学位論文要旨



No 127624
著者(漢字) 田中,一生
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,カズオ
標題(和) Melaleuca cajuputi の沈水適応機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 127624
報告番号 甲27624
学位授与日 2011.12.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3733号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 寳月,岱造
 東京大学 教授 小島,克己
 東京大学 准教授 松下,範久
 東京大学 講師 益守,眞也
内容要旨 要旨を表示する

降雨の季節性が顕著な湿地に生育する陸上植物にとって、雨季の水位の上昇は発芽実生などの小さな植物体の完全な水没(沈水)を招く。水中では気体の拡散速度が大気中の1/10000と著しく低いことから、植物は酸素や二酸化炭素の取り込みが著しく制限される。沈水下においても長期間の生存、成長が可能な植物は存在し、そのような植物では成長や形態的および解剖学的な形質を変化させることによって沈水環境に適応していることが草本植物について明らかになっている。木本植物もそのような環境で個体群を維持している種があるにもかかわらず、木本植物の沈水適応機構についてはほとんど調べられていない。タイ南部の荒廃した泥炭湿地には、フトモモ科の木本植物Melaleuca cajuputiが優占している。この泥炭湿地では、雨季には水深1mを超える冠水状態が3ヶ月以上にわたって続く。M. cajuputiの種子は、乾季から雨季にかけての降水量の増加に伴う土壌の湿潤化に応答して発芽するため、発芽実生は長期間の沈水を経験することになる。現地においても、多くの実生が沈水しているところが観察されており、雨季に長期間の冠水状態となる泥炭湿地に優占するM. cajuputiの個体群維持にとって、更新の初期段階における沈水環境に対する適応能力は必須であるが、どのような適応機構を備えているのかについては全く明らかになっていない。

本研究は、更新初期段階にあるM. cajuputiの沈水適応機構を明らかにすることを目的として、苗木を用いた沈水環境での栽培実験を行い、水中での物質生産や形態的および解剖学的な形質の変化を調べた。

第1章では、これまでに報告されている陸上植物や両生植物、沈水植物の沈水環境への適応機構に関する知見をまとめるとともに、生態的特性や現地での成長過程、地下部の堪水環境に対する適応機構などM. cajuputiに関する知見を整理し、泥炭湿地でのM. cajuputiの個体群維持における更新初期段階の沈水適応能力の重要性を述べ、本研究で明らかにすべき点として、(1) 沈水環境での長期間の生存は、貯蔵養分によっているのか、それとも光合成による物質生産によっているのか、(2) 沈水環境で成長するのか、しないのか、(3) 沈水環境で同化器官での光合成や非同化器官での好気呼吸を維持するための形態的および解剖学的な形質の変化は起きるのか、の3点を挙げた。

第2章では、光照射の有無による沈水環境での生存率や重量成長の違いを比較することによって、沈水環境での生存が貯蔵養分によっているのか、水中での光合成によって生産された物質によっているのかをまず調べた。光照射した場合、56日間の沈水処理で枯死する苗木はなかったが、光照射しない場合は、沈水処理21日目から枯死する苗木が発生し、56日目の生存率は17%まで低下した。光照射した苗木では、処理開始後2週間は伸長成長が停滞するが、その後は地下部の堪水処理をした苗木と同程度の速度で伸長成長した。また、栽培終了時に苗木の乾燥重量を測定した結果から、沈水処理期間に光照射した苗木では、地下部の堪水処理をした苗木に比べると小さいが乾燥重量の増加が確認され、光照射しなかった苗木では乾燥重量の増減が認められなかったことを示した。このことから、M. cajuputiの実生苗は、水中で光合成を行うことにより生存、成長できることを示し、沈水環境での長期間の生存のためには水中で光合成を行うことが必須であることを示唆した。次いで、水位の低下による沈水環境からの解除に伴う植物体地上部への酸素濃度の急激な上昇の影響を調べるため、沈水環境で栽培した苗木を湛水環境へ移行し、その後の生残と成長を調べた。沈水環境での栽培時の光照射の有無によらず、ほとんどの苗木が生存したが、沈水期間が長くなるほど、沈水環境解除後の伸長成長や重量成長が遅い傾向を示した。沈水環境で展開した葉は、大気中ではすぐに萎れてしまい物質生産に寄与しないことなどが影響しているものと考えた。

