学位論文要旨



No 127655
著者(漢字) 鄭,玹汀
著者(英字)
著者(カナ) チョン,ヒョンチョン
標題(和) 明治プロテスタント・キリスト教における女性と国家 : 木下尚江とキリスト教界指導者との対決
標題(洋)
報告番号 127655
報告番号 甲27655
学位授与日 2012.02.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1121号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 徳盛,誠
 東京大学 教授 川中子,義勝
 東京大学 准教授 梶谷,真司
 東京大学 教授 黒住,真
 九州大学 教授 清水,靖久
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、木下尚江(1869~1937)とキリスト教界指導者との対決を軸として、明治期のプロテスタント・キリスト教界の特質を解明することを目的とするものである。本論文はとくに次に説明する二つの分析視角から、明治キリスト教の性格を解明することを試みた。

その第一の視角は、天皇制国家との関係において明治プロテスタント・キリスト教の特質を分析することである。明治期は近代日本国家の基礎が形成された時期である。天皇制を基盤とする明治国家体制は、大日本帝国憲法および教育勅語の発布によって制度的・イデオロギー的に整えられた後、日清・日露の二つの戦争を通じて帝国主義的膨張を伴いつつ、明治末にいたって完成をみたのである。そのなかでキリスト教界の指導者たちは、教界の命脈を維持するための道を模索し続けた。彼らはやがて、キリスト教と「国体」との調和を表明するようになり、戦争と福音とは矛盾しないと盛んに説教しはじめたのである。

明治期キリスト教史に対する本研究の第二の視角は、明治国家におけるキリスト教と女性との関係を明らかにすることである。その焦点は、天皇制国家体制の支柱としての家族制度の問題に、明治キリスト教界がいかに関わってきたかを解明することにある。明治前半の社会改良期においてキリスト教倫理に基づき日本の家族制度を改革することをめざしたキリスト者たちの試みは、教育勅語の発布から内村鑑三不敬事件の勃発に至る明治中期、国家主義者のキリスト教攻撃が激化する中で、挫折していった。そうした挫折は、キリスト教界がもっとも熱心に取り組んだ女子教育事業にはっきりと反映されている。キリスト者の中には、あるべき女性像を「女大学」に求め、最高の「女徳」として従順と犠牲を女性に要求し、聖書を借りてそれを裏付けようとする主張が現われたのである。

このような明治期キリスト教界の大勢を代表する最も有力な指導者として本論文が取り上げるのは、日本基督教会の植村正久、日本組合基督教会(組合教会)の海老名弾正、キリスト教主義女性教育の先駆者として『女学雑誌』を主宰した巌本善治、の三名である。その一方、当時のキリスト者の中には、上記のような教界の大勢に抗しつつ、キリストの福音の精神に基づいて国体信仰を峻拒し、反戦運動を展開しつつ、さらに女性の権利の擁護のためにも闘った一群の人々がいた。そうした少数派のキリスト者たちを代表する存在こそ、本研究の中心対象である木下尚江にほかならない。木下は国体信仰を徹底的に批判する立場に立ち、日本の帝国主義戦争の非人道性を糾弾し、さらに婦人参政権運動や廃娼運動の展開を通じて日本社会においてもっとも弱い立場にあった女性の権利の擁護に尽力した。彼こそ、天皇制国家の支配に抗しつつ、日本社会の根本的な改革をめざして活動した代表的なキリスト者であったと言いうる。

本論文は、上記の二つの視角から、キリスト教界の指導者たちと木下との間にたたかわれた思想的対決を分析することを通じて、明治キリスト教界がいかなる歩みを辿ったかを思想史的に明らかにすることをめざした。かかる研究目的と分析視角の下、本論文は三部の構成をとり、次の順序で議論を進めた。

