学位論文要旨



No 127593
著者(漢字) 菊池,有希
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ユウキ
標題(和) 日本におけるバイロン熱
標題(洋)
報告番号 127593
報告番号 甲27593
学位授与日 2011.10.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1109号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 准教授 佐藤,光
 東京大学 准教授 アルヴィ,宮本なほ子
 東京大学 名誉教授 亀井,俊介
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、イギリスの詩人バイロンの人物、作品、思想に思い入れを逞しくするバイロン熱という現象が、日本においてどのように立ち表れていたのかを、明治期から昭和期にかけての文学者によるバイロン受容のありようを検証することによって明らかにし、そこから見えてくる、近代日本の内面的状況と外面的状況のありよう、及び、それらの関係性のありようを探ろうとした試みである。

バイロンは、19世紀初頭ヨーロッパにおいて、最も大きな影響力を持った文学者の一人である。当時、ヨーロッパは、フランス革命の衝撃、ナポレオン戦争による混乱、産業革命の進行などによって、内面的にも外面的にも大きく変貌を遂げつつあった。一言で言えば、当時のヨーロッパは、近代国民国家、近代市民社会、近代的個人が実体的なかたちを整えつつあったという意味で、西洋近代の草創期であったわけである。

このような西洋近代の草創期という過渡的な時代に、バイロンが人々に熱狂的に迎え入れられたのには、理由があった。それは即ち、バイロンにおける自由主義の精神性が、前近代の旧秩序を打破し近代の新秩序を志向する過渡期の人々の希望を鼓舞したからであり、また同時に、バイロンにおける「負のロマン主義」(M. ペッカム)の精神性が、前近代の旧秩序が崩壊し近代の新秩序が未だ確立されていない過渡期の人々の不安の受け皿となったからである。つまり、バイロンは、このように近代草創期という過渡的な時代の希望と不安の両方に応えるかたちで、同時代の人々の「期待の地平」(H.R. ヤウス)に応え得たのであり、近代草創期の時代精神の象徴的存在、一種の偶像(アイドル)となることによって、甚大にして広範な影響力を行使することができたのである。

このようにして始まったヨーロッパにおけるバイロン熱という現象は、ヨーロッパのみならず、ロシアやアメリカなど、近代化を推し進めつつあった他の西洋世界の国や地域にも飛び火していったわけだが、では、近代日本におけるバイロン熱のありようはいかなるものであったのだろうか。そしてそれによって逆照射される、近代日本の内面的・外面的状況とはどのようなものであり、それはどのように文学的に表現されていたのであろうか。本論文の中心的な問題意識は、ここにある。

我が国は、明治維新以降、西洋列強国による侵略から独立を守るため、西洋をモデルとして、政治面、社会面、文化面において、速やかに近代化を成し遂げようとしてきた。明治期の日本は、19世紀初頭のヨーロッパと同様、近代草創期の時代にあったわけであった。我が国にバイロンが紹介され、受容され始めたのは、まさにこの時期、明治前期からである。そして確かに、我が国においても、バイロン熱という現象は、明治期から昭和期にかけて、間歇的であったり局部的であったりしながらも、比較的長期にわたって見られた現象なのであった。

ところで、我が国におけるバイロン熱のありようについての先行研究は、そのほとんどが、概略を素描したものや、個別作品におけるバイロン受容の問題を検証しただけのものであり、我が国におけるバイロン熱の問題の解明を主題とし、我が国の内面的・外面的状況との関わりの中で、その意味するところを、包括的・総合的に十全に究明するという試みは、未だなされてこなかった。本論文は、従来の概論風の語りによって陰に隠されていた問題点を明るみに出し、断片的・部分的に提出されていた知見を集約しながら、我が国におけるバイロン熱罹患者の作品に表れたバイロン受容のありようを、比較文学的方法によって分析を行なったものである。西洋的近代自我の象徴的存在たるバイロンに対して、各人の内的条件に応じて思い入れを逞しくしていた我が国の文学者自身の自我のありようは、一体いかなるものであったのか。本論文においては、その表れをテクストという現場の中に見出し、その表れの意味について、明治期から昭和期にかけての時代状況・時代精神との関わりを重視しながら、解釈を施すということを行なっている。そして、様々な無理解・誤解・曲解を孕んでいたバイロン熱という現象の持っていた意味の射程を見定めんと試みている。

