学位論文要旨



No 127621
著者(漢字) 平山,昇
著者(英字)
著者(カナ) ヒラヤマ,ノボル
標題(和) 初詣の成立と展開 : 近代日本の都市における娯楽とナショナリズム
標題(洋)
報告番号 127621
報告番号 甲27621
学位授与日 2011.12.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1112号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 立教大学 教授 老川,慶喜
 東京大学 教授 苅部,直
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 准教授 桜井,英治
 東京大学 准教授 外村,大
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、明治期の都市化のなかで庶民の娯楽行事として生まれた初詣が、大正期以降知識人へと波及し、〈上から〉の動員によらない個人・家庭単位の自発的な慣習として、娯楽とナショナリズムが絡みあうなかで、「国民」を包摂した正月行事へと変容していく過程を明らかにするものである。

まず、第一部では、明治期の都市化のなかで、近世以来の社寺参詣が〈鉄道+郊外〉によって再編されることによって、初詣が成立する過程を論じた。

第一章では、明治期東京における初詣の成立過程を明らかにした。東京の南郊に位置する川崎大師は、いちはやく鉄道のアクセスを得たために、恵方や縁日といった近世以来の基準にとらわれずに正月に参詣に訪れる人々で賑うようになり、これが「初詣」と称されるようになる。さらに、明治後期になると並行する鉄道同士の競争によって、初詣は娯楽性を高めながら賑わいを増していく。

第二章では、東京と大阪を比較しながら初詣と近世以来の恵方詣との関係を検討し、近代都市が最終的に恵方を衰退させ、初詣を定着させた要因を明らかにした。鉄道会社は恵方を集客のために積極的に活用したが、恵方は毎年方角が変わるため、毎年用いるわけにはいかない。そのため、鉄道による集客競争の激化のなかで恵方は乱用されて重要性を失っていくとともに、恵方に関係なく用いることができる「初詣」が盛んに活用されるようになっていった。

第二部では、天皇の代替りを契機として、庶民の娯楽として成立した初詣に知識人たちが参入しはじめることによって、初詣がナショナリズムと接合し始めることを論じた。

第三章は、明治天皇重態時の二重橋前平癒祈願とその直後に新聞投書欄で起こった明治神宮創建をめぐる論争を検討した。二重橋前平癒祈願では、土下座する老婆や土俗的な祈祷者といった下層庶民がかえって熱烈に天皇の平癒を祈願する様子が新聞で大々的に報じられ、知識人たちは表面上の〈形〉は様々でも天皇を思う〈感情美〉は皆同じであるとして感激した。天皇死去後まもなくして、明治神宮創建の可否をめぐる議論が新聞投書欄で起こったが、神宮推進派と反対派の意図せざる共同作業によって〈感情美〉が神社と独占的に結び付けられていく。平癒祈願において〈形は様々/心は一つ〉として見出された〈感情美〉は、かくして神社と独占的に結びつく〈形も心も一つ〉という中身へと変化していった。

第四章では、明治期に成立した初詣が庶民中心の娯楽で知識人層には馴染みが薄い行事であったことを確認したうえで、明治から大正への天皇の代替りを契機として初詣が上層へと波及していくという〈下→上〉の回路が開かれたことを論じた。とくに東京については、第三章をふまえて、大正9(1920)年に誕生した明治神宮が〈感情美〉の再生装置となり、知識人たちは「迷信」的行為を〈感情美〉のフィルターを通して好意的に解釈することによって、庶民たちとともに初詣を行うようになる。明治神宮初詣は、内部に差違をはらみながらも、神社に参拝するという大枠のプラクティスを共有する「国民」の行事となったのである。

第三部では、大正期以降、初詣がナショナリズムと接合し始めたからといって娯楽性を縮小させたわけではなく、むしろ都市化のなかで娯楽とナショナリズムが絡み合っていくことによって、多くの人々が〈上から〉の動員なしに自発的に楽しみながら参加する「国民」の行事として拡大していくこと、および、このような動向にもかかわらず初詣を一様にナショナリズムの文脈のみで美化する言説が流通していくことを明らかにした。

まず第五章では、伊勢神宮をはじめとする「聖地」(天皇陵および皇室ゆかりの神社)への参拝客が、国鉄・私鉄の競争/協同の相乗関係によって娯楽性をともないながらさかんになっていくこと、さらに、それにもかかわらず、言説上ではナショナリズムの文脈で捉え返されていくことを明らかにした。

第六章では、明治神宮と郊外の有名寺院(成田山・川崎大師)が都市化にともなう〈脱都市〉を求める行楽の需要と合致して初詣の賑わいが右肩上がりに増していき、現代の初詣の原型が確立する過程を検討した。さらに、このような〈社寺〉の初詣という実態にもかかわらず、〈寺〉を捨象して〈社〉のみに限定して初詣を皇室と結びつけて美化する言説が流通していくことを論じた。

以上をまとめれば、初詣の成立と展開の歴史は以下のようになろう。明治期に〈鉄道+郊外〉によって都市庶民の郊外行楽を兼ねた娯楽として成立した初詣は、明治から大正への天皇の代替りを経て知識人の参入が始まり(プラクティスが下から上へ波及)、ナショナリズムと接合していく。戦間期には、都市モダン文化と共通の基盤のうえで娯楽とナショナリズムが絡み合うなかでさらに拡大をみせ、現代の原型を確立していく。だが、娯楽性をますます高めていく初詣の実態とは裏腹に、言説上ではこれをナショナリズムの文脈で語る言説が発生し、社会に流通していった。つまり、下から上へと波及したプラクティスは、上で捉え返されて、そこから発生した言説が社会に還流していくという、〈下→上→下〉の回路によって、初詣は「国民」の行事へと変貌していったのである。

最後に結論として、本論で明らかにした近代日本の都市部における初詣の成立と展開の過程をふまえて、序論で提示した基本視角を軸に考察を行った。

(1)〈鉄道+郊外〉がもたらした"自由″

近世以来の社寺参詣には方角や日取りに関する細かいルールがあったが、〈鉄道+郊外〉によって成立した初詣は〈正月にどこかの社寺に参詣する〉という程度の中身しかない。つまり、〈鉄道+郊外〉は、近世以来の社寺参詣にまとわりついていた細かいルールから人々を"自由"にする機能をもったと言える。だが、この中身のなさゆえに、大正期以降、初詣は容易にナショナリズムと接合していくことになる。〈鉄道+郊外〉によってもたらされた"自由"は、その延長上に、ナショナリズムとの親和性が待ち受けていた。〈○○からの自由〉が〈△△への従属〉へと転じていくというパラドクスである。

(2)〈下→上→下〉という回路による国民の一体化

初詣は、もともとはナショナリズムとは別の文脈で庶民の娯楽行事として生まれたものであったが、明治から大正への天皇の代替りを契機として知識人へも波及していく。特に東京では、明治神宮という、「国民」内部の様々な差違をのりこえてプラクティスを共有できる場が誕生したことが、初詣の「国民」化の過程において重要な転機となった。さらに、〈皇室=明治神宮=初詣〉を三段論法的に飛躍させて、国民が宮中の四方拝に倣って古くから行ってきたものとして初詣を語る〈皇室=初詣〉型の言説が生み出される(〈上から〉のとらえ返し)。この言説は、様々なメディアを"伝言ゲーム"のように流通しながら、社会へと還流していった。

明治期から昭和戦前期にまで至る初詣の「国民」化の過程からは、以上のような〈下→(プラクティス)→上(とらえ返し)→(言説)→下〉の回路が見出せるのである。

(3)天皇に対する国民の〈感情美〉

二重橋前平癒祈願の際に浮上した〈感情美〉とは、表面上の違いこそあれ国民が皆天皇を思う共通の心情を有している(形は様々/心は一つ)という意味で"発見″されたものであり、この時点では神社との独占的な結びつきは全くなかった。ところが、その後の明治神宮創建論争のなかで〈感情美〉は独占的に神社と結びつけられたものへと変化していく。〈皇室に対して心は一つ〉であったはずの〈感情美〉は、〈皇室=神社に対して心は一つ〉という中身に変質したのである。そして、実際に創建された明治神宮が〈感情美〉の記憶の再生装置として機能するようになり、従来の社寺参詣に対して知識人が有していた心理的障壁は緩和・解消され、階層間の隔たりをのりこえた「初詣」というプラクティスの共有が可能となった(ただし、神社に違和感を持ち続ける一部の人々を除いて)。

我々は以上のような天皇に対する国民の〈感情美〉がたどった道筋に注目することによって、明治期に庶民と隔絶した位相に生きていた知識人が庶民とともに群集に混じって神社に参拝するようになる変化、および、明治期には絶対化されていなかった〈皇室=神社〉という結びつきが自明化していく変化を理解することが可能となるのである。

(4)娯楽とナショナリズム

天皇の代替りを契機としてナショナリズムと結びついた初詣が、現在にまで至る持続性を有することができたのは、この行事が娯楽とナショナリズムが混在する行事として展開していったからであった。この流れを強力に推し進めたのが鉄道を主とする交通・旅行業界であった。都市モダニズムを牽引した戦間期の大都市圏の鉄道の娯楽戦略は、ナショナリズムともきわめて親和的なものだったのである。

