学位論文要旨



No 127670
著者(漢字) 三浦,望
著者(英字)
著者(カナ) ミウラ,ノゾミ
標題(和) ヨハネ福音書における「弟子たち」の物語論的機能 : 弟子たちのナラティヴ視点を通じての内的読者の形成
標題(洋) Narratological Function of the Disciples in the Fourth Gospel : Formation of the Implied Reader through the Narrative Perspective of the Disciples
報告番号 127670
報告番号 甲27670
学位授与日 2012.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1126号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 筒井,賢治
 東京大学 教授 本村,凌二
 東京大学 准教授 高橋,英海
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 宮本,久雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ヨハネ福音書における弟子たちの物語論的な機能と、弟子たちのナラティヴ視点を通して内的読者がどのように内的作者の意図に従った読み手として形成されるかを分析するものである。また特に、イエスの弟子たちの中でも、通称「愛弟子」(「彼の弟子たちの一人でイエスの愛しておられた者」〓, Jn 13:23)が福音書後半の13章以降に登場する理由、そしてこの愛弟子の視点が内的読者にもたらす効果についても考察する。

第一部(Part I)においては、ヨハネ福音書研究動向をまとめ、歴史批評と文芸批評が拮抗する現状を鑑みつつ(Excursus I)、ヨハネ研究における「弟子論」の先行研究を網羅した。ヨハネ福音書では、議論の余地なくキリスト論がその中心的なテーマであるが、その一方で、テクスト構成が浮き彫りにするキャラクターとしての「弟子」(maqhthv~)たちの重要性を確認した。弟子たちは、物語の最初(弟子たちの召命、Jn 1:19-51)から最後(復活顕現物語、Jn 20:1-21:23)まで常にイエスと行動を共にしつつ登場し、そのなかでも告別説教でのイエスの長い講話は選ばれた弟子たちだけ(「十二人」〓)に向けられている。弟子の重要性は、ヨハネ福音書の「パラテクスト」(paratext)――序文The Prologue (Jn 1:1-18), 二つの終結部The Epilogues (Jn 20:30-31; 21:24-25)――におけるナレーターの語りからも確認できる。パラテクストは、福音書の物語(ストーリー)に対して一段高い視点から物語全体を見渡し枠づけ、物語全体を理解した視点(= the post-Easter perspective)から解釈的な構成諸要素を提示し、物語を内的作者の意図に沿う形で解釈する手掛かりを与える。福音書全体をキリスト論的に総括する序文においては、「わたしたち」という証言者/ナレーターの視点が組み込まれ、二つの終結部では、この証言者(わたしたち/わたし)が「弟子(たち)」と同定されている。イエスの言動の証言者としての「わたしたち」とは、物語でイエスと行動を共にした「弟子たち」に他ならない。福音書後半部では弟子の視点が「愛弟子」に収斂し、彼がナレーターと同じ役割を果たしながら(Jn 21:24)、受難物語を導く視点を提示し、終結部パラテクストでの弟子の視点も、ナレーターが物語のキャラクターとしての「弟子」と相関関係にあることを示している。ヨハネ福音書の目的は、「イエスがメシアであることを信じ、それによって永遠の生命を得ること」(Jn 20:31)とされており、弟子たちのナラティヴ視点および証言によって内的作者が内的読者を形成することが福音書の基本的な構成となっているのである。