まず「第1部 明治中期のキリスト教界と木下尚江」では、1880年代後半の欧化政策期から日清戦争前後に至る明治中期における、キリスト教界の社会改良思想の流れについて検討した。この第1部は次の二つの章から成る。第1章は、明治中期の「男女関係」をめぐるキリスト教界の議論に焦点をあて、国家主義が高揚する1890・91年前後を境として、その議論がいかに変質していったかを追跡した。とくに1887年前後の社会改良期から女性という主題は注目され、新時代にふさわしい家族像や女性像を主張する者が多く現われた。ところがその後、明治中期、国家主義者のキリスト教攻撃が激化する中で、キリスト者の進歩的な女性論も国家的アイデンティティに絡めとられていった。とくに「日本の花嫁事件」の分析を通じて、社会改良期のキリスト教倫理に基づいて日本の家族制度を改革することをめざしたキリスト者たちの試みが、いかに挫折していったか、その過程を追跡した。続いて第2章では、第1章で説明した1890年前後のキリスト教界の流れのなかで、木下尚江のキリスト教思想の形成と、社会改良論および女性論の主張と関連づけながら検討した。とりわけ木下の信教の自由論や廃娼論および家族制度批判論に光を当てて、この時期においてすでに、後年の彼の天皇制批判の論理や社会運動の基本的な方向が準備されていたことを明らかにした。

「第2部 明治後期のキリスト教界と国家」においては、日清戦争から日露戦争を経て「三教会同」に至る明治後期における、キリスト教界指導者の国家思想と彼らの思想の総体的なあり方を分析した。第2部は次の三つの章から構成される。まず第3章では、従来進歩的な女性解放論としてイメージされてきた巌本善治の「女学」思想の内実に詳しい分析を加え、彼のいわゆる「女学」とは日本帝国の発展に対する奉仕を女性に強いる女子教育論にほかならず、天皇制国家にふさわしい女子国民を創り出そうとする彼の使命感がその教育論を貫いていたことを明らかにした。第4章では、日清・日露戦争における植村正久の「武士道」論を考察の対象とした。植村による「武士道」の創出は、国粋主義者によるキリスト教攻撃への対応の一形態であったが、こうしたキリスト教界の武士道論が、日清・日露戦争期には国民精神論として機能し、帝国主義的な日本膨張論とも結びつくものであったことを明らかにした。第5章では、明治キリスト教界において誰よりも「国体」問題について強い関心をもち、天皇制国家とキリスト教との調和論を打ち出した海老名弾正について考察した。ここでは、海老名の思想の要諦というべき「忠君敬神」思想が展開されている「国体新論」・「新武士道」論および教育勅語論を検証することを通じて、彼がいかに天皇制イデオロギーとキリスト教とを結びつけようとしていたかを解明した。

「第3部 明治後期の木下尚江――女性と国家をめぐって」では、第2部で考察したキリスト教界の指導者の思想と対照させつつ、木下の思想と運動の意義を究明した。第3部は、第6~8章の三つの章で構成される。まず第6章では、『廃娼之急務』を中心に木下の廃娼思想の特質を明確にし、他のキリスト者の廃娼運動の性格と比較しながら、彼が独自の廃娼思想をどのように深化させていたかについて考察した。木下の廃娼論の思想的特徴は、従来のキリスト者の「道徳風紀」の矯正という微温的な運動の限界を克服し、娼妓にならざるを得なかった女性たちの人権を擁護するために、立憲政治を踏みにじる明治国家を相手に闘ったこと、さらに娼妓自身を運動の主体にしようとしたことなどについて論じた。第7章では、「国家的基督教」への木下の批判について考察した。多くのキリスト者が武士道とキリスト教との調和に活路を見出すなかで、その現象を「武士道的基督教」と命名した木下が、「軍隊的思想」の流行に迎合して「武士道的基督教」を宣伝するキリスト教界とどのように対決したかを検討した。そのうえで木下の政教分離の思想に照明をあて、彼が試みた宗教改革の具体的な内容を解き明かした。最後の第8章では、木下が日本基督教婦人矯風会と連帯して展開した女性の権利を回復するための運動について検討し、婦人問題をめぐって教界指導者の勢力と木下および婦人矯風会の進歩的な女性活動家の勢力とがいかに対立していたかを明らかにした。そして木下がいち早く1899年頃、婦人矯風会の将来の課題として婦人参政権の獲得をめざす運動に着手すべきことを提言したことを、新資料をもとに究明した。そのうえで、天皇制国家の支柱たる家族制度の鎖を断ち切って男女が平等に生きる社会を建設するために木下が試みた改革運動のあり方を具体的に考察した。さらには木下が構想していた、女性の先導によって実現されるべき平和と愛の共同体の理念がいかなるものであったかを、究明した。

終章では、キリスト者としての木下尚江の思想と運動の意義について五つの点にわたって要約した。第一点は、木下尚江の思想の顕著な特徴が、なによりも「国体」批判にあったことである。明治中期以来木下は、キリスト教に依拠して、疑似宗教としての天皇制を批判し続けたのである。第二点は、木下の社会主義思想および平和思想もまたキリスト教精神に基づいていたことである。新約聖書における「富」を罪悪視する観点に立って「資本家制度」を批判し、イエスの「愛敵思想」に立って「軍隊主義」に挑戦した木下の社会思想の中軸は、キリスト教にほかならなかった。第三点は、木下の闘いが明治キリスト教界の立て直しをめざしていたことである。彼は、天皇制の疑似宗教化と帝国主義的侵略戦争を食い止める役割を、世俗権力ないし国家を越えるイエスの福音の精神に求め、かかる福音に背くキリスト教界の改革を呼びかけたのである。第四点は、女性が主体として生きる社会を木下が構想したことである。女性と男性が平等に政治に参与できる民主主義社会の建設、戦争のない平和な社会の建設、それらこそ木下が全力で取り組んだ目標であった。第五点は、木下の運動の本質が「神の国の建設」をめざす精神革命にあったことである。木下の提唱する「野生の信徒」の宗教革命とは、日本社会の一人一人が悔い改めによって生まれ変わり、軍国主義的・帝国主義的・反民衆的な国民道徳を打破し、敵を愛するというイエスの福音に基づく平和主義を「永世の新倫理」として、現社会を「神の国」に近づかせる精神革命の運動にほかならなかったのである。

審査要旨 要旨を表示する

鄭〓汀氏の博士学位請求論文「明治プロテスタント・キリスト教における女性と国家――木下尚江とキリスト教界指導者との対決」は、社会運動家であり小説家であった木下尚江(1869-1937)の思想とその射程とを、明治日本のキリスト教がもちえた思想的可能性として、当時のキリスト教界の主導的な論説に照らしながら、解明する試みである。

明治中期から昭和初期に活躍した木下は、資料上の制約もあって、いまなおその全体像が十分に明らかになったとはいえない。また木下の言論はその激しさ執拗さにもかかわらず、当時の論議の主流を変えるには至らなかったのであり、後代への顕著な影響もみとめられず、その思想的意義についてはなお検討の余地が残されている。

前者の問題について本論文は、研究範囲を明治期に限定した上で、新資料を発掘するなど木下の活動の実証的な検証の進展に貢献するものである。また後者の思想的意義については、当時の思想動向に追随するのではなく、あらためて当時の論議と木下の批判その双方を俎上に載せ検証し直す、すなわち、両者の「対決」を顕在化させ、そこから両者の意義を再考するという態度を採っている。この比較考察によって本論文は、木下の思想的闘争の解明、その意義の再評価に寄与し、他方、当時のキリスト教界における主導的な言説に新たな光を当てることにも成功している。

分析の視角として選ばれたのは、第一に、確立しつつあった天皇制国家とキリスト教との関係、第二に、第一の点ともかかわる女性の家族的、社会的地位に関する見解であり、いずれも木下の言論活動の焦点をなした問題であった。

以下、論文の内容を概括しながら、審査による評価を記す。

序章で、上記のような本論文の課題設定が示された後、本編は三部八章で構成される。

第1部は「明治中期のキリスト教界と木下尚江」と題し、キリスト教指導者の女性論に焦点をおき、キリスト教と国家との関係についての当時の思潮への対応という観点から、明治初期以来の論調の変化を明らかにし、同時代に自己形成した木下の言論活動と思想の進展とをあとづける。

第1章「明治中期におけるキリスト者の「男女関係」論とその変遷」は、男性中心、家父長中心の家族制度に対し、男女同権、自由な交際と結婚を提起したキリスト者の言論が、教育勅語発布に象徴される政策の動き、同調する言論界の動向に呼応して、旧来の家族主義、それに支えられる国家主義を追認し、そこに内属することを表明するに至るその展開を明らかにする。

