学位論文要旨



No 127706
著者(漢字) 馬,麗華
著者(英字)
著者(カナ) マ,レイカ
標題(和) 中国都市部における社区教育政策の動向に関する研究 : 政府主導型から住民参加型への試み
標題(洋)
報告番号 127706
報告番号 甲27706
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第193号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 准教授 李,正連
 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 准教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

1.本研究の課題意識

「社区教育」は1980年代に経済が発達した省・市を皮切りに生まれてきた新しいタイプの教育・学習活動であるが、1999年に「全国社区教育実験区」が設けられて以来、この活動は現在中国の半数以上の省・市において全面的に推進されている。ではなぜ、「社区教育」が民衆の間に急速に普及していったのであろうか。1980年代から実施された改革開放政策以降、「単位」を中心とした生活共同体は崩れ始め、市場化への進展に伴い、社会組織の多様化、人口の流動化、高齢化の進展、人材需要の多様化も加速され、これらの影響を受け、「社区教育」が要請されることに至った。一方で、こうした社会変動に対処するために、政府は社会安定の確保、「国家権力の支配の永続化」を目指し、社区教育をも提唱するようになった。即ち、今日の中国の都市社会の変化を表す最も重要なキーワードとしての「社区」に関わる「社区教育」の展開は社会構造の変動と相関性を持っていること、また政府の推進、いわゆる政府の施策に深く影響されていることが考えられる。

中国都市部における「社区教育」の三十余年の歴史を遡ってみると、その政策形成においては、中央レベルと地方レベルの政策はどのように相互作用しているか、政府の「上意下達」のほか、社区教育の実施現場では国家より地方が先行して社区教育を推進する状況も存在しているか。また、政策決定過程における「社区教育」の目的と利益主体は社会変容に伴い変動しているか。そして、地域間の軋轢や教育格差が浮上してくるにつれ、「調和のとれた」社会環境、官民協働の実現が求められるようになり、社区教育政策形成における政府の「主導性」と住民参加の「主体性」はどのように結びつけているか。これらは中国の「社区教育」政策の動向を考察するための基礎的な作業として必要であると考えられる。しかし、管見の限り、「社区教育」政策に関する先行研究においては、政策策定の社会環境の変動と政策内容の相関性、国家政策の意図と実施現場との融合性という視点からの研究が欠落していると思われる。このような問題意識を持ち、本研究は中国の社会発展状況と社区教育施策との関係のあり方を1980年代から2000年代に至るまでの時期に着目し、中国社会の実態の下で制定された政策の内実(方針・対象・内容・方法)を時系列的に跡づけることと現場のフィールドワークを通じ、政府の社区教育に対する認識・政策動向と社会環境の変容との関係、社区教育政策策定における中央・地方という政府間の相互作用、政策の目的と利益主体の変動、政府主導型の社区教育から住民参加型の社区教育への移行過程における住民参加意識の胎動と社区教育政策策定上の問題点を提起する。

2.本論文の構成と内容

本論文の構成は序章、第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、及び終章である。

第1章では、一般住民に浸透してきた「社区」と「社区教育」という概念は一般的にも研究領域でもまだ確立していない状態にあるので、本論に入る前の前提として、本稿で扱う「社区」と「社区教育」の定義を行った。中国における「社区」の定義を明確にするため、communityの古典概念の整理を通じ、中国における「社区」の語源の由来・歴史展開、特に中国地域社会の再組織化と行政システムの変化に触れ、中国の先行研究における「社区」の定義を概観した上で、筆者独自の定義を提示した。中国の「社区教育」という言葉はアメリカのcommunity educationに起源し、中国における「社区教育」の本質を抽出するために、先行研究に基づき、歴史範疇的な「社区教育」のイメージ及び現代の「社区教育」の類型を整理し、「社区教育」概念の先行研究及び政策規定の議論を通じ、「社区教育」の類似概念を重層的に把握したうえで、本論文で扱う「社区教育」を定義した。即ち、第1章で理解が極めて曖昧な「社区」と「社区教育」に関する歴史上のプロセス、及び時系列的にそれぞれの時期の特徴について触れた。

第2章では、1980年代(1980年代半ば~1992年)の「社区教育」の萌芽期における社区教育の性格、及び政策策定と社会動向との相関性を析出するため、1980年代の社区教育を巡る基盤環境の醸成を把握し、社区教育に関する中央レベルの政策及び地方の社区教育の実態を述べた。まず、社会学方法論による「社区」に関する研究成果を使用し、「社区教育」の土台である「社区」の形成経過及び社会管理システムを考察した。政府の基層出先機関としての「街道弁事処」・基層住民組織である「居民委員会」の機能変遷、「単位」制の崩壊、及び知識重視・徳育軽視の教育状況などの一連の社会問題を検討し、次に、その上で更に民政部により公布された「社区服務」の構想経過、実施状況、「社区服務」からみる社区教育、及び教育部により公布された文書を分析した。その内容と主旨を検討し、最後に北京市西城区を例にして1980年代の社区教育展開の実情を概括し、1980年代の「社区教育」の特徴と限界の分析を試みた。その上で「社区教育」の発足要因を政治、経済、教育、生活などの面から分析し、「社区教育」の萌芽期の性格について、学校徳育の補完性、教育福祉性、認識不足性などの三点を析出した。

