学位論文要旨



No 127714
著者(漢字) 李,昌玟
著者(英字)
著者(カナ) イ,チャンミン
標題(和) 低開発地域の情報化と市場経済の発展 : 韓国と台湾の歴史的経験
標題(洋)
報告番号 127714
報告番号 甲27714
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第310号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 中村,尚史
 東京大学 准教授 中林,真幸
 佐賀大学 准教授 石川,亮太
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、低開発地域の情報化過程とそれが促す市場経済の発展について歴史的な考察を行うことである。具体的には、電信・電話といった電気通信を基盤とする情報化が、19世紀末から20世紀半ばにかけての台湾と韓国でいかに展開され、それがまた同地域の市場経済の発展にいかなる影響を与えたのかについて焦点を当てる。

第1章では、清朝時代(1877~1895年)と日本時代(1895~1919年)における台湾の情報化過程を明らかにした。その際、中国政府による情報化がいかなる限界を露呈し、その後、台湾総督府がいかなるインセンティブを持ち、その限界を乗り越えたのかについて検討した。清朝時代の台湾の情報化は、1877年に開通した高雄-安平間の電信線を嚆矢とするが、本格化したのは台湾省が福建省から分離新設される1885年からである。その後、1895年に台湾が日本の植民地となるまでのおよそ10年間、台湾通信網は中国政府の近代的国家通信網の構築計画のなかで中国通信網に織り込まれる形で発展した。この時期の台湾通信網の中心機能は、中央政府との連絡事務を迅速かつ安定的に行うことであった。そのなか、日清戦争の勃発は台湾通信網を中国通信網から切り離し、それに次ぐ10カ月間の野戦電信時代は台湾通信網を日本通信網へ織り込んだ。日本時代の開始と同時に、台湾総督府は社会資本に対する公共投資を拡大した。とりわけ、1896年から第1次世界大戦期までの間に電信・電話の普及はもっとも早く展開され、1910年代末には政府主導の情報化が一定の水準に達した。日本が台湾を領有してから20年間も続いた台湾征服戦争は、公共投資おいて治安維持を優先させ、1910年代末には台湾通信網が治安・行政網として完全な機能を果たすようになった。

第2章では、朝鮮時代(1885~1905年)と日本時代(1905~1919年)における韓国の情報化過程を明らかにした。その際、朝鮮政府と大韓帝国政府による情報化がいかなる限界を露呈し、その後、朝鮮総督府がいかなるインセンティブを持ち、その限界を乗り越えたのかについて検討した。朝鮮時代の韓国の情報化は、1885年に開通したソウル-仁川間の電信線を皮切りに、1897年までに3つの幹線の部分的な完成を見た。これらは、名目上は朝鮮政府の官線であったが、事実上は中国通信網として機能していた。そのなか、日清戦争の勃発は韓国通信網を中国通信網から切り離し、通信自主権を取り戻した大韓帝国政府は1897~1905年にかけて独自の電気通信事業を推進した。この時期の韓国通信網は、政府の治安・行政通信網として機能し、貿易・商業通信網としての発展はほぼ見られなかった。日露戦争とそれに次ぐ日韓通信合同は、韓国通信網を日本通信網のなかに再編した。日本時代の開始とともに、朝鮮総督府は社会資本の拡充に力を入れた。とりわけ、1906年から第1次世界大戦期までの間には、電信・電話の量的な膨張と質的な向上が同時に達成された。1907年に発生した反日武装闘争を鎮圧する過程で生まれた警備通信網は、その後の政府主導の情報化において大きな影響を及ぼした。その結果、韓国通信網は1910年代末に治安・行政通信網として完全な役割を果たすようになった。

第3章では、日本時代(1895~1945年)における台湾の情報化過程に焦点を当てた。その際、台湾総督府が牽引してきた情報化が限界に直面し、その結果として政府主導の情報化が民間主導の情報化へと変わっていく過程を明らかにした。第1次世界大戦期までに治安・行政網の完成という所期の目的を達成した台湾総督府は、過度な財政支出を減らし、通信事業の黒字経営を企図した。したがって、事業草創期に赤字状態だった通信財政は、1910年代に入ってからは黒字状態に転じ、第1次世界大戦後もわずかな黒字を出し続けた。一方、台湾経済の成長とともに民間の通信需要は急速に増加し、その結果、限られた通信財政のなかで行われていた政府主導の情報化は限界を露呈した。電信施設においてその限界を乗り越えようとしたのが、民営の性格を持つ3等郵便局であった。1920年代から電信施設の80%以上を占めていた3等郵便局は、局長が自己勘定の下で経営する収益事業であった。他方、政府から民間へと情報化主体の変化は、電話においてより鮮明に表れた。電話加入者の増加により、政府が主導してきた「郵便局電話の時代」は幕を閉じ、民間が主導する「加入者電話の時代」が本格的に始まった。政府は、適切な制度配置を通じて民間主導の情報化をサポートした。電話交換局の増設、相対的に低廉な料金制度、民間資金の導入を促す特別開通制度、市外電話線の拡充などの政府政策は、さらなる電話加入者の増加を招いた。

