学位論文要旨



No 127699
著者(漢字) 赤池,慎吾
著者(英字)
著者(カナ) アカイケ,シンゴ
標題(和) 17~19世紀における青森県津軽地方の「従来保安林」の変遷過程 : 近世から近代への「公益性」の継承
標題(洋)
報告番号 127699
報告番号 甲27699
学位授与日 2012.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3738号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永田,信
 上智大学 教授 鬼頭,宏
 秋田工業高等専門学校 教授 脇野,博
 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 准教授 古井戸,宏通
内容要旨 要旨を表示する

公益上必要な森林を保全するために、森林利用に制限が加えられる歴史は、日本の近代法制においては明治30年森林法保安林制度により確立をみたといえるが、類似の制度又は慣習は既に幕藩期において遍在したことが知られる。これら制度慣習の一部は、明治に入り禁伐林、風致林又は伐木停止林となり、明治30年法保安林制度により「従来保安林」として普通保安林と区別され引き継がれている。これまでの研究史における森林の公益性を巡る議論は、幕藩制社会における林野支配のかたちを農民の使用収益に対する封建的干渉の視点から把握し、近代以降の官林経営については良材生産と国土保安という国家的公益性が住民排除の根拠とされた点を強調する。そのため、明治初期の森林荒廃の一因を保護監督の弛緩に求め、旧藩時代の封建的干渉を是とし、これらが近代保安林制度へ無条件で継承されたと理解される傾向がある。

本論文は、幕藩体制下に成立した公益上必要な森林を保全するための制度慣習が、近代的土地所有権の成立・展開過程を経て近代保安林制度にどのように継承され、実際の政策・施業においてどのように取り扱われたのかを明らかにする。さらに、近代保安林制度が欧州諸国における保安林概念(所有者以外の利害のために特別の管理を必要とする森林)を基礎としている点に注目し、森林の公益性がいかにして展開されたかを考察する。以上を踏まえ、本論文では官林経営が早期に行われ、近世から近代にかけての資料が存在する青森県津軽地方を対象地に選定し、森林保全の目的が異なる田山及び屏風山を取りあげた。第1章では幕藩制社会における田山及び屏風山の成立過程と森林の公益性の特質を考察する。第2章では、近代保安林制度への継承を明らかにし、実際の政策・施業における取り扱いを考察した。第3章では、具体的な事例を通じて、農民側からみた森林の公益性を考察し、終章で研究の総括を行う。

第1章は幕藩制社会おける森林の公益性の特質を、領主と農民双方の視点から論じる。

田山の資料的初見は1663(寛文3)年であり、江戸中期以降に津軽地方全域に拡大し、江戸末期には管理村数80箇村149箇所に展開した。田山の管理経営は、平時においては「用水」を目的として、藩による「伐木停止」の厳しい制限のもと村中入会により担われていた。しかし、大飢饉発生時等の極限的状況下においては御救山として伐採が許されており、伐採後は再造林により再び田山として認定されていた。御救山は、農民自らの労働による用材又は薪炭の販売による最低限の生存の確保を可能としたと考えられる。

「新田風除」を目的とする屏風山は、1682(天和2)年に四代藩主信政の命により造林が開始され、約20年間に雑木を主体として約72万本の植林が農民の手により実施された。藩による指揮監督の下、各村に取締役、山守を配置して厳重に保護監督し、伐採は「断之事」(許可制)とされた。藩は、田山同様に大飢饉発生時には雑木に限り杣役を総て免除し、随時伐採を許可しており、天明(1784)及び天保(1834、1839)の大飢饉時には著しい山林荒廃をみた。

領主は、農業生産力向上の要件として、新田開発の推進と用水の確保が必要であり、田山及び屏風山の造成に積極的であった。農民側からは、共に救荒備林的性格を備えているものの、屏風山は藩の命による賦役的側面が強く、田山は水源を自らの支配とすることを目的に村が自主的に申請した点に成立過程の相違がある。このように、共に救荒備林的な性格があり、田山についてはその成立要因から受益者と管理者が重複するという特徴を指摘した。

第2章は、近代保安林制度への継承・展開過程について、[第1期]官林・官有林野の形成(1876~1882)、[第2期]官林解放運動の展開と明治30年森林法制定(1883~1897)、[第3期]国有林野法制定とその後の展開(1899以降)、に時期を区分し、それぞれにおける政策展開を整理し、救荒備林的性格の変化を考察した。

[第1期]田山及び屏風山は、1876~1881年に行われた官民有区分により禁伐林に編入され、地盤は「官地」として国有に帰したが、用益権は「民木」として農民に継承され官地民木の形態となった。官地民木の形態が青森県津軽地方に偏在し、その後も制度として存続した要因として、藩と住民との間に分収契約が結ばれておらず政府は部分林として処理できなかったこと、青森県下における官民有区分の査定基準は極めて厳格であり、その後も官林直轄が早期に実施されたことで地方庁主管による官有地の民有移譲が行われなかったこと、の2点を明らかにした。加えて、田山の面積及び林相等の具体的特徴を明らかにし、幕藩期における「伐木停止」の利用制限が、厳格に実施されていなかった点を指摘した。

[第2期]官林経営における入会慣行の排除が徹底されるなか、田山及び屏風山については、森林の公益性ゆえに住民の使用収益権は無償貸付というかたちで保証された。屏風山は1889年に「屏風山保護繁殖取締規約」(1880年申請)が許可され、関係町村による自主管理の下に置かれ、田山は各村による管理が継続された。明治30年法公布により、救荒備林的性格を備えた田山及び屏風山は、「従来保安林」として保安林制度に継承された。

[第3期]1899年に国有林野法が公布されると、農民の入会慣行を有した森林は一般に不要存置に区分され、有償払下により国有地から排除する方針が示された。しかし、「従来保安林」については、国有地に存置させ、入会慣行は容認する方針が示された。近代保安林制度への継承後の展開をみると、田山については、1899年から1918年までの19年間に約70%の保安林解除がなされており、その要因は、明治年代においては保安林調査により編入の原因が消滅したと判断されたため、大正年代の保安林解除は官地民木の形態を解消するため、又は有償貸付に移行するためであったと論じた。一方、屏風山では、保安林解除はなされず、1912年に前述の取締規約を解散し、関係町村による自主管理の取組は終了した。

施業要件の変化に着目し、近世と近代における救荒備林的性格の変化を考察した。「従来保安林」の制限は明治30年法まで従来のまま継承されたが、明治40年改正森林法により施業要件が大幅に緩和され、択伐を原則としつつも、保安林の目的を妨げない程度の樹種の改良、その他必要な目的のためには皆伐も許容されるようになった。近代保安林制度における「従来保安林」の運用は、皆伐に対して厳しい規制を課す一方で、択伐には施業要件の許す範囲内で常に寛容であった。この変化は農民の使用収益権を擁護することとなり、一部で荒廃を誘起する結果となった。

第3章の事例研究では、田山又は屏風山に由来する森林で、明治期以降の関連資料が残されていることを基準に、1)鰺ヶ沢町黒森部落、2)五所川原市旧七和村、3)つがる市広岡部落の3つを取り上げた。

1)黒森部落の田山は、日本で最後の官地民木林であり、明治以降に用益権が複数部落に拡大したことで山論となった事例である。官地民木の形態が平成に至るまで継承された要因として、田山に強い影響力を有していた黒森部落が、木炭生産原木を薪炭共用林野から安定的に享受しつつ、田山に対しては木炭生産による経済的収益よりも水源涵養による農業用水の確保を優先したことで、地盤所有を必ずしも必要としなかったことを指摘した。

2)旧七和村の田山は、近世から継承した救荒備林的性格が、戦後の水源林造成事業を通じて木材収益重視に転換した事例である。1895年の管理規定には、山守の厳重な管理の下で「伐木停止」の制限が継承されており、近代保安林制度の前史的性格である救荒備林的性格を継承している点を指摘した。戦後、区民を対象にしてマツ材の払下が行われ、保安林の施業要件の許す限りにおいて区有財産の分配が行われてきた。この変化により、区有財産及び住民の収入を増加することが可能となった。

3)つがる市広岡部落の管理する森林は、屏風山の一部を担っており、1973年最高裁判決において国有地入会を認める判決が出されている。明治以降1952年まで、用材販売の収益は区有財産及び権利者(本家33戸)に分配し、薪材は参加者全員で伐採採取し原則均等に配分されていた。1953年に分家・入村者が本家と平等の権利を主張したことで訴訟に発展し、用材は伐採できない状態となった。その後、1995年に認可地縁団体・広岡町内会を設立し、保安林の目的を妨げない範囲で伐採・更新が行われ、伐採収益は区有財産として用いられている。

終章では、救荒備林的性格の運用上の変化を指摘し、田山及び屏風山の特質を近代保安林制度との整合性の観点から考察した。

近世に成立した田山及び屏風山は、平時においては、名目上も運用上も、「用水」の確保又は「新田風除」をその目的としていた。しかし、極限的状況下においては御救山としての利用が認められ、農民救済的な性格を備えていたと指摘しうる。「従来保安林」は近代「保安林」の前史的性格をもつものの、平時における利用規制と非常時における生存水準の確保を意味していた。近代保安林制度のもとでは平時における利用規制は緩和され、実質的に、日常的な生活水準の継続的維持をもたらし、この変化により多くは区有財政又は農家家計に直接資する結果となった。

屏風山は、近代保安林制度に適合し、保安林解除をうけることなく施業要件の許す範囲において伐採利用がなされてきた。一方の田山は、近代保安林制度と齟齬を来たし、保安林解除がなされた点を指摘した。この違いは、田山の近世的特質である管理者=受益者という性格が、所有者以外の利害のために特別の管理を必要とする森林を前提とする近代保安林概念と適合しなかったためだと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

公益上必要な森林を保全するために、森林利用に制限を加える制度は、日本の近代法制においては明治30年森林法保安林制度により確立をみたが、類似の制度又は慣習は既に幕藩期において遍在していた。これら制度慣習の一部は、明治に入り禁伐林、風致林又は伐木停止林となり、それらは明治30年森林法保安林制度により「従来保安林」として普通保安林と区別され引き継がれ、現在に至っている。

本論文は、これらの制度慣習が、近代保安林制度にどのように継承され、実際の政策・施業においてどのように取り扱われたのかを明らかにし、森林の公益性がいかにして展開してきたのかを考察する。

第1章では幕藩制社会における公益的森林であった田山及び屏風山を取り上げ、その成立過程と森林の公益性の特質を考察した。

領主は、農業生産力向上の要件として、新田開発の推進と用水の確保が必要であり、「新田風除」を目的とする屏風山及び「用水」を目的とする田山の造成に積極的であった。農民側からは、共に救荒備林的性格を備えているものの、屏風山は藩の命による賦役的側面が強く、田山は水源を自らの支配とすることを目的に村が自主的に申請した点に成立の特徴がある。このように、共に救荒備林的な性格があり、田山についてはその成立要因から受益者と管理者が重複するという特徴を指摘した。

第2章では、近代保安林制度への継承・展開過程を、[第1期:1876~1882]官林・官有林野の形成、[第2期:1883~1897]官林解放運動の展開と明治30年森林法制定、[第3期:1899以降]国有林野法制定とその後の展開、に時期区分した。

[第1期]田山及び屏風山は、1876~1881年に行われた官民有区分により禁伐林に編入され、地盤は国有に帰したが、用益権は農民に継承され官地民木の形態となった。

[第2期]田山及び屏風山は、森林の公益性ゆえに住民の使用収益権は無償貸付された。屏風山は1889年に「屏風山保護繁殖取締規約」が許可され、関係町村による自主管理の下に置かれ、田山は各村による管理が継続された。どちらも明治30年法公布により、「従来保安林」として保安林制度に継承された。

[第3期]1899年に国有林野法が公布され、国有林経営が本格化する中、田山については、1899~1918年に約70%の保安林解除がなされた。その要因は、明治年代においては保安林調査に基づき、大正年代では官地民木の形態を解消するため又は有償貸付に移行するためであった。一方、屏風山では、保安林解除はなされず、1912年に前述の取締規約の解散をし、地元農民による自主管理の取組が終了した。明治40年改正森林法により「従来保安林」の施業要件が大幅に緩和され、救荒備林的性格は平時の農民の使用収益権を擁護することとなり、一部で荒廃を誘起する結果となった。

第3章の事例研究では、明治期以降の関連資料が残されている、1)鰺ヶ沢町黒森部落の田山、2)五所川原市旧七和村の田山、3)つがる市広岡部落の屏風山、を取り上げた。

1)官地民木の形態が平成に至るまで継承された要因として、黒森は小規模な山村であり、官地民木の多くが解消された昭和30~40年代において地盤を払い受ける経済的な余裕がなかったこと、木炭生産原木を薪炭共用林野から安定的に享受できたので、田山に対しては水源涵養を優先し、地盤所有を必ずしも必要としなかったことを指摘した。

2)1895年の管理規定には「伐木停止」が規定され、近世からの救荒備林的性格が継承されていたが、戦後、マツ材の払下が行われ、保安林の施業要件の許す限りにおいて区有財産の分配が行われ、木材収益重視に転換した。

3)薪材の利用は参加者全員で伐採採取し、その場で原則均等に配分がなされていた。現在は認可地縁団体を組織し、保安林の目的を妨げない範囲で皆伐・更新が行われ、伐採収益は区費として用いられている。

終章では、近代保安林制度のもとでは利用規制は緩和され、非常時のための救荒備林であった「従来保安林」が日常的な生活水準の継続的維持をもたらすものとなったこと、屏風山の「新田風除」は、近代保安林制度に適合し、保安林解除をうけることなく施業要件の許す範囲において伐採利用がなされたことを指摘した。

一方、田山の「用水」の確保は、管理者=受益者という性格があり、所有者以外の利害のために特別の管理を必要とする近代保安林制度と齟齬を来たし、保安林解除がなされたことを指摘した。

要するに本論文は、近世の公益的森林が、近代において「従来保安林」として継承されたものの、救荒備林的性格は日常的な生活水準の維持に変化したこと、受益者と管理者を異にする近代保安林とは齟齬を来すものがあることを歴史的、事例的に明らかにしたもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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