学位論文要旨



No 127683
著者(漢字) 石嶋,希
著者(英字)
著者(カナ) イシジマ,ノゾミ
標題(和) ヘリコバクター・ピロリ菌の感染における付着因子BabAの重要性に関する研究
標題(洋)
報告番号 127683
報告番号 甲27683
学位授与日 2012.03.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3784号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清野,宏
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 准教授 本田,賢也
内容要旨 要旨を表示する

ヘリコバクター・ピロリ菌 (ピロリ菌)は、全世界人口の約半数が感染していると推定される病原細菌であり、胃・十二指腸潰瘍、胃癌等の原因となる主要な危険因子である。幼少期に感染が成立すると、ピロリ菌は胃粘膜上皮細胞に長期に亘り定着し、その結果、胃粘膜では慢性的な炎症反応が惹起される。一方、胃粘膜の脱落と共に小腸内へ脱落した菌はパイエル板や孤立リンパ小節内部に取り込まれた後、内部の樹上細胞による補足に伴う抗原提示によって炎症を誘導する。すなわち、ピロリ菌による胃炎惹起には、胃上皮細胞における持続感染の確立による炎症促進および小腸パイエル板での免疫担当細胞への菌体の感作成立という双方からの炎症促進が重要と考えられ、このことはピロリ菌の胃粘膜への付着、長期定着こそが慢性胃炎の原因の根幹であり、菌の上皮細胞への付着の重要性を裏付けている。

ピロリ菌感染に最も重要な付着因子であると考えられているBabAは、胃粘膜上皮細胞に発現するフコシルオリゴ糖Lewis b (Leb)と結合する。Lebは、β-1,3ガラクトース転移酵素 (β3Gal-Ts)により合成されるタイプ1鎖が基となり、哺乳動物においては、β-1,3-N-アセチルグルコサミン転移酵素4 (β3Gn-T4)、B3GALT5にコードされるβ-1,3型ガラクトース転移酵素 (β3Gal-T5)、FUT1あるいはFUT2にコードされるαロ1,2型フコース転移酵素IあるいはII (FucT-I あるいはII)、およびFUT3にコードされるβ-1,3/4型フコース転移酵素III (FucT-III) cDNAがその合成に関与する。BabAとLebとの結合は、合成Leb糖鎖や、ヒトおよびLeb発現マウス由来の胃組織切片を用いた実験によって報告されているが、ピロリ菌の病原性におけるBabA-Leb 相互作用の生物学的意義は不明のままであった。

胃癌の発生過程は、主にピロリ菌の持続的な定着とそれに続く慢性炎症、組織損傷および組織再生と関連している。胃粘膜表面へのピロリ菌の付着は機能的な菌-宿主相互作用を生じ、好中球浸潤を伴う顕著な炎症反応を誘導し、結果としてTおよびBリンパ球、形質細胞およびマクロファージの活性化が起きる。この際、ピロリ菌感染により誘導されるケモカイン遺伝子ファミリー、特にCXCケモカインやCCケモカインの産生がこれらの炎症性細胞を胃粘膜にリクルートすると考えられている。増殖過程の間に正常な胃分化経路から逸脱して前癌状態と考えられる腸上皮化生を呈し、腸型胃癌へと進行する。CDX2転写因子は、早期に腸上皮細胞への分化と維持を誘導することで胃の腸上皮化生の誘導に関与していると考えられており、MUC2のような腸特異的なタンパク質の転写を活性化する。

ピロリ菌顕性感染患者からの分離株は一般に、cag-PAIと呼ばれる、ピロリ菌の疾患重篤度と相関を有する重要な病原遺伝子群を有している。このcag-PAI 領域中に、IV型分泌装置 (TFSS)構成因子および主要病原因子 (エフェクター)であるCagAがコードされており、ピロリ菌が胃上皮細胞に付着すると、TFSSよりCagA、菌体細胞壁構成成分ペプチドグリカン、さらに未知の因子を宿主細胞内に注入し、宿主細胞のシグナル経路に影響を及ぼす。CagAは、上皮細胞増殖刺激、細胞間接着破壊、炎症性応答誘導といった、多様な活性を有している。BabA陽性ピロリ菌がヒトで胃潰瘍や胃癌のリスクを上昇させ、深刻な胃炎症と関連していることが明らかになっているが、ピロリ菌と胃上皮との機能的相互作用におけるBabAの明確な役割や、ピロリ菌の病原性におけるBabAの影響にはまだ不明瞭な部分がある。

