学位論文要旨



No 127662
著者(漢字) 堀越,彩香
著者(英字)
著者(カナ) ホリコシ,アヤカ
標題(和) 東京湾の干潟に生息するムロミスナウミナナフシ(Cyathura muromiensis)の分類および生態学的研究
標題(洋)
報告番号 127662
報告番号 甲27662
学位授与日 2012.02.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3736号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 岡本,研
 東京大学 教授 佐野,光彦
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東邦大学 教授 風呂田,利夫
 千葉県立中央博物館 上席研究員 駒井,智幸
内容要旨 要旨を表示する

近年、埋め立てや富栄養化などによって、日本の干潟とそこに生息する底生生物の多くが危機的状況にあるといわれている。特に、日本の内湾の中でも最も早くから人間活動の影響を受けてきた東京湾では、これまでに約90%の干潟が消失し、赤潮や青潮、冬季の水温上昇といった環境変化が生じている。東京湾における34種の干潟固有種のうち、「安定種」は7種に過ぎず、5種が「絶滅種」、13種が「危機種」、9種が「希少種」に分類されている。このうち「危機種」に分類されている種のひとつに、ムロミスナウミナナフシがある。本種は体長約1.5 cmの小型の等脚目甲殻類であり、現在東京湾では3か所の干潟に生息するだけである。しかしその生態学的研究はほとんど行われておらず、繁殖サイクルや寿命といった生活史特性も不明であれば、生息環境についての詳細な知見もない。また、本種の属するスナウミナナフシ属の日本産既知種の分類には未整理の点があり、東京湾の種を「ムロミスナウミナナフシ」と特定することの妥当性も検討する必要がある。

以上のことから、本研究では、東京湾の'ムロミスナウミナナフシ'の保全に向けた議論の材料を得るため、日本産スナウミナナフシ属の既知種の種判別形質を整理して東京湾の種の再査定を行ったうえで、その生活史を野外採集・観察と室内飼育実験によって明らかにし、また主に野外調査によってその生息環境特性を調べた。

1. 分類学的研究

スナウミナナフシ属 Cyathura の日本産既知種7種のうち、深海産の1種を除く6種(ムロミスナウミナナフシ C. muromiensis Nunomura, 1974、ヒゴスナウミナナフシC. higoensis Nunomura, 1977、キクチスナウミナナフシC. kikuchii Nunomura, 1977、オオモリスナウミナナフシC. omorii Nunomura, 1992、フタマタスナウミナナフシC. furcata Nunomura & Hagino, 2000、シンジコスナウミナナフシC. shinjikoensis Nunomura, 2001:以下それぞれムロミ、ヒゴ、キクチ、オオモリ、フタマタ、シンジコと記す)について、担名タイプ標本の形態の再観察を行った。オオモリについてはタイプ産地由来の非タイプ標本も観察した。またこれらの中で最初に記載されたムロミについて、タイプ産地である福岡県福岡市室見川河口から様々な体サイズ・性別の個体を含む非タイプ標本を採集し、形態の種内変異を調べた。ムロミのタイプ標本の再観察の結果、原記載では不明瞭であったオスの交尾針先端の側枝の伸長が明瞭に観察された。さらにムロミの非タイプ標本の観察から、種判別形質として従来多用されていたオスの交尾針先端の形態や、大顎鬚先端の剛毛数、大顎可動葉片の鋸歯数には種内変異があること、特に大顎鬚先端の剛毛数は成長にともない増加することが明らかとなった。これらの結果に残りの種のタイプ標本の再観察の結果もあわせたところ、従来ムロミとの種判別形質とされていた形態の多くはムロミのタイプ標本と一致するかムロミの種内変異内であり、有効な種判別形質は少数に絞られた。すなわち、キクチは目を欠くこと、ヒゴは交尾針先端の側枝先端が肥大すること、フタマタは第6腹節後縁が中央で尾節と癒合することと、交尾針の先端が外反し、側枝が太く、手状構造部の鋸歯数が少ないこと、オオモリは目が大きく一部の付属肢で剛毛がやや長いこと、体色が褐色を呈し背面色素分布が第1触角第1節にまで及ぶことでムロミと区別された。ただし、キクチの目の欠如は標本状態に起因する可能性、ヒゴの交尾針の形態は奇形の可能性があり、これらの種の有効性の検討は今後の課題である。またシンジコはムロミと明瞭な形態の違いがなかった。