第3章では、沈水環境で展開した葉(水中葉)や伸長した茎(水中茎)と、地下部の堪水処理をした苗木の大気中で展開した葉(気中葉)や伸長した茎(気中茎)の形態的、解剖学的な形質を比較した。水中葉は、気中葉に比べて幅が狭いという異形葉性を示した。また水中葉は、気中葉と比較して乾燥重量あたりの葉面積が大きかった。これらの水中葉の特徴は、両生植物の水中葉に類似しており、ガス拡散の境界層抵抗が小さいことや、葉を作るコストあたりの受光面積が大きいことによって光合成に有利な形質とされている。また、水中葉の気孔密度は気中葉の1/10程度と低く、大気中に出すと急激に萎れることから水中葉では葉面全体でガス交換が行われているものと推測した。解剖学的形質については、水中葉ならびに水中茎には、縦方向に繋がった大きな細胞間隙である通気組織が発達していることを明らかにした。沈水した木本植物の地上部の器官において通気組織が発達することを明らかにしたのは、本研究が初めてである。また、水中葉では葉肉細胞の葉緑体の中には細胞間隙側に分布しているものが観察されたことから、二酸化炭素が水に接した葉の表皮からだけではなく植物体内からも供給されている可能性を示した。両生植物や沈水植物では、光合成で生成した酸素を各器官の通気組織を介して移動させて根の好気呼吸に利用し、根の呼吸で生成した二酸化炭素を葉での光合成に利用していることが明らかになっている。M. cajuputiの地上部器官の解剖学的特徴は、これらの両生植物と同様な通気組織を介した植物体内でのガス交換が可能であることを示唆していた。

第4章では、沈水環境でのM. cajuputiの光合成や成長を規定する要因が、水中での拡散速度の低さによる二酸化炭素の制限であるという仮説を設けて、水中に二酸化炭素を5%含む空気を曝気する処理区と通常の空気を曝気する処理区を設け、二酸化炭素濃度が異なり、酸素濃度が同じ条件で苗木を栽培し成長を調べた。また、同じフトモモ科の木本植物でM. cajuputiに比べて堪水耐性が低いEucalyptus camaldulensisも同様な条件で栽培し、堪水環境に対する形態的および解剖学的な適応能力の違いによる二酸化炭素付加の成長への影響を比較した。M. cajuputiは、水中の二酸化炭素濃度を高めることによって、伸長成長量や葉展開数、乾燥重量が大きくなり、水中葉が展開していない沈水栽培初期の伸長成長の停滞は見られなくなった。乾燥重量の増加は、地下部の堪水処理をした苗木の乾燥重量の増加に匹敵していた。また、水中の二酸化炭素濃度が高い条件で展開した葉や伸長した茎の形態的および解剖学的な形質は、二酸化炭素濃度が低い条件でのものと同様であった。一方、E. camaldulensisは、水中の二酸化炭素濃度を高めても伸長成長や葉の展開がほとんど見られず、乾燥重量も増加しなかった。また沈水処理による葉や茎の通気組織の発達もみられなかった。さらに、水中での成長への通気組織の寄与を評価するために、通気組織が発達する茎の皮層を根元近くで環状に剥ぐことによって地上部器官と地下部器官のガス交換を遮断してM. cajuputi苗を二酸化炭素を付加した沈水環境で栽培して各器官の重量成長量を調べ、葉や茎の乾燥重量の増加に比べて根の乾燥重量増加が抑制されることを明らかにした。この低下の原因は根への酸素の供給不足によるエネルギー状態の悪化が原因であると考えられた。以上の結果から、M. cajuputiの水中での光合成や成長を規定している要因は二酸化炭素濃度の低さであり酸素濃度の低さではないこと、水中葉に比べて気中葉のガス拡散抵抗が大きいことが沈水栽培初期の成長停滞の原因と考えられること、通気組織の発達による植物体内でのガス交換が水中での成長に必須であることを示唆した。

第5章では、2~4章で明らかになったM. cajuputi苗の沈水環境に対する適応反応を総括し、自生するタイ南部の泥炭湿地での個体群維持や優占種となることにどのように寄与しているか考察した。本研究において、M. cajuputi苗は水中での光合成によって生産した物質を用いて生存、成長していること、水中葉や通気組織の形成などの形態的および解剖学的な形質の変化が水中での物質生産に必須であることを明らかにした。陸上植物の沈水適応反応として、水中で成長を停止して貯蔵養分の消費を抑制する反応や急激な伸長により水面との接触を維持する反応が一般的であるが、M. cajuputiの沈水適応反応はこのどちらとも異なっており、両生植物が示す沈水適応反応に類似していることを明らかにした。本研究は、高い沈水耐性を有する木本植物の沈水適応機構の詳細を明らかにした最初の成果である。このようなM. cajuputiの沈水適応反応は、種子が小さいために、発芽後間もなく貯蔵養分をほとんどもっていないと想定される時期に沈水環境におかれる実生が、沈水環境で長期間生存することを可能にしている要因であると考えられた。また水中で成長できることは、M. cajuputiが沈水適応機構を持たない他種に先んじて空間を占有するのに有利であり、泥炭湿地で優占種となることに寄与しているものと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

