学位論文要旨



No 127576
著者(漢字) 大塚,行誠
著者(英字)
著者(カナ) オオツカ,コウセイ
標題(和) ティディム・チン語(ミャンマー連邦)の文法記述
標題(洋)
報告番号 127576
報告番号 甲27576
学位授与日 2011.10.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第830号
研究科 人文社会系
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 中村,雄祐
 東京大学 准教授 西村,義樹
 国立国語研究所 教授 角田,太作
 大阪大学 准教授 加藤,昌彦
 美作大学 教授 桐生,和幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は,ミャンマー連邦に住む少数民族の言語,ティディム・チン語の口語体における文法を包括的に記述することである。

ティディム・チン語は,シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のクキ・チン語支に属する。クキ・チン語支は,約50言語からなる言語集団である。ティディム・チン語は,そのうちの北部チン語群に属し,約35万人弱の話者を有する。ティディム・チン語話者は,ミャンマー連邦北西部のチン州西部とザガイン管区東部,およびインド共和国北東部のマニプル州南部とミゾラム州北部に多く住み,近年ではミャンマー連邦の都市部,ミャンマー連邦国外への移住も見られるようになった。

ミャンマー連邦政府の公式見解によると,現在,ミャンマー連邦には135もの民族が居住しており,多種多様な言語,文化が混在している。こうした多民族国家,ミャンマー連邦における少数民族の言語研究に目を向けると,クキ・チン語支に関する先行研究は特に少なく,未だ初歩的な段階にあることが分かる。クキ・チン語支の諸言語は,ビルマ系言語とチベット系言語の間を埋める特徴を有しているほか,他のチベット・ビルマ語派には見られない特有の動詞語幹の交替,代名詞化,方位接辞の付加などといった,興味深い文法現象も見られる。今後,ミャンマー連邦で話される諸言語の研究を進めていく上で,クキ・チン語支に属する言語の共時的な文法を,音韻,形態,統語の面から包括的に記述することが必要であると考え,ティディム・チン語の共時的な文法を記述するに至った。

本論文における最大の特徴は,筆者自身が言語調査を通して得たデータをもとに,ティディム・チン語口語体の包括的な文法記述を行ったことである。ティディム・チン語では,文章体と口語体の文法構造に違いが見られる。本論文執筆の時点において,ティディム・チン語の文法現象を扱った先行記述は僅かながら存在するものの,その大部分が文章体のティディム・チン語を対象としており,ティディム・チン語の口語体を包括的に記述した文法書は見られない。すなわち,本論文に挙げた品詞分類と統語構造の分析のほとんどは,筆者が独自に考案したものであり,ティディム・チン語の研究において初の試みであると言えよう。勿論,書き言葉の導入が言語に及ぼす影響についても十分考慮する必要がある。筆者の研究するティディム・チン語においても,書き言葉に関する問題があることは十分認識している。しかし,文章体など,書き言葉の研究を行う上でも,ティディム・チン語の口語体がどのような構造を持っているのかという実証的な研究を行うことがまずは重要である。そこで,本論文ではティディム・チン語口語体の記述言語学的な研究に注力する。

筆者は,ティディム・チン語の文法を包括的に記述する為,2006年よりミャンマー連邦と日本国内においてティディム・チン語の音韻,形態,統語に関する聞き取り調査,およびティディム・チン語の口語体によるモノローグとダイアローグの録音,書き起こし,ビルマ語と日本語への翻訳作業を行った。本論文では,これらの調査で得られた言語データをもとにティディム・チン語口語体の包括的な文法記述を行っている。

更に,本論文では,他言語との対照研究,あるいは類型論の研究にとって参考となる資料を円滑に提供することができるよう,文法記述という言語学的な研究において一般的に用いる概念に従って記述を行っている。ありのままのティディム・チン語の姿を提示するため,ひとつの理論的な枠組みに固執しないよう記述することに留意しながら,具体例もできる限り多く挙げている。