このようにして整理した種判別形質をふまえて東京湾の標本の形態観察を行った結果、本種はムロミスナウミナナフシと再査定された。

2. 生活史

東京湾の多摩川河口干潟と旧江戸川河口干潟においてそれぞれ2007年8月~2008年10月と2007年11月~2008年10月に毎月の野外採集調査を行った結果、どちらの個体群においても、抱卵メスの出現は3~4月、幼個体の加入は5月におき、繁殖は年1回春に行われることが示唆された。メスの育房内の胚の発生段階の分析から、1個体のメスが1回の繁殖期に産出するのは1腹の子であることが示唆された。繁殖期にはすべてのメスが抱卵し、平均抱卵数は約70で、これは海外の近縁種と比較しても多いほうであった。オスは10月に出現しその後一定割合で個体群中に存在するが、3月の抱卵メスの出現と同時に減少し、5月には個体群から消失した。性比は約0.8で、ややメスが多い特性を有していたが、海外のいくつかの近縁種個体群のようにメスに大きく偏ることはなかった。また毎月の体サイズ頻度分布の解析の結果、どちらの個体群も4月を除いて0+歳と1+歳から構成されることがわかり、生まれた子は秋にオスまたはメスに分化して翌年の春に繁殖を行うこと、その後オスは死亡するがメスは秋にオスに性転換すると2度目の春に再度繁殖し生涯を終えること、死亡率は生涯を通じてほぼ一定であることが示唆された。ただし、湾奥に位置する旧江戸川河口では多摩川河口より夏季の死亡率が高い傾向があった。

繁殖期の行動に関しては多摩川河口干潟で2009年11月~2010年5月に野外観察を行った結果、2月下旬からオスと育房未形成メスの巣穴内同居が見られ、3月下旬にすべてのメスが高い同調性をともない抱卵を開始し、7±1週間の抱卵ののち子を放出することがわかった。

室内飼育実験の結果からは、出生後メスを経ずにオスに成熟する一次オスがいること、繁殖後にはオスは死亡し、メスはオス(二次オス)に性転換することが実証された。また受精に関する実験では、オスで複数回交尾が可能であること、しかし短期間では受精可能な卵数に制限があることが示唆された。

3. 生息環境特性

東京湾の多摩川河口左岸干潟において、河川流軸方向約4.5 kmの範囲に9本のトランセクトラインを設定し、その上の3定点(岸側、中間、低潮線側)において、2007年と2009年の夏季にムロミスナウミナナフシを含む底生生物と環境の調査を行った。環境については、河口域の底生生物の分布規定要因として一般的な塩分と底質に加えて地形環境も調べることで、より詳細な生息環境の把握を目指した。野外調査の結果、ムロミスナウミナナフシの分布は、河口原点から上流へ約2 km、下流へ約0.5 kmの範囲であり、その中でも特定のラインや岸側の定点に限定される傾向があった。本種を含む主要な種についてこの分布と環境との関係をCCA(正準対応分析)によって解析した結果、これらの種は河口原点からの距離(塩分の指標)および底質の中央粒径値、標高と相関する河川流軸方向の環境勾配と、干潟の斜度および底質の酸化還元電位と相関する環境勾配の2つに応答して分布し、ムロミスナウミナナフシは斜度と酸化還元電位に対する分布パターンが主要種の中で特徴的であることが示された。これらの環境項目に関して、ムロミスナウミナナフシが多く分布していた場所の値を本種の生息環境特性とすると、1)間隙水が中鹹性~多鹹性汽水で、2)2~18%の泥を含んだ中央粒径が100~280μmの砂質、3)潮間帯中~下部、4)0.8°未満の緩傾斜またはわずかな窪地、5)底質の酸化還元電位が深さ5 cmで60~140 mVと十分酸化的な底質、であった。このうち緩傾斜で酸化的な底質という特性は、前述したように主要な底生生物の中で本種に特有なものであるとともに、この条件を満たす干潟では澪筋や水たまりがみられることが特徴であった。塩分については室内耐性実験を行った結果、35 ppt以上では胚発生に異常が生じ、海水には生息できないことが示唆された。

20世紀前半まで、東京湾の海岸線には遠浅の干潟が広がり、これらの干潟には河川や水路がときに網目状になって注ぎ、澪筋や水たまりも存在していた。本研究により明らかになった、「塩分が中鹹性~多鹹性で傾斜が緩く澪筋の発達する干潟」という本種の生息環境特性は、近年埋め立てや河川の直線化によって東京湾で失われたこの干潟の環境と一致した。また、酸化的な底質への生息は本種の酸素要求性が高いことを示唆し、近年貧酸素が発生している東京湾では、残存する干潟でも本種の生息に不適な可能性があり、湾奥で夏季死亡率が高かったこともこれを支持すると考えられる。一方、その生活史特性の中には、低い抱卵数や抱卵個体率のような、個体群のダメージを示す特徴はなかったものの、東京湾の干潟の底生生物の中では寿命が長く、死亡率が生涯を通じほぼ一定で、年間繁殖回数が少ない生活史特性を有することがわかった。すなわち、本種は日和見的に生息場所を変えるのではなく、ひとつの場所に長く個体群を存続させる種であるといえ、そのために必要な環境が近年の東京湾から消失したことが個体数減少の原因であり、保全のためには生息に適した場を残すことの重要性が特に高いと考えられる。また、分類学的研究からは、東京湾の種を「ムロミスナウミナナフシ」として扱うことの妥当性が示されるとともに、従来の情報ではスナウミナナフシ属の種同定が困難だったことが明らかになった。本種の属する等脚目では希少性や地域絶滅を判断する材料が乏しい中で、本種の東京湾個体群で例外的にその材料があったことは、東京湾では1970年代から「ムロミスナウミナナフシ」の名称が使われていたことと無関係ではないと考えられ、種の保全における「命名」の重要性が認められる。