降雨の顕著な季節性によって水位が大きく変動する氾濫原や地下水位が高く維持されている湿地などの立地に生育する陸上植物にとって、植物体全体が水没する沈水ストレスへの適応は個体群維持に必須である。そのような立地にも森林が成立しているが、木本植物の沈水環境への適応機構についてはほとんど明らかになっていない。雨期と乾期が明瞭で地下水位の変動が大きいタイ南部の荒廃した泥炭湿地では、フトモモ科の木本植物Melaleuca cajuputiが優占している。そこでは発芽後間もない実生が雨期の水位の上昇によって沈水環境におかれることから高い沈水耐性が推定されるが、どのように沈水環境に適応しているのか明らかにされていない。高い沈水耐性を有する木本植物の沈水環境への応答特性を明らかにすることは、荒廃した泥炭湿地での森林再生技術開発の基盤として重要である。本研究は、M. cajuputi実生の沈水環境での成長反応を明らかにすることを目的としたものである。

第1章では、これまでに報告されている陸上植物や両生植物、沈水植物の沈水環境への適応機構に関する知見をレビューするとともに、M. cajuputiの生態的特性や現地での更新特性に関する知見を整理し、泥炭湿地でのM. cajuputiの個体群維持において、更新初期の実生の沈水環境への適応の重要性を述べている。そして、本研究で明らかにすべき点として、沈水環境での長期間の生存は貯蔵養分ではなく光合成生産によっていること、沈水環境で同化器官での光合成や非同化器官での好気呼吸を維持するための形態学的および解剖学的な形質の変化が起きること、を挙げている。

第2章では、光照射の有無による沈水環境での生存率や重量成長の違いを比較し、M. cajuputi実生が沈水環境での長期間の生存のためには、水中で光合成を行うことが必須であることを明らかにしている。次いで、水位の低下による沈水環境からの解除に伴う酸化ストレスの影響を調べ、沈水期間が長いほど解除後の成長回復が遅れるが、実生の枯死原因とならないことを明らかにしている。

第3章では、沈水環境で展開した葉(水中葉)や伸長した茎(水中茎)と、大気中で展開した葉(気中葉)や伸長した茎(気中茎)の形態学的、解剖学的な形質を比較している。気中葉に比べて水中葉は、幅が狭く、気孔密度が著しく低いという水中でのガス交換に適応した異形葉性を示すことを明らかにしている。また、解剖学的形質として、水中葉ならびに水中茎には通気組織が発達することを明らかにしている。沈水した木本植物の地上部の器官に通気組織が発達することを明らかにしたのは、本研究が初めてである。また水中葉では葉肉細胞の葉緑体の中には細胞間隙側に分布しているものが観察されたことから、二酸化炭素が水に接した葉の表皮からだけではなく植物体内からも供給されている可能性を示し、沈水環境におかれたM. cajuputi実生は、両生植物と同様な通気組織を介した植物体内でのガス交換を可能とする解剖学的形質を有していることを示唆している。

第4章では、水中の二酸化炭素濃度を高めることによって、水中葉が展開する前でもM. cajuputi実生の成長が促進されることを明らかにし、沈水環境でのM. cajuputiの光合成を規定する要因が水中での拡散速度の低さによる二酸化炭素の取り込み制限であることを示唆した。また堪水耐性が低く沈水環境におかれても植物体内に通気組織が発達しないEucalyptus camaldulensisでは、水中の二酸化炭素濃度を高めても成長が促進されないことを示し、通気組織の発達による植物体内でのガス交換が水中での成長に必須であることを示唆している。

第5章では、第2~4章で明らかになったM. cajuputi実生の沈水環境に対する成長反応を総括し、多くの陸上植物が示す成長反応とは異なり、両生植物が示す成長反応に類似していることを示している。また、自生するタイ南部の泥炭湿地での個体群維持や優占種となることにどのように寄与しているか考察している。さらに荒廃した熱帯泥炭湿地における省力的な森林再生技術として、実生の高い沈水耐性を活かしたM. cajuputiの直播き造林を提案している。

以上のように本論文は、高い沈水耐性を持つ木本植物の沈水環境における成長反応や、それに対応した形態学的、解剖学的な形質の変化を初めて明らかにした研究成果である。樹木生態生理学の分野の発展に寄与するとともに、熱帯泥炭湿地の森林再生技術開発においても重要な知見を与えるものであり、学術面、応用面において寄与するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク