No | 127659 | |
著者(漢字) | 立花,幸司 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | タチバナ,コウジ | |
標題(和) | 『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレス道徳教育論の哲学的基礎 | |
標題(洋) | Philosophical Basis of Aristotle's Theory of Moral Education in the Nicomachean Ethics | |
報告番号 | 127659 | |
報告番号 | 甲27659 | |
学位授与日 | 2012.02.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第1125号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文の目的は,アリストテレス(Ar.)の『ニコマコス倫理学』(NE)を,彼の道徳教育論に哲学的な基礎を与えている著作として解釈することである. この目的を達成するため,本論文は以下の構成となっている――イントロダクション,第一部(第一章~第三章),第二部(第四章~第七章),結論,補遺(I~III). まず,イントロダクションでは,この論文の研究史上の位置づけ,研究遂行上の問題点,この論文がとる方法論,の三つを論じている.多くの古代教育史家たちは,「paideia(教育・教養)」の歴史的叙述をホメロスから始まり古代ローマの教育へと受け継がれていく流れとして与えるなかで,特筆に値する人物として古典期アテナイで活躍したプラトンとイソクラテスをとりあげる.両者は,徳の本質について,それゆえまた教育の本質について,各々議論を展開し激しく論争する.両者の哲学観・教育観はヘレニズム期そして古代ローマへと受け継がれ,ヨーロッパの教育文化の二つの伝統(哲学と修辞学)を形成することとなる. こうした古代教育史の叙述において,プラトンやイソクラテスと同時代に生き,また後代の影響力という点で両者に伍しているにも関わらず,Ar.の教育論が取り上げられることはあまりなく,同じことが哲学研究の分野にも当てはまる(補遺Iも参照).その背景として,関連領域の先行研究の蓄積の少なさや,プラトンやイソクラテスと比べた際にAr.自身が教育についてあまり論じていないというテキストに内在的な問題などといった研究遂行上の困難を指摘することができる(補遺IIも参照).そして現代の研究者らのアプローチを吟味することを通じて,テキスト解釈に基づいた彼の道徳教育論およびその哲学的基礎の再構成をこの論文の方法論として採用した.以上により,イントロダクションの三つの課題が言及された. 第一部「アリストテレス道徳教育論の倫理学的・政治学的アウトライン」では,第二部で解釈の焦点となるAr.の倫理学の主要トピックを,政治学のトピックとあわせて教育の目的(第一章),方法(第二章),担い手(第三章)の三つの観点からまとめることにより,彼の道徳教育論の素描を与え,これらトピックが道徳教育論の内部で位置づけられている仕方を示している. まず,第一章「教育の目的」では,教育の目的としての幸福,幸福の規定を与えている徳に即した魂の活動,徳を構成している性格の徳と思考の徳の特徴などをまとめている.ついで,第二章「教育の方法」では,教育の条件としての人間が有しているべき自然的条件,教育の最初のステップとしての習慣づけ,習慣づけに密接に関わる行為と感情,そして更なる教育のステップとしてのロゴス的教育についてまとめている.さいごに,第三章「教育の担い手」では,個人,市民,ポリスの三者関係,理想的ポリスにおける各々の幸福の合致,教育の担い手としての市民と法についてまとめている.これらの作業を通じて,第一部では,Ar.道徳教育論の素描として,(1)Ar.の道徳教育論がテキスト的にまとまったかたちでは論じられておらずテキストの様々な個所に散見されること,しかし(2)緩やかながらも全体として或る体系を成していること,そして(3)主要トピックがその全体像のうちにそれぞれの仕方で位置づけられていることという三点が示されている. 第二部「アリストテレス道徳教育論の哲学的基礎」はこの論文の本論にあたる.ここでは,イントロダクションで提示された方法論に従い,また,第一部で確認された素描を背景とし,NEの主要トピックの解釈を通じて,彼の道徳教育論の哲学的基礎を多角的に明らかにする. 第四章「アクラシアと教育」では,「意志の弱い人は道徳教育の対象である」というテーゼの背景にある道徳教育の範囲についてのAr.の考え方を,七巻三章におけるアクラシアの分析手法の解釈を通じて,再構成している.焦点となるのは,無知から回復する仕方については意志の弱い人と酔っぱらいは共通なので「自然学者たちに訊かねばならない」点があるというAr.の主張の解釈である.検討の結果,意志の弱い人の改善に携わる道徳教育は医学的治療とは幾つかの点で異なりながらも,お互いが影響関係にあり,探求の進展に応じて道徳教育の範囲は再確定されるとAr.は考えていることを明らかにした(補遺IIIも参照).