学位論文要旨



No 127591
著者(漢字) 本田,晃子
著者(英字)
著者(カナ) ホンダ,アキコ
標題(和) 天体建築論 : イワン・レオニドフと紙上の建築プロジェクト
標題(洋)
報告番号 127591
報告番号 甲27591
学位授与日 2011.10.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1107号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 田中,純
 早稲田大学 教授 桑野,隆
 東北大学 教授 五十嵐,太郎
内容要旨 要旨を表示する

歴史上、紙上建築ないしペーパー・アーキテクチャーとは、設計図とは異なり、建築や都市のイメージを借りて現実の社会に対するオルタナティヴとしての空間-共同体像を描き出す、批評的形式であった。しかしながら、革命後のソヴィエト・ロシアでは、「新しい社会の建設」という象徴的な意味が建築という分野に付与されることによって、設計図と紙上建築をめぐる境界は不分明になっていく。それまで「建てられたもの」、すなわち既存の社会に対する他者あるいは周縁であった紙上建築が、一躍、ソ連邦という新たな共同体の設計図として、社会の中心に出現することになったのである。

従来のソヴィエト建築史研究は、1920年代から50年代にかけて建築家・非建築家を問わず広く作成されたペーパー・アーキテクチャーを、革命を契機としたユートピア的想像力の高揚や、スターリニズムのメガロマニアの産物とみなしてきた。それに対して本論考は、上述のような観点に基づき、この時期における大量の紙上建築の出現を、単なる二次的・付帯的な現象ではなく、ソ連邦という新たな共同体の形成プロセスと不可分のものとして捉え直すものである。紙上建築という表現形式が共同体建設において果たした役割を問うこと、それこそが本論考の主題に他ならない。そしてこの巨大なテーマに取り組むにあたっての指標ないし水先案内人としたいのが、ソヴィエト・ロシアの紙上建築時代を生きた、さらに言えばこの時代の建築精神を最も先鋭に体現した紙上建築家のひとり、イワン・レオニドフ(1902~1959年)である。

1927年にまさに流星のごとくロシア建築界に現れたレオニドフは、部分的な設計を除いては、実現された作品を全く持たない。にもかかわらず、その存在はロシア構成主義の代表者として記憶され、現在でも彼の影響力は多くの建築家の作品に見て取ることができる。そのような意味で、まさしくレオニドフこそ、ソヴィエト・ロシアの紙上建築時代を代表する、ペーパー・アーキテクトであったと言える。本論考では、レオニドフの構成主義時代の作品を前半部(1~3章)、1930年代以降の作品を後半部(4~6章)で論じた。その際特に主題としたのが以下の点である。

近代建築とマスメディアの関係については、既に多くの議論が行われている。だが、写真、映画、雑誌といった新しいメディアの性質がロシア構成主義建築運動にもたらした影響については、これまで不十分にしか論じられてこなかった。したがって本論前半部分では、特にレオニドフの初期作品を取りあげ、写真、映画、プラネタリウムなどの新しい視覚装置やメディアから彼がいかなる影響を受け、また建築雑誌やその誌面デザインといかに関わりながら自らのスタイルを確立していったのかを論じることにした。

まず第1章では、1927年に発表されたレオニドフの卒業制作であり、かつまた彼の名をモダニズムの代表的建築家として一躍知らしめることになった、レーニン(図書館学)研究所建築設計案に着目した。レオニドフの建築思想はK.マレーヴィチの無対象-無重力建築、そして建築物そのものではなく、建築"イメージ"を扱う建築雑誌というマスメディアとの関わりから誕生し、発展を遂げていった。同章では当時支配的であった構成主義第一世代の機能主義や生産主義の言説に対して、同じ構成主義建築運動に加わりながらも、むしろそこで唱えられた機能性や合理性といった概念自体を問い直す役割を果たした、レオニドフの独自の建築思想を明らかにした。

革命直後のロシアでは、"演劇の十月"と呼ばれる全社会的な規模の演劇運動がはじまる。ロシア・アヴァンギャルド建築を、同時期の西欧のモダニズム建築と分ける点として特に注目に値するのが、そこで出現した新しいタイプの演劇と舞台美術から影響を受けた一連の作品である。この運動に感化された建築家たちの一部は、やがて構成主義の舞台美術や街路の演劇の方法論に則った建築デザインへと向かった。そこで演劇と建築の中継地点のひとつとなったのが、労働者クラブと呼ばれる施設だった。第2章では、構成主義運動のリーダーA.ヴェスニンと、その弟子レオニドフの労働者クラブ案を比較しつつ、演劇や映画といったメディアが、構成主義運動に与えた影響を検証した。

第1次五カ年計画を背景に1920年代末から1930年にかけて急激な勃興を見せたのが、ソツゴロド(社会主義都市)の姿をめぐって行われた論争である。個別の建築プロジェクトの規模を超え、人民の労働・余暇を全面的に包含する計画として描き出されたソツゴロド・モデル。それは、集団化・共同化された物理的環境の建設を通して集団的心性を組織し、新しいブィト(生活様式)を形成することを目指す構成主義の、最後にして最大の実験となった。そのなかでも、白紙の荒野の状態から一大工業都市を建設するというマグニトゴルスク計画は、ソツゴロド理論の実現の場として多くの注目を集めた。

レオニドフにとってのマグニトゴルスク都市計画案もまた、彼の構成主義時代の創作活動の集大成というべき作品であった。けれども彼がそこで目指したのは、具体的な都市の建設という以上に、新たな共同体のシステムそのものの構築であったと考えられる。第3章では、映画やプラネタリウムを参照した彼のグリッド・パターンからなる都市の分析を通して、レオニドフの無対象-無重力都市の最終的な姿とは、そしてこの都市の住人たる"新しい人間"とはいかなる存在であったのかを明らかにした。

本論考後半部分では、ソヴィエト建築文化の全体主義化の過程において紙上建築が果たした役割を、同時期のレオニドフの創作活動の変転と対照しつつ論じた。

ソヴィエト・ロシア建築の全体主義化は、いくつかの大規模な設計競技を通して促進された。が、なかでも飛び抜けた重要性を有していたのが、1931~32年にかけて実施されたソヴィエト宮殿設計コンペティションである。ソヴィエト宮殿はスターリン時代に行われたモスクワ再開発計画の始点にして中心と位置づけられていた。このソヴィエト宮殿をめぐって行われた4回にもわたるコンペ、とりわけその審査と再設計の過程は、そのままスターリン時代の新しい建築様式、ひいては新しい共同体像の形成過程を反映していたと言っても過言ではない。第4章では、このソヴィエト宮殿設計競技で優勝したB.イオファンの設計案とコンペをめぐる建築批評を取り上げ、ソヴィエト宮殿プロジェクトの周囲に、いかにして新たな象徴的共同体空間が、さらには社会主義リアリズムという様式が築かれていったのかを考察した。

ソヴィエト宮殿に次ぐ重要性を有していた設計コンペが、クレムリンを挟んでそれと向き合う敷地に想定された、重工業人民委員部ビルの設計競技だった。この競技にはレオニドフも参加し、構成主義時代とは異なるスタイルを採用しながらも、社会主義リアリズムの公準とも違う、独自の回答を行った。同章後半では、イオファンのソヴィエト宮殿案とレオニドフの重工業ビル案を比較し、建築のシンボル化、なかでもレーニンの建築という主題に対する両者のアプローチの相違を明らかにした。

1930年代中盤、レオニドフら構成主義者の作品を批判するために頻繁に用いられたのが、「図式的な」「死んだ」「機械の建築」といった言葉だった。レオニドフや彼の師M.ギンズブルグは、有機物の構造を建築物のモデルとすることで、このような構成主義=マシニズムという批判を克服する新しい建築理論と建築形態を模索していた。そこで彼らの「有機的な」建築の実践の場となったのが、黒海沿岸・クリミア半島南岸の複合的なリゾート施設の開発計画である。

これらのプロジェクトにおいてレオニドフが描き出した庭園世界では、構成主義時代のグリッド・パターンに代わって、ドローイングの支持体に固有のファクトゥーラ(テクスチャー)の秩序が顕在化していった。しかしながら、彼のこのようなファクトゥーラに基づく建築の有機化の試みは、同じ「自然」というテーマを掲げながらも、社会主義リアリズムの有機的建築とは、真っ向から対立するものであった。第5章では建築と自然、建築の有機化という問題を中心に、外部からの強制の下、レオニドフの創作活動がいかにしてその転換点を迎えたのかを探った。