福音書前半部(The First Half, Jn 1:19-10:42)において、ナラティヴに登場する様々なキャラクターが、イエスの弟子(信従者)の「モデル」(type cast)を内的読者に提示している。第二部(Part II)では、こうしたエピソードを通じて内的読者が内的作者の意図に従った弟子像を育む過程を物語論的に追った。福音書のナラティヴは、「弟子たちの召命物語」で始まり(Jn 1:29-51)、ここから内的読者は弟子たちというキャラクターを通じてイエスと共にイエスの証言者となる「信仰の旅」(the faith journey)に招かれる。しかし、既に内的読者は序文を含めた内容から、ナレーターを通じてより詳しい情報を得ており、キャラクターとしての弟子たちよりもイエス理解において優位な位置に立っている。これにより、内的読者は弟子たちに対して(「ユダヤ人」に対しても)一定の距離を保ちつつ、二つの陣営(信仰/不信仰)の間で決断し、イエスに従うという構造が示される。イエスと出会う様々なキャラクターは、イエスに対する信仰表現の「モデル」を体現し、内的読者はこうしたいくつかの「モデル」を通じて、より理想的な「イエスの弟子」として成長するように仕組まれている。福音書前半部では「新しい神殿」としてのイエスのモティーフが配置され(Excursus II)、この神殿に集う者としての弟子たちが描かれる。内的作者は理想的な弟子像(「見ないで信じる信仰」)のパターンを繰り返し提示する一方で、各エピソードの最初と最後(もしくは最初のみ)に弟子たちを登場させている。それによりエピソード全体が「弟子論」的な視点で理解されるよう「《枠》効果」(the "framing" effect)が施されている。また、前半部において、弟子たちに加え、各エピソードに登場する人々やイエス自身の言葉も内的読者の弟子像形成に大きく貢献することも確認した。福音書の転換部となるthe Bridge Section(Jn 11:1-12:50) では、イエスにより親しく、イエスによって生命を受ける「愛する者(友)」としてのラザロが家族関係のうちに提示され、一歩深めた弟子像へと内的読者を導く。同時に、ナラティヴはイエスの受難に向けて「時」の到来を示し、内的読者を福音書後半部(The Latter Half, Jn 13:1-20:29)へと導入する。

第三部(Part III)では、福音書後半部において、内的読者が弟子像を形成していく過程を考察した。「神の家族」(Familia Dei)への迎え入れを象る洗足に始まる告別説教(Jn 13:1-17:26)では、イエスの長い独白講話が続き、内的作者によってヨハネ的な弟子像の在りようがイエスの言葉を通じて語られる。福音書ナラティヴにおいて、告別説教は物語のプロットや時間があたかも停止ししたような独自の空間(Zasur,中間休止)を形成し、イエスは「高挙のキリスト」(the Exalted Christ) として弟子たちに語る。Jn 13:1や15:1-17に表現されるように、告別説教のテーマは愛/愛における関わり(Love Relationships)である。キリストの死によって拓かれる父と子と弟子たち(神の子たち)の愛の交わりが相互内在として描き出されている。

Jn 13:23で初めて登場する「愛弟子」は、前半部で内的読者の中で形成された理想的弟子像を、ナラティヴ後半部で引き受ける。前半部において、弟子たちの回顧的視点が内的読者に対して、読み・解釈の基準を示したように、後半部においてはこの愛弟子の視点が――最終的に、彼の視点がナレーターと同定されるのであるが――内的読者を導く。受難物語(Jn 18:1-19:42)においてもまた、この愛弟子/ナレーターの視点が内的読者を十字架上のイエスまで導く。死に際したイエスがこの愛弟子と母に対して相互に託した親子関係のなかに、「神の家族」の完成を見る(Cf. Excursus IV)。内的読者は愛弟子と共に、この新しい神の家族の「子」として規定される。

最後に復活顕現物語(Jn 20:1-29)において、弟子たち(そして内的読者)の「信仰の旅」が閉じられる。この部分は冒頭の召命物語と呼応し、ナラティヴ全体が弟子のエピソードで囲い込まれる。同時に、この旅を通して成長・変化した「復活後」の弟子たちの在りようが示される。ナラティヴを通じた信仰の旅は、復活後のイエスの言葉(Jn 20:17)や弟子の信仰告白(20:28)に表明される通り、内的読者が「神の家族」に子として属すること(「親子化」、affiliation)と神の「固有化」(personalization)に至ることで全うされる。第二の復活顕現物語(Jn 21:1-23)では、シモン・ペトロと愛弟子の二人に焦点が当てられ、ヨハネ的弟子像における補完的な二つの役割(使徒的殉教者としてのペトロと証言者としての愛弟子)が強調されつつ、内的読者の視点を物語レベルから内的作者/ナレーターの視点へと引き上げ、内的読者をナラティヴの出口へと導く。