そうした思潮の内に自己形成し、松本で入信し、禁酒、廃娼運動に身を投じた木下の言論活動を実証的にたどるのが第2章「松本時代における木下尚江―キリスト教的社会改良運動と女性論」である。近年の新公開資料、さらに未公開資料をも積極的に用い、松本時代の木下の活動の解明を前進させるものと評価できる。また実証を通じて、学生時代から、家族単位でない個人による社会というヴィジョンをもつ木下が、廃娼運動に関与する中で、「愛」の精神に基づく女性の人権擁護の主張へと問題意識を深化させていく過程を浮かび上がらせている。

第2部「明治後期のキリスト教界と国家」は、明治後期に大きな影響力をもったキリスト者の言説、すなわち、木下尚江が対峙した、当時、主調となっていた言説について、木下が批判した観点を生かしながら、それぞれ丹念に読み直し再構成する。

第3章「巌本善治の女子教育論―「帝国」と「女学」」は、女性の地位の向上を訴えた先駆者である巌本の「女学」思想が、天皇制国家体制に適合的な女性の育成を目ざすものであり、日清戦争前後には日本の帝国的拡張への積極的関与をも望まれるに至ったこと、キリスト教はそうした目的の達成を支える倫理として捉えられていたことを明らかにする。

第4章「植村正久の「武士道」論―日清・日露戦争とキリスト者」では、代表的な思想家であった植村が主張した「洗礼を受けたる武士道」論、すなわち、明治日本のキリスト教のあるべき形態を、日本固有の倫理と見なす「武士道」との接合に見出す論説を詳細に分析し、それが国家主義的、帝国主義的政策に積極的に加担する伝道の提唱へと進展するさまを析出する。

さらに第5章「海老名弾正の「忠君敬神」思想―キリスト教による「国体」の弁証」は、植村と並んで影響力のあった海老名弾正による、キリスト教を、国家体制、さらにその帝国主義的な拡張と相互に補完的なものとして意味づけていく主張を詳細に論じている。

以上三章ともにこうした観点による先行研究は少なく、明治キリスト教思想の理解に資する思想分析である。

第3部「明治後期の木下尚江―女性と国家をめぐって」は、主として明治32年(1899)に上京した後の木下の社会運動、言論活動をたどりつつ、その批判の本質と改革のヴィジョンとを、第2部で把握した主導的な論説を踏まえて浮き彫りにする。

第6章「木下尚江における「廃娼」の思想―虐げられた者の権利とその回復を目ざして」では、上京後も取り組んだ廃娼運動に関する言論を軸とし、木下が人権擁護と国家批判を強める一方、工場労働者や娼妓を改革主体として発見した過程をあとづける。

第7章「明治期キリスト教界と木下尚江―「野生の信徒」の革命」は、キリスト教を、強権的な国家主義的政策に対峙し変革するものとして確立する立場から、戦争に反対し、国家による教育や宗教に対する統制策を批判し、他方、「武士道的基督教」やキリスト教と国体との相互調和など、キリスト教界の主導的論説を徹底的に批判した木下の言論活動を提示しその意義を論じる。

第8章「木下尚江と日本基督教婦人矯風会―女性と国家をめぐって」は、女性の地位向上をめざした日本基督教婦人矯風会との関わりの変遷を確認しながら、女性とその社会参与に関する木下の思想を再構成し、その意義を検討する。

以上のように第三部も、新資料の発見などによる木下の思想展開の解明への寄与のみならず、女性の権利、社会参加の問題に木下が一貫して精力を注いでいたことを具体的に明らかにするなど、木下の思想総体の新たな理解に大いに貢献している。

審査では、このような思想的対立をつくりだしたキリスト教、また当時の政治的経済的変動について考察が十分でないこと、木下のキリスト教信仰の一貫性にはなお検討の余地が残ること、木下の論説に対するキリスト教思想としての分析の不足などの問題点が審査委員から指摘された。いずれも今後の課題となるものながら、木下尚江研究、また明治プロテスタント・キリスト教研究における本論文の意義を減ずるものではないことも確認された。

以上の審査の後、協議の結果、本審査委員会は全員一致して、本論文が鄭〓汀氏に博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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