以下,本論文の構成について述べる。本論文は,[1] 本論と [2] 附録の2部から成る。

[1] 本論

本論は,全8章から成る。以下,各章における記述内容を簡潔に述べる。

第1章では,本論文の概要について述べる。はじめに,本論文を執筆する目的 (§1.1) と本論文の構成 (§1.2) を示す。次に,ティディム・チン語に関する先行研究 (§1.3),研究方法 (§1.4),本論文における表記の基本方針 (§1.5) を挙げる。章末には,本論文で用いるカタカナ表記に関する注釈 (§1.6),略号一覧 (§1.7) を掲載する。

第2章では,ティディム・チン語の概要について述べる。ティディム・チン語の言語系統 (§2.1) では,先行研究をもとに,チベット・ビルマ語派におけるクキ・チン語支の位置づけとクキ・チン語支内部におけるティディム・チン語の位置づけについて述べる。また,ティディム・チン語を母語とする話者が多い地域の基本的な情報 (§2.2),話者の人口 (§2.3),ティディム・チン語とその話者の外名と内名 (§2.4) について述べる。そして,ティディム・チン語の代表的な文字表記である,ラテン文字と Pau Cin Hau 文字 (§2.5) について簡潔に述べた後,筆者が調査した時点におけるティディム・チン語の使用状況,周辺言語からの影響,位相などといった社会的な背景 (§2.6),伝統歌謡と伝統舞踊,親族名称,命名方法,敬称,氏族などといった言語にまつわる文化的な背景 (§2.7) についても記述する。

第3章では,ティディム・チン語における音韻体系の考察結果を述べる。はじめに,子音音素 (§3.1.1),母音音素 (§3.1.2),声調素 (§3.1.3),そして借用語に見られる特殊な音素 (§3.1.4) の目録を挙げ,音節構造 (§3.2) とイントネーション (§3.3) について論じる。そして,短母音化,単独母音化,声調交替,連読変調,融合といった現象を形態音韻論 (§3.4) として扱い,具体例と共に検討する。章末の §3.5 では本論文の表記方法について簡単な説明を行う。

第4章では,ティディム・チン語の品詞に関する記述を行う。ティディム・チン語の形態素は,自立語,接語,接辞の3種類 (§4.1) に大きく分けることができる。その3種類の形態素のうち,自立語と接語を語と呼ぶ (§4.2)。ティディム・チン語における語は,名詞類 (§4.3),動詞類 (§4.4),副詞 (§4.5),助詞 (§4.6),間投詞 (§4.7) という5種類の品詞に分類することができる。第4章の後半では,品詞分類の基準と各品詞の形態的および統語的特徴を挙げる。

第5章では,形態論に関する議論を行う。はじめに,名詞類 (§5.1) および動詞類 (§5.2) がどのような形態的操作を受けるのかについて述べる。語形成の手段には,(i) 屈折,(ii) 接辞付加による派生,(iii) 重複による派生,(iv) 複合による派生がある。次に,副詞 (§5.3) に見られる形態的な特徴について検討する。

第6章から第8章では統語論を扱う。第6章では,句のレベルに焦点を当て,名詞類または動詞類に属する語に1語以上の修飾要素を付加した句の構造について述べる。句は,統語構造上,語と等価である。その統語的な特徴によって,名詞句 (§6.1),動詞句 (§6.2),副詞句 (§6.3) の3種類に分けられる。はじめに,名詞句の項目で基本となる名詞句構造を提示した後,名詞句の修飾要素 (§6.1.1 - §6.1.6) と格 (§6.1.7) について述べる。次に,動詞句の項目では,基本となる動詞句構造 (§6.2.1) を提示した後,アスペクトやモダリティなどを表す動詞修飾助詞 (§6.2.2) の具体例を列挙する。さらに,章末では,副詞句 (§6.3) を機能の面から分類した上で,それぞれの副詞句の具体例を挙げる。章末では,副助詞 (§6.4) について検討する。

