学位論文要旨



No 127597
著者(漢字) 辻,笑子
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,エミコ
標題(和) オロエ語(ニューカレドニア)の文法記述
標題(洋)
報告番号 127597
報告番号 甲27597
学位授与日 2011.11.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第839号
研究科 人文社会系
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 中村,雄祐
 東京大学 教授 林,徹
 国立国語研究所 教授 角田,太作
 東京女子大学 教授 大角,翠
 群馬県立女子大学 専任講師 下地,理則
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は,ニューカレドニアの先住民語「オロエ語」の文法を,音韻,形態,統語の面からできるだけ包括的に記述することである。

ニューカレドニアでは公用語のフランス語の他に,アジアや太平洋の島々から移民してきた人々の言語,1つのクレオール言語,そして 28 の先住民語(オーストロネシア語族オセアニア語派に属する言語)が話されている。これらの先住民語のうち,半分以上の言語は 1,000 人以下の話者しか存在しない。辞書や文法書が存在し,学校で教育を行っている言語は,話者を 1,000 人以上持つ比較的大きな言語に限られている。その他の少数言語は,公用語のフランス語や優勢言語の圧力を受け,十分な記録がないまま急速に話者が減少している。

オロエ語は現在中高年層の人しか話すことができず,若者への継承がなされていない。2004 年国勢調査によるとオロエ語の話者はわずか 355 人である。オロエ語はこれまでに,語彙集やテキスト,音韻に関する論文があるものの,文法書は未だ存在しない。オロエ語を用いた出版メディアも十分ではないため,このまま言語が失われてしまえば,話者たちの伝統的な知識や世界観など全てを内包した貴重な無形文化財が永遠に失われてしまうことになる。先住民語の保存,子供達への先住民語教育を考えるとき,その言語の全体を把握できるような文法書がまず何より必要不可欠である。このような背景から,筆者は,少しでもオロエ語の記録を残したいと思い,本論文を執筆するに至った。

本論文の最大の特徴は,これまでになかった「オロエ語の文法を包括的に記述する」という研究内容である。オロエ語の文法は,先住民語の語彙・文法について書かれた1940年代の先行研究に簡単な記述があるが,そのほとんどの項目は「隣の言語アンジュー語と同様である」という記述で終わっている。ニューカレドニアの先住民語は,オーストロネシア語族の中でも特異な性質を持つと言われており,それぞれの音韻体系や統語構造が多様であることも知られている。先住民語の中でも,まだ研究が少ないオロエ語の文法を記述することは,先住民語研究にも,一般言語学にも,大きく貢献できるものである。

上記のようにオロエ語は中高年層の人しか話すことができず,子供たちは公用語であるフランス語しか話せない。しかし中には先住民語に興味をもつ子供も存在し,高年齢層の人たちも自分たちの言語を若年層へ伝えておきたいという強い気持ちを持っている。従って,オロエ語の文法記述は,学問的な意義だけではなく,オロエ語話者が今後オロエ語を保存していくためにも意義のある研究である。

筆者は,2007年から2010年にかけて計約7カ月,ニューカレドニア本島の南部州に位置するBourailという地方自治体の中の,Pothe,Azareu,Bouirouという集落でオロエ語の調査を行った。主な調査協力者は,Pothe集落在住の60代後半の男性と,Azareu集落在住の50代後半の女性である。その調査で得た言語データを基に,オロエ語の文法記述を本論文にまとめた。

本論文は,[1] 本論と [2] 附録 の2つから成る。[1] 本論は8つの章から成る。第1章では,本論文の目的,本論文の構成,本論文で用いるデータと研究方法,本論文での表記の基本方針を述べる。そして章末に,本論文で用いる略号と語彙リストを掲載する。

第2章では言語の概略を述べる。社会的背景,言語的背景,文化的背景に分けて順に述べる。社会的背景では,ニューカレドニアの社会的背景とオロエ語が話される地域の社会的背景を述べる。言語的背景では,ニューカレドニアの先住民語とオロエ語について,先行研究や言語使用状況などについて述べる。文化的背景では,部族と家族,名前,親族名称,冠婚葬祭,トーテムとタブー,特別な話し方,歌と踊りについて述べる。

第3章では音韻について述べる。まず,オロエ語で設定する音素目録と音節構造を示す。オロエ語には,24の子音音素 ( /p/,/b/,/pw/,/bw/,/t/,/d/,/c/,〓) と,16の母音音素 ( /i/,/e/,〓) があり,それぞれの短母音に対応する長母音も存在する。オロエ語の音節はすべて開音節である。子音連続の例は今のところ見つかっていないが,母音連続の例には豊富な種類の組み合わせが見つかっている。それぞれの音素の出現位置,音素の音声的な実現を述べた後,音素配列について述べる。

この「音素配列」では,調査で得た約1,400語のうち,これ以上形態素分析できないと考えられる約700語を対象に,それぞれの子音音素と母音音素が,語頭,語中,語末において,どの音素に後続して現れるのかを表にまとめて提示する。これは,先行研究では扱っていない研究内容であり,本論文の特徴の一つと言える。次に,語の強勢と文の音調について述べ,その後,音韻的なプロセスと形態音韻論について述べる。最後に,地域差と世代差,及び,借用語の発音について述べる。

第4章では品詞について述べる。まずオロエ語の形態素の分類(自立語,接語,接辞)と品詞分類について述べる。本論文では,節の構造における語の配列の特徴を基に,名詞類(名詞,代名詞,数詞,所有類別詞),動詞,副詞,名詞修飾詞,動詞修飾詞,前置詞,接続詞,間投詞という8つの品詞を設定する。それぞれの品詞の形態的特徴,統語的特徴,意味的特徴を順に述べる。

第5章では形態論について述べる。オロエ語では,名詞および動詞が,接辞化,反復,複合の3つの形態的操作を受ける。名詞を派生する接辞には,名詞類に付加する接辞と,動詞に付加する接辞がある。動詞を派生する接辞には,使役接頭辞,相互/再帰接頭辞,分類的接頭辞,他動詞化接尾辞,方向接尾辞がある。複合名詞および複合動詞については,拘束形の語根を含むものを複合語と定義して第5章で扱い,自由形の語根のみが複数接続するものは句を成していると考え,第6章で扱う。

第6章から第8章までは統語論について述べる。第6章では句の構造について述べる。句は統語上,語と等価である。句には名詞句,動詞句,副詞句があり,それらは文や節の中でそれぞれ統語的に名詞,動詞,副詞と同じ働きをする。名詞句の構造,動詞句の構造,副詞句の構造の順に述べる。

名詞句には,構成要素が修飾関係にある名詞句と,構成要素が対等な関係である名詞句がある。前者は現れる要素の順が決まっているが,後者は要素の順の入れ替えが可能である。多くのオセアニア言語と同様,オロエ語の名詞句には,多様な所有構造を示す例が見つかっている。大きく分類すると,「所有物」と「所有者」を表わす要素が並列する「直接所有構造」と,それらの要素間に他の要素が介入する「間接所有構造」がある。後者はさらに「所有類別詞を用いる間接所有構造」と「前置詞を用いる間接所有構造」に分類できる。オロエ語の所有類別詞には,食べ物を表わす類別詞が3つ,飲み物を表わす類別詞が1つ,その他の所有物を表わす類別詞が1つ見つかっている。

動詞句では,動詞が被修飾要素となり,動詞の前後に動詞修飾詞が修飾要素として現れる。オロエ語の場合,時制,アスペクト,ムード等は動詞修飾詞を用いて表わす。時制に関して言うと,過去と現在を表す際は無標で,未来を表す際には時制の標識を用いる。オロエ語の動詞句には動詞連続の例も多数見つかっており,方向,様態,要望,同時動作,原因結果の意味を表わす例がある。

副詞句には,複数の動詞修飾詞から成るもの,人称代名詞独立形と名詞句から成るもの,前置詞と名詞句から成るものの3種類が見つかっている。前置詞と名詞句から成るものは第4章で扱い,その他の2つを第6章で扱う。

第7章では節の構造について述べる。節は主語と述語を含む。その述語の種類によって,名詞述語節と動詞述語節に分類することができる。名詞述語節には,述語である名詞句の前に人称代名詞が現れる構造と、人称代名詞が現れない構造が見つかっている。動詞述語節の基本語順は,SVOS(主語,動詞,目的語,主語)である。名詞句主語は節の最後に現れ,その名詞句主語と人称・数が一致する人称代名詞が動詞の前に必ず現れる。名詞句の格は主に前置詞によって標示する。格標示システムは対格型であるが,主格が有標で対格が無標であり,これは類型的にみて珍しい現象である。動詞述語節に関しては,「自動詞節,他動詞節,コピュラ動詞節」,「一項節,二項節,三項節」,「基本動詞節,派生動詞節」という3つの観点から考察する。章末では,名詞述語節と動詞述語節における主語について述べる。

第8章では文について述べる。まず1つの節から成る文(単文)について,平叙文,疑問文,命令文という観点から述べる。疑問文には「真偽疑問文」と「内容疑問文」がある。命令文には「肯定命令文」と「否定命令文」があり,それぞれ,一人称,二人称,または三人称に向けた命令文が見つかっている。

次に,複数の節から成る文(複文)について,並列,等位接続,従位接続の例について順に述べる。従位接続の複文については,その従属節の種類により,名詞節,名詞修飾節,副詞節の順に,それぞれの構造や意味的特徴を述べる。最後に,文の話題 (topic) について述べる。オロエ語には話題化の機能を持つ標識が存在する。その標識によって話題化される要素の品詞および統語機能について述べ,「話題」の要素に続く「評言」の構造について述べる。

[2] 附録には,調査協力者の男性が語った3つのモノローグ(1:結婚の方法についての話,2:葬儀の方法についての話,3:代々伝わる薬の話)のテキストを掲載する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文はニューカレドニアのオロエ語の記述的研究である。オロエ語は消滅の危機に瀕している。この言語を話せるのは中高年の人たちだけであり、子供たちはフランス語を話す。筆者は現地に長期間滞在し、困難な状況の中で貴重な資料を収集した。本論文は主に音韻、形態、統語を対象として、この言語の包括的な記述を提示した力作である。

「第1章 本論文の概要」では目的、構成、データと研究方法、表記方法などを示し、通読のための十分な情報を提供する。「第2章 言語の概要」ではこの言語の話者を取り巻く社会的背景を紹介し、第3章以降の記述の厚みを加えている。「第3章 音韻論」では音素とその音声的実現、音節構造、音素配列、強勢、音調、音韻的なプロセス、形態音韻論、地域差と世代差、借用語の発音について、調査したほぼ全ての語例を対象に詳細な分析を示す。「第4章 品詞論」では名詞類、動詞、副詞、名詞修飾詞、動詞修飾詞、前置詞、接続詞、間投詞の品詞を設定し、その意味と用法を包括的に記述した後、「第5章 形態論」では名詞の形成と動詞の形成を豊富な用例を用いて記述する。「第6章 統語論I 句」では名詞句の構造、動詞句の構造、副詞句の構造を、「第7章 統語論II 節」では、名詞述語節と動詞述語節を扱い、更に、節を基本動詞節と派生動詞節に分類する。最後に、オロエ語の事実に沿って主語を規定する。「第8章 統語論III 文」では平叙文、疑問文、命令文の用法を記述する。次に、複文を並列、等位接続、従位接続の三つに分類し、更に、従位接続を、名詞節、名詞修飾節、副詞節に分けて記述する。最後に、文の話題を記述する。附録の三つのテキストは、この言語の特徴をよく伝えているだけでなく、文化的にも非常に興味深い内容を含む。

本論文は、調査の極めて難しい、消滅の危機に瀕した言語の研究であるにもかかわらず、詳細であり、かつ優れた記述が、分類的接頭辞(第5章)、動詞句(第6章)、疑問文(第8章)、名詞修飾節(第8章)など、随所に見られる。更に、言語類型論の観点から見て興味深い現象を報告している。それは、待遇表現での三人称代名詞の用法(第2章)、主格と対格の表示(第7章)、使役構文での格表示(第7章)、形式主語(第7章)、前置詞残留(第8章)、話題標識(第8章)、所有者昇格(第8章)である。

惜しむらくは、音素配列(第3章)や動詞連続(第6章)の分析などにおいて、せっかくの豊富な資料を、分析に十分生かしているとは言いがたい。しかしながら、本論文がオロエ語の音韻、形態、統語について示した、非常に詳細で、かつバランスのとれた記述は高く評価すべきである。消滅の危機に瀕した言語の記録としての価値も高い。

以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに十分値するものと判断する。

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