学位論文要旨



No 127572
著者(漢字) 桑原,真木子
著者(英字)
著者(カナ) クワハラ,マキコ
標題(和) 戦後日本における優生学と教育学の<連接>
標題(洋)
報告番号 127572
報告番号 甲27572
学位授与日 2011.10.05
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第186号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 教授 本田,由紀
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 市野川,容孝
 東京大学 教授 廣田,照幸
内容要旨 要旨を表示する

優生学は、「教育だってやっている」と、教育を引き合いに出しながら自己を正当化する。優生学にそう言われてしまう「何か」が、教育の側にあるのだろうか。もしあるのだとしたら、その「何か」を探り、問い直す。そのうえで、優生学からの「教育だってやっている」という指摘に対して、内在的にのりこえうる教育学側の議論を用意する必要がある。

本研究の主題は、戦後の優生学と教育学の関係を追究することである。その目的は二つある。第一の目的は、戦後の教育学が追究しつづけたことに、優生学に通じてしまう「何か」があるのならば、その「何か」の正体を知ることである。第二の目的は、優生学に通じない教育や教育学の抜け道を考えることである。そのための作業として、戦前にも目を配りつつ、終戦から1970年代における、進歩主義と呼ばれる教育学者、優生学者、断種法制定に関わった精神医学者、双生児研究、産児制限論争、障害者運動などによって展開された言説や実践の分析を行った。

優生学について、最も問題とされるべきは、次の二つの位相で「他者の存在を脅かす」ことである。まずは生まれてほしい他者とそうでない他者の区別をし、一つは、生まれてほしくない他者に対して「そのような存在はないほうがよい」「生まれないほうがよい」として、「事実存在」を抹消する。もう一つは、「そのような存在であるなら/そのような存在でないなら」という条件つきで他者を存在させることで、「本質存在」を脅かす。

このような優生学に対して、教育学がどのような関係を切り結んできたかについて、三つの視点((1)教育(学)の科学化、(2)「遺伝/環境」問題、(3)「人格」)をとおして、さまざまな関係を具体的に明らかにした。それらの関係のなかでも、教育学が、優生学と同様に他者の存在を脅かす<連接>に注目し、教育学の言説や実践が、優生学に<連接>するとき、そこにみられる特有の論理構造や思想的前提を「回路」として抽出した。

全8章から成る本編の分析を通して、二つの<連接>と、それを導いた三つの回路を抽出することができた。

一つめの回路は、「教育的環境の操作」であった。これは、教育学が「遺伝/環境」問題を追究したときに導かれた、遺伝と対置される環境を操作する知と技術のことである。戦前は、「教育(学)の科学化」という戦前の教育学の動向のなか、優生学への対抗と焦燥から、「遺伝/環境」問題に取り組み、「教育的環境の操作」が追究された。これを回路Aとした。回路Aによって導かれた優生学との<連接>は、教育学が、「精神薄弱」者への断種を肯定し、「合理的結婚」を提唱したことであった。回路Aが<連接>を導く理由として、次の二つのことを考えた。第一に、「教育的」な操作対象としての環境を、恣意的・無限定的に拡張した結果、優生学の介入ゾーンである結婚や出産といったことにまで、「教育的」操作を加えるべき環境として対象化されたこと。第二に、子どもに影響を与える環境を全て教育的営みによって操作できるものとして位置づけた結果、教育によって為し得ないものは、全て遺伝による説明に委ねられるしかなかったこと。

戦後は、「人格の完成」や「人格の尊重」という教育学独自の理念から、「教育的環境の操作」が追究された。これを回路A'とした。しかし、回路A'は、優生学への対抗や焦燥から追究されたものではなく、それのみでは優生学との<連接>を導かない。

二つめの回路は、「他者の存在を脅かす能力主義」であった。「他者の存在を脅かす能力主義」とは、「人格」としての能力の有無という理由で、他者の存在を脅かすことであり、これを回路Bと呼んだ。回路Bは、回路A'と絡まり合いながら、戦後の優生学と教育学の二つの<連接>を導いた。1950年代に確認された<連接>は、教育学が断種を肯定することである。

<連接(1)>は、戦後の教育学が、「人格」に「教育的環境」(回路A')としての能力を求め、そのような能力がないとされる者(「精神薄弱」者)に「生んではならない」「生まないほうがよい」と、断種を肯定したことである。

<連接(2)>は、戦後の教育学が、「人格」に自己と世界の倫理的完成に向けての能力を求め、教育はそのような能力を伸長・発達させることを目指し、「教育的環境の操作」を追究したが(回路A')、そのような能力がない者を「不幸」だとして、「生まれないほうがよい」と断種を肯定したことである。

そして、<連接(1)>の「人格」としての能力は、<連接(2)>の「人格」としての能力を形成するために必要不可欠とされ、二つの<連接>は相互補強の関係にあった。

三つめの回路は、「教育学的人格」であり、回路Cとした。「教育学的人格」とは、学力論や教育実践の中で共有された、教育される対象としての「人格」像のことである。

「教育学的人格」は、四つの特徴((1)能力と不可分の「人格」、(2)平等な「人格」、(3)操作・介入の対象としての「人格」、(4)教育の結果としての「人格」)をもち、次の三つの点で、優生学との<連接>を呼び込むと考えた。そこでの<連接>とは、「人格」に自己と世界の倫理的完成に向けての能力を求め、そのような能力がないとみなされる者の「本質存在」を脅かすような<連接(2)>である。

第一に、「人格」であることの要件として能力を求めたり、能力のはたらかせ方に「人格」の価値を見出したり、能力を発達・伸長させること自体に「人格」しての望ましさが見出されたりするということは、人間として生まれたというだけでは「人格」とはみなされないということである。これは、能力がない・能力が劣っているという理由で「生まれない方がよい」といわれる者の存在を脅かす。