本論(全四章)の各章の概要は、以下の通りである。

第一章では、明治前期のバイロン熱のありようを、バイロンについての論及や紹介がなされ始める明治10年代から、厭世詩人としてのバイロン像が広く公認される明治20年代半ばまでのバイロン言説の内実の変遷の跡を辿ることで、明らかにすることを試みた。この明治前期という時期には、バイロンの厭世的な内面(「負のロマン主義」の精神性)に思いを致す中で、自身の内面の厭世的な自我が呼び覚まされ、ますます厭世詩人としてのバイロンに思い入れを逞しくしてゆく、バイロン熱の内攻とでも言うべき現象が見られたわけだが、そのようなバイロン熱罹患者の代表格が、北村透谷であった。透谷は、バイロンの厭世的自我への共感を基に、詩人に特有の厭世的自我の特権化を図り(「厭世詩家と女性」)、世俗的価値を遥かに超越した文学者の高密度な自我のありようを高唱した文学自律論にまで自身のバイロン熱を高潮させていった(「人生相渉るとは何の謂ぞ」)。透谷とて、バイロンの政治的な面(自由主義の精神性)にも一定の思い入れをしてはいたが、やはり透谷のバイロン熱の基調をなしていたのは、バイロンの厭世的な内面への強烈な思い入れであった。透谷は、内面的な価値を度外視し外面的な近代化(文明開化)の道に邁進している明治日本の浅薄な現実に、否定と懐疑と絶望に彩られたバイロンの厭世的な内面性を対置し、後者の正当性を最大限に認めることで、前者の価値の相対化を図ろうと試みていたわけであった(「兆民居士安くにかある」)。

第二章では、北村透谷の創作及び創作的評論におけるバイロニック・ヒーローのイメージの受容のありようについて検証し、バイロニック・ヒーローの悲劇的な運命を何とか乗り越えることで自身の中のバイロン熱を自己治癒しようとする透谷の文学的・思想的な試みの内実を明らかにすることを試みた。透谷は、バイロニック・ヒーローの懐疑と虚無と絶望を旨とする「負のロマン主義」の精神性の中に〈死に至る病〉を看取し、「負のロマン主義」のイメージの中に「正のロマン主義」(M. ペッカム)へと至る論理を発見することで、「負のロマン主義」の超克を行なおうとした。具体的に言えば、信・望・愛によって虚無の暗闇から自我を解放させようとしたり(『楚囚之詩』)、ロマン派的想像力を媒介にした自然との一体化によって自我を救済しようとしたり(『蓬莱曲』)、宗教的回心によって自我の自己超克の可能性を探ったり(「心機妙變を論ず」)、他我との時空を超えた連帯意識によって自我の宇宙的な孤独を癒そうとしたりしたのであった(「一夕觀」)。このように透谷は、バイロニック・ヒーローとして表象された近代的自我の否定性を超克せんと葛藤したのである。

第三章では、北村透谷の死以降の『文學界』同人のバイロン言説を特に取り上げ、彼らが〈死に至る病〉であるバイロン熱をいかに自己克服していこうとしていたのか、という点について明らかにすることを試みた。『文學界』同人は、透谷の自殺を、「負のロマン主義」への共感を旨とするバイロン熱の必然的な帰結と捉え、透谷の死を契機に、そのような「不健全」な「暗潮」から逃れる道を模索し始める。例えば、島崎藤村は「純粋なる日本想」、平田禿木は「美術的の一新思海」、戸川秋骨は「光明なる彼岸」、といったかたちで、「正のロマン主義」を実現してくれる観念を各々やや恣意的に想定することで、自身の生存を保持しようと試みたわけであった。その中で、ひとり藤村のみが、自身の内部で変形化したかたちのバイロン熱を燻らせ続け(『春』)、大正期に入ってからの所謂「新生」事件を契機として、一気にバイロン熱を再燃させている(『海へ』)。藤村におけるバイロン熱の復活は、明治中期以降、退潮著しかったバイロン熱が、隠微に継承されてきたことを示唆するものであった。