これまで、ピロリ菌の病原性におけるBabAの影響をLeb陽性細胞およびLeb陰性細胞株を用いて系統的に調べた報告はなかったことから、本研究では初めに、in vitroでの簡便なBabA-Leb相互作用機能評価系の構築を試みた。胃上皮細胞株AGS細胞はピロリ菌感染により誘導されるシグナル伝達経路の研究に一般的に用いられる細胞株である。しかしながら、検討の結果、AGS細胞は細胞表面にLeb発現が認められるものの、ピロリ菌-AGS細胞間の付着にはBabA-Leb結合以外の付着機構が主要であると考えられ、本研究で目的とするBabA依存的なピロリ菌付着の検討にAGS細胞は適当でないことが示された。そこで、遺伝子操作によりLeb発現陰性細胞からLeb発現細胞を樹立することを試みた。種々の培養細胞株を用いたピロリ菌感染実験により、MDCK細胞、CHO細胞、NIH3T3細胞およびMEF細胞は、AGS細胞に比べて菌付着効率が低く、また、免疫蛍光染色によりLeb発現量が検出感度以下であることが明らかになった。そこで、これらの細胞に種々の糖転移酵素cDNAを導入してLeb発現細胞を作製した。マウスレトロウイルスを用いた形質導入を効率良く行うために、同種指向性レトロウイルスレセプターを安定発現するMDCK (MDCK/EcoR)およびCHO (CHO/EcoR)細胞を作製した。続いて、B3GALT5、FUT1およびFUT3をコードするレトロウイルスを組み合わせた形質導入などによりLeb発現細胞を樹立した。これらの細胞におけるLeb発現を、抗Leb抗体を用いた免疫染色・顕微鏡観察により調べたところ、FUT3とFUT1の両遺伝子を導入したMDCK/EcoR細胞、およびFUT3、FUT1、B3GALT5の3遺伝子を導入したCHO/EcoR、NIH3T3、MEF細胞の細胞表面にLeb発現を認めた。次に、Leb安定発現MDCK 細胞(MDCK/Leb細胞)およびコントロール細胞 (MDCK/pIRES細胞)を作製し、これらの細胞と上記のLeb発現細胞を用いて、ピロリ菌の付着実験を行った。

ピロリ菌感染時のMDCK/LebおよびMDCK/pIRES細胞への菌付着量を顕微鏡観察した結果、MDCK/pIRES細胞に比べMDCK/Leb細胞の方が顕著に多いことが確認された。同様の結果が、Leb発現NIH3T3およびCHO細胞においても確認された。さらに、MDCK/LebおよびMDCK/pIRES細胞を用いてピロリ菌付着の定量的解析を行った。ピロリ菌を細胞に感染・固定後、in vitro付着試験による蛍光強度測定した結果、細胞への付着菌量は、MDCK/pIRES細胞よりもMDCK/Leb細胞の方が多いことが明らかになった。また、MDCK/LebおよびMDCK/pIRES細胞にピロリ菌野生株、BabA発現欠失株およびTFSS構成因子発現欠失株を感染させ、感染細胞から調製したトータルRNAをリアルタイムRT-PCRに供し、ピロリ菌16S rRNAの発現レベル解析により付着菌量を定量したところ、BabAおよびLeb依存的な付着が示唆された。さらに、タンパク付着試験では、MDCK/LebおよびMDCK/pIRES細胞を組換えタンパク質と共に静置・洗浄後、in vitro付着試験による蛍光強度測定に供し、付着したタンパク質量を検出した。その結果、FLAGタグ融合BabA組換えタンパク質は、タンパク質量依存的にMDCK/Leb細胞への結合が認められたのに対しMDCK/pIRES細胞への結合は認められず、ピロリ菌はBabA-Leb結合依存的に細胞に付着することが示された。

BabAのTFSS依存的な炎症性サイトカインおよび胃癌関連因子産生誘導への関与を検討するため、MDCK/LebおよびMDCK/pIRES細胞を用いた感染実験を行った。感染細胞より調製したトータルRNAをcDNAに逆転写し、リアルタイムPCRに供して検出・定量した。その結果、ピロリ菌は感染時にBabA-Leb相互作用を利用してTFSS依存的に宿主細胞シグナルを上昇させ、炎症性サイトカイン(IL-8、CCL5)や癌化関連因子(CDX2、MUC2)の産生を誘導していることを見出した。

これらの結果により、今回構築した機能評価系がLebの仲介により誘発されるピロリ菌の病原性に対する宿主細胞応答をin vitroで解析できる優れたモデルであることが実証された。本モデルは、今後、宿主細胞への細菌付着を制御する薬剤の同定や、ピロリ菌臨床分離株の病原性を調査する簡便なスクリーニングシステムの構築に有用であると考える。

次に、スナネズミを用いた動物モデル実験により、in vivoでのBabA-Leb相互作用評価を行った。スナネズミにピロリ菌野生株、BabA発現欠失株およびTFSS構成因子発現欠失株を経口的に接種し、8週後に、胃における糜爛形成個体数および炎症性サイトカインCXCL1のmRNA発現レベルをRT-PCRを用いて測定した。その結果、BabA依存的およびTFSS依存的に有意に高いCXCL1 mRNA発現レベルが示され、糜爛個体数はそれに相関する傾向がみられた。以上の結果は、BabAによる付着能亢進がピロリ菌感染においてTFSS依存的な炎症性サイトカイン産生を増強し、悪性胃疾患へ導くという見解を裏付けるものである。

本研究では、ピロリ菌にとってのBabA-Leb相互作用が、胃表面に単に付着するためのみならず、宿主細胞表面に分泌装置を堅固に支持し病原因子を細胞質内へ効率的に送り込むために重要な結合であることを、初めて明らかにした。ピロリ菌のBabAと宿主細胞表面のLebとの結合がTFSSを介した効率的な分泌に重要な役割を果たしており、その結果、cag-TFSSの最も顕著な特性である炎症および腸上皮化生への誘導が起きることを明白に示した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、Helicobacter pylori (ピロリ菌)感染における、ピロリ菌の付着因子BabAと胃上皮細胞表面に発現しているフコシルオリゴ糖Lewisb (Leb)の相互作用の重要性を明らかにするため、in vitroでのBabA-Leb結合評価系の構築と検討および実験動物への感染実験を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.Leb発現細胞の作製

ピロリ菌の付着因子BabAと宿主細胞のLebの結合は、これまでに合成糖鎖やヒトあるいはヒトLeb発現トランスジェニックマウスの胃組織切片を用いた実験系で明らかにされている。しかしながら、合成糖鎖はその基部の構造などが本来の胃粘膜上皮での天然型糖鎖構造を反映していない可能性が憂慮され、また、合成糖鎖、組織切片の実験系は共に、結合の結果誘導される宿主応答を調べることができない。そこで、in vitroでの簡便なBabA-Leb結合評価系構築のため、Leb発現陰性細胞からLeb発現細胞を樹立することを試みた。種々の培養細胞株を用いたピロリ菌感染実験により、MDCK細胞、CHO細胞、NIH3T3細胞およびMEF細胞は菌付着効率が低く、また、免疫蛍光染色によりLeb発現量が検出感度以下であることが明らかになった。これらの細胞にLebを発現させるために必要な糖転移酵素遺伝子を探索し、MDCK細胞ではFUT3、FUT1の2遺伝子、CHO、NIH3T3およびMEF細胞ではFUT3、FUT1、B3GALT5の3遺伝子であることを見出した。マウスレトロウイルスを用いてこれら種々の糖転移酵素cDNAを導入し、Leb発現細胞を作製した。

2.ピロリ菌のBabAタンパク質はLeb発現細胞に結合する

MDCK細胞は単層極性シート構造を形成することから、細菌の付着試験に適している。そこで、MDCK細胞にFUT3およびFUT1遺伝子を導入したLeb安定発現細胞とコントロール細胞を作製した。ピロリ菌感染時のLeb+/-MDCK細胞、NIH3T3細胞およびCHO細胞を顕微鏡観察し、付着菌数を調べた結果、Leb-細胞に比べLeb+細胞の方が顕著に多いことが確認された。また、Leb+/-MDCK細胞への付着ピロリ菌量をin vitro付着試験による検出し、Leb-細胞に比べLeb+細胞の方が多いことが明らかになった。次に、Leb+/-MDCK細胞とbabA遺伝子欠損株 (ΔbabA)を用いた感染実験を行い、感染細胞から調製したトータルRNAをリアルタイムRT-PCRに供して付着菌量を定量したところ、BabAおよびLeb依存的な付着が示唆された。さらに、BabAとLebの直接的な結合を確認するため、Leb+/-MDCK細胞とBabA組換えタンパク質を用いたin vitro付着試験を行った。その結果、BabA組換えタンパク質は、タンパク質量依存的にLeb+MDCK細胞への結合が認められたのに対しLeb-MDCK細胞への結合は認めらなかった。

これらの結果より、ピロリ菌はBabA-Leb結合を利用して宿主細胞に付着することが示された。

3.BabA-Leb結合は、ピロリ菌感染細胞においてIV型分泌装置 (TFSS)依存的な転写活性を亢進させる

ピロリ菌感染による自然免疫誘導やシグナル伝達因子活性化といった宿主応答の多くは、TFSSのエフェクタータンパク質CagAにより引き起こされることが報告されている。そこで、BabA-Leb結合がTFSS依存的な活性に影響を及ぼすか否かを調べるため、ピロリ菌感染Leb+/-MDCK細胞について、(1)CagAタンパク質の細胞内移行、(2)ピロリ菌感染による胃炎の原因である炎症性サイトカインIL-8、CCL5のmRNA発現レベルおよび(3)腸分化型胃癌の前段階である腸上皮化生の形成に関与する因子CDX2、MUC2のmRNA発現レベル、を検討した。その結果、(1)~(3)のいずれも、BabA-Leb結合に依存した活性上昇が確認された。

以上の結果より、BabA-Leb結合によるピロリ菌付着促進がピロリ菌感染時のTFSS依存的な活性において重要な役割を果たしていることが明らかになった。

4.BabA-Leb結合はin vivoでの炎症性サイトカイン産生に寄与している

スナネズミへのピロリ菌経口投与8週後に、炎症の形態学的指標として胃における糜爛形成個体数を算定し、胃から調整したトータルRNAを用いて炎症性サイトカインCXCL1 mRNAの発現レベルを測定した。その結果、糜爛形成個体は野生株感染動物のみで認められ、ΔbabA株感染動物では認められなかった。また、CXCL1 mRNA発現レベルは、ΔbabA株と比較して野生株感染動物で著しく高い値を示した。

この結果より、BabAによるピロリ菌菌体の付着能亢進は、in vivoでも、ピロリ菌TFSSに依存した炎症性サイトカイン産生を増大させ、悪性胃疾患を誘導することが示唆された。

以上、本論文は、初めて、TFSS依存的な宿主細胞応答の促進におけるBabA-Leb結合の重要性をin vitroおよびin vivoで証明した。本研究で構築したLeb+/-細胞株を用いた付着評価系は、改良の余地はあるものの、多様な宿主細胞付着機構を有するピロリ菌感染事象の中でも、BabA-Leb結合のみに特化した付着機能を評価する上で有用な測定系となり得ると期待される。BabA-Leb結合は、菌体の宿主細胞表面への付着を促進することで、TFSSを介した宿主応答亢進に重要な役割を担っており、悪性胃疾患のリスクを上昇させることを示した。本研究は、付着因子を介したピロリ菌の感染成立と病原性発揮機序の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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