第4章では、日本時代(1905~1945年)における韓国の情報化過程について、主に電信事業を中心に検討を行った。具体的には、朝鮮総督府が牽引してきた情報化が限界に直面し、それを乗り越える過程において情報化の主体が政府から民間へと変わったことを明らかにした。日本時代の開始とともに朝鮮総督府は通信財政を拡大してきたが、1914年に「財政独立五ヶ年計画」が立てられたため、1916~1919年にかけて公共投資規模は大いに縮小した。その結果、通信財政は黒字へ転換したが、第1次世界大戦が招いた好況が電信需要を急増させたため、供給不足による電信の超過需要が深刻化した。そのなか、電信架設を要求する電信架設運動が全国から発生した。商人階層、会社・工場の経営者を中心とする地域名望家は、電信施設の誘致にかかる費用を負担し、逓信当局者との面談を推進するなど、積極的に電信架設運動を展開した。このような民間側の動きを反映し、朝鮮総督府は1923年に請願通信制度を導入した。この請願通信制度は、通信サービスだけでなく、通信施設の建設にも受益者負担原則を適用したものであった。その結果、地域名望家は自ら郵便所長となり、収益事業として郵便所を経営することができるようになった。一方、請願電信施設制度より早くから実施されていた寄付電信施設制度は、通信事業に民間資金の導入を図った通信制度であった。それに対し、請願電信施設制度は民間資金の導入はもちろん、民間側に郵便所の経営動機を持たせるというインセンティブ・システムが組み込まれていた制度であった。

第5章では、電気通信の登場による台湾糖の取引制度の変化に注目した。その際、電信の登場が砂糖取引制度をいかに変化させ、またそれに対して糖商はいかなる対応を講じたのかについて検討を行った。1860年の開港をきっかけに台湾では輸出商品の栽培とその加工業が発達し始め、台湾南部を中心に甘蔗栽培と製糖業が興隆した。在来的な砂糖製造組織である糖〓で生産された台湾糖は、仲介商、売込商、輸出商の手を経て世界各地に輸出された。情報の非対称性の問題を抱えている砂糖取引に対し、売込商と輸出商は取引相手との取引を内部化し、またインセンティブ契約を結ぶことを通じて輸出台湾糖の流通利益と貿易利益をそれぞれ獲得した。ところが、このような砂糖取引制度は、1900年代から第1次大戦期にかけて大きく変わる。この間、近代的生産組織を基盤とする新式製糖工場が出現し、日本系糖商の台湾進出も相次いだ。新式製糖工場と日本系糖商の砂糖取引への参画は、委託販売契約という近代的な砂糖取引制度を定着させた。委託主の製糖業者とその代理店の役割を果たす糖商が結んでいた砂糖の委託販売契約は、糖商の手数料商人化を前提とした。そして、この糖商の手数料商人化をもたらしたのは、海底電信線の登場であった。日本系糖商は海底線を利用し、輸出台湾糖市場へ新規参入を果たし、さらには欧米系糖商を市場から追い払うことに成功した。しかし、電信を利用した砂糖取引は、日本系糖商にとって諸刃の剣のようなものであった。欧米系糖商の情報独占構造を取り崩す武器であった電信は、伝統的な糖商営業における収益構造の悪化を意味するものでもあった。このような矛盾に直面した日本系糖商は、生産部門への参画と砂糖の見込取引を通じてそれを克服しようとした。