第四章では、従来、ほとんど本格的に論じられることのなかった、明治末期から昭和期にかけてのバイロン熱の問題について検証を試みた。明治末期の自然主義文芸思潮の流行後、ロマン主義的バイロンは、急速に文壇・論壇から忘れ去られていったが、大正13年5月のバイロン死後100年記念祭を機に、革命と動乱の時代である20世紀的な視点から、バイロンに新たな光が当てられ、バイロン熱が再び高潮する土壌が用意された。昭和10年代、大東亜戦争に向かって緊張する時代状況の中で、バイロン熱という現象を担ったのは、林房雄と阿部知二であった。林は、バイロンの急進的自由主義の精神性に対する思い入れ(『青年』)を、日本の近代化(文明開化)を先頭に立って推進していった伊藤博文の「明治の精神」に対する肯定意識にまで高めようとして失敗し(『壯年』)、その後バイロン熱を冷却化させていった。他方、阿部は、戦前に喚起されたバイロンの自由主義的ヒューマニズムの精神性に対する思い入れ(『バイロン』)を戦後もよく保ち続け、それを、戦時に全体主義に傾斜していった日本的近代を超克する論理にまで高めていこうとしたのであった(『捕囚』)。

このように、西洋近代の草創期の時代精神の象徴たるバイロンに対する思い入れ、即ちバイロン熱という現象は、我が国においては、我が国の近代のあり方に対して鋭い問題意識を持っていた文学者・思想家によって主に担われ、その結果、彼ら自身の生のあり方を問う私的・個人的問題意識と、日本的近代のあり方を問う公的・社会的問題意識とが複合した、多彩な作品群を生んでいったのである。

審査要旨 要旨を表示する

菊池有希氏の「日本におけるバイロン熱」は、19世紀はじめに活躍したイギリスのロマン派詩人バイロンが、日本においてどのように受容され、語られたかを、明治初期から昭和期までを視野に入れて論じた労作である。ここに「バイロン熱」とするのは、バイロンを受容した日本の知識人たちが、バイロンに対し強い気分的な思い入れを示し、「罹患」と形容しうるような文学的、思想的熱狂をあらわしたことによる。そのような現象を、日本の文学的、思想的文脈に位置づけようとするのが、菊池氏の研究の主眼である。

バイロンは、フランス革命とナポレオンの登場という、ヨーロッパの政治的激動期に登場し、旧体制から市民社会への過渡期において、自由の精神を体現する詩人としてもてはやされた。その作品に描かれる「バイロニック・ヒーロー」は、バイロンその人のイメージとも重ねあわせられつつ、当時の読書界に大きな影響を揮った。同様のことが、新旧の価値観がはげしく鬩ぎあった明治期以降の日本にも観察される。バイロンという詩人とその作品が日本の知識人たちにどう受けとめられたか、それを明らかにすることが、日本の精神風土そのものを逆照射することにつながるとするのが、菊池氏の主張である。

本論文は、本論四章と、序章および終章からなる。以下、論文の構成にしたがってその概略を述べ、適宜これに対する審査委員の意見を記す。

序章では、バイロンの人物と文業、および欧米でのバイロン研究の概略が紹介されたあと、日本におけるバイロン受容に関する先行研究が確認される。その上で、本論文が日本における「バイロニズム」を包括的に扱おうとするはじめての試みであること、またバイロン受容における無理解・誤解等を積極的に評価することで、「近代的自我」の時代的相貌の描出を試みようとするねらいが表明されている。

この部分について審査委員からは、バイロンの伝記的事実やバイロンが反抗したものが何であったかの記述に不十分な点があること、また「バイロニズム」の模倣、演技としての側面を、より強調すべきではなかったかとの指摘があった。