審査要旨 要旨を表示する

内湾・河口域に発達する干潟には、二枚貝類や多毛類をはじめとする多様な底生生物が生息する。干潟は本来、生物の多様性・生産性が高い場所であるが、その立地条件故に古くから埋め立てによって多くの干潟が消失した。さらに戦後の高度成長期以降は、内湾域の富栄養化に伴い干潟の底質・水質環境が悪化した。東京湾では干潟固有種の多くが減少または絶滅したことが知られているが、近年個体数減少が著しい干潟の危機種にムロミスナウミナナフシがある。本研究ではムロミスナウミナナフシを保全する上で必要な生物学的情報を明らかにし、保全に向けた指摘を行った。

第1章では、ムロミスナウミナナフシの保全のため、生活史や生息環境特性を把握する必要性を指摘するとともに、スナウミナナフシ属は種分類に混乱があることから、日本産既知種の種判別形質を整理し、現在「ムロミスナウミナナフシ」とされている東京湾の種の再査定の必要性を指摘した。

第2章の分類学的研究では、日本産スナウミナナフシ属既知種7種のうち、浅水域に分布する6種について、担名タイプ標本の形態の再観察を行った。またムロミスナウミナナフシ(以下ムロミ)については非タイプ標本を用いて形態の種内変異を調べた。その結果、ムロミ以後に記載された種において、ムロミとの種判別形質とされていた形態特徴の多くはムロミのタイプ標本と一致するかムロミの種内変異内であり、有効なものではないことを明らかにした。整理した種判別形質をふまえて、東京湾の種をムロミスナウミナナフシと同定した。

第3章では、本種の東京湾の多摩川河口干潟と旧江戸川河口干潟個体群について、個体群構造と生活史を、野外調査、野外観察、室内飼育実験によって明らかにした。野外採集調査の結果、オスの出現は10~3月、抱卵メスの出現は3~4月、幼個体の加入は5月におき、繁殖は年1回春に行われること、性比はおおよそ1であることを示した。繁殖に関して野外観察を行った結果、すべてのメスは3月下旬に同調的に抱卵を開始し、約6週間の抱卵ののち子を放出することを明らかにした。また毎月の体サイズ頻度分布の解析の結果、どちらの個体群も4月を除いて0+歳と1+歳から構成され、生まれた子は秋にオスまたはメスに分化して翌年の春に繁殖を行うこと、その後オスは死亡するがメスは秋にオスに性転換して2度目の春に再度繁殖し生涯を終える生活史が推定できた。また室内飼育実験によって、繁殖後のオスの死亡とメスのオスへの性転換を実証した。海外の近縁種に比べると、生まれてから繁殖可能になるまでの生存率は低いが、1メスあたりの抱卵数は多く、性比の偏りが小さい特徴を明らかにした。

第4章では本種の生息環境特性について検討した。東京湾の多摩川河口干潟に27定点を設置し、本種を含む底生生物の分布と環境の調査を行った結果、本種の生息環境は、(1)間隙水塩分が中鹹性~多鹹性、(2)中央粒径が100~280μm程度の砂質、(3)潮間帯中~下部、(4)緩傾斜またはわずかな窪地、(5)底質の酸化還元電位が高い、という特徴を有することを明らかにした。このうち(4)(5)は主要な底生生物の中で本種に特有なものであり、この条件を満たす干潟では澪筋や水たまりがみられることを指摘した。

第5章の総合考察では、本種の生活史特性、生息環境特性から、本種の東京湾内での減少の原因の推測と、それを踏まえた保全のための指摘を行った。本種の生活史特性のうち、外部環境の影響をもっとも受けやすいと考えられる加入期が、東京湾において貧酸素や河川からの出水といった環境撹乱が生じる夏季とずれていたこと、「塩分が中鹹性~多鹹性で傾斜が緩く澪筋の発達する干潟」という生息環境特性が、近年東京湾で失われた遠浅で、小河川が網目状に入り込んだ干潟の環境と一致したことから、本種は環境撹乱には比較的強いものの、その生息環境特性が特徴的であるために、生息場所の干潟が消失したことが湾内での減少の原因であることを指摘できた。そのため本種の保全のためには、現在本種が生息している東京湾内の3カ所の干潟の確保と環境の保全が重要であることを指摘できた。また分類学的研究からは、従来の情報では日本国内のスナウミナナフシ属の種同定が不可能だったことが明らかになり、これに起因した本種の日本における分布状況の把握の遅れを示唆することができた。本研究はスナウミナナフシの保全のために、生活史特性、生息環境特性といった基礎的で詳細な生物学的知見を生み出したが、現存の干潟の確保と環境の保全の重要性を指摘できたことは、干潟の生物の保全、ひいては沿岸環境の保全の観点からも当然寄与が大きい。よって審査委員一同は、本論文を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク