学位論文要旨



No 127654
著者(漢字) 小泉,順也
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,マサヤ
標題(和) 二十世紀前半のフランスにおけるポール・ゴーガンの受容研究 : 芸術家表象と作品蒐集をめぐる芸術社会学的考察
標題(洋) The Reception of Paul Gauguin in the First Half of Twentieth-Century France : Sociology of Art through Artistic Representation and Art Collection
報告番号 127654
報告番号 甲27654
学位授与日 2012.02.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1120号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三浦,篤
 東京大学 教授 今橋,映子
 東京大学 准教授 佐藤,光
 東京大学 教授 石井,洋二郎
 国際日本文化研究センター 教授 稲賀,繁美
内容要旨 要旨を表示する

本論はポール・ゴーガン(1848‐1903年)の20世紀前半のフランスにおける受容について、美術批評などの各種の言説を踏まえた上で、他の画家の作品に描かれた没後のゴーガン表象、および個人コレクターを経て、美術館に作品が収蔵されていくコレクション形成史の視点から、再検討を加えるものである。

美術史とは著名な芸術家と作品の総体によって成立しているのではなく、忘却と再発見を繰り返しながら修正を施され、現在の姿にたどりついた。これは個別の芸術家がいかに受け入れられたのかという問題と不可分である。そこでは同時代の評価を部分的に引き継ぎながら、ときに大胆な方向転換や取捨選択が行われてきた。美術の歴史は可変的で、すでに確定したように思われる芸術家の序列も、これからどのように変化するのか、完全には予測できない。

美術史の変遷を理解するために、あるいは過去を相対化する視座を獲得するために、受容研究は大きな役割を担っている。これまでフランス近代美術の受容は印象派研究を中心に進められてきた。フィンセント・ファン・ゴッホなどにも充実した成果は見られるが、その他の芸術家の事例は十分に検証されているとは言えない。研究すべき多くの対象の中でも、ゴーガンは極めて興味深いテーマである。というのも、彼においては前提となる条件が他の芸術家とは明らかに異なっていた。

第一に彼の晩年の活動は大きな制約をともなっていた。実際に異国で暮らす芸術家は、完成作を本国に定期的に送るほかに、知人や友人に宛てた書簡を通して、自分の意向を伝えることしかできなかった。第二に別居していた妻と子供の多くはデンマークを拠点にしており、ゴーガンの評価に向けて積極的な姿勢を示さなかった点を指摘できる。本論で考察する芸術家を取り巻く状況は、当初極めて厳しいものであった。

こうした中で、第三者による能動的な関与の有無が、芸術家受容の大きな要因として浮上してくる。ゴーガンはいわば、芸術家の評価をめぐる外的要因が極端な形で適用された稀な例であった。生前に何らの公的な栄誉に浴さず、本人と家族も19世紀末からフランスを離れていた状況において、一部の献身的な支援と度重なる僥倖に恵まれなかったならば、ゴーガンの位置付けが、南洋で客死した風変わりな画家ということで片付けられていた可能性は否定できない。

以上のような不利な条件を補うべく、タヒチ滞在以降のゴーガンは制作や手記を通じて、自分の生涯や作品に大きな物語を与えようと試みた。「語りの戦略」とも評される芸術家の姿勢は功を奏し、一度も面識を持たない若手の画家も巻き込みながら、20世紀初頭には「ゴーギニスム」と呼ばれる熱烈な支持が、フランスの一部で生まれることになった。

同時代や次世代の画家はときに言葉を通して、ゴーガンへの批判や称賛を繰り広げた。これらの言説は参照すべき貴重な資料となるが、画家の本分は絵を描くことにある。ゴーガンの芸術家表象は、これまで自画像を中心に論じられてきた。実際のところ、自己イメージの生成と伝播を自身で管理しようとしたゴーガンの場合、彼の生前の姿を他の画家が描いた肖像画の作例は極めて少ない。こうした周囲の消極的な態度が転じるのは訃報が本国に届いてからで、この時点から他者がゴーガンを自由に表現できる環境がもたらされたと言える。

本論ではまず、ゴーガンの大規模な回顧展が開催された1906年のサロン・ドートンヌと、1907年のアンデパンダン展に焦点をあて、彼を主役に据えたピエール・ジリウーとポール・セリュジエの作品を分析する。次にゴーガンの死後表象というテーマに関して、生前から親交の篤かったオディロン・ルドン、様々な機会を捉えてゴーガンを自らが提示する美術史の枠組みに組み込もうとしたモーリス・ドニを取り上げる。そして、20世紀初めの四半世紀における没後の芸術家表象の多様性をたどり、個別の作品に込められた画家の想いを汲み取りながら、芸術家受容の文脈における特徴と役割を考察する。

先行研究を振り返ると、彼の作品や生涯を論じた美術批評を中心に、言説研究は盛んに行われてきた。しかしながら、ゴーガンの死後表象という領域は意外にも見過ごされてきた。芸術家表象に関連する作品の場合、描かれる対象と描く主体の両者が有名でなければ、さしたる注目を浴びないという問題を抱えている。とくに第一章と第二章で取り上げるジリウーとセリュジエの作品は、個人蔵や移動の問題を理由に、20世紀半ばから長らく公的な場で展示されなかった。実際に見られない作品を論じるには大きな困難がともなうが、現在では状況は徐々に改善されつつある。このような意味において、ゴーガンの没後の芸術家表象を研究する土壌は、21世紀に入ってようやく整ったと言えるのである。

各地の美術館には多くの作品が並んでいるが、芸術家と称する人々の創造活動の全体から見れば一握りに過ぎない。ゴーガンの作品も個人蒐集家や画商を経て、様々な経緯から一部がフランスの美術館に収められてきた。20世紀前半のフランスでは、ルーヴル美術館を頂点とする制度の明確な序列が存在し、ここに作品が収蔵されることは、亡くなった芸術家が公的に承認されるための条件のひとつとなっていた。

振り返ると、ゴーガンの作品に対する国家や美術行政の動きは総じて緩慢であった。しかし、筆者の調査の結果、1951年の時点でフランス各地の美術館に31点の作品が所蔵されていた事実が判明した。一部の著名な印象派の画家には及ばないとしても、それ以後の芸術家との比較において、ゴーガンは厚遇された存在であった。ただし、コレクションは小さな寄贈や遺贈を積み重ねて作られており、有力なコレクターによる大規模な歴史的関与は認められない。それゆえ、フランスの美術館におけるゴーガン作品のコレクション形成史を、本格的に検証しようとする試みは行われてこなかった。

このような歴史的視点に立った上で、本論ではリヨン美術館による1913年の《ナヴェ・ナヴェ・マハナ(悦楽の日々)》(1896年、リヨン美術館)の購入、1927年のルーヴル美術館による《白い馬》(1898年、オルセー美術館)の購入に関して、関係者の証言や美術館委員会の議事録などの一次資料を参照して、入手の決定に至るまでの議論や同時代の反応を詳細に検討する。蒐集の方針は初めから示されていたのではなく、ときに偶然が左右する議論や交渉の中で、フランス近代美術の歴史の歯車は動いてきた。

以上のような議論を踏まえて、本論は芸術家の受容研究に、没後の芸術家表象とコレクション形成史という新たな視点を提示することを目的とする。そこでは広範な資料調査を通して、画家、批評家、蒐集家、画商、学芸員、政治家など、多くの立場からの積極的な関与があった事実が実証されるであろう。彼らの主体的な行動があって初めて、一人の芸術家は広く認知されるに至った。

本論は二部、全八章で構成されている。第一部「描かれたゴーガン―没後の芸術家表象の変奏」では、第一章で20世紀初頭にゴーガンに対して向けられた言説の多様性を確認して、第二章から第五章で芸術家の死後表象に関わる四点の作品を中心に分析する。具体的には第二章で、ゴーガンと直接の面識を持たなかった南仏の画家ピエール・ジリウーの《ゴーガンへのオマージュ》(1906年、ポン=タヴェン美術館寄託)を取り上げる。タヒチの風景の中にゴーガンと彼の支持者を配して描かれた集団肖像画は、絵画制作を通してゴーガンに敬意を表した最初の歴史的作例であった。第三章ではポール・セリュジエの《ティテュルスとメリボエウス(さようならゴーガン)》(1906年、カンペール美術館)に焦点をあて、20世紀のゴーガンとセリュジエという論点から、本作に込められた芸術的宣言の内容と画家の展示戦略を分析する。第四章ではオディロン・ルドンの《仏陀》(1906年、オルセー美術館)に、ゴーガンへの私的な追慕の念が込められていた可能性を指摘する。第五章ではモーリス・ドニの《フランス美術の歴史》(1918‐25年、パリ、プティ・パレ美術館)に描かれたタヒチの裸婦像を取り上げながら、画家、美術批評家、蒐集家という複数の立場からの、ドニによるゴーガン受容への関わりを検証する。

第二部「遺された作品の行方―公的承認への道程」では、第六章でゴーガンの作品を蒐集した初期のフランス人コレクターの活動を明らかにし、コレクション形成の黎明期を歴史的に再構成する。第七章では、個人の手元にあった作品が美術館に収められていく段階に着目し、網羅的な調査に基づいて、20世紀前半のゴーガンの作品収蔵の歴史を解明する。その上で先述したリヨン美術館とルーヴル美術館による作品購入については、それぞれ事例研究を行う。第八章では本論が主に取り扱う時代を超えて、21世紀初頭の状況も視野に入れながら、ブルターニュにおけるゴーガンの受容を取り上げる。同地の出身者ではないゴーガンをどのように評価するのかという問題をめぐっては、パリでの動向とは異なる特殊な事情が働いていた。彼が滞在を繰り返したポン=タヴェンでは1985年に美術館が創設されるが、それまでの経緯も含めて、地方における芸術家受容の問題を論じる。

本論における考察を通して、フランスにおけるゴーガンの受容の諸相を再検討したとき、従来の研究では注目されなかった人々や作品の存在が浮かび上がり、その結果として、フランス近代美術史の新たな広がりが意識されるはずである。そして、芸術家受容とは言説のレベルだけでなく、芸術家表象や作品蒐集という別の論点とも密接に関わりながら展開されることが見えてくるだろう。それはまた、近代美術の成果を享受する我々の意識や行動にも繋がる問題であり、現在までの歴史の形成過程に新たな視座をもたらすものとなるに違いない。

審査要旨 要旨を表示する

小泉順也の博士学位請求論文、「二十世紀前半のフランスにおけるポール・ゴーガンの受容研究 - 芸術家表象と作品蒐集をめぐる芸術社会学的考察 -」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家ポール・ゴーガンを、没後の受容、評価という観点から研究した独創性あふれる学問的達成である。

ポスト印象派の画家として著名なゴーガンに関しては、その人物と作品に関してこれまでに多くの研究蓄積があるのは言うまでもない。しかしながら、本研究が目指すのは通常の意味における画家論でも作品論でもなく、受容という視点からのゴーガンの再検証であり、西洋文明を逃れてタヒチに移住したこの特異な芸術家の評価、名声が没後に確立していくプロセスの解明である。そのための具体的な手がかりとして著者が取り上げるのは、美術批評を始めとするゴーガンにまつわる同時代の言説のみならず、没後にゴーガンを主題に制作された絵画作品、そして個人コレクションから美術館へと移動するゴーガンの作品の軌跡である。通常の受容研究はともすれば言葉による評価史に傾きがちであるのを、描かれた芸術家像、購入や寄贈を通した作品の公的認知という観点から問題にアプローチしたのは斬新な着眼であり、本論文の独自性を明確に示している。そのために著者は広範かつ綿密な作品と資料の調査を行い、画家が生前から仕掛けていた自己神話形成の戦略を踏まえた上で、没後に他の画家たちがその作品の中でいかにゴーガンに対するオマージュや追悼、マニフェストや歴史的位置づけを表明したのかを見事に分析するとともに、ゴーガン作品が個人の蒐集家や画商の手から美術館に入ることでいかに公的な承認を勝ち得たのかを適確に解析した。その美術史学的、芸術社会学的な考察を通して、近代フランスの一画家の没後のイメージと評価が変転し、確立していく興味深い運命を描き出すことに成功したのである。

本論文は「本文」との二つの「別冊」から成る。本文は2部構成で全8章、および序論と結論が加わる。別冊は一方には註と参考文献が、他方には主要人物の略歴、図版一覧、図版、表が掲載されている。以下、論文の構成に即して議論を紹介し、審査委員からの指摘を記しておく。

