学位論文要旨



No 127557
著者(漢字) 後藤,美穂
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,ミホ
標題(和) 人工環境下における培養神経回路の形成と活動計測
標題(洋)
報告番号 127557
報告番号 甲27557
学位授与日 2011.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第737号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神保,泰彦
 東京大学 特任教授 杉浦,清了
 東京大学 教授 鳥居,徹
 東京大学 特任准教授 福崎,千穂
 東京大学 講師 小谷,潔
内容要旨 要旨を表示する

第1章では本研究の背景と目的について述べる.本研究では,神経ネットワークが発達する過程における神経ネットワーク構造の違いとネットワーク全体の活動の変化を調べることを目的としている.神経ネットワークの発達過程においては,ネットワーク構造が時期を追って変化することが知られている.そこで,はじめに神経回路が発達する過程で発生する自発活動を経時的に観測し,Avalancheの時間発展を解析することによりネットワーク構造の違いとネットワーク活動との関係性を調べた.Avalancheはin vitro系で広く観測されているが,経時変化を追って解析した報告はまだない.Avalancheの発生確率をAvalancheの規模(観測された電極数やバースト発火の継続時間など)に対して両対数グラフにプロットしたとき,Avalancheのグラフが指数則に従えば,その状態は臨界状態にあるということが知られている.ネットワークの状態が臨界状態にあるとき,神経発火は局所的な領域で消滅するだけであったり,全領域で発火する場合だけであったりするではなく,局所的なものから大域的な発火までほど良い情報伝達機能を持つネットワークとなると考えられる.したがって, Avalancheの確率分布の傾きや形状を経時的に追って解析することにより,ネットワークが如何にして臨界状態に達するか,またネットワークの成長ステージやそれらの間の遷移を検出する1つの指標となることが期待される.

さらに,より直接的に構造と活動の関係性を調べるためには,構造を制御した回路網を用いて活動を調べることが有用である.構造とネットワーク全体の活動との関係性について,構造を制御しない分散培養のネットワークと数個~100個程度の細胞クラスタが結合したネットワークでその活動の違いを報告した例(Idelson et al., 2010)や,脳内のネットワーク構造モデルからシミュレーションを行い,その結果クラスター同士がやり取りしているという報告(Izhikevich et al., 2004)がある.しかしながら,試料作製の難しさから細胞ネットワークレベルで実験を行い,活動の詳細を調べた例は少なく,構造が活動に与える影響について得られている知見はほとんどない.これに必要なパターニング技術は近年の著しい発達を遂げており,パターニング培養を行うことで実現できる.しかし,既存のパターニング技術はマスク作製やエッチングのためのリソグラフィ技術が必要となるため,作業する上で煩雑な面が多く,汎用性が低い.そこでまず,これを改良するためにマスク作製を必要としない簡便なパターニング技術の開発を行い,これを細胞外電位を多点同時に計測するMEA計測技術と組み合わせることにより,より簡便に様々な構造のネットワークにおける電気活動を計測し解析することができる.

第2章では,本研究で新たに開発した培養神経ネットワークのパターニング技術について述べる.培養下の神経ネットワークをパターニングする技術についてはこれまでにも様々な方法が開発されてきたが,これらは2種類の観点からのものに大別される.1つは,成長円錐の走化性に関する研究のように,生体内での神経ネットワークの形成プロセスを実験的に検証することを目的とする基礎生物学的観点からの研究であり,もう1つは,実験材料としてできるだけシンプルな神経ネットワークを得ること,さらに,その計測のために設計された電気計測デバイスと位置を合わせて神経ネットワークを作らせることを目的とする研究である.本研究はこれらのうちの後者に位置づけられるものである.