この一連の分析を通じて,アクラシアをその一類型とする行為概念の分析にどのような教育論の哲学的基礎が見いだしうるのかが問題として浮上し,第五章に引き継がれる. 第五章「行為と教育」の狙いは,Ar.が行為概念の分析として与えている基準(自発性・非自発性・反自発性)は教育論の哲学的基礎となりうるか否かを検討することである.焦点は,「個別的事実の無知はその行為を反自発的とするか否か」という解釈上の問題を解消することである.これまで,法的責任論や道徳的責任論などの解釈が主流であったが,これに対してこの論文では,Ar.の行為分析の基準は,教育の対象となる行為を弁別し,徳ある人の育成に寄与することを念頭に置いたものである,という教育論的解釈を提示している.これにより,行為分析がなぜ,どのような仕方で道徳教育論の基礎となりうるのかを再構成した.この一連の分析を通じて,教育の対象とならない反自発的な行為(不運な出来事)は教育の対象となるか否かが問題として浮上し,第六章に引き継がれる. 第六章「運と教育」の狙いは,教育が人を幸福にするというAr.の主張の背景を,教育は不運に晒されている人をも幸福にする力があるかという観点から検討することである.Ar.は,教育が育む「徳に即した魂の活動が幸福の実現にとって決定的である」という公式見解を示しながらも,運不運は人の幸福に影響を与え台無しにしてしまうこともあると述べる.そこで問題となるのが徳に即した活動と幸福の結びつきの強さであり,「決定的」の実質である.これまで,多くの研究者が,運不運が作用する範囲を制限したり幸福概念を二層にわけたりして二つの主張を整合させようとしてきた.これに対して,この章では『自然学』二巻における運の議論を併せて検討することで,教育は運そのものには無力でありながらも,運による出来事を回避すべく自体的因果系列を把握させるよう人を教育することは可能であり,結果として,それを把握し行為する徳ある人を育むことで,徳ある人は運に晒されながらもそれに抵抗できる力をもつことができると解釈することで整合性を保てることを示した.これにより,運不運が幸福に影響を与えながらも,徳に即した魂の活動が「決定的」であるということの意味を確保した解釈を提示している.この一連の分析を通じて,深刻な不運は徳ある人であっても対処できず,結果として教育は無力ではないかという問題が提起される.これは,他者がどのような役割を果たしうるのかが問題として第七章へと引き継がれる. 第七章「友愛と教育」の狙いは,友愛は幸福に必須であるというAr.の主張の背景を他者の教育的役割という観点から検討することである.これまでの研究の多くは,彼の友愛論を友愛の定義の問題として,また利己主義・利他主義の問題として論じることが多かった.これに対して,この章が焦点としたのは,「二人で行けば」一層よく行為し考えることが出来るようになる,というAr.の主張の解釈である.検討の結果,「優越性に基づく友愛」も「完全な友愛」も教育的関係でありうると解釈できることを示した.これを通じ,Ar.の友愛論は,友愛(関係にある他者)は独力では到達できない徳ある段階に人が到達することを可能にするという点で教育的である,という思想を含み込んだものであり,人は他者によって,あるいは他者と共に,徳ある人となること,それゆえ幸福に<なる>ためにも友愛が必須である,という友愛論の教育論的背景を明らかにした. 結論では,本論文の内容をまとめ,徳倫理学への含意と今後の課題について述べている.本論文は,Ar.の道徳教育論の哲学的基礎が,NEの主要トピックについての彼の論じ方のうちにそれぞれの仕方で見いだせることを示した.NEの各トピックは,Ar.にとって,各々の主題を論じたものであると同時に,Ar.の道徳教育論を哲学的に支える礎石ともなっているのである.これにより,本論文の目的――NEという著作を彼の道徳教育論に哲学的な基礎を与えている著作として解釈すること――が達成された.このことは,徳倫理学に対してある示唆を与える.それは,徳倫理学が一つの倫理学的理論であるためには,幸福・徳・その構成要素を分析し定義を与える理論と,人が善くなる時にそれらが関わる仕方についての理論とが統合されている必要があるというものである. Ar.のNEはそれを実践してみせた著作といえる. Ar.の道徳教育論およびその哲学的基礎の研究を拡充するための課題は残されている.一つは,政治学における教育論の哲学的分析である.もう一つは,実践哲学以外に注目した研究である(形而上学,魂論,知識論など).これらを俟ってはじめてAr.道徳教育論およびその哲学的基礎の全体が明らかになるが,これらは今後の課題である. この論文には三つの補遺が添付されている.補遺Iでは,1950年代をさかいにAr.教育論が復権していった歴史的経緯の一端を,20世紀の英国および日本でプラトン哲学・政治学・教育学がおかれた政治的状況(に関する諸研究)を瞥見することで指摘している.補遺IIでは,Ar.道徳教育論研究の困難さの一つの要因として,Ar.自身が教育関連語を使用する頻度がプラトンやイソクラテスと比べると低いという点を,統計的に調査し明らかにしている.補遺IIIでは,Ar.の倫理学には様々な点で医学とのアナロジーが見いだされることを下敷きに,Ar.における倫理学と医学の密接な関係を指摘している. | |
