学位論文要旨



No 127653
著者(漢字) 千葉,雅也
著者(英字)
著者(カナ) チバ,マサヤ
標題(和) ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学
標題(洋)
報告番号 127653
報告番号 甲27653
学位授与日 2012.02.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1119号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 高橋,哲哉
 東京大学 准教授 中島,隆博
 立命館大学 教授 小泉,義之
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ジル・ドゥルーズおよびドゥルーズとフェリックス・ガタリの哲学的テクストにおける「生成変化devenir」論の文脈から、その理論的かつ実践的な意義を改めて見いだそうとする。「ドゥルーズ哲学」を、総体として「差異difference」の哲学と、絞って「出来事evenement」の哲学と見なしうるならば、〈異なるものごとへ変わるという出来事〉の哲学が「生成変化の哲学」である。生成変化論は、ゆえにドゥルーズ哲学の全域に及ぶため、本論文では、初期から晩年までの幅広いテクスト分析を行う。構成は、全二部である。

第I部「外在性の平面」では、ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』(1980年)第十プラトーから生成変化論のフレームワークを抽出し、その淵源を、初期ドゥルーズのヒューム解釈『経験論と主体性』(1953年)にとって核心的であった「関係の外在性exteriorite des relations」テーゼに求める。生成変化とは、他なるものごとへの複数の「外在的」な「関係」の布置それ自体としての、いわば〈関係束〉としての自他が〈組み変わる〉ことである。ドゥルーズ+ガタリは、「常識」と「良識」に統御されない生成変化のダイナミズムを言祝ぐが、それは、万象の渾然一体ではなく、互いに区別される〈関係束〉の多様な〈組み変わり〉である。そして、第II部「個体化の要請」(第5章~)では、そうした諸々の〈関係束〉のアドホックな──状況に応じての──「個体性」の肯定を、「全体性」から〈シャープ〉に「分離」する他者性の肯定として解釈する。以下、各章の要旨を示す。

第1章「生成変化のレアリテ──『千のプラトー』第十プラトーから」。上記のように、『千のプラトー』での生成変化を、〈関係束〉としての自他の〈組み変わり〉と規定する。また、ドゥルーズ+ガタリにおけるスピノザ的「心身並行論」の検討、そしてカトリーヌ・マラブーによる「可塑性plasticite」の哲学との比較により、生成変化は、生物の進化や整形手術といった身体の自然的・技術的「変態metamorphose」をも含意しうる、と主張する。

第2章「万物が観想する──ドゥルーズのヒューム主義」。『経験論と主体性』でのヒューム主義から、《一者-全体》の実在を認めない存在論を取りだす。世界とは、断片的なものごとの現れを「想像」において「連合associate」した「結果=効果effect」であり、そして、世界のいたるところに、互いに分離した想像する「精神」が在る。フィクションを存在論的に一次的とし、かつ「汎心論」に似るこのヒューム-ドゥルーズの存在論の骨子を、他方で、ヒューム主義からあらゆる出来事の絶対的「偶然性」の肯定を読みとっているクァンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)との比較によって、明確にする。

第3章「存在論的ファシズム──バディウのドゥルーズ批判、存在論と精神分析の閾」。ドゥルーズの「差異の哲学」は、従来の研究ではしばしば、唯一の生きた全体である実在的宇宙への「内在」を求めるベルクソン主義──いわば〈生気論的ホーリズム〉──の発展形と見なされてきた。しかしアラン・バディウは、ベルクソンに立脚するドゥルーズのいわば〈存在論的ファシズム〉を批判した。そこで、この批判への対抗として、本論文では、世界を「全体化不可能」とするヒューム主義者ドゥルーズを際立たせる。ところが、60年代後半のドゥルーズは、この「全体化不可能」性を、(ベルクソン的な)《一者-全体》まるごとの──論理的に一つの──存在論的《欠如》として扱い、この《欠如》こそが一つの《存在=出来事》であり、そこにおいて、複数の出来事がすべて「集約」されるという考えを示す。この考えを、本論文では〈構造主義的ホーリズム〉と呼ぶ。バディウの批判は、実のところ〈構造主義的ホーリズム〉への批判であり、それは、ジャック・デリダによる「否定神学」批判、および、東浩紀やマラブーら〈ポスト・ポスト構造主義〉世代によるデリダ自身への「否定神学」批判とパラレルである。本章では、ポスト構造主義から〈ポスト・ポスト構造主義〉への移行として〈複数的な差異の哲学〉から〈個体の変態の哲学〉への移行を見いだし、両者が、先駆的にドゥルーズにおいて総合されていると考え、その論脈においてドゥルーズは、彼自身の〈構造主義的ホーリズム〉から外れていくと主張する。その際、60年代ラカンが、《欠如》へと純化されず残る「対象a」の重視へ向かったことを検討し、そして『アンチ・オイディプス』(1972/73年)での「欲望する諸機械machines desirantes」概念が、元々「対象a」に由来することから、ドゥルーズ+ガタリと60年代以後のラカンは、共に、《欠如》の理念的一次化の解除へ向かったと評価する。