第3章では,第2章において筆者が提案したマイクロピペット描画法を用いて形成した培養神経回路網における電気活動計測を目的とする. 培養神経回路網に対する電気計測システムとしてここでは微小電極アレイ基板 (MEA; microelectrode array) 計測システムを用い,マイクロピペット描画法と組み合わせた実験系の構築及び電気活動計測を行った. MEA計測システムにおける細胞外電位計測では計測される電気活動の振幅やその精度が細胞-電極の位置関係や界面状態に大きく依存することが知られており (Stett et al, 1997),培養皿底面と培養神経回路網との間に細胞非接着性のアガロースゲル層を形成するマイクロピペット描画法においてはMEA計測システムによる電気活動計測が困難となる事態が予想される. これまでにもMEA計測システムとハイドロゲルを用いたパターニング手法とを組み合わせた実験例が報告されているが,これらの報告ではレーザー集束加熱 (Suzuki et al., 2004)や薬物処理 (Tamai et al, 2007)により電極付近のゲル層を除去することで細胞パターニングと細胞電気活動計測を実現しており,筆者の目指すパターニング基板作製プロセスとは逆行するものである. そこで本章では,MEA上おいてアガロースゲル層を介した神経細胞電気活動計測を可能とするためのマイクロピペット描画法の改良とアガロースゲル層膜厚の最適化を行い,また実際にゲル層を介して計測される電気活動が通常状態と同等のS/N比及び信号の特徴を得られることを確認した.

第4章では,神経ネットワークにおける電気活動の統計的解析について述べる.MEAを用いた神経ネットワークの電気活動計測において,一連の発火が同期,あるいは伝搬によって複数の電極に渡って見られることがあるが,その現象の示す統計則をNeuronal Avalancheと呼ぶ.1回のAvalancheに関与した電極数とその発生率を両対数グラフにプロットすると直線で表せる(Beggs, 2003).このことから,Neuronal Avalancheは指数則に則っており,伝搬係数がcritical pointになる値へ向かって自動的に調整される現象(Auto tuning)が起きていると考えられる.よって,発達過程においてNeuronal Avalancheの傾向推移を観測することにより,神経回路網の成熟度を推定することができる.培養神経細胞の活動を長期的にMEAによって解析することで,ネットワークの発達にともなう自己組織化臨界現象形成過程を詳細に解明することができると考えられる.しかしながら,従来の研究では成熟後の神経細胞ネットワークについて計測を行ったものが主流であり,長期的な変化を追った研究はない.そこで本研究では,インキュベータ内で長期間の神経活動を定期的に計測し神経雪崩の確率分布を両対数でプロットした後に,その傾き(臨界指数)とR2値によって臨界現象の特性を評価した.

第5章では,本研究の結論と今後の課題について述べる.本研究でははじめに,神経ネットワークの構造と活動の関係性を調べるため新規の簡便な細胞パターニング技術である「マイクロピペット描画法」の開発を行った.この手法は,特別な微細加工機器設備を使用せずに,標準的な生理学研究室の実験設備だけを用いて培養神経ネットワークのパターニングが可能であり,基板の光学特性や材料の化学特性によらず幅広い基板・材料への適用が可能であると考えられる.本技術の加工特性と細胞パターニング性能を評価した結果について述べた.

次に,上で述べたパターニング手法をMEAを用いた細胞外電位の多点同時計測と組み合わせることにより,様々な構造のネットワークにおける電気活動を計測し解析することを目指した.まずアガロースゲル層上に形成したマイクロパターン培養神経回路網からの電気活動計測が可能であるか検討し,5 μm程度の厚さのアガロースゲル層であれば細胞外電気記録においても神経細胞活動を安定的に取得できることを確認した.

さらに,神経ネットワークが発達する過程における神経ネットワーク構造の違いとネットワーク全体の活動の変化を調べることを目的として,自己組織化臨界現象の指標の1つであるAvalanche現象に着目してその時間発展を解析した.培養日数ごとにAvalancheの発生確率を発火電極数に対してプロットし,両対数プロットのR2値と傾きを評価した.その結果以下の点が明らかになった.まず,培養初期段階では確率分布はべき型を示さず,ネットワークは臨界状態には至っていないことが分かった.特に,この時期のグラフの形状は,Pasqualeらが発火時刻をランダム化して得たAvalanche確率分布に良く似ているため,初期状態では局所的な発火に留まり遠くへ広がるようなネットワーク経路はまだ出来上がっていないことが推測された.培養時期の経過とともに指数の値や分布の形状がどのように変化するかについて示せたことは,今後のネットワーク構造とネットワーク機能の関係性の解明の大きな手掛かりとなるため有用な結果を得たと言える.これらの知見は従来から知られている抑制性神経細胞の発現,アストロサイトによるカルシウムウェーブの発生などの時期と一致しているため,これらの現象が自己組織化臨界現象形成に大きく影響を与えていることが示されたと言える.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章では研究背景並びに関連分野の動向に関する考察に基づき、目的と具体的な課題が提示されている。すなわち、脳神経系における情報表現・処理の観点から最近報告された神経雪崩(Neuronal Avalanche)現象に焦点を当て,そのメカニズムに関して、特にマイクロ加工技術を積極的に利用する立場から研究することが本研究の立場であり、(1)シンプルな構造を持つ神経回路を人工的に形成する手法の開発、(2)発生・発達過程におけるNeuronal Avalanche現象の追跡、(3)Neuronal Avalanche現象の神経回路構造依存性に関する知見を得ることを目的として設定している。