以上の考察から以下の事柄を結論として導き出した。

キャラクターとしての弟子たちの描写とその機能:弟子たちは基本的にイエスに親しみ、寄り添う者として登場するが、往々にして理解不足や誤解を示す。しかし、こうした否定的な弟子の描写は、内的読者には「好対照」(foil)として機能し、内的読者がより理想的な弟子像を抱くための刺激となる。弟子の中でも裏切り者として提示されるイスカリオテのユダは、理想的な弟子像のアンチテーゼとして働く。また、理想的な弟子像が繰り返し提示される一方で、その他のキャラクターたちは曖昧さを孕みながらも、ヨハネ的弟子像の幅広い枠内でひとつのモデルを提示する。内的作者は様々なモデルを提示しつつ、個々の召命の多様性とヨハネ的弟子像の豊かさを強調している。

弟子たちの復活後視点とその機能:登場人物の中でも復活前(the pre-Easter)と復活後(the post-Easter)の視点を示すのは弟子たちだけである。この時折出現する弟子たちの復活後の視点もまた内的読者が内的作者のイデオロギー視点を把握するために貢献する。弟子たちの視点は、復活前と復活後の視点の間で「揺れる」(fluctuate)ことが考察されたが、弟子たちの復活後視点に示されているイデオロギー視点が内的読者を鼓舞し、この意味で内的読者の形成に寄与する。

ナラティヴ視点とナラティヴ構成の相関関係および物語論的な機能:ヨハネ福音書ナラティヴが内的読者をイエスの弟子として形成するべく構成されていることが明らかになった。内的読者は序文のパラテクストから証言モティーフ(「わたしたち」証言句)を介してナラティヴに導入され、弟子たちやその他のキャラクターによって弟子像を形成する。告別説教では、復活後視点のイエスの言葉が物語レベルの内に埋め込まれており、内的読者の視点も否応なしにパラテクスト・レベルに引き上げられるが、内的作者の意図としてはイエスの言葉を物語論的に再構築された過去に繋ぎ止めようとする努力が見られる。後半部では愛弟子が登場し、内的読者をイエスの受難および「神の家族」の完成へと方向づけ、最終的に終結部で再び内的読者が「わたしたち」証言句に向き合うような仕組みとなっている。終結部パラテクストにて二人称複数(「あなたがた」)で呼び掛けられる内的読者は、こうしてナラティヴの冒頭の序文パラテクストの「わたしたち」証言に統合される。繰り返し物語を読むことを通して、福音書ナラティヴは、内的読者がより内的作者の意図に近いイデオロギー視点を得られるように配備されているのである。

審査要旨 要旨を表示する

Narratological Function of the Disciples in the Fourth Gospel - Formation of the Implied Reader through the Narrative Perspective of the Disciples - (ヨハネ福音書における「弟子たち」の物語論的機能――弟子たちのナラティヴ視点を通じての内的読者の形成――)と題された英文によるこの論文は、新約聖書正典福音書の一つである『ヨハネ福音書』の全体を対象に、語り(ナラティヴ)の内部において「弟子たち」が果たす役割に焦点を当てて総合的に論究したものである。全体は3つのPart(以下「部」とする)からなり、そこに6つのChapter(以下「章」)および4つのExcursus(以下「補論」)が配分されている。さらに結論と展望を総括が置かれ、冒頭には略語表、巻末には参考文献リストが配されている。以下、この構成に準じて全体の概要を記す。

2つの章と1つの補論からなる第1部は、第2部と第3部において展開される本格的な議論の基盤を準備するものである。第1章は、『ヨハネ福音書』における「弟子たち」というテーマへのイントロダクションであり、テーマの趣旨、研究史、研究目的が簡潔に記されている。同書において弟子たちに言及される箇所をまとめた表(p.14)も付されており、この後、本論でどの箇所が具体的に問題となるのかを一覧することができる。続く第2章では、『ヨハネ福音書』の構成をレトリックないしナラトロジーの視点から――数多くの先行研究を参照しつつ――分析した結果が、やはり図表(p.26)と共に提示される。この2つのステップを通して、『ヨハネ福音書』における「弟子たち」と「ナラトロジー」についてそれぞれ著者が前提する基本的な認識が示され、この2つを組み合わせて論究しようとする論文本体への導入となっている。