第4章「永劫回帰は「結婚指輪」なのか?──『ニーチェと哲学』の脱構築」。本章では、ドゥルーズにとって〈構造主義的ホーリズム〉の象徴である「永劫回帰」の円環が、『ニーチェと哲学』(1962年)においては、「異性愛規範的」と言える「再生産=生殖reproduction」の当然視──永劫回帰は「ディオニュソスとアリアドネ」の「結婚指輪」であるという喩え──を含んでいると見なし、これをクィア・セオリーの観点から脱構築して、「独身者の共同性」へ向かうドゥルーズを、「夫婦の問題」を特権化するドゥルーズに対抗させる。

第5章「潜在性、個体化、現働化──『差異と反復』と思考の実践」。ドゥルーズの主著『差異と反復』(1968年)においては、「イロニー」へと向かいすぎず「ユーモア」へ〈折り返す〉ことが、個体化の要請であると主張する。過度のイロニーとは、「解」を《欠如》する「問題」それ自体の理念への上昇であり、逆にユーモアは、複数的な解への下降である。この個体化論は、しかし、それでも〈コミュニケーション必然性〉としての全存在者の「集約」を人間中心的に予定しようとする。そこに介入し、本章では、ドゥルーズが抑圧していると目される、分離する他者(暴)力への対峙というテーマを露呈させる。

第6章「裂け目の深さ──『意味の論理学』と「器官なき身体」」。本章では、一方で『意味の論理学』(1969年)の「表層」(出来事の領野)が〈構造主義的ホーリズム〉を成していることを示す。他方、分裂症的な「深層」における──アントナン・アルトーに由来する──「器官なき身体Corps sans Organs」の概念を、個体化を担うものと見なし、その本性を、断片を全体化せずにまとめる、「共立consister」させる「イマージュ」として規定する。

Interlude「ルイス・ウルフソンの半端さ」では、『批評と臨床』(1993年)所収の「ルイス・ウルフソン、あるいは手法」を検討する。分裂症者と自称したウルフソンは、耳にする母国語のフレーズを、複数の外国語の要素によって再構成するという症状を持つが、こうして作られる〈多言語のアジャンスマン〉を、──ニコラ・アブラハム+マリア・トロークの多言語精神分析を参照しつつ──複数の他性に曝されて〈多傷的〉である「器官なき身体」──資料体=身体(コルプス)──として解釈し、その〈多傷性〉を「小さな健康」と化して「セルフエンジョイメント」することを〈成功したメランコリー〉と呼ぶ。

第7章「彼岸のエコノミー──『マゾッホ紹介』と超越論哲学」。本章では、『マゾッホ紹介』(1967年)における、サディズム=イロニー/マゾヒズム=ユーモアという対比について詳論する。一方で、サディズム=イロニー(以下、Sと略す)は「無形態」なカオスへと向かうが、他方、マゾヒズム=ユーモア(以下、M)は、与えられている──世界の、自他の──「形態」を壊すことなく、別の仕方へと生成変化させる。S/Mは〈速度の差異〉を持つ。Sは、全形態を急いで「否定」し、その彼岸の《欠如》を求める。そうした急ぎの手前で、Mは、所与の形態について、その正当性を「否認」し、その別の仕方でのイマージュを展開する。Sは〈構造主義的ホーリズム〉としての超越論哲学に対応するが、Mはそこから逃れることであり、個体化の要請としての経験論への傾きを示している。

第8章「動物への生成変化──貧しさと無関心」。ふたたび『千のプラトー』に戻り、動物的有限性に対するドゥルーズの肯定評価を分析する。従来の研究では、ドゥルーズの動物論は、スピノザ的「エチカ=エトロジー」(生態学的倫理)として解釈されることが多い。すなわち、自己の「身体の力能」を開発し、他者のそれと絡みあわせ、自他が一緒に活力を増していく「強度の共同性」を拡大することである。しかし本章では、ドゥルーズは、動物の「環境世界」が、その有限性のために、それにとって無関心な外部へ接していることにも注目していたと解釈する。「待ち伏せる存在」としての動物は、まったく理解=包摂(comprendre)できない、関心外からの他者の(暴)力に曝される。そこで、そうした剥き出しの暴力に応えて想像される共同性──複数の無関係のただなかで成される、成功の予定なき共同性というテーマを提示する。以上、全章の流れを結論でまとめ、Epilogueでは、ミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』についてのドゥルーズの分析から、「他人の全き他者」という概念を取りだし、これを本論文において一貫して論じてきた〈シャープ〉に分離した他者として解釈し、終幕する。

