学位論文要旨



No 127592
著者(漢字) 門田,岳久
著者(英字)
著者(カナ) カドタ,タケヒサ
標題(和) 宗教/ツーリズムの再帰的民族誌 : 現代日本の聖地巡礼と消費される宗教経験
標題(洋)
報告番号 127592
報告番号 甲27592
学位授与日 2011.10.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1108号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩本,通弥
 東京大学 教授 川中子,義勝
 東京大学 准教授 名和,克郎
 東京大学 准教授 渡邊,日日
 日本女子大学 教授 中西,裕二
内容要旨 要旨を表示する

本論の目的は,第一に,近現代の日本において展開するツーリズム化された聖地巡礼の成立と地域的展開,およびその商品構造の分析を通じ,「宗教的なるもの」の現代的位相を人類学的・民俗学的宗教研究の文脈に位置付けることである。第二は,宗教がツーリズムや市場経済との接合をみせているこうした消費社会的文脈のもとに構成される,人々の宗教的経験や自己のあり方を,巡礼者(=ツーリスト)たちのナラティブの分析から明らかにすることである。

宗教研究において聖地参詣や巡礼という事例は,人や共同体の形を漸進的に再編する力を有し,かつ日常的規範を超越した真正性や聖性へと到る実践であるとみなされてきたため,逆にこれらの実践が近現代の社会変化の中で市場経済的価値を付与され,文化政策や観光産業にとって恰好の資源となっている世俗的な動向は,従来十分に焦点化されてこなかった。例えば本論第2章では沖縄の著名な聖地の世界文化遺産登録を取り上げたが,登録を契機に聖地の宗教的価値が人類普遍の文化的基準に沿って再定義される一方,従来の生活世界に基づいた宗教的価値規範が疎外されていく状況が見てとれた。1章で述べるように,近年の宗教研究では「宗教」概念の脱構築的検証が行われているが,この概念が単なる学術概念ではなく,このように政策や市場の場でも日常的に使用される操作概念となっていることを鑑みれば,言説分析のみならず,宗教が資源化され,観光的文脈で変容する現場状況を精査する必要がある。こうした問題意識から本論では,従来宗教研究では宗教の本質的理解に到らないものとして捨象されてきた,市場経済と宗教との接合状況を捉える必要性を提起した。

3章以下では「宗教の資源化」の観点から,近現代日本における巡礼のツーリズム(観光)化を主題に,四国及び佐渡での事例分析を行った。3章ではまず通史的概観を行うため,近代観光の誕生と拡大を背景に,従来宗教とは無縁であった鉄道会社や旅行業者が巡礼を商品化しはじめ,団体旅行や個人旅行を含む様々な形式でツーリズム市場に取り込んでいった経緯を跡付けた。とりわけ集客の多い四国八十八カ所巡礼では団体バス巡礼ツアーの形式が生まれ,ツーリズム産業はそこで単なる旅程管理のみならず,宗教的実践の知識や規範の指導といった役割を,伝統的宗教組織に代替して担うようになった。こうした巡礼ツアーの現在的状況を民族誌的に描いたのが第4章である。巡礼ツアーの現場では,綿密な計画・設計により商品性が徹底される一方,表向きにはあくまで宗教性が演出され,巡礼者たちは読経や参詣といった集団的・身体的実践を通じて宗教的経験を獲得していくことが明らかとなった。ここに見られるのは宗教性と商品性との不可分な絡み合いである。

5~6章では,人々がいかなる経緯で巡礼ツアーに参与しているのかを探るため,4章で調査事例とした旅行業者の本拠である新潟県佐渡地域をフィールドに,巡礼者達の日常的実践,巡礼ツーリズム産業の日常的営業活動を記述した。まず見えてきたことは,佐渡には模擬巡礼儀礼や代替的巡礼地など,伝統的な巡礼習俗が伝承されてきた事実である。ただ,人々は地域的文脈の影響を受けて巡礼ツアーに参与しているのは確かだが,その行為が専ら伝統に埋め込まれた慣習的な,自明性のもとにある行為というわけでもない。というのも,現在見られる巡礼習俗は地元旅行業者が巡礼商品拡大のために復興したものであったり,現代巡礼ツアーで四国等に行った個々人が地域の儀礼復興を試みたりした結果だからであり,日常的生活世界が一見伝統的な宗教習俗で満たされているように見えるのは,商品化された宗教が再び地域社会に埋め込まれているからである。現代の宗教的なツーリズムは既存の宗教伝統を取り込みながらツーリズム市場に位置を占めており,人々にとってそれは慣習的な行為というよりも,商品消費のように自覚的に敢えて(=再帰的に)行われる行為である。

