学位論文要旨



No 127613
著者(漢字) 富永,泰代
著者(英字)
著者(カナ) トミナガ,ヤスヨ
標題(和) カルティニの虚像と実像 : 1987年編カルティニ書簡集の研究
標題(洋)
報告番号 127613
報告番号 甲27613
学位授与日 2011.12.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第845号
研究科 人文社会系
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 教授 水島,司
 東京大学 名誉教授 桜井,由躬雄
 東京女子大学 教授 鈴木,恒之
内容要旨 要旨を表示する

カルティニRaden Adjeng Kartini (1879-1904) は、1911年に刊行されたDoor Duisternis tot Licht(『闇を越えて光へ』以下1911年版と記す)によってオランダ植民地文学 Nederlandsche-Indische Letterkundeの作家と認識されている。一方、1964年、カルティニはPahlawan Kemerdekaan Nasional即ちインドネシア共和国国家独立英雄に列せられた。従来のインドネシア史の研究で、カルティニは常に倫理政策と結びつけて扱われ、インドネシア民族主義運動史の中に位置付けられている。その主要史料が1911年版である。それは、カルティニの文通相手であったオランダ領東インド政庁教育・宗教・産業局長官アベンダノンJ. H. Abendanon (1856 - 1925) が編集し、オランダ社会に広く迎えられた。そのインドネシア語抄訳版Habis Gelap Terbitlah Terang(『闇を越えて光へ』)は、今も版を重ねている。

しかし出版当初から、アベンダノンの編集はさまざまな憶測や懐疑をまねいた。カルティニの実態と乖離した想像すなわち「カルティニの虚像」が形成されたともいわれている。

本論文は、1987年に刊行されたBrieven: aan mevrouw R. M. Abendanon- Mandri en haar echtgenoot(『アベンダノン夫人とその夫へ宛てた書簡集』、1987年版と記す)を主要史料として、1911年版によって形成されたカルティニの「虚像」に対し、カルティニが実際に行ったことやその主張等を再構成する、「実像」を復元しようとした。

これまでの研究では専らカルティニが「何であったか」即ち「民族主義の先駆者」、「女性解放運動の先駆者」等として論じられてきた。しかし、当時のカルティニが「どうであったか」については論じられていない。しかし、1987年版はカルティニが一人の人間として自立・解放を求めた軌跡を表出する。これと比較すると、1911年版はアベンダノンが女子校の設立に資するという出版目的から、原稿を取捨選択し大幅な改ざん等の編集を加えた産物であったことが明白になる。各章で、消去されたカルティニの可能性や忘却された事実を挙げ、削除された理由を検討し、従来の「ラデン・アジュン・カルティニ」(ラデン・アジュンはジャワ貴族の未婚女性の称号)とは異なるカルティニを提示する。

序章では、カルティニ研究の問題の所在が史料にあることを、研究史を通じて述べた。1987年版即ちカルティニ書簡集の完全版がKITLVから編集・出版された後も、アベンダノンの編集は批判の対象とされていない。しかし、1987年版と1911年版を比較すると、アベンダノン夫人宛書簡・アベンダノン氏宛書簡・夫妻宛書簡のうち、1911年版に公表された書簡は1987年版の3割弱しかない。しかも、その全ての書簡中、一部または大半の文章が削除されたこと、2通以上の原書簡に「切り貼り」を行って1通に「合成」したことを指摘した。恣意的な編集は翻訳版にも影響を及ぼし、オランダとインドネシアでそれぞれのカルティニ像が形成された。しかし、それは「実像」とはかけ離れたものであり、アベンダノンが削除した書簡からカルティニの実意を掘り起こす必要性を述べた。

第1章では、20世紀転換期、オランダ領東インドの社会変容を文化的側面から述べた。スエズ運河の開通以降、交通・通信の急激な伸長は高速・大量輸送を可能とし、情報・技術が国境を越え均一に結ばれた。この「輸送革命」と活字メディアは西洋から最新情報を東インドへ流入させた。それは、東インドに居住するオランダ人のみならずオランダ語を解せる個人が、世界の公開情報を即時に閲覧できる環境が出現したことを意味した。またこの時期、植民地官僚機構の拡大によって東インドの住民から官吏を調達する上で、オランダ語教育が要諦となった。1901年に始まった倫理政策は、「西洋の光」で「ジャワの闇」を照らし、文明化・西欧化することを意図したと言われ、オランダ語教育が社会貢献に資する人材を育成することを示すため、カルティニは「倫理政策の好例」とされた。しかし、女子を束縛する旧習は温存され、「西洋の光」はジャワを恣意的に照らしたにすぎなかった。

第2章では、カルティニの生涯について述べた。カルティニが洋式教育を受け異文化と出会い、オランダ語とジャワ語との両言語間を往還することは、自身の文化・社会から一歩踏み出すことを意味した。同時に、カルティニは自身とその文化を客観視できるようになり、ジャワの慣習を絶対視することなく批判した。伝統的価値観に固執する人々と対峙するカルティニが見ざるをえなかった世界を、ジェンダーそして年齢差を重視する慣習の側面から、事例を挙げて分析した。一方、第1章で述べた「輸送革命」が齎す時間の短縮による最新情報の入手と文通で、カルティニは自身の環境を超えた世界との交流が可能になった。カルティニは生涯にわたり価値観が対立する体験を繰り返した。その葛藤から知性が芽生え、カルティニを育て上げたことを述べた。

第3章では、カルティニの読書について述べた。彼女は、先述の「輸送革命」を背景にジャワで、西洋近代を本質から理解することに努め、同時に諸作品から時代を読んだ。文通相手がオランダ語書籍の供給者となった。彼女は女性作家の作品や女性解放思想に共鳴した。また、オランダの小説で知った「三人称の語り」の技法を書簡に取り入れ、カルティニは自己・ジャワ・オランダを客観視した。そして、カルティニは旧習に拘束された状況を省察することを通じて、ジャワ人女性に生まれた偶然を必然に転化した。それは、自己の内包的存在を問うことであり、カルティニが自身を、現実を自覚し、その上でジャワ人女性として自尊の念をもつようになった過程が読書体験のうちに見出される。そうして、読書で獲得した言葉と知識を基に、誌上で「慣習(閉居)の打破」をオランダ語で主張した。カルティニにとって読書とは、自己認識の機会であったと同時に、自己と社会を解釈することによって書く行為につながる、自己表出の原点であったことを指摘した。

第4章では、カルティニの社会活動を検討した。産業・教育・宗教局長官アベンダノンとカルティニは従来言われた教育関係ではなく、地場産業振興をめぐるパトロン-クライアント関係にあったが、アベンダノンが出版目的を達成するため、木彫工芸振興の記述を削除したことを指摘した。次に、カルティニが木彫職人と共に作品を練り上げ、伝統的技法の維持・復興に努めると同時に、慣習から職人の精神と想像力を解放したことを例証した。また、カルティニはオランダが推進する改宗を批判し、アベンダノンに信教の自由を訴え、「物言わぬ」職人の「代弁者」の役割を演じたことを実証した。すなわち、倫理派アベンダノンが推進した産業振興とカルティニのそれは、ビジョンが異なることを指摘し、実際のカルティニは従来から言われる「倫理政策の好例」ではなかったことを述べた。

第5章では、アベンダノンが削除したカルティニの声やカルティニが日常の身辺で取材したジャワ人女性、スヌック・フルフローニェ批判を挙げた。カルティニは慣習によって性差が秩序として固守され進歩を妨げると批判し、その改善策として女子教育を提議した。次に、覚書「ジャワ人に教育を」を用いて、カルティニの教育理念が倫理政策と異なる点を示した。覚書でカルティニは、教育や保健・衛生への提案のほかに、人種・身分・ジェンダー・年齢による構造的な差別、とくに、子供・女性等の社会的弱者が選択の自由を奪われ、固定された階層の中で生を終える実態を訴えた。また、通説では見落とされていたカルティニの提案―オランダと東インドの相互理解と協調―を検討した。その背景にはカルティニが『武器を捨てよ』を読み、著者ベルタ・フォン・スットナーの平和主義への共感があったことを例証し、第3章を発展させた。

第6章では、1911年版題名の「光と闇」について、カルティニはアベンダノン夫人の用いた「光と闇」二元論に説得力を見出し、それを用いて持論を展開し夫人や子息を納得させたことを例証し、「光」はカルティニの私的な範疇にあって、従来の研究で言われた20世紀の時代精神を反映するのもではない。また、従来の研究では1911年版の内容分析を中心としたが、本章ではアベンダノンの編集手法を分析した。オランダの出版市場を意識してDoor Duisternis tot Licht と命名したこと、カルティニの私信が「切り貼り」によって出版市場に公開される文章に変化したことを例証し、出版目的に適う企画・編集によってアベンダノンは成功をおさめたが、カルティニの声は失われたことを批判した。カルティニは「新しい女性」を自称し「日々進歩する世界」に自らを位置付けたにも拘らず、アベンダノンによって「オランダ領東インド」という枠をはめられ、即ち、東インドはGroot Nederland(大オランダ)の一部であるという帝国主義的構図に位置付けられた。第一次世界大戦後、オランダはカルティニを「大オランダの安寧」を保持する象徴として、インドネシアは「東インド」の版図を「インドネシア」と想定する過程でカルティニの理想を「インドネシアの一体性」と捉え、アベンダノンが選定した著者名「ラデン・アジュン・カルティニ」は各種族を超克する「ブランドネーム」となった。カルティニは良妻賢母、フェミニズムの先駆者、民族主義の先駆者、教育家等と言われ、インドネシア史の重要事項と密接にかかわる「ラデン・アジュン・カルティニ」へ変容し、カルティニの「個」は否定され、カルティニの真意は忘却されたことを述べた。

資料について、1987年版のカルティニ書簡105通を全て翻訳した。本邦初訳でありカルティニ理解を深めると信じる。1911年版と重複する文章は斜体にして、アベンダノンの編集を可視化した。

審査要旨 要旨を表示する

20世紀初頭のオランダ領東インドで活躍したカルティニについては、長い間、1911年にアベンダノンが、カルティニの書簡を編集して刊行した『闇を越えて光へ』(以下1911年版)に基づいて議論がなされてきた。本論文は、カルティニがアベンダノン夫妻にあてて送った現存する書簡を網羅的に所収して1987年に刊行されたBrieven:aan mevrouw R.M.Abendanon-Mandri en haar echtgenoot (アベンダノン夫人とその夫へ宛てた書簡集、以下1987年版)に依りながら、1911年版がどのようにカルティニの書簡に意図的な編集を行ったのかを解明し、1911年版に依らない新たなカルティニ像を描こうとしたものである。

1987年版に依拠して1911年版を体系的に批判した本研究は、国際的に見て、先駆的な業績と言うことができる。そこでは、たとえば、1911年版では倫理政策の文脈で「女子教育推進者」としてのカルティニという像を強調するために、実際には書簡の中で大きな比重を占め、カルティニの社会活動として重要な位置をもっていた木彫工芸振興活動を無視ないし軽視していること、また、アベンダノンが、カルティニが自らの私的な希望をアベンダノン夫人に理解してもらうために使った「光と闇」という二元論を、倫理政策の文脈に置き換え、かつヨーロッパ市場での本の売れ行きも考慮したため、『闇を越えて光へ』というタイトルを用いたことなどが指摘されている。このような分析を通じて、本論文は1911年版の編集意図を浮き彫りにすることに成功している。

筆者は、1987年版を丹念に読み込むことにより、個人の解放を希求し、それを「我々の美しい地球」というような言葉に象徴される、すぐれて地球的・普遍的な志向に結び付けていたカルティニの「実声」「実像」が浮かび上がるとし、これに対して、アベンダノンの編集による1911年版から描かれたのは、カルティニを植民地主義的な「大オランダ」や民族主義的な「インドネシア」といった枠組みに押し込めてしまうものであったと批判する。

審査委員会では、本論文について、次のような問題点が指摘された。第一は、1911年版によるカルティニ解釈が虚像であるとしても、1987年版が必ずしもカルティニの「実像」を導きうるとは言えないし、また、その前提となる1987年版に対する史料批判が不十分なのではないか、第二に、「地球」という言葉をカルティニが使用していたとしても、それを今日の思潮に引き付けて解釈するのは、議論を「現代化」し過ぎるのではないか、第三に、19世紀末から20世紀初頭のジャワの社会史、あるいはジャワ貴族社会という文脈での歴史的考察をもっと強めるべきではないか、第四に、全体として、カルティニ一辺倒の解釈に終わり、その周辺の人物や周辺事象の分析が疎かになっているのではないか、などである。

本論文については、以上のような問題が指摘された。しかしながら、審査委員会では、カルティニに対する深い洞察なしには本論文は完成しなかったであろうこと、本論文には様々な問題点があるものの、カルティニ研究の新次元を導いたことは評価すべきであることを認め、全員一致で博士(文学)の授与にふさわしいものであると判定した。

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