審査要旨 要旨を表示する

千葉雅也氏の博士学位請求論文『ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの哲学を対象とした研究であるが、ドゥルーズが精神分析家フェリックス・ガタリとともに創造し展開した〈生成変化〉devenirという動的な概念をドゥルーズ哲学そのものへと折り返すことを通じて、その哲学の核心部分を批判的に分析し解釈しようとするきわめて野心的な労作である。

従来、ドゥルーズ哲学における〈生成変化〉論は、ベルクソン哲学からの展開として理解されることが主流であったが、千葉氏は、ドゥルーズの最初期のヒューム論を手がかりにして、世界を原子的なものの連合とみなすヒューム哲学の基本構想が、その後のドゥルーズ哲学の形成・生成の全体に実は深く関与しつづけているという立場から、ベルクソン哲学に特徴的な連続的なホーリズムの世界観を土台にしたドゥルーズ哲学ないしその理解を、主体化あるいは個体化の方向へ脱構築することを目指している。それは、一方では、アラン・バディウらによるドゥルーズ哲学の「存在論的ファシズム」批判からドゥルーズ哲学を救い出す試みであると同時に、他方では、とりわけ存在のセクシャリティにかかわるドゥルーズ哲学の内的な限界をもえぐり出す批判的試みでもある。

この二重の批判作業を遂行するために、本論文は、かなり複雑な構成を採用している。本文173 頁に及ぶこの論文は、主題と方法さらに方向と構成を指示する序論のあとに、4章構成からなる第一部「外在性の平面」、同様に4章構成からなる第二部「個体化の要請」からなり、そのあとに結論が続いている。

第一部は、ドゥルーズ哲学の基本的な構成を「外在性」というヒュームそして英米文学を経由する関係概念によって哲学史的に位置づける試みといえる。この試みは『千のプラトー』第十プラトーの分析から出発して、ドゥルーズにおけるスピノザ主義、カント主義、ヒューム主義を分析しつつ、ベルクソン主義に収斂するような全体主義を「キャンセル」して、あくまで外在的に「関係束」を措定する「諸部分を全体化しない全体」という軸にそって、ドゥルーズ哲学を「共立性」(consistance)の哲学として、また〈生成変化〉をこの「共立性」が組み変わることとして再定義するにいたる。フランスの現代哲学の文脈におけるいわゆる「ポスト構造主義」から「ポスト・ポスト構造主義」への転回を踏まえたこの独創的な解釈から出発して、本論文は、さらに哲学固有の文脈を、その隣接領域である精神分析の理論との対決を通じて、脱構築し、哲学の言説そのものを表象文化論的に批判するテクスト読解を行っている。

第二部は、第一部で導出された外在的な共立性からとりわけ個体化に向かう〈生成変化〉のさまざまな事例をドゥルーズ哲学の内部において実証的に確認している作業である。『差異と反復』から『意味の論理学』、『マゾッホ紹介』、『千のプラトー』などドゥルーズ哲学の主著とも言うべき著作群を追いながら、それぞれのイロニーとユーモア、尿道的なものと肛門的なもの、マゾヒズムとサディズムといった二項対立を折り返す「襞」の出来事の論理を注意深く摘出することを通じて、ドゥルーズが定位した〈生成変化〉が究極的に「待ち伏せる存在」である動物への〈生成変化〉として了解されうることが明らかにされている。本論文は、ドゥルーズ哲学のコーパス群のなかに、他者への〈生成変化〉が個体化の要請と重なり合う「襞」状の折れ線を探り出し、かつそれを描き出すそれ自体ドゥルーズ的とも呼びうる解釈作業を遂行していることになる。

このように単なる哲学研究の枠を超えて、現代文化のもっとも論争的な問題系のいくつかに踏み込みながら、ドゥルーズ哲学の新しい像を大胆に描ききった本論文であるが、仏語文献にとどまらず英語文献日本語文献も広範に渉猟されており、先行研究に対するみずからの批判的関係をあらゆる箇所で明確にしている。また日本におけるドゥルーズ哲学の受容に関しても批判的読解の成果を随所に示している。

審査においては、本論文でアクセントを奪われた形になったドゥルーズにおけるベルクソン主義とその相関物としてのイマージュの問題を復権する余地が残っていないか、また『差異と反復』の読解において「反復」の問題系がもっと深められるべきではないか、などの指摘がなされたが、それらはいずれも、本論文が提示した解釈が今回扱われなかった問題系へとさらに拡張されることが望ましいという審査員の積極的な肯定の表現として考えられるものであった。本論文が、哲学研究と批評作業の融合という独創的な領域において大きな学術的成果を挙げたことについて審査員全員の意見が一致した。

以上により、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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