7~8章では語りや生活史に視点をあて,上述してきたマクロな社会状況が諸個人の宗教的経験や自己の形成のあり方にどう反映するのかを考察した。7章では,前半でマクロな文脈を個人レベルの語りや認識と接続させることに関して,社会構成主義を基礎とするナラティヴ・アプローチを概略したのち,それに基づいて,巡礼経験者が他者に向けて提示する経験的語りや自己物語の内容を,細かな対話資料をもとに分析した。巡礼経験者達はツアー参加から時間を経た後もその経験を好んで語る傾向にあるが,その語りにおいて巡礼的実践とは,宗教の次元か観光の次元かの一方に回収しえない重層的経験として意味付けられ,なおかつ経験を想起する一連の行為は,単に巡礼ツアーについて語るという意味を超え,当人の生活史や生活環境などの一見ばらばらな出来事や話題を自己物語として統合的に組織化し,歴史的・社会的に形成された主体としての「自己」の輪郭をパフォーマティブに作り出す自己省察的な行為であるということが分かった。現代巡礼は旅行商品として一時的に消費されるものではなく,こうして人々に持続的な影響を及ぼしているのである。

7章の分析が示すように,宗教的経験とは事後的に想起し,他者に対して語ることでリアリティーを得るものである。8章では,巡礼経験の語りが佐渡の人々の日常的社会関係の中でいかにしてリアリティーを獲得するのか,エスノメソドロジーの観点に基づいて分析した。その結果判明したのは,この地域における宗教的経験を解釈する新旧2つの装置の存在である。かつて佐渡では動物憑依が頻出し,人々は日常的な不可解な出来事や超常現象を動物憑依に結びつけて解釈していた。だが現在では動物憑依も衰退し,代わって商業化された巡礼ツアーが人々に広まっていった結果,人々が経験し語る現象も巡礼ツーリズムを土台とした出来事が多くなっている。しかし一方で,人々はかつて動物に憑依されたときに語っていたことと同じような内容の語りを巡礼ツアーに託して語っている。ここからは巡礼ツーリズムが(部分的にであったとしても)かつての宗教装置の持っていた経験解釈フォーマットを流用することで,佐渡の人々を「宗教的なるもの」へ誘う装置になっていることが分かる。

7章の議論では,現代巡礼者はツアー参加を通じて自己を再定義する機会を得ているということ,次の8章の議論では,宗教装置が時代状況に応じて入れ替わりながらも宗教的経験自体は再生産されていく様相を見て取ることができた。そこからは宗教の商品化やツーリズム化に抗うように人々の宗教的経験が果たされている,という示唆を読み取ることができるかも知れないが,9章での議論は,消費社会論の観点から宗教的なツーリズムを通した自己発見という命題自体の陥穽を浮かび上がらせる。高度消費社会の中では消費の価値が変化することで,従来であれば市場経済と対立すると考えられてきた宗教的実践や宗教的経験といった要素に価値が付与される。それによって一見消費社会に抗う「オルタナティブ・ツーリズム」に近似した巡礼ツアーも,実は消費社会の論理に親和的であると言え,それゆえに巡礼ツーリズムでの人々の経験を,商品化に抗うように達成された自己実現として道徳的に評価することは消費社会の権力の無批判な肯定に繋がり,結局は世俗化されていない宗教の真正性を探求するロマン主義への逆戻りになると指摘した。

以上を経て次の2つの結論に到った。第一は宗教とツーリズムの相互反照的な関係(reflexivity)のあり方についてである。巡礼ツーリズムは商業的なツーリズムをベースとしながらも,地域社会に伝承されてきた既存の宗教伝統を掘り起こしたり,ツアー現場でも表向きは顧客に宗教的な雰囲気を経験させる演出を行ったりと,いかにもツーリズム的・観光的に見える要素を排除することで成り立っていた。ここに巡礼は商品化されることで活性化し,逆にツーリズムも宗教性を付与されることで商品価値を増していくという,まさに宗教と観光(経済)の相互反照的な関係が明らかとなった。伝統らしさを維持したまま商品化が進むという点で,巡礼のツーリズム化とは一種のフォークロリズム(表層的伝統志向)だが,だとすれば,個別に把握可能な巡礼経験者の語りや実践を,消費社会や市場経済に毒されていない"純粋"な宗教的経験の発露と解釈することもできない。むしろ巡礼ツアーに参加する人々は消費を通じて内面的経験を果たし,新たな自己像を描こうとしている点で,高度消費社会的な自己形成(再帰的自己)の一形態であると言えよう。

