学位論文要旨



No 127632
著者(漢字) 溝口,修平
著者(英字)
著者(カナ) ミゾグチ,シュウヘイ
標題(和) ロシア連邦憲法体制の成立 : 「重層的転換」における制度選択とその意図せざる帰結
標題(洋)
報告番号 127632
報告番号 甲27632
学位授与日 2012.01.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1115号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 遠藤,貢
 東京大学 教授 塩川,伸明
 上智大学 教授 上野,俊彦
内容要旨 要旨を表示する

現代ロシアの政治体制の特徴を論ずる際には、憲法上強大な権限を持つ「強い」大統領の存在が、必ず指摘されてきた。ソ連/ロシアの体制転換過程では、政治的・経済的権限の分配をめぐって熾烈な政治対立が生じたため、1993年12月に制定された憲法は、この政治的混乱を収束し、国内に安定をもたらすことを目的に、大統領に強い権限を付与したのである。しかし、1990年代を通じて、ロシアでは社会的・経済的混乱が継続した。また、連邦政府と連邦構成主体が次々と個別に権限区分条約を締結したため、(連邦構成主体ごとに権限の差異が大きいという)連邦制の非対称性が拡大し、一部の連邦構成主体が遠心化した。このように、憲法制定を主導したエリツィン大統領は、集権的統治を志向して強い大統領制を導入したにもかかわらず、中央・地方関係の遠心化を容認することになったのはなぜだろうか。

従来の研究においても、体制転換過程でどのような政治制度が形成されたかという問題に対する関心は高かったが、大統領制と連邦制というロシアの政治体制の骨格を構成する2つの政治制度の関係性を体系的に検討するという試みはなされてこなかった。強い大統領制の成立を説明してきた既存研究の多くは、政治資源や権力に優る政治主体の利益が政治制度に反映された(つまり、体制転換期に大きな権力を有したエリツィンが強い大統領制を導入した)と考えてきたが、この視角では権力の集中を志向したエリツィンが、なぜ国内の一貫した統治が困難になる非対称な連邦制の成立を認めたのかを説明できない。これに対し本稿は、ソ連/ロシアの複雑な体制転換過程において、大統領制の問題と連邦制の問題は密接に関連しており、両者がトレードオフ関係になったことが、このように相反する特徴を持つ政治制度が憲法に組み込まれた原因であると主張する。エリツィンは自らの権力維持と国家の安定化のために強い大統領制を志向したが、それを導入するために、大統領による集権的統治を妨げることになる非対称な連邦制を容認せざるを得なかった。そしてそのことは、制度設計者の予想以上にロシアの統治能力の低下を招くことになった。

以上の点を明らかにするために、本論文は憲法制定過程を再検証した。その際に、政治・経済体制の転換や国家の再編が同時に生じただけでなく、それらが交錯することで、個々の改革が互いの展開に影響を及ぼしあうという体制転換の「重層性」に着目した。そして、この「重層的転換」の影響を考慮する上で、本稿は既存研究と異なる2つの視角を導入した。第一に、「重層的転換」過程ではイシューごとに政治主体の利益は異なり、それに伴い政治主体が形成する連合のあり方も変化するので、各改革課題に対する政治主体の選好を整理し、これら政治主体間の相互作用を分析した。第二に、個々の改革の結果とその結果の他の改革への波及効果を考察しながら、「重層的転換」がどのように展開していったのかを論理的に解明した。これは、「重層的転換」が制度形成にどのような影響を及ぼしたのかを理解する上で不可欠な作業である。そして、この2つの作業を通じて、ロシアの憲法体制がいかなる特徴を持つものかを考察した。

この時期の政治過程は、以下のとおりであった。ソ連の「党=国家体制」は、ノメンクラトゥーラ制によって人事権を掌握することで、国家及び社会の大部分を取り込み、政治と経済を一体化させるという統治形態を有していた。しかしシステムの肥大化によってその非効率性が徐々に顕著になり、1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した頃には、改革が不可避なものになっていた。党書記長就任後、ゴルバチョフは経済改革にとどまらず、経済政策の遂行を担う党機構にまで改革のメスを入れた。このようにペレストロイカが共産党機構の改革にまで及び、各共和国で議会改革が進むと、共和国の政治エリートが台頭し始めた。彼らは大衆の支持を得るためにナショナリズムを喚起し、共和国の権限を拡大するような自立的な決定をするようになった。