このような事実は、戦間期都市における娯楽を回路とした「国家神道」と国民の関わりという従来の「国家神道」研究に欠落していた視角を示すことにもなる。〈氏神=地域社会〉という国民統合回路が必ずしも十分に機能できない都市部において「国家神道」の浸透を実質的に担ったのは、政府・神社界といった勢力よりもむしろ交通・旅行業界であった。該業界は娯楽とナショナリズムを織り交ぜた巧みな宣伝・集客戦略によって大勢の人々を「聖地」参拝へと誘い出した。しかも、その〈体験〉がたとえ娯楽を含むものであっても、〈体験〉者の集合体は、言説上では「国家神道」を支えるものとして機能していく。「国家神道」を、そのイデオロギーの中身そのものよりも、国民への浸透過程という点から考えるためには、本研究で試みたようなアプローチはきわめて重要なものとなるのではないだろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現在の日本に見られる初詣、すなわち正月三ヶ日における不特定の社寺への参詣慣習に関する初めての体系的歴史研究である。この新年参詣については、従来、政府がナショナリズムを庶民に浸透させるために創出したものであり、その淵源は天皇の四方拝にあると見なされてきた。これに対し、この研究は、明治20年代から昭和前期に至る新聞記事等の精査を通じて、そのいずれもが誤りであり、初詣は東京・大阪の庶民が近世から行ってきた正月参詣の慣習が再編成されたものであって、鉄道会社が大都市庶民のレジャー欲求を掘り起こして郊外の社寺に誘引したことに起源があり、かつ当初はこれを下層民の迷信として見下していた知識人が明治神宮の創建を機としてこの慣習を受け入れ、それによって「国民的」な年中行事に転化しことを明らかにした。官が「上から」政策的に創りだしたものではなく、資本と庶民が娯楽という非政治的動機によって「下から」創始し、それに知識人が参入し、その意味を捉え返したことにより、結果としてナショナリズムを支え、表現する代表的慣習となったというのである。

全体は3部からなり、これに序論と結論が付されている。第一部では初詣の起源を扱う。第1章では、明治期の東京で郊外の川崎大師に正月元旦に鉄道に乗って詣でることが始まり、やがてそれが「初詣」と表現されるようになったことが示される。東京の庶民は従来、招福攘災のため市内の社寺に正月参詣をしていたが、それは特定の日取りと方角(恵方)という縁起によって決められていた。しかし、明治20年代には恵方や縁日と関わりなく、鉄道によって郊外の川崎大師に元旦に参詣する人々が増加し、それは他の鉄道沿線にも拡がった。これは、ハレの日にちょっと贅沢をして行楽に出かけたいという庶民の欲求を鉄道会社が巧みに捉えたからで、川崎大師の場合、複数の鉄道会社がアクセスを提供するようになると激烈な集客競争が始まり、参詣客はウナギ上りに増加したという。第2章では、関西の事例を比較に取りつつ、「恵方」の変化を論ずる。関西では正月ではなく節分の恵方詣の方が盛んであったが、ここでも鉄道の発達とともに郊外への参詣が盛んになり、やがてそれは年頭参詣にも拡張された。また、東西とも鉄道会社は当初「恵方」の活用に努めたが、方角の変動のない「初詣」の方が都合が良かったため、「恵方」による宣伝は廃れていったという。

第二部は、明治天皇の崩御がもたらした衝撃を論じ、知識人の参入によって初詣がナショナリズムと接合したことを論ずる。第3章はその前提として、まず明治天皇が危篤となった際に突発した二重橋前の平癒祈願が知識人に与えた衝撃を分析する。知識人たちは土下座その他、漢学的・洋学的教養からすると異様で野卑な庶民の行動に戸惑いながらも、その天皇を思う「真心」「至情」「赤誠」、すなわち〈感情美〉に打たれ、庶民との精神的一体感を抱くようになったという。この時、天皇への崇敬行動は、クリスチャンのそれを含めて〈形は様々/心は一つ〉であった。これに対し、崩御後に明治神宮の創建が始まった後には、〈感情美〉は〈形も心も一つ〉という偏狭なものに変わった。東京朝日新聞はその投書欄で陵墓の代わりに神社を東京に設けることについて議論を喚起したが、論争の過程で建設反対派は〈感情美〉の共同体から排除され、その結果、明治天皇への崇敬行動は神社に独占されることとなった。第4章は、初詣に戻って、明治天皇崩御の別の遺産、すなわち天皇と国家を崇敬しながら、神社にはなじみがなかった知識人たちが、明治神宮には参詣を始め、それに伴って初詣にも加わり始めたことを明らかにする。明治天皇の大喪から大正大礼を経て昭憲皇太后の大喪に至るまで神道式の国家儀礼が連続的に執行され、マスメディアで報道される中で、神道に違和感をもっていた知識人も「国民」として神社に参拝するようになった。その際、従来「迷信」とされていた初詣は〈感情美〉の現れとして肯定的に読み替えられ、さらに家庭的な年頭行事として子供連れで励行されるようになった。こうして、明治神宮への初詣は「社会のあらゆる階級が同列になって同じことをする」行事として盛況をみるようになった。それは多様な休暇慣行の中に生きていた人々が正月三ヶ日には一斉に休みが取れたからでもあったという。