建築における社会主義リアリズムは、1939年に開催された全連邦農業博覧会において、完全な開花を見た。そしてこの博覧会の企画にあたって最大の争点となったのが、多民族共同体としてのソ連邦のイメージを、いかに空間的-建築的に表象するかという問題であった。第6章では、まず農業博覧会内に建設された各民族共和国のパヴィリオンの分析を通して、ソ連邦という新たな民族共同体-像がどうのように表象されることになったのかを検証した。その上で、この博覧会がイメージに基づく連邦統治システムの中で果たした役割を解明していった。

他方、博覧会という一個の世界をミニチュアとして提示する形式は、既に公式の建築界から追放されていたレオニドフをも強く惹きつけた。彼は戦後になると、博覧会形式を用いて、これまでの創作活動を総括するような連作《太陽の都》を制作していった。スターリン像を中心=光源に放射円環状に広がる農業博覧会、クレムリンを光源とする首都モスクワという新しい太陽系の出現に対し、レオニドフはこの未完の博覧会-都市計画において、いかなる対抗的なイメージを描き出し得たのか。同章最終部では、農業博覧会とレオニドフの《太陽の都》案を比較しつつ、これら2つの天体建築がいかなる地点で交叉し、また対立することになったのかを浮かび上がらせていった。

審査要旨 要旨を表示する

本田晃子氏の博士学位申請論文『天体建築論――イワン・レオニドフと紙上の建築プロジェクト』は、1920年代に構成主義建築家として華々しくデビューしたものの、その後ソヴィエト体制に翻弄され、1959年に亡くなるまで終生紙上建築家(ペーパー・アーキテクト)として生きざるをえなかったイワン・レオニドフの建築の理念とその変遷をたどったものである。

一次資料の乏しいなか、本田氏は当時の周辺資料を丹念に掘り起こし、謎に包まれたレオニドフの建築の本質に肉薄する。構成主義から出発し、やがて建築コンペから閉め出され、イデオロギー闘争のなかで糾弾・否定された彼の建築を「建てられざる建築」、すなわち現実の建築に対するオルタナティブとしてのペーパー・アーキテクチャーであったと捉える本田氏の明快な主張は、類書に乏しい今日のアカデミズムのなかにあって、きわめて野心的な労作である。

本論文は注、参考文献を含めて206頁にのぼり、これに加えて139頁におよぶ別冊図版を付す。収められた200有余の図版は、レオニドフの変遷をたどるだけでなく近代建築史をも俯瞰するもので、著者の広い関心を反映した充実した資料集となっている。

本論は全6章からなり、前半の1~3章でレオニドフの前半生を特徴づける構成主義時代の作品を扱い、後半の4~6章では1930年代以降、スターリン体制下でのその建築の変化を考察する。

まず第1章では、一躍彼の名をロシア建築界に知らしめた1927年の卒業制作、レーニン図書館学研究所の設計案が検討される。同時代のマレーヴィチの無対象建築とも響きあうこの設計案から、本田氏は無重力・浮遊感・大地の否定というレオニドフの生涯を貫く重要なコンセプトを取り出し、同時にこの建築が建築雑誌というメディアを通じて受容される新しい空間経験であったと指摘する。構成主義者レオニドフの建築が目的と機能を宙吊りにし、雑誌という紙上に降り立つという論の流れは、紙上建築という本論文のテーマを導く秀逸な導入部をなす。

第2章では、革命的演劇とのかかわりのなかでのレオニドフの新たな建築思考が抽出される。ここで取り上げられるのは現実と舞台を中継する労働者クラブという施設で、ガラスの壁面にニュースを投影したり、演劇・ラジオ・映画を駆使し、通常では考えられない離散的な距離に建物を配したクラブ案のなかに、本田氏はのちのメディア建築論につながる萌芽を見いだしている。

五カ年計画の開始とともにソヴィエト社会では新しい共同体のあり方をめぐって建築界を二分する論争が巻き起こった。第3章ではソツゴロド(社会主義都市)をめぐるこの都市派・非都市派の論争をたどりながら、マグニトゴルスク建設にかかわったレオニドフの理想の都市像が俎上に載せられ、モダンの象徴であるグリッドを基本にしたレオニドフの都市が彼本来の無対象・無重力への志向の延長であり、構成主義理念の結実であったことが明らかにされる。また本田氏は黒地に白で描かれた特異な作図法に映画の原理を読み取り、演劇や映画、ラジオやプラネタリウムなどマスメディアを介したネットワークこそ、彼が思い描いた新たな共同体であったという視点を打ち出している。黒い大地に白く映し出される建築群――論文の副題にある「天体建築」とはプラネタリウムのように地上に映じるアストラルの建築にほかならない。

論文後半では、全体主義のメカニズムと建築が被らざるをえなかった変化に焦点が当てられる。

第4章で本田氏は、1931~32年に4回にわたって審査と再設計を繰り返し、最終的にイオファン案に落ち着いたソヴィエト宮殿設計コンペのプロセスをたどり直し、この終わりのない反復と再調整の手続きこそがソヴィエト的象徴空間を組織し、社会主義リアリズムを根付かせる過程であったと分析する。至高の高みに引き上げられたレーニン像の解読と併せて、本章ではスターリン文化への転換が資料の綿密な読みによって説得的に跡づけられている。

1930年代以降、その建築が生命の通わない機械的な建築と糾弾されるなか、レオニドフは自分なりの「有機的建築」を模索していた。第5章で本田氏はレオニドフが関わったクリミア半島南岸の保養施設の開発計画などから、1920年代のグリッドに代わって出現する自然の地勢を取り込んだ設計プランや、木目の浮き出たベニヤ板や木片など素材のファクトゥーラ(肌理)を生かした作図法、『一般形態学』で知られるヘッケルへの関心に着目し、そこに幾何学的ではないアモルフな自然の形態へのレオニドフの転機を探っている。

最後の第6章では、建築における社会主義リアリズムの頂点をなす1939年の全連邦農業博覧会と未完に終わったレオニドフの晩年の連作「太陽の都」が対比的に取り上げられる。本田氏は農業博覧会が多民族国家としての連邦の共同体像の絵解き的表象であり、スターリンを光源とする象徴空間の完成であったとすれば、おぼろげに太陽が中空に浮かび、棺に収まった人体とおぼしき像を配したレオニドフの「太陽の都」は生者のネクロポリスというべきものであったろうと指摘する。そして建てられることなく終わったレオニドフの建築がレーニン・スターリンを光源とする太陽都市モスクワへの強烈なアンチテーゼであったと論文を締めくくる。

建てられざる建築に終始したレオニドフの建築は長らく「伝説」という言葉に封じ込められてきた。本論文はその閉塞を打破し、果敢にロシア建築史の空白を埋めようとする。

これまで紙上建築は革命に触発されたユートピア的想像力の産物で、副次的な現象にすぎないと見なされてきた。これにたいして本論文はレオニドフの紙上建築に一貫した意図を読み込み、現実の建築が拠って立つ論理を問い直す契機をはらんでいたことを明らかにする。レオニドフの建築が未完に終わったとすれば、彼の建築が建築の意匠を越え、メディアを介した新しい共同体の理念を抱え込んでいたからであったことが明らかになる。ロシア本国にもこれほど深くレオニドフの作品を分析した研究はなく、本論文の学術的意義はきわめて大きいと言える。

当時の雑誌にも丹念に当たる行き届いた調査、ロシア語文献のみならず、広く欧米の建築や周辺の研究成果への目配り、錯綜した歴史的事実を腑分けする大胆さと繊細さ、そうした確かな資料の吟味から繰り出される明快な論理――いずれをとっても出色の論文となっている。

審査委員からは、レオニドフの現実における格闘が見えてこない、「共同体」という概念が曖昧である、「ファクトゥーラ」への踏み込みが足りない、一部のロシア語解釈に適切さを欠くなどの批判や疑念が出されたが、本論文の学術的価値を損なう重大な瑕疵とは言えないという点で、審査員全員の意見が一致した。

以上により、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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