第7章では,統語論のうち,節のレベルに焦点を当て,記述を行う。節は,語または句よりも大きいレベルにあり,述部動詞句が含まれるという点で句とは異なる。章の前半では,はじめに,ティディム・チン語の節を記述する上で必要となる,主語,目的語,状況語,補語,述部といった節の構成要素 (§7.1) について述べる。次に,主節の統語構造 (§7.2) として,2種類の述部動詞句の形式,他動詞節と自動詞節の構造,項数による節の分類(ゼロ項節,1項節,2項節,3項節),態といったテーマを取り上げ,その統語構造と具体例を示す。章の後半では,従属節について記述する。はじめに,名詞節 (§7.3.1) として,動詞類の語幹交替による名詞節の基本構造を示し,その具体例を挙げる。続けて,名詞節の一種と考えられる引用節 (§7.3.1.2) の統語構造と具体的な例を挙げ,どのような動詞が主節中の述部にあたる場合,その内容を表す節が引用節の形式を取るのかについて,実例と共に示す。名詞修飾節 (§7.3.2) の項目では,主語,直接目的語,間接目的語,所有者を表す句,状況語にあたる語が名詞修飾節の被修飾名詞となる場合の名詞修飾節の構造について述べる。さらに,副詞節 (§7.3.3) の部分では,形式の面から副詞節を分類し,各副詞節における統語構造と具体例を示す。章末では,従属節と主節における従属度についても検討する。

第8章では,発話の意図という観点から,文を平叙文 (§8.2),疑問文 (§8.3),命令文 (§8.4) に分類し,それぞれの肯定形および否定形における構造と具体例を挙げる。また,その他の文のタイプ (§8.5) として,挨拶文,勧奨文,そして祈願文の例も挙げる。さらに,文のレベルで,主題,焦点という情報構造 (§8.6) に関する記述を行う。章末には,文末に付加する,終助詞 (§8.7) の例を挙げる。

結語では,本論文を執筆する中で生まれた新たな課題と今後の展望について述べる。

[2] 附録

付録には,ティディム・チン語口語体のテキスト3編( (a) モノローグ,(b) ダイアローグ,(c) 口語体で記した手紙),基礎語彙集,ビルマ文字のラテン文字転写一覧を掲載する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文はミャンマー連邦のティディム・チン語の口語体の、主に音韻、形態、統語を対象とする記述的研究である。「第1章 本論文の概要」は本論文の目的、構成、調査の方法、及び、先行研究などを示す。「第2章 ティディム・チン語の概要」はこの言語の系統、地域、話者数、呼称、文字、社会的背景、文化的背景を示す。この言語はシナ・チベット語族の北部チン語群に分類される。「第3章 音韻論」は音素、声調素、借用語に見られる特殊な音素、イントネーション、形態音韻論についての分析を示し、表記法を提示する。「第4章 品詞論」は以下の品詞を設定する:名詞類、動詞類、副詞、助詞、間投詞。特に、名詞類の拘束形名詞(総数は14)と動詞類の助動詞(総数は15)の意味と用法を詳細に記述する。「第5章 形態論」は名詞類の屈折と派生、動詞類の屈折と派生と副詞の派生(屈折は無い)を詳細に記述する。一つの動詞に語幹形式Iと動詞に語幹形式IIの、二つの形があり、現れる環境によって使い分けることを指摘する。「第6章 統語論I 句」は名詞句の構造、動詞句の構造、副詞句の構造を記述する。特に、動詞句について動詞修飾助詞(総数は62)の意味と用法を詳細に記述する。助詞の1種、副助詞(総数は15)は名詞句にも、動詞句にも付くことができる。その意味と用法も、この章で記述する。「第7章 統語論II 節」はまず節の構成要素を挙げる。次に節を以下のように分類する:(i) 主節、従属節、(ii) 自動詞節、他動詞節、(iii) ゼロ項節、1項節、2項節、3項節。更に6つの態を設定する。「第8章 統語論III 文」は平叙文、疑問文、命令文、その他の文(挨拶文、勧奨文、祈願文)の用法を記述する。特に、疑問文の記述は詳細である。次に、情報構造(主題、焦点)について述べた後、終助詞の談話における用法を記述する。結語は本論文を概観し、今後の課題を示す。附録として、テキスト(総数は3)とかなり詳しい語彙などが付いている。

本論文は改善の余地はある。例えば、論文の始めに言語の概略を示してないこと、音韻の章の始めに音韻の概略を示していないこと、格として具格を設定していないことである。

しかしながら、本論文は、ティディム・チン語の音韻、形態、統語について、非常に詳細で、かつ、水準の高い記述と分析を提示した。北部チン語群の言語について、本論文ほど包括的かつ詳細な記述は他には無い。言語の記録としての価値も高い。

以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに十分値するものと判断する。

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