第二は巡礼者達の自己意識と再帰性(reflexivity)の問題である。いわゆる後期近代社会における自己の再帰的な形成は,永遠に到達し得ない「本当の自分」像に向かって無限に後退していく隘路として近年議論されている。確かに巡礼者達の自己物語や実践を見れば,高度消費社会特有の再帰性を帯びた自己形成の一例には見えるが,だがそこに必ずしも自己という存在への無限後退が見いだせるわけでもない。7,8章で示したように彼らの宗教的経験は巡礼ツーリズムでよくありがちな身体経験であったり,語られる物語もパターン化されているものに落ち着いていたりするが,それに疑いや不満を持つことなく,彼らはそれ以上の自己省察行為を行わず,自ら巡礼を通じて得た私的な経験として満足する傾向にある。巡礼ツーリズムに見られるこの民衆的な作法を10章後半では,再帰性を浅いレベルで留める「健全さ」の現れであると解釈した。そのことは,宗教を「普通の人々」の日常的な生の営みとして捉え直そうとした本論の初発の動機を示したものである。

審査要旨 要旨を表示する

門田氏の論文『宗教/ツーリズムの再帰的民族誌―現代日本の聖地巡礼と消費される宗教経験』は、現代社会において展開するツーリズム化された聖地巡礼の実態分析を通じ、「宗教的なるもの」の現代的位相を人類学的・民俗学的宗教研究の文脈に位置付け、宗教がツーリズムや市場経済との接合をみせている消費社会的文脈のもとに構成される、人々の宗教的経験や自己のあり方を、主に巡礼者=ツーリストたちのナラティヴ分析等から解明したものであり、現代に生きる「普通の人々」にとって宗教とは何かを、改めて問い掛ける内容となっている。

調査と分析は、文化人類学的手法により中核的なフィールドワークの地を新潟県佐渡に設定するほか、四国巡礼ツアーに同行するなど、日本各地での主に2004年4月から2009年5月までの持続的調査で得られたデータに基づいている。ここでいう持続的とは、連続的な長期滞在ではなく、1週間から1か月程度の滞在を数年に亘って繰り返す調査手法を意味するが、主題によってフィールドワークの方法も一様でなく、本論文の場合、宗教と消費社会における市場経済との連動を把捉する上でも、その手法は適切だったと判断される。

本論文は、以下のIII部10章から構成される。第1章では、従来の巡礼研究が、日常的規範を超越した真正性や聖性へと至る実践とみなされてきたため、これらの実践が近現代の社会変化の中で市場経済的価値を付与され、文化政策や観光産業にとって恰好の資源となっている世俗的な動向を、十分に焦点化してこなかった先行研究の不備を問うとともに、本論文で再帰性(reflexivity)を3つのレベルで使用する研究視角と研究枠組が提示される。第I部「商品化される宗教」では(2~4章)、聖地の世界遺産登録を例にとり、生活世界に基づいた宗教的価値規範が疎外される一方、観光的文脈で変容していく状況を描きつつ、宗教の本質的理解に至らないものとして捨象されてきた、市場経済と宗教との接合状況を捉える必要性がまず明示され、宗教の資源化の観点から,四国および佐渡での事例分析を中心に、近現代日本における巡礼のツーリズム化=商品化を通史的に跡付けるとともに、こうした巡礼ツアーの現在的状況を、民族誌的に描き出す。ツアー現場では、綿密な計画・設計により商品性が徹底される一方、表向きには宗教性が演出され、巡礼者たちは読経や参詣といった集団的・身体的実践を通じて宗教的経験を獲得していくプロセスが明らかにされる。

