたアフリカツメガエル卵母細胞に対する活性の有無を調べた。その結果、胃、腎臓、雄の副生殖腺、心臓、および血液の5つの組織抽出物が嗅覚受容体A発現細胞に応答を引き起こすことが分かった。この結果は、嗅覚受容体Aのリガンドがマウス組織中に存在していることを示唆している。

2.包皮腺に存在する嗅覚受容体Aのリガンドの同定

嗅覚受容体Aに対して最も大きな活性を示した組織は雄マウスの副生殖腺であった。この副生殖腺抽出物(AG)は、雄マウスが有する4つの副生殖腺(前立腺、精嚢腺、凝固腺、包皮腺)の混合物であるが、そのうち活性物質が含まれているのは包皮腺であることが明らかになった。包皮腺は雄マウスの下腹部に位置する性特異的な外分泌腺である。包皮腺の役割に関する知見は少ないが、フェロモン物質を生合成し尿に分泌していると考えられている。このことより、包皮腺に存在するリガンドは雄マウスの尿に放出され、鼻の嗅覚受容体Aに作用している可能性が考えられた。

まず、包皮腺に含まれるリガンドの化学的性質を明らかにするために分画分子量3000での限外ろ過、および水-酢酸エチル間での溶媒分画を行った。その結果、リガンドは分子量3000以下であり、酢酸エチルに可溶な低分子有機化合物であることが示唆された。ODSカラムを用いたHPLCに供してリガンドの精製を行った結果、一つの活性画分を得た。この活性画分をガスクロマトグラフ質量分析計(GC-MS)により分析した結果、単一のピークが検出された。このピークについて構造解析することにより、最終的にリガンドAが同定された。

次に、リガンドAが包皮腺から外界にどのように分泌されているのかを明らかにするために、マウスの尿に含まれる揮発性成分をSPME(Solid phase micro extraction)を用いて固相抽出し、GC-MS分析に供した。その結果、リガンドAは雄の尿に存在することが明らかになった。この結果は、包皮腺より合成されるリガンドが尿を介して外界に放出され、他個体の鼻で発現している嗅覚受容体Aに受容されるという仮説を支持している。またリガンドAは、雌マウスや3週齢の雄マウスの尿からは検出されなかったことから、リガンドAは性成熟以降の雄の情報を担っている可能性が示唆された。すなわち、鼻で発現する嗅覚受容体Aの役割は、雄マウスの情報を識別することだと考えられる。

3.卵細胞の嗅覚受容体Aに対する内在性リガンドの同定

嗅覚受容体Aは卵細胞ではどのようなリガンドを感知しているのだろうか。リガンドアッセイでは、卵巣抽出物に対する嗅覚受容体A発現細胞の応答を評価することはできなかった。そこで、リガンドが大量に存在している他の組織から化学構造を決定し、それが卵巣にも存在しているかを高感度なGC-MS分析により検証するアプローチをとった。

まず、包皮腺より同定されたリガンドAは卵巣抽出物より検出されなかった。一方で、この物質は嗅覚受容体Aに対して応答を引き起こした包皮腺以外の組織(胃、腎臓、心臓、血)においても存在は確認できなかった。このことから、これらの組織にはリガンドA以外の物質が嗅覚受容体Aのリガンドとして存在していることが予想された。そこで、包皮腺以外で嗅覚受容体A発現細胞に活性を示した4つの組織よりリガンドを同定することを目指した。特に、腎臓由来のリガンドは、リガンドAと同様に分子量3000以下であり、酢酸エチルに可溶な低分子化合物であることが判明した。HPLC精製により得られた活性画分をGC-MS分析に供したところ、単一のピークが検出され、構造解析により活性物質はリガンドBであることが明らかになった。リガンドBが卵巣にも存在しているかをGC-MS分析により調べた結果、卵巣抽出物からリガンドBが検出された。この結果は、卵細胞に発現している嗅覚受容体Aが卵巣内でリガンドBを認識していることを示唆している。

当研究室において、体外培養している卵細胞に嗅覚受容体Aのリガンドを添加すると、卵細胞は卵核膜消失の開始時点を遅らせることが見出されている(中川弘瑛修士論文・平成22年)。この結果を踏まえると、卵細胞の嗅覚受容体Aは、リガンドBを感知することで第一減数分裂を再開させるタイミングを制御することに関与している可能性が考えられる。

【結論】

本研究では高感度なリガンドアッセイ系を確立し、嗅覚受容体のリガンドをマウス生体組織より同定した。同定した2つのリガンドは、実際に鼻もしくは卵細胞で発現している嗅覚受容体Aにそれぞれ作用しうるものであった。すなわち、リガンドAは雄特異的に尿に分泌され、雌など他個体の嗅覚受容体Aに受容されること、また、リガンドBは卵巣内で卵細胞膜上の嗅覚受容体Aに何らかの情報物質として認識されていることが示唆される。今後、今回同定したリガンドがマウス個体また卵細胞に対してどのような応答を引き起こすのかを明らかにすることで、嗅覚受容体の新規の機能を見出すことができると思われる。

そもそも自然界での匂い物質とは、様々な有機体の代謝活動より生合成され大気中に発散されたものである。特定の嗅覚受容体がどのような情報を認識するために分子進化してきたものであるのかを明らかにするために、共生する有機体の代謝産物よりリガンド探索を行うことは重要なアプローチである。その試みにおいて、マウス生体組織抽出物からの活性評価とリガンド同定に初めて成功した本研究のリガンドアッセイ系は極めて有効な手法だといえる。また、1992年に嗅覚受容体が鼻以外の組織に発見されて以来、内在性リガンドの存在について疑問がもたれて続けてきた。本研究は卵細胞で発現する嗅覚受容体Aのリガンドをマウス卵巣内に見出したことにより、初めてその疑問に答えるものになることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では、鼻以外の組織に発現する嗅覚受容体について、生体内の情報を担う内在性リガンドを精製・構造決定することを目的としている。具体的には、鼻と卵細胞の双方で発現するマウス嗅覚受容体MOR286-3に着目し、それがそれぞれの組織においてどのような情報物質を認識しているのかを明らかにすることを目指した。本論文は、序章と実験方法から始まり、結果の章は、(1)組織よりリガンドスクリーニングが行える嗅覚受容体のリガンドアッセイ系の確立、(2)マウス生体内で作られる嗅覚受容体リガンドの同定、(3)卵細胞に発現するMOR286-3の内在性リガンドについて、(4)包皮腺より同定したリガンドtetradecen-1-olの生理的意義の検討、(5)MOR286-3のリガンド構造活性相関の解析、以上、5つの項目からなっている。

項目(1)では、多種多様な化学物質が混在する生体組織からリガンドを効率よく探索するために、リガンドと嗅覚受容体との結合を高感度に解析できるアッセイ系を確立している。様々な細胞をスクリーニングした結果、アフリカツメガエル卵母細胞が、マウス組織抽出物に対してバックグラウンド応答を引き起こさないことがわかった。そして、嗅覚受容体と共に嗅覚系特異的Gタンパク質Gαolf、シャペロン因子、および嚢胞性線維性膜貫通調節因子を共発現させることによって、嗅覚受容体とリガンドとの結合を、卵母細胞の膜電流変化を指標として高感度に評価できることが明らかになった。

項目(2)では、鼻と卵細胞の両方で発現するマウス嗅覚受容体MOR286-3について、マウス生体組織中に内在性リガンドの精製・構造決定を行った。様々なマウス組織についてメタノール抽出物を調整し、項目(1)で確立したアッセイ系を用いて活性の有無を検証したところ、胃、腎臓、雄の包皮腺、心臓、および血液の5つの組織抽出物がMOR286-3発現細胞に応答を引き起こすことが分かった。次に、包皮腺からメタノール抽出を行い、限外ろ過、溶媒分画、HPLC精製を経て、MOR286-3活性画分を得た。マススペクトルおよびジメチルジスルフィド誘導体化反応分析の結果、(Z)-5-tetradecen-1-olが同定された。(Z)-5-tetradecen-1-olが哺乳類にも存在することを見出したのは本研究が初めてである。次に、腎臓からメタノール抽出を行い、同様の精製過程を経て、MOR286-3活性画分の構造決定を行ったところ、nonanalが同定された。

項目(3)では、MOR286-3が発現する卵細胞の周辺に、項目(2)で同定したリガンドが存在するかを調べている。(Z)-5-tetradecen-1-ol は卵巣には検出されなかったが、NonanalはMOR286-3の活性閾値に近い量が卵巣に存在することがわかった。考察では、MOR286-3の機能について議論されている。

項目(4)では、包皮腺から同定した(Z)-5-tetradecen-1-olは、尿中に分泌されていることが示された。また、(Z)-5-tetradecen-1-olは、嗅上皮に電気応答を引き起こすことが示された。考察では、鼻に発現するMOR286-3が認識している可能性を議論している。

項目(5)では、MOR286-3の詳細な構造活性相関をおこなっている。MOR286-3は、分子表面に露出した水素結合受容基と、炭素数8-13に相当する分子の長さをもつ化合物を強く認識することがわかった。また、ラクトン骨格のような、リガンドの環状構造を受容する寛容さも持ち合わせていた。

以上、本研究ではバックグランド応答の少ない高感度な嗅覚受容体リガンドアッセイ系を確立し、鼻および卵巣で発現する嗅覚受容体のリガンドをマウス生体組織より同定した。鼻に発現する嗅覚受容体と匂いリガンドの対応付けは、主に合成香料を用いておこなわれてきているが、実際に生体組織で作られて分泌されて嗅覚受容体のリガンドとなる物質を見つけたのは今回の研究が初めてである。また、1992年に嗅覚受容体が鼻以外の組織に発見されて以来、内在性リガンドの存在および受容体の機能については明らかにされていなかったが、本研究は鼻以外に存在する嗅覚受容体の機能にせまる成果であり、学術的に意義深い。

本審査における論文提出者の口頭発表は、わかりやすく、明快に研究成果が説明された。審査の質疑で集中した点は、組織から物質を抽出する際に水溶性画分に着目していない点、同定した物質が実際に時間的空間的にどのように作られ嗅覚受容体のリガンドになりうるかという点であったが、論文提出者は適確に答えた。また、博士論文は、審査員全員の共通コメントとして、わかりやすく理路整然と説得力ある形で書かれているという評価があった。

以上の結果、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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