第二に、「人格の平等」や、「人権」という理念から、「人格」の能力の発達・伸長をめざし、主体への直接的あるいは間接的な、操作・介入が正当化されることになる。そして、そのような「教育的」な操作・介入が成功せず、能力の発達・伸長が実現できない者は「不幸」であるとされ、「生まれない方がよい」と排除され、存在を脅かされる。

第三に、どんなに教育が努力しても「どうにもできないもの」について、「教育学的人格」はそれをものりこえる「力」を期待する。勝田守一は、「人間の真価」は「生の試煉であらわれる」というが、宿命ののりこえ方で「人格の真価」が計られるのだとしたら、それは「厳しい宿命」を背負う人にとって、生きづらい世の中であり、存在が脅かされる。

以上の<連接(2)>は、優生学が技術的に新たな展開をみせ、「反優生」の風が吹いた70年代においては、断種という明確なメルクマールは見つけられず、不確定かつ想像的な<連接>ではあったが、「私が私であるというだけで生きていてよい」という、人間として生きていく上で重要な自己肯定感を奪うような、「本質存在」の脅かしがあったことを、障害者の言説から拾い出した。

以上が、本研究の結論である。そして最後に、本研究の二つの目的について、考察をすすめた。第一の目的は、戦後の教育学の中にある、他者の存在を脅かす「何か」の正体を発見することであった。それは、優生学と教育学の<連接>をみちびいた三つの回路であるといってもよいのだが、三つの回路に通底するのは、「自己力能化(self-empowerment)」を追求する「人格」の形成を教育(学)がめざしたことである。

第二の目的は、他者の存在を脅かさない教育や教育学の抜け道を探ることであった。これについては、「自己力能化」を追求しない「人格」の形成を、教育(学)はめざせばよいと簡単にはいえないことを、教育が与える二つの自由((1)「自己力能化」による自由、(2)「擬制」の自由)という点から確認した。しかし、そこに止まるのではなく、教育(学)が優生学と訣別していく新たな道を探っていくことが、困難ではあるが、われわれに与えられた最も重要な課題である。これについて、不十分ながらも、二つのことを考えた。一つは、「存在の自由の平等」(立岩真也)を実現するために、「能力」と「能力から得られるもの」を結びつけることに、教育(学)が積極的に関わらないことである。教育(学)が「自己力能化」という価値と、それによって与える自由を捨てることは難しいが、しかしこれを「最重要」「美徳」と考える態度は捨てることができるだろう。「自己力能化」を否定せずとも、できないときは他者の力を借りてよいし、他者をあてにしてもよいという態度と共存する教育(学)を構想できないか。もう一つは、「自己力能化」の自由に、<他者への自由>(井上達夫)を優位に置く教育(学)を構想することである。これについては、「共生・共育」をはじめ、多くの理論と実践の蓄積があるが、その蓄積が他者の存在を脅かさないように、<他者への自由>というポジションに思考を常に立ち戻らせることが重要であろう。

審査要旨 要旨を表示する

現代遺伝学の進展にともなって登場してきた「新しい優生学」は、生命倫理をめぐる重要な問題を提起している。本論文は、そうした今日的関心を持ちながら、戦後の教育学と優生学との関係について考察した論文である。

序章では、問題の所在を整理しつつ、分析の視角を提示し、いくつかの分析概念を設定している。特に、優生学の問題の核である「他者の存在を脅かす」という轍を教育学も踏んでしまうという関係を〈連接〉という語で示し、その後の分析の軸としている。第1章・第2章では、戦前期の優生学と教育学の関係に焦点をあて、二つの学問が相補的な関係にあり、教育学が「教育的環境の操作」という回路を通して、優生学と親和的な関係を取り結んでいたことを明らかにしている。第3章と第4章では、戦前の優生学と教育学の関係が、戦後どのように継続あるいは変化したのかを考察し、「人格」概念の重要性を抽出している。

第5・6章では、産児制限論争や「精神薄弱」者の断種問題の議論などに焦点をあて、「あるべき人格」をめざす教育的環境の操作が、「他者の存在を脅かす能力主義」に媒介されて、他者の事実存在や本質存在を脅かす論理につながっていたことを明らかにしている。第7章では、1960~70年代の教育学の本流における学力論に焦点をあて、能力と人格と教育の関係を考察し、そこでは、人格と能力とが特有の仕方で結びつけられていること(「教育学的人格」と呼ぶ)が示されている。第8章では、1960~70年代において優生学的政策の進展に抵抗した「青い芝の会」の言説と、同時期の教育学における能力主義批判の言説とを比較しながら、「教育学的人格」像を下敷きにした後者が、優生学と〈連接〉したものであったことが示されている。

結論では、以上の知見を整理した後、戦後の教育学がさまざまな回路によって優生学と〈連接〉してきたことをふまえつつ、どういう回路をどう組み換えれば他者の存在を脅かさない教育学が可能なのかについて、試論的な議論を展開している。

本論文は、これまできちんと検討されてくることがなかった優生学と戦前・戦後の教育学との関係を、直接的な関係だけでなく、論理的な相同性にまで考察を広げて整理したものである。独自に設定された分析概念の曖昧さによる論理の甘さや、歴史的な検討と結論部での展望との間にある距離など、いくつかの弱点はある。しかし、この主題にありがちな安易なレッテル貼りに陥らず、戦後教育学のいくつかの言説群を綿密に検討し、そこに隠れている前提や思いがけない論理のつながりを明らかにしており、戦後の教育学に内包された偏倚の一端を浮き彫りにしているといえる。教育学のこれからのあり方を考える上でも意義ある論文であり、今後の教育学研究に重要な貢献をなすものと考えられる。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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