第一章では、まず明治初期のバイロン言及を丹念に辿りながら、「厭世詩家」としてのバイロン像が定着してゆくさまが、北村透谷の評論を中心に論じられる。バイロンについては、早い段階で長澤別天、森鴎外らの紹介があったが、明治期において他を圧して大きな意味を持つのは、北村透谷のバイロン受容である。透谷はH.テーヌの文学史記述などを参照しつつ、バイロンの『マンフレッド』や『チャイルド・ハロルドの巡礼』を読み、そこに詩人としての自己劇化の参照枠を見いだし、「想世界」と「実世界」の対立を文学的思索の中心的課題として意識化する。そのなかで、世俗的価値に埋没してしまいかねない時代風潮に抗して、内面的価値を擁護する立場が「厭世」という精神のあり方として浮かびあがってゆく過程が、透谷の個々の評論の読解において跡づけられてゆく。

第二章では、第一章の議論をうけて、さらに透谷の内面のドラマが掘り下げられる。透谷は、バイロニック・ヒーローのニヒリズムに魅了されつつ、ニヒリズムに帰着する自我の劇ではなく、ニヒリズムを回避する自我の劇を演じようとする。また、自我の拡張が他我への暴力性につながる事態を避けようとする。「死に至る病」としての「負のロマン主義」の克服としてあったそのような試みが、透谷の評論や戯曲において読みとられる。

第一章と第二章について審査員からは、キリスト教に反逆したバイロンが、透谷においては、キリスト教と同時に受容されることの不可解さへの意識が足りないのではないか、M.ペッカムによる「負のロマン主義」といった用語の図式的な適用が、本論のようなテクスト解釈を本領とする議論においては、必ずしも有効ではないのではないか、『楚囚之詩』や『蓬莱曲』といった透谷の詩に関しては、表現自体により密着した分析が求められるのではないか、といった指摘があった。

第三章は、透谷とともに『文学界』に拠った同人たちが、透谷の自死のあと、バイロン熱といかに関わったかを論じる。透谷の没年である明治二十七年は、すでに「バイロン熱」が退潮を迎えつつある時期にあたっていた。『文学界』同人の、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨らは、「縄墨打破」の恋愛詩人として捉えていたバイロンと次第に距離を取ろうとする。その際彼らは、バイロニズムを国民文学の観点から再評価しようとしたり、その美的価値を重じたり、文学研究の研究対象とみなそうとしたりした。ただし、島崎藤村一人のみにおいて、バイロン熱は長く持続し、いわゆる「新生」事件において、一気に再燃するにいたる。その間の経緯が、バイロンの「大洋の歌」などの受容と絡めて論じられる。

第四章は、これまで「バイロン熱」に関してはほとんど論じられることのなかった、日清・日露戦争期から第二次大戦後までを扱う。明治三十年代において精力的にバイロンの紹介につとめた木村鷹太郎は、やがて日本主義化し、国家主義に接近してゆくが、高山樗牛は、国家主義から遠ざかるかたちでバイロンを受容する。日露戦争後はバイロン熱は著しい退潮を示し、土井晩翠において、バイロンはもはや自己表現の参照枠としての機能を失うにいたる。その後低調であったバイロン熱は、昭和十年代にいたって、にわかに復活するが、そのなかで重要な人物として浮かびあがるのが、林房雄と阿部知二であった。第四章の後半は、林と阿部のバイロン受容を取りあげて、「転向」の問題や戦前戦後の思想界の動向との関連を論じている。第三章と第四章について審査委員の評価は高く、今後さらにこの時期についての研究が進展することが望まれるとの意見があった。

終章は、本論全体の議論をふりかえりつつ、バイロン熱という現象に着目することで、近代日本の思想・文学における重要な論点と、時代の変化を辿ることが可能となることを改めて確認している。

本論は、明治期から昭和の戦後にいたる時代の「バイロン熱」を本格的に論じた、はじめての論文である。その意味で、本論が比較文学研究に対してなした貢献はきわめて大きい。また、日本におけるバイロン熱を論じた先行研究を徹底して渉猟し、自説との異同を一つ一つ確認するさまは、学問的手続きとして模範的な態度を示している。その一方で、英文学研究、ロマン主義研究の最新の動向には、やや暗いと言わざるを得ない。また、文学理論の援用において、テクスト読解の現場での柔軟性が求められるという指摘も審査委員から寄せられた。ただし、以上のことは、本論文が挙げ得た優れた学問的成果を決して損なうものではないことも同時に確認された。

よって本審査委員会は、菊池有希氏の論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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