第II部「日常的宗教環境の再構築」(5・6章)では、佐渡における宗教観光業の形成と観光業者の経営史な分析を行うとともに、擬似巡礼儀礼の消長を中心に、宗教環境が再編される過程を追い、生活世界における宗教的実践がどう変化し、また近年、演出的な再埋め込みがどのようになされるのか、主調査地の歴史的現在的な概容を示しつつ、分析的に記述される。第III部「個の経験からまなざす」(7~9章)では、巡礼ツアーから戻ってきた人々が、想起的な経験の語りを介して、日常的社会関係の中でリアリティーを獲得する過程が詳論され、さらにはそれが自己の再定義の機会となるだけでなく、その自己物語として統合化された主体としての自己が、パフォーマティヴに作り出す自己省察的な行為として、新たな行事をも生み出すなど、地域社会にも持続的な影響を及ぼしている実態を、社会構成主義を基礎とするナラティヴ・アプローチ等を駆使して記述・分析する。その一方で、この地域における宗教的経験を解釈する新旧2つの装置の存在を浮上させ、日常的な不可解な出来事や超常現象を動物憑依に結びつけるかつての解釈装置が衰退し,代わって商業化された巡礼ツアーが部分的にではあるにせよ、動物憑依の持っていた経験解釈フォーマットを流用することで、人々を「宗教的なるもの」へ誘う装置となっている移行を明らかにする。さらに、これを反省的に再解釈し、巡礼ツアーを通した自己発見という先行研究でよく使われる解釈に疑念を呈し、一見消費社会に抗うオルタナティヴ・ツーリズムに近似した巡礼ツアーも、実は消費社会の論理に親和的であって、その過大評価は消費社会の権力の無批判な肯定に繋がることなどが指摘される。

以上の分析と考察からは、次の2つの結論が提示される(10章)。第1は宗教とツーリズムの相互反照的な関係性についてである。巡礼ツアー参加者は、消費を通じて内面的経験を果たし、新たな自己像を描こうとしている点で、高度消費社会的な自己形成(再帰的自己)の一形態であると同時に、第2は彼らの自己意識と再帰性の問題として、いわゆる後期近代社会における自己の再帰的な形成は、永遠に到達し得ない「本当の自分」像に向かって無限に後退する隘路として議論される近年の先行研究に対し、その宗教的経験は巡礼ツアーでよくありがちな身体経験であったり、語られる物語もパターン化されていることから、必ずしもそこに無限後退が見い出せるわけではなく、自らの巡礼を通じて得た私的な経験として満足する傾向にある、その民衆的な作法は、再帰性を浅いレベルで留める「健全さ」の現れだと把捉した点である。

このような内容を持つ本論文の学術的貢献は、以下の3点にまとめられる。第1に、宗教を「普通の人々」の日常的な生の営みとして捉え直そうとした点である。宗教性と商品性とが不可分に絡み合っている現代人の宗教的経験や信心のあり方を、想起的語りを介して再帰的に自己の物語化していく構造を示しつつ、それらは事後的に想起され、他者に対して語ることでリアリティーを得るとして、対話的コミュニケーションの中で構成されることを明確にしたこと。第2に、本論文が人類学的・民俗学的な手法に基づきつつも、マクロな文脈を個人レベルの語りや認識と接続させることに関して、ナラティヴ・アプローチなどを駆使し、民族誌の新たな記述スタイルを構想した点である。他者に向けて提示される経験的語りや自己物語が、宗教の次元か観光の次元かの一方に回収しえない重層的経験として意味付けられる、そのリアリティーがリアルに活写されており、方法的に第1の貢献を補完している。第3に、本論文ではマクロでグローバルな社会経済的環境から、中位の佐渡という生活圏における全体環境を経て、ミクロな個人レベルの認識へと接合させる、大胆な民族誌の構成を志向した点である。そこには疎遠となりつつあった人類学と民俗学の接合が企図され、「再帰的人類学としての民俗学」という提起は、公刊されるや大きな反響を呼ぶことは疑いえない。現代に生きる人々の生活世界を、多様な切り口から立体的に、かつダイナミックに解明している点で、現代文化を対象化した人類学的研究としても大きな貢献を果たしている。

審査委員会においては、本論文が多くのディシプリンの交錯する対象を扱っているため、各ディシプリンの議論が不十分なままに留まっている箇所が散見されること、また用語法や表現、記述の仕方にさらなる改善の余地があることなどが指摘された。しかしこれらは、本論文全体の価値を損なうほどの瑕疵ではないことが審査員全員によって確認された。したがって、本委員会は本論文が博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定する。

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