この直後に2つの補論が挿入される。第1の補論は、『ヨハネ福音書』の研究史、特にその方法論を総合的にまとめたものである。本論文において論理構成上必ずしも不可欠なものではないが、著者の意図するところをより広い研究地平から理解するために有益である。「第4福音書における神殿モチーフ」と題された第2の補論は、『ヨハネ福音書』研究において近年有力になっているテーマとその論点をまとめたものである。著者自身にも同じテーマを扱った論文があり(p.41脚注1、英語版は本論文提出時点で未刊)、後に本論文でも関連する事柄が繰り返し扱われることから、参考としてこの箇所に挿入されている。

続く本論は、第1部で準備された前提にのっとり、『ヨハネ福音書』の「弟子たち」がナラトロジーの観点からどのような役割を帯びているのかを、弟子たちが登場するエピソードごとに、ギリシア語原文を提示しつつ詳細に分析していく。著者の一貫した判断は、論文タイトルにも表現されているように、読者が弟子たちを自らのモデルとして受け取ることによって、読者が作者の意図に沿った理想的な信徒へと「形成」されていく、逆にいえば、そうした「物語論的な機能」を『ヨハネ福音書』の著者は「弟子たち」の形姿に託したというものである。

構成としては、『ヨハネ福音書』の前半(10章まで)が第2部第3章に、「橋渡し部」(Bridge-Section 11~12章)が第2部第4章に、後半にはいっていわゆる「告別説教」(13~17章)が第3部第5章に、受難・復活・顕現物語(18章以降)が第3部第6章に、それぞれ配分される。一見すると、こうした配列は機械的・無機的な羅列にすぎないように思われる。しかし著者は、福音書のストーリー展開に応じて、弟子たちの機能が変化していくことを繰り返して指摘する。一例を挙げるなら、『ヨハネ福音書』に特徴的な「愛(まな)弟子」は福音書後半の13章になって初めて登場するが、これは偶然ではなく、福音書前半部までで暫定的に読者の中に形成された理想的弟子像を引き受け、読者をさらに高みへ、そして完全な信仰――「見ないで信じる」信仰――の獲得へまで導く、いわば上級ガイドの役割をこの「愛弟子」が負っているからなのだという。

第3章の後に第3補論が置かれている。これは『ヨハネ福音書』の中でも最もドラマチックなエピソードである福音書第9章の「盲人の癒し」物語をナラトロジーの観点から集中的に分析するものである。ここで、主要とはいえない登場人物(Minor Characters)とイエスとの間に成立する親密な関係が論じられ、この後に登場する愛弟子を部分的に先取りする機能があることが指摘される。また第4補論が第5章の直後に配されている。第2補論とも関連する内容であるが、「神の家族」(Familia Dei)という概念が著者によって提起され、これこそが『ヨハネ福音書』が示す理想的な信徒のあり方であるということが詳説される。またこの概念が、第6章で扱われる受難・復活・顕現のナラトロジー分析のキーワードとして利用されることになる。

以上が本論文の概要である。本論文の美点として審査委員会で合意をみたのは、とりわけて以下の諸点である。

テーマ設定がオリジナルであり、かつ有意義であること。『ヨハネ福音書』をナラトロジーの立場から研究することは学界における近年の流行であり、また福音書における「弟子たち」の役割という問題も、『ヨハネ福音書』に限らず、伝統的な研究テーマである。しかしながらこの2つを総合的に組み合わせた研究はこれまで見当たらない。なおかつ、このアプローチは既存の2つの流れ双方を引き受けて連続的に発展させたものでもあり、『ヨハネ福音書』のナラトロジー研究と弟子研究、それぞれ単独であれ、どちらへも積極的な貢献を果たすことができる。

肝心の論証については、個別のエピソードごと詳細に議論されるので、ここでいちいち要約することはできないが、おおむね説得的であると評価できる。とりわけ、神殿モチーフや「神の家族」という概念を用いて『ヨハネ福音書』の理想とする信徒共同体像を従来よりも具体的に規定することができたことは、学界への大きな寄与だといえる。また、弟子像が福音書のストーリー展開と共に役割を変化させられており、段階的に読者を導くようなナラティヴ構造が確認できるということの指摘はきわめて刺激的で、また説得力がある。