第2章では、シンプルな構造を持つ神経回路を人工的に形成する手法につき記述している。"神経突起の成長方向制御"は神経細胞が標的組織を認識するメカニズムの視点から30年以上の研究の歴史があり、これまでに様々な手法が提案されてきた。フォトリソグラフィを利用する基板表面の構造制御、マイクロコンタクトプリンティングによる基板表面の化学的改質がその代表的な方法であるが、設計した神経回路構造を長期間維持する十分な手法は確立されておらず、現在でも研究途上にあるのが実情である。本研究では細胞接着性の低いアガロースゲルを基板表面に塗布し、その上にマイクロピペットに充填した細胞接着性物質(poly-D-lysine: PDL)で回路パターンを描くという手法につき検討した。マイクロピペットの先端径、充填するPDL溶液濃度など条件の最適化により、神経回路パターンの人為的な制御に十分な精度(最小線幅8 μm)が得られることを確認した。開発した手法は電動ステージ付倒立顕微鏡、マイクロマニピュレータ、マイクロインジェクタ等電気生理学実験において標準的に使用する機器のみで実現できるシンプルな手法であり汎用性が高い。本手法により描いたドット及び格子パターン上でラット大脳皮質から採取したニューロン群の分散培養を行い、1ヶ月間のパターン維持が可能であることを示した。

第3章では、微小電極アレイ基板(MicroElectrode Array: MEA)に上記マイクロパターン形成手法を適用して神経活動を計測する手法に関する検討結果を記述している。MEAは神経スパイク発生時の微小電流を検出するため、表面のアガロース層の影響につき検討を要する。結果として、計測される信号はアガロース層の膜厚に依存してその周波数特性が変化すること、成長方向制御の特性を失わない範囲で薄膜化することにより実用上十分な信号/雑音比が得られることがわかった。

第4章は、MEA上で培養した大脳皮質神経回路につき、発生開始から最長2ヶ月に至る過程での自発電気活動を観測し、Neuronal Avalanche現象を指標とする評価・解析を行った結果である。培養開始から3週間以後の試料ではNeuronal Avalanche現象に特徴的な活動の規模と発生確率の関係(対数プロットにおける直線近似が成り立つ)が認められること、それ以前の段階では小規模な活動主体から徐々に3週間以降の定常状態に向かう遷移が見られることが明らかになった。神経回路を構成する細胞数と結合構造を人為的に制御したシンプルネットワークについても同様の計測・解析を適用した結果、発生する活動の特性が異なるとの結果が得られた。神経回路の構造と規模、受容体やシナプス結合の成熟など、多様な要因について個別にその寄与を理解する端緒となる結果であると言える。今後は単一細胞レベルから規模と結合構造を精密に制御した神経回路を構成し、Neuronal Avalanche現象が発現する条件につき系統的な実験を進めることが課題となる。これらの理解を通じて細胞集団のNeuronal Avalanche現象が脳神経系の情報表現・処理に果たす意味を明らかにすることが期待できる。

以上、設定した3つの課題に対して得られた研究結果に基づき、第5章で結論と今後の展望について総括している。なお、本論文第2章、第3章、第4章は、神保泰彦、小谷潔、森口裕之、高山祐三、齋藤淳史、斎藤亜希、岩淵慎との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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