第三部は、「国民的」行事となった初詣が鉄道資本の集客戦略によってますます盛況を見る一方、これが娯楽よりナショナリズムの文脈で語られることが多くなったことを論ずる。第5章は、関西の私鉄と国鉄が伊勢・橿原・桃山など天皇家ゆかりの地を「聖地」と名づけ、その巡拝を初詣に組込んで激しい競争を展開したことを示す。鉄道会社としては、「聖地」は有名寺院やスポーツと並ぶ経営資源であって、初詣の行楽面への着目は神社界の宗教的な捉え方とはズレがあった。とはいえ、鉄道による「聖地」への勧誘は、現地体験を無二の価値とする言説を生み、さらに参拝者の増大それ自体が「国体」の尊厳の証明とされるに至る。この言説は翻ってさらに鉄道会社の集客にも貢献した。娯楽の需要とナショナリズムが鉄道の経営戦略を媒介にプラスのループを生み、それが結果的に国家神道の国民への浸透を促したというのである。最後の第6章は、戦間期の東京に舞台を移す。関東大震災が市内の社寺を破壊し、西部に市域が拡張された結果、東京の初詣は明治神宮と郊外の寺社という組合わせとなり、複数の鉄道の競争が川崎大師と成田山という寺院を抜きんでた参詣先に押上げた。他方、戦間期には、初詣を国家神道と結びつけて語る言説も流布した。初詣を天皇の四方拝と結びつけ、さらに太古からの伝統として語る言説が登場したのである。交通業界のガイドブックは、総論でこの枠組を取入れ、国家神道の行事として解説しつつ、本文では寺院の行楽地としての適性も述べるという使い分けをして対処したと指摘する。

さて、本研究は、「初詣」に関する初めての体系的研究であり、鉄道会社の経営戦略がその成立と発展に決定的な役割を果し、かつ知識人の参入がその「国民的」年中行事への転化、さらに国家神道との接合の関門となったという事実を見出して、従来の理解を大幅に書換えた。関連する宗教史や鉄道史の分野に対しても新たな光を投げかけている。国家神道の研究においては従来、「官」が軍隊や学校などの制度や村落共同体を通じて国民を組織した面が注目されてきたが、大都会の初詣慣習の形成過程を取上げることによって、別の併行する回路の存在が明らかとなった。また、鉄道史においては従来、阪急と宝塚の関係のように、郊外鉄道がモダニズムの導入者となった面が注目されてきたが、「聖地」巡礼のような伝統の再編成の機能も果したことも明らかとされた。

しかし、本論の意味は近代日本の一習俗の研究というに止まらない。その第一は、ナショナリズムを枠づけ、再生産する事象が、〈上〉からの誘導・注入だけでなく、〈下〉からの、しかも非政治的動機によっても起動され、それが〈上〉からの意味づけによって強化され、また〈下〉に環流してゆくという一般的洞察を提示したことである。「国民」的行事が、「官」の政策でなく、郊外鉄道や新聞広告といった近代的メディアの経済的動機の意図せざる結果としてもたらされたという解釈は、他の社会にも通用する普遍的価値のあるものと思われる。第二には、昭和前半期におけるナショナリズムの暴走の精神的背景を示唆した点である。明治神宮創建論争において〈感情美〉という論拠が理性による反対論を排除し、それがさらに神社と排他的に結びつけられた。〈感情美〉を絶対化し、「理屈」を排除して天皇への絶対的帰依を求めるという知的空気が昭和前半期の日本を支配したことはよく知られているが、本研究はその起源とメカニズムを明らかにしたのである。

しかしながら、本研究も瑕疵なしとしない。第三章が全体からやや浮いていること。農村部における初詣や国家神道の浸透について言及を欠くこと。さらに〈上〉の知識層と「下」の庶民という形で、対象の構成を固定的に捉えていること。しかし、これらは、本研究が明晰な叙述をもって示した独創性、近代思想史への貢献、そして普遍的洞察を考えると、取るに足りないことと思われる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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