第3章では、1990年代(1993年~2001年)の社区教育政策策定の模索期における「社区教育」の性格、萌芽期より前進した内容を究明するため、社会の大変革、及びこの変革のもとでの政策策定の経緯を論じ、当時の社区教育の実情を例に検証した。まず、1990年代の「社区」の形成に影響を与えた都市部における住宅制度の改革、戸籍規制の緩和及び大規模な社会流動人口の増加などの社会環境の変化を論じた。次に、この背景を受け、国が揚げた「小さな政府、大きな社会」のスローガンに基づき民政部が呼びかけた地方への権限の移譲を図ろうとする「社区建設」の構想、及び教育部の教育改革に関する一連の指令を分析し、当時の中央政府の社区教育改革の動向を述べた。政策内容の分析により、1993年以降、民政部による「社区建設」の一環としての「社区教育」と、教育部による「社区教育」の意図が違うこと、また、教育関係の政策、文献から見ると行政主催の検討会で「社区教育」は認識され、経済発展した地域では「社区教育」実践活動が盛んに行なわれたことを究明した。最後に、北京市西城区で展開された「社区教育」を例にし、1993年以降の「社区教育」の性格をその前と比較しながらその相違点と模索期の「全員、全過程、全領域」の性格、及び「社区教育」・学校教育の関係から1980年代から2001年までの発展パターンをまとめた。

第4章では、2002年以降の「社区教育」展開期における現代的な社区教育の特徴の析出を目的として、その社会背景、政策の内容を論じ、特に北京西城区を中心に具体的な社区教育発展事例に基づき検討した。まず、2002年以降の社会背景としての人口高齢化、経済・教育の格差、情報化・都市化の進展を概観し、これによる社会価値観の変化、社会矛盾を明らかにした。次に、この社会背景を受け、中央政府による「学習型社会」の提起、及び学習型社区の構築の核心として位置付けられた「社区教育」に関する一連の公的文書を分析した。そして、北京市西城区を対象とした聞き取り調査とインタビューによる具体的な事例を通して、社区教育の現状を論じ、地方政府が「社区教育」事業の強化に力を注ぐその姿勢を見て取った。最後に、社区教育の現状に基づき、「学習型社会」構築への結びつき、政府が人間本位という要請を基本にして、社会安定・団結を維持するために「社区教育」の展開を推進していること、及び住民の要求を主体とし、正規化・体系化・多元化されつつある「社区教育」の展開期の性格を析出した。

第5章では、前章までを総括し、政府主導型から住民参加型への試みを究明するため、「社区教育」政策の施策経緯に従い、中央・地方の相互作用、「社区教育」の施策目的・利益主体と社会変容の関係、住民参加型「社区教育」の台頭の分析から、中国の「社区教育」における政策ネットワークの動向を整理するとともに、「社区教育」政策における問題点を抽出してみた。まず、「社区教育」施策における中央政府と地方政府の相互関係を「中央政府から地方政府への呼びかけ」と「地方政府からのボトムアップ」から見て、中央主導の色彩がまだ濃厚ではあるが、地方は地方分権によりある程度自らの意見や要求を中央政府に反映する道ができたことが明らかになった。この中で、社区教育に関わる民政部、教育部による文書及び二部の政策策定の相違性の分析を通じ、社区教育施策過程における民政部と教育部の関係は時期ごとに、相互影響、相互受容をしていることを究明した。また、「社区教育」政策を巡る政策決定過程における施策目的・利益主体の変動を通史の視点から明らかにした。さらに、社区教育に関する政策文書の内容、組織機能の変遷、事業の運営から住民参加型の「社区教育」の胎動を探求した。政策文書・「学習型社会」の理念を分析した上で、「社区教育」に関連する組織機能変遷経過とその主旨を検討し、更に住民参加の兆しを抽出し、街道レベルの「社区教育学校」の運営と社会組織の「社区教育」への参加から住学習を軸とした住民参加の姿を究明した。最後に「政府主導型」の「社区教育」政策策定の経緯に基づき、社区教育政策における問題点を抽出しその解決ための私見と提案を試みた。