序論において、ゴーガン研究の現状を踏まえ受容研究としての本論文の意義を提示した後に、第1部「描かれたゴーガン―没後の芸術家表象の変奏」では、主に四つの典型的な作品を分析する。その前提として第1章では、1903年に没したゴーガンに対してサロン・ドートンヌやヴァラール画廊で行われた没後の回顧展やシャルル・モリスの二度にわたるアンケートをめぐり、賛辞と批判の混在からゴーギニズム(ゴーガン主義)が誕生するまでの多様な批評状況を確認している。続く第2章から第5章でゴーガンの死後表象に関わる4点の作品を分析する。第2章では、ゴーガンと直接の面識を持たなかった南仏の画家ピエール・ジリウーの《ゴーガンへのオマージュ》(1906年)を取り上げた。タヒチの風景の中にゴーガンとその友人、支持者を配したこの集団肖像画は、画家の没後に敬意を表した最初の絵画作例であるが、著者はオマージュの過剰ともいうべきその特質を浮き彫りにした。第3章ではポール・セリュジエの《ティテュルスとメリボエウス(さようならゴーガン)》(1906年)に焦点をあて、師ゴーガンとの別離と独自の芸術宣言という画家の意図を、1907年のアンデパンダン展での展示戦略とからめて分析する。第4章ではオディロン・ルドンの《仏陀》(1906年)に、仏教図像を媒介にしてゴーガンへの私的な追慕の念が込められていた可能性を指摘している。第5章ではモーリス・ドニによるプティ・パレ美術館の天井画《フランス美術の歴史》(1918‐25年)に挿入されたタヒチの裸婦像に着目しながら、美術批評家、蒐集家でもあるドニ特有のゴーガン評価、フランス美術史への組み込み方を検証している。

第2部「遺された作品の行方―公的承認への道程」では、作品の所蔵歴を通してゴーガン受容の様相を明らかにする。第6章では、ゴーガンの作品を蒐集した初期のフランス人コレクターの活動を丹念に跡づけることで、コレクション形成の黎明期における熱意ある蒐集家の重要性を浮かび上がらせている。第7章では、個人蔵の作品が美術館に収められていく1910年以後の段階に注目し、20世紀前半のフランスにおけるゴーガンの作品収蔵の歴史を解明する。とりわけリヨン美術館による1913年の《ナヴェ・ナヴェ・マハナ(悦楽の日々)》(1898年)の先駆的な購入について詳細に調査し、ルーヴル美術館による1927年の《白い馬》(1898年)の購入にも触れながら、偶然にも左右される購入の複雑な経緯や状況を明るみに出し、公的承認の紆余曲折を検証した。第8章では、現在の状況をも視野に入れながら、ゴーガンが繰り返し滞在したブルターニュにおける受容の問題を取り上げる。当地におけるゴーガンの評価に際してはパリとは異なる地方特有の事情が作用し、1985年にポン=タヴェン美術館が創設されて、かつての芸術家コロニーは近代美術の聖地へと決定的な変貌を遂げた。地域振興、観光資源としての芸術家受容の問題を、社会学的な視野も取り入れて論じている。結論では本論のまとめが述べられているが、芸術家の評価が歴史的に形成されてきたものである以上、受容研究の重要性は今後さらに増すと展望している。

以上のように、本論文は芸術家表象と作品蒐集という新視点に立脚して、フランスにおけるゴーガン受容の諸相を地道な調査活動を基に明らかにしており、その画期的な功績を高く評価する点で審査員全員の意見は一致した。従来は注目されていなかった画家や蒐集家、見逃されていた作品を掘り起こし、丁寧に論じていることも本論文の重要な成果と見なされる。このほかに審査員からはタヒチ時代と神話形成、生前の評価史との関係など、没後の評価史という問題の枠組みを越えた質問や、個別論に関して分析や読みを深めるべきとの具体的な注文が出されたが、それらはむしろ今後の課題と言うべき指摘であった。また専門的な論文でありながら、明快で読みやすい文体も好ましいと判断されている。引用資料における誤訳、本文における誤字脱字が散見するとの指摘もあったが、それらは瑕疵に過ぎず、本論文の学問的寄与を大きく損ねるものではないことが確認された。

以上の審査の後、審査員全員による協議の結果、全員一致で本審査委員会は、小泉順也の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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