また、著者は英語でこの論文を執筆したが、ナラトロジー等、いわゆる「メタ文学」の論述はどうしても煩雑になってしまうところ、母国語話者ではないにもかかわらず、複雑な議論を十分な明晰さと説得力をもって展開することに成功している。博士学位請求論文をあえて英語で執筆するという挑戦にここまで成功したことは、研究者として著者がすでに獲得している大きなアドバンテージを示している。

他方、審査委員からは以下のような欠点ないし問題点も指摘された。ただし、それぞれについて逆の意見ないし擁護意見も出された。以下に主要なものを列挙する。

古代の文献に現代の文芸理論を適用できるのかという問題。『ヨハネ福音書』は古代文献であり、その常の通り、「読者」はごく僅かで(しかもそれは「朗読者」であり)、このテキストに触れる人間は大部分が「聴者」ないし「聴き手」であった。それゆえ、テキストの同じ部分を繰り返し読む(読み聴かせてもらう)ことで文脈構造への理解を深めるとか、テキスト内で相当以上に離れた2箇所を比較して対応関係を確認するとか、そいう行為はほぼ不可能だったのではないか。とすると、一定以上の規模をもつテキストについてその内的一貫性を論じるということもできないのではないか。

これに対しては、文芸理論的なアプローチが古代文献に対してまったく無効だというのは極論であり(そもそも近現代の文学テキストも遡れば古代のそれを規範として成立したものである)、そして古代ならではの諸条件については、その都度、可能な限りで顧慮するという方法が生産的かつ現実的であろうという意見が出された。委員会全体としては、将来的な課題として、こうした方向のさらばる検討を著者に求めたいという意見で一致した。

次の点。本論文は「内的著者」「内的読者」という言葉を多用する。これは実在した生身の人間としての「歴史的」な著者や読者をあえて考慮せず、テキストそのものだけに語らせる、テキストだけに基づいて議論するというナラトロジーの方法論に基づくものである。が、とりわけ『ヨハネ福音書』などの古代宗教文献は、最低限、それがいつ頃どのような歴史的状況で書かれたものかを考慮しなければ、ほとんど理解不可能なのではないかという疑念が出された。たとえば「ユダヤ人」という言葉が『ヨハネ福音書』ではイエスの敵役として繰り返し登場するが、「ユダヤ人」とはそもそも何かという説明がテキスト内部に見出されるわけではない。

これに対しては、原理的にはその通りであるけれども、テキストそのものに語らせるというアプローチそのものの意義がそれで全く失われるわけではないという指摘がなされた。「ユダヤ人」についての客観的・歴史的な説明は福音書テキストに記されていない。しかし「ユダヤ人」がこの福音書においてどのような価値判断を伴うレッテルとして使われているのかは、福音書テキストそのものの内部に判断根拠を求めるしかない。「内的」な著者/読者と「歴史的」な著者/読者を、どちらに偏ることもなく有機的かつ十全に組み合わせた議論を構築できるならばそれが理想だが、容易に実現できるものではない。ただ著者には、本研究で得られた成果を、今後少しずつであれ、現実の歴史の中へ描き戻していく作業にも取り組んでほしい、という意見が委員から出された。

最後に、言語および形式上の不備について。前述のようにポジティヴな評価が出来る一方で、やはり著者が英語のネイティヴスピーカーではないことからくると思われる語学的な不自然さが散見されるという意見があった。本論文を英文の学術書として正式に出版する際にはネイティヴチェックを確実に受けるようにという指示が委員より出された。また本論文が多用する図や表について、その番号づけが不自然で参照しづらいこと、目次と本文で章節のタイトルが一致しない箇所が見られること、等々の指摘があり、修正が求められた。

以上のように、本論文は、わずかな不足は認められるも、それが論旨そのものを損なっているわけではなく、独創的かつ有意義な研究としての価値を十分に認定することができるという点において委員会の判断は一致した。よって、論文提出者について、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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