3.本論文の意義

本論文の意義は、第一に、政策形成と政策実施との間に溝ができやすいという点を押さえ、中国の統治構造下における社区教育政策の実施には、2000年代まで基本的に上意下達型・政府主導型の構造が維持されている事実を確認したことである。即ち、社区教育施策は主に中央政府からの「上から下へ」の指令、誘導、呼びかけを受け、地方政府が中央政府による文書をブレークダウンし地方政策を策定したという政府主導型の施策のあり方となっている。これにより、中央レベルの社区教育政策規定は社区教育活動の一層深い展開への大きな推進力となったといえる。

第二に、社区教育政策策定過程における中央・地方間の相互作用という視点からの分析により、社区教育行政はトップダウン型の政策実施によって展開される一方、自主性も未成熟で住民参加の意識も不充分であるにもかかわらず、地方政府からのボトムアップが政策実施プロセスに及ぼす影響があったことを確認したことである。社区教育政策文書に関する分析をもとに、中国社区教育の動きは「地方分権」、市場経済の進行、及び基層社会管理システムの再構築に伴い、以前の政府の「計画・先導」から「呼びかけ・誘導」へと転換されているプロセスを究明した。

第三に、社会変容を巡る政策決定過程における施策目的・利益主体の変動とともに、住民参加型社区教育の胎動が現れていることも考察できたことである。社区教育の現象と政策動向から施策の目的や施策の利益主体の変化を析出し、中国社会の構造及び国家の意図と民衆との関係を考察した。住民参加型の胎動については、まず、教育部・民政部による社区教育関係政策と社区教育実態から、政府関与の有効なメカニズムと住民参画の拡大の可能性を見出すことができた。また、社会教育組織機能の変遷と社区教育の実践活動の分析から住民参加胎動の現状を一定程度明確化できた。

審査要旨 要旨を表示する

市場経済化の進展に伴い、中国の社会秩序は大きく動揺し、政府の民衆管理システムは変更を余儀なくされている。民衆を国営企業・人民公社・政府機関などの「単位」に組織して、共産党支部を置いて管理する仕組みが解体し、民衆は単位から解放されて、市場を流動する存在へとその性格を変えていった。また、民衆の離転職と流動が激化するにつれ、民衆を居所で捕捉しつつ、行政サービスを提供する街道居民委員会が機能不全に陥る一方で、社会秩序の維持と民衆生活の安定が政策的な急務となった。この行政区画が「社区」である。この過程で、民衆管理システムは、強権的管理から思想・道徳教育と職業教育サービスによる民衆生活の安定、さらに民衆の社区運営への参加動員へと性格を変えることになる。この民衆管理システムの基本が「社区教育」である。

本論文は、社区教育政策の展開を丹念に追うとともに、北京市西城区をフィールドに、中央政府の意向と地方政府の施策、末端行政レベルの動向との関係とズレをとらえつつ、社区教育政策の特徴を描き出している。その展開は政策的な転換の視点から、第1期:萌芽期(1985-1992)、第2期:模索期(1993-2001)、第3期:展開期(2002以降)とされる。

本論文の構成は以下の通りである。序章では、本研究の課題と基本的視点が述べられ、第1章では、「社区」と「社区教育」の上記のような概念定義がなされる。第2章では、第1期:萌芽期の社区教育政策の特徴として、従来の民衆管理方式が市場化によって崩れ、道徳教育による思想統制のー方で、職業教育サービスなどの提供による民衆生活の安定・向上が図られ、それが社区教育として括られていったことがとらえられる。第3章では、第2期:模索期の社区教育政策の特徴として、市場化の急激な進展、地域間格差の拡大に伴い、行政の分権化が進み、各地方政府で民心を安定させる施策として社区教育が重視されていったこと、民政(内務)部と教育部の間でヘゲモニー争いがあったことが指摘される。第4章では、とくに生活の向上・高齢化などが価値観の多元化をもたらし、行政サービスの提供だけでは社区を安定させることは困難となった時期、つまり第3期:展開期の社区教育政策の特徴として動員と参加が示される。第5章では、以上を総括して、中国における社区教育政策の特色として、上意下達の行政ルートを通した施策でありながら、地方や現場で組み換えられ、それが上級政府の施策へと反映され、改めて各地に下ろされるという循環を形成していることが指摘され、また住民が動員されることで社区を自治的に経営する動きの萌芽が見られ、そこに住民の自覚的参加の可能性がとらえられる。終章では、中央-地方のダイナミズムへの着目の必要など残された課題が記される。

本論文は、膨大な行政資料を読み込み、さらに実地のフィールド調査を通して、社区教育政策の動向とその特徴を鮮やかに描き出すとともに、中国社会の構造的な変化をも描いており、独創的で学術的価値の高い、好論文であるといえる。よって、本論文は博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい水準にあるものと判断された。

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