ロシアでは、1990年5月から6月にかけて開催された第1回人民代議員大会が、そのような自立化における重要な契機であった。特に1990年6月の「国家主権宣言」の採択以降、1991年8月までの約1年間に、「自立化」をめぐるソ連との対抗関係が、複数の分野の改革を同時にかつ急激に推し進めた。だが、1991年8月のソ連保守派によるクーデターの試みが、こうした動きを一時的に停止させた。なぜなら、このクーデターにより、ソ連指導部の権威が急激に低下したため、それまでの1年間を規定していた「ソ連対ロシア」という対立構造が崩れてしまったからである。

続いて、1991年12月のソ連の解体は、ロシアの体制転換過程における大きな転機となった。エリツィン大統領は、1991年11月に与えられた1年間の特別権限の下で、1992年初めから急進的市場経済化政策を実施した。そしてこの急進的改革は2つの重要な帰結をもたらした。1つ目は、連邦構成主体行政府の台頭を促したということである。市場経済化の目玉の1つに、国有企業の私有化という問題があったが、これは1992年6月に私有化プログラムが制定され、公式にスタートした。この過程で私有化の対象となった企業の多くは、連邦構成主体が管轄するものであったので、そこから有形無形の利益を得た行政府は急激に力を付けたのであった。2つ目の影響は、市場経済化策がハイパーインフレや大幅な生産の低下を引き起こし、市民生活を大いに困窮させたため、大統領と政府の経済政策に対する批判が高まり、それがさらに政策決定の主導権(政治的権限)をめぐる争いへと発展した。こうして、1992年末にかけて、この問題を規定する政府法の制定が重要な課題となり、それがエリツィン大統領とハズブラートフ最高会議(議会)議長の権力闘争とも交錯しながら、1993年の新憲法をめぐる争いへと繋がっていった。

以上のような経過において、多様な政治勢力の対抗関係はどのように変遷しただろうか。まず、1990年から1991年にかけては、議会では「民主ロシア」と「ロシア共産主義者」という二大勢力が拮抗していたが、「ロシアの自立化」という目標の下での協調が可能であったため、意思決定は非常に迅速に進んだ。しかし、1991年末のソ連解体によって「敵」を失ったこれらの議会内勢力は、次第に3つのブロックに再編した。この3つのブロックも、市場経済化の進展に伴い徐々に分裂していき、1992年末には議会は原子化状況に陥った。そのため、いずれの勢力も議会内で多数派を形成することは困難になった。このような状況で台頭してきたのが、私有化で利益を得ていた連邦構成主体の指導者たちであった。1993年に入ると、大統領も多数派形成が困難な議会を回避し、連邦構成主体行政府と積極的に交渉を重ね、彼らの支持を取り付けることで自らに有利な憲法を制定しようと試みた。こうして、大統領制の問題と連邦制の問題との間にトレードオフの関係が生まれた。1993年6月に設立された憲法協議会での審議を経て、エリツィンは、憲法に大統領の強い権限を盛り込むことには成功した。その一方で、連邦制の問題を解決することは困難を極めた。連邦制の規定について、エリツィンは一貫した主張を持っていたわけではなかったが、憲法協議会に自らが提示した案をそのまま通すことはできなかった。それは、憲法草案全体への支持を得るためには、連邦構成主体の要求をある程度受け入れる必要があったからである。ただし、連邦構成主体の中にも利害の不一致があり、連邦制に関する規定は非常に曖昧なものとなった。また、中央・地方関係を規定する文書として、憲法、連邦条約に加え、連邦政府と各連邦構成主体がバイラテラルに締結する条約も認められることになった。

以上のように、国家の安定化や秩序の回復を目的として、エリツィンは大統領権限の強化を主導したが、それは同時に、憲法の中に非対称な連邦制を取り込むことになった。そしてこのことが、1990年代に連邦構成主体の統制が困難になる大きな要因となり、結果的にロシアの統治能力を弱めるという皮肉な結果をもたらしたのである。

本稿の意義は、以下の3つの点にある。第一に、これまでにも1990年代のロシアの「国家の弱さ」や「統治能力の欠如」がしばしば指摘されてきたが、本稿の分析は、その原因の1つとしてロシアの憲法体制に内在する問題を浮き彫りにした。国家の安定化を目的とした強い大統領制の導入は、非対称な連邦制を伴ったことで、皮肉にも制度設計者の意図と異なる効果をもたらしたのである。このことは、プーチン政権期の中央集権化や与党「統一ロシア」の発展を考える上でも非常に重要である。本稿は、ロシアの政治体制の発展を考える上で不可欠な視座を提供している。第二に、以上の点を明らかにするために、本稿は「重層的転換」というロシアの体制転換の特徴を取り込んだ新しい分析枠組を提示し、新たな資料も用いることによって、ダイナミックな体制転換の全体像を捉え直した。この点は、ロシア政治史研究に対する重要な貢献である。そして第三に、体制転換期における制度形成を分析する方法として、比較政治学における主流の理論である合理的選択論を修正するアプローチを提示した。制度形成に関する既存研究の多くは、制度形成時に最も優位に立つ主体の利益が、形成される制度に反映されると考えてきた。それに対し本稿は、主体の選択肢がいかに限定されていき、その帰結がなぜ資源や権力の優勢な主体の利益と異なるものとなったのかを示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ロシア人民代議員大会が創設された1990年から、ロシア連邦憲法が制定された1993年末までの政治過程を詳細に分析したものである。特に「強い大統領制」を導入することによって集権的統治を志向しつつも、中央・地方関係が遠心化するという逆説的状況が生じたことに着目した極めてオリジナリティの高い論文である。ロシア新憲法の策定が政治的課題となった際、大統領制と連邦制の問題がトレードオフの関係になったため、憲法制定を主導していたエリツィン大統領は、「強い大統領制」を導入するために、連邦構成主体の要求を受け入れなければならなかった、というのが本論文の中心的な主張である。

本論文の構成と各章の内容は以下の通りである。第一章「はじめに」では、先行研究の批判的紹介がなされている。その上で、政治主体の利益・選好を固定化せず、「重層的転換」の動態的分析によって複数の改革課題がいかに連関していたのかを明らかにする、という分析枠組みを提示している。本論文の理論枠組みは、主体中心の合理的選択論と構造論という2つのアプローチを架橋するものである、と言える。第二章「ソ連の統治機構とその矛盾」では、まず、「党=国家体制」の構造的特徴を明らかにした上で、1985年にゴルバチョフが共産党書記長に就任すると、「党=国家体制」の問題点は経済システムの問題として認識され、経済改革の実施が掲げられた。しかしこの経済改革が行き詰ると、ゴルバチョフは政治改革に進んだ。ソヴィエトへの競争選挙導入、共産党機構の改革、共産党の指導的役割の廃止、大統領制の導入など、これまでの「党=国家体制」を大きく変容させるものだった。1990年に入ると、政治・経済改革の問題と並んで、連邦制の再編問題が大きく浮上してきた。このようにソ連の末期に噴出した様々な課題が1991年のソ連解体によってすべて解決したわけではなく、ソ連解体後に持ち越されたことを以下の章で明らかにしている。第三章「ロシアの自立化(1990年~1991年)」では、1990年6月の「国家主権宣言」を契機にソ連からの「ロシアの自立化」が加速し、ロシア国内で経済的にも政治的にも様々な改革が急速に進められることになったことを明らかにしている。経済面では市場経済化が進み、政治面では大統領制がロシアでも導入された。本章の最後では、ソ連とロシアの2つの連邦条約締結の準備過程について述べている。前者はソ連の解体によって不要となったが、後者は解体後のロシア連邦に持ち越されることとなった。第四章「市場経済化の開始と議会内ブロックの離合集散(1992年)」では、1992年初頭から始まった急進的市場経済化をめぐる最高会議での議論と法案に対する投票行動が分析されている。三つの法案(私有化法、ガイダル首相代行報告に関する決議、政府法)に対する各ブロックの投票行動における凝集度を計算し、分析を加えている。その結果、各ブロックの凝集度は次第に低下していき、各ブロックは所属議員を統制できなくなり、最高会議は「原子化」状態に陥った。従来、議会が一体として大統領と対立したかのように語られることが多かったが、実際には、議会は分裂傾向にあったことを本章では示している。また、大統領支持勢力であった「改革連合」の分裂傾向が特に顕著であったことを明らかにしている。支持基盤を議会内で小さくしたことが、エリツィンをして議会の外で新たな勢力との連合を模索させる背景であることをも同時に明らかにした。第五章「対立の激化と収束(1993年)」では、1993年の複雑な政治過程の展開を詳しく追っている。まず、93年初頭にエリツィン大統領とハズブラートフ最高会議議長の権力闘争が再燃したこと、同年4月にエリツィンが国民投票によって事態の打開を図ったこと、そして国民投票での勝利を受けて、憲法協議会を創設し、憲法草案の策定に入ったことを明らかにしている。こうした過程の中、私有化過程で力を付けた連邦構成主体代表が、憲法協議会にも多く参加した。新憲法採択のために、連邦構成主体の協力が欠かせないと考えていたエリツィンにとっても連邦構成主体側の接近は好都合であった。こうして大統領と連邦構成主体が接近したことにより、大統領権限をめぐる問題と連邦制をめぐる問題の間に、トレードオフの関係が生まれた。エリツィンは最大の目的である「強い大統領制」を憲法に盛り込むことに成功した。しかし、そのことによって非対称な連邦制を容認する結果となった。これが「意図せざる結果」である。第六章「結論」では、この研究のまとめと結論が示されている。

以上が本論文の構成と内容であるが、この研究の優れている点を以下列挙する。まず、ロシア政治史研究に大いに貢献している点が評価された。1990~1993年の極めて複雑な政治過程を独自の分析枠組みと徹底した実証研究によって明らかにした功績である。その際、人民代議員大会や最高会議での投票行動にまで踏み込んで、分析した点はオリジナリティに富んだところと高く評価される。また、これまで殆ど利用されてこなかった憲法協議会のロシア語資料を丹念に読んで整理・分析しているところも、しっかりした資料の読み方とともに高い評価を得た。次に、本論文は、ロシアの憲法体制の中核的な特徴を明らかにすることによって、1990年代の混乱と2000年以降の体制の変容を内在的に理解するための視座を提供し、制度形成の局面とその後の政治状況との連続的な説明を可能にした点が評価できる。93年憲法がその後のルールを作り、基本的にはそれが現在も続いているからである。

一方、審査委員から本論文に対する若干の不満、注文が出された。まず、憲法協議会の7月草案とエリツィンが最終的に提出した11月草案の比較検討をより詳しく書くべきであった、憲法の成立過程に重点があるため、憲法そのものについての記述がやや少ない、という批判が寄せられた。さらに大統領制と民主主義との関係について書いて欲しかったという指摘もあった。また「強い大統領制」の導入は93年憲法によるが、非対称な連邦制は、94年以降の権限区分条約の締結により成立するので、両者は同時に成立したわけではない、という指摘もなされた。また、「決議」の訳語にたいする疑問も出された。しかし、こうした指摘は、多くが、今後の研究の課題として期待されたものか、語句の微修正の必要性についてであり、全体として本論文の意義を低めるものではない。審査委員会は全員一致で、本論文が高い水準に達しており、学界に大きな貢献をなす論文であると判断した。

したがって、本審査委員会は、本論文の執筆者、溝口修平氏に対して博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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