審査要旨 | 本論文は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を道徳教育論の観点から解釈することを試み、道徳教育論に対する哲学的な基礎を与える著作としてそれを解釈した意欲的で興味深い論考である。 まず、イントロダクションでは、研究史のサーベイを通じて、本論文の研究史上の位置、研究遂行上の問題点、方法論が的確に提示されている。これに続く第一部では、三つの章にわたって、アリストテレスの倫理学と政治学の輪郭を、目的、方法、担い手の三つの観点から簡潔にまとめ、倫理学が道徳教育論の基礎として占めるべき位置を明確に描き出している。まず、第一章では、教育の目的を扱い、教育の目的としての幸福にとって重要な徳について、性格の徳と思考の徳の区別などに触れながら、その基本的な特徴を簡潔にまとめている。続いて第二章では、教育の方法を扱い、人間の自然的条件、習慣づけ、この習慣づけに密接に関わる行為と感情、およびロゴス的教育について的確なまとめを行っている.さらに第三章では、教育の担い手を扱い、教育の担い手としての個人、市民、ポリスの三者間の関係および法の果たす役割が明快にまとめられている。 第二部がこの論文の本論にあたる部分である。ここでは、『ニコマコス倫理学』の主要な論点の解釈を通じて、彼の道徳教育論の哲学的基礎が多彩な角度から明らかにされている。まず第四章では、アリストテレスが「意志の弱い人は道徳教育の対象である」というテーゼを立てるとき、その背景にある道徳教育の範囲についてはどう考えられているかについての探究が行われ、意志の弱さの改善に医学的な治療も関係することを考慮に入れると、道徳教育の範囲はあらかじめ固定されているのではなく、探求の進展とともに再確定されることになるという興味深い解釈を導き出している。続いて第五章では、第四章での分析からアクラシア(意志の弱さ)をその一類型とする行為概念の分析の必要性が浮上してくるが、アリストテレスが行ったその分析がはたして教育論の哲学的基礎となるかどうかの検討を行っている。そして検討の結果として、行為分析の基準(自発性・非自発性・反自発性)について、この基準が、徳ある人の育成にどう寄与するかということを念頭において設けられているという教育論的解釈を導きだし、道徳教育論の基礎としての的確な再構成を提示している。 この一連の分析を背景に、さらに第二部第六章では,教育は人を幸福にするという主張の意味を、「運」の問題を論じた『自然学』のテキストをも手がかりに論じ、たしかに不運に晒されて不幸に陥ることもありうるが、不運な不幸を回避する因果系列を把握してそのような不幸を回避することは可能であり、それゆえそうした因果系列を把握する徳ある人を育むことが可能なのだという教育的な論点を巧みに析出してみせている。しかし、ここにはまだ、深刻な不運には教育は無力ではないかというきわめて重要な問題があるが、この問題を自ら提起して、第七章においては、友愛が幸福に必須であるという主張の検討を行ってその問題に対する部分的な解答を導き出している。つまり、アリストテレスの友愛論はこれまで利己主義・利他主義の問題として論じられることが多かったが、ここでは素直に、友愛を通じて自分一人では到達できないあり方に至ることが可能であり、また運に対処することも可能だという教育論的背景のもとに友愛論を理解するという道筋を印象的に切り開いてみせたのである。 なお、本論文には三つの補遺が付されており、1950年代をさかいにアリストテレス.教育論が復権していった歴史的経緯の考察(補遺I)、アリストテレス道徳教育論の研究を困難にしている一つの要因である教育関連語の使用頻度の低さに関するアリストテレスとプラトンおよびイソクラテスとの比較統計調査(補遺II)、アリストテレスにおける倫理学的と医学の関係の考察(補遺III)が行われており、いずれも重要な補足事項を提供している。 本論文は,『ニコマコス倫理学』においてまとまった形ではなく、錯綜し散在した形で織り込まれた道徳教育論の哲学的基礎を明快に析出し、まとめ上げることで、たんに『ニコマコス倫理学』がもつ道徳教育論的な観点からの意義だけではなく、逆に倫理学のあり方そのものに関しても一つの重要な論点を提示している。つまり、幸福、徳、およびそれらの構成要素を分析する理論的な理論と人の善くなり方についての実践的な理論は統合されていなければならないということである。 アリストテレスの道徳教育論とその哲学的基礎の全体を明らかにするには、『政治学』における教育論、そして『形而上学』や『魂論』におけるさらに基本的な背景についてのよりいっそう詳細な分析が必要であり、本論文はそれをまだ今後の課題として残しているが、そうした全体を解明する明確な研究方針を具体的に提示しており、その点で本論文は高い評価に値し、 学位取得に十分な水準に達していると判断した。 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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