第6章では、電気通信の登場による朝鮮米の取引制度の変化に注目した。その際、電信・電話の登場が朝鮮米の取引制度をいかに変化させ、またそれが米穀客主業の消滅と米穀商の成長にいかに作用したのかについて検討を行った。朝鮮米の大量輸出が始まる1890年代に米穀客主は米穀商とともに輸出米の流通・貿易利益を分割していた。しかし、1900~1910年代にかけて米穀客主の地位は大きく低下し、生産組織化した米穀商が流通段階まで掌握するようになった。1920年代からは米穀客主を介する流通ルートが完全に影を潜め、輸出米の流通・加工・貿易利益を蓄えた米穀商は地主とともに代表的な資本家として成長した。このような米穀商成長の要因は、生産組織化とともに電信・電話による米穀取引制度の変化にある。電信・電話を利用した米穀取引は具体的には、第1に、米穀取引所において行われた。産地と開港場を問わず、全国の米穀業者は電信・電話を利用し、主要輸出港に位置する米穀取引所を通じて価格察知、保険つなぎ、資産運用の活動を行った。第2に、米穀商同士のやり取りにおいても電信・電話が用いられた。韓国の米穀業者と日本の米穀業者は海底電信線を経由する韓国-日本間の電報を利用し、韓国内の米穀業者同士は電信・電話で商談を行った。電信・電話を利用した米穀取引の定着は仲買人の地位低下をもたらしたが、それ自体が仲買人の消滅を意味するものではなかった。電信・電話の利用した米穀取引には高額の通信料金がかかり、匿名的な米穀取引の拡大は新たな形の取引コストを発生させた。専門化、組織化した仲買人は、このような取引コストを節約することで新しいビジネスチャンスを見出した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、低開発地域の情報化過程とその市場経済発展への含意に関して歴史的考察を行うことを目的とし、19世紀末~20世紀半ばの台湾と朝鮮における電気通信を基盤とする情報化に焦点を当てて、その展開の原動力およびそれが市場経済の発展に与えた影響を検討したものである。本論文は次のように構成されている。

序章 問題の所在

第1部 政府主導の情報化

第1章 台湾総督府による情報化の開始

第2章 朝鮮総督府による情報化の開始

第2部 情報化主体の変化

第3章 3等郵便局の発展と加入・市外電話の時代

第4章 電信架設運動と請願・寄付電信施設

第3部 情報化と市場経済の発展

第5章 台湾糖の取引制度の変化と糖商の対応

第6章 朝鮮米の取引制度の変化と米穀商の対応

終章

序章では、問題の所在と分析視角が提示される。すなわちまず、近年の低開発地域における携帯電話の普及に関する観察から、持続的な情報化を実現するための原動力と情報化が市場経済に与えるインパクトという2つの問題が導出される。そのうえで、これらの問題に取り組む際の視点として、(1)政府主導の情報化、(2)情報化主体の変化、(3)情報化と市場経済の発展(取引コストの変化)の3つが提示されている。

第1章は、清朝統治下の1877-1895年と日本統治下の1895-1919年の台湾における、政府主導による情報化の過程を、政府のインセンティブに焦点を当てて検討している。日本による統治への移行後、台湾征服戦争の過程で台湾総督府は治安維持の観点から情報通信への投資を積極的に行い、その結果、1910年代末に情報通信網が治安・行政のための機能を十全に果たす水準に達したとされる。

第2章は、前章に対応して、日本による統治移行前の1885-1905年と日本統治下の1905-1919年の朝鮮における、政府主導の情報化過程を、政府のインセンティブに焦点を当てて検討している。日清戦争まで朝鮮国の通信網は清国の通信網の一部として機能していたが、日清戦争後、朝鮮国は通信自主権を獲得し、治安・行政の目的で情報通信への投資を推進した。日露戦争後、朝鮮を統治下に置いた日本は、朝鮮の通信網を日本の通信網に統合し、反日武装闘争の鎮圧過程で、1910年代末までに治安・行政通信網を完成したとされる。

第3章は日本統治下の台湾における情報化主体の変化を対象としている。経済成長にともなって通信需要が増加する中、政府主導の情報化は1910年代末に財政面で限界に直面し、その結果、電信においては民営の性格を持つ3等郵便局、電話においては民間の加入電話が情報化を主導するようになったとされる。

第4章は、前章に対応して、日本統治下の朝鮮における情報化主体の変化を対象としている。政府主導の情報化の財政的な限界は、朝鮮においても1910年代に発現した。これに対して朝鮮全土で電信架設運動が展開し、朝鮮総督府はこれに対応して1923年に請願通信制度を導入した。同制度は電信施設建設に民間資金を導入するとともに、民間に郵便所の経営インセンティブを与える仕組みとして機能したとされる。

第5章では、台湾-日本間の海底電信線の敷設にともなって1900年代以降に台湾で生じた砂糖取引制度の変化が取り上げられている。海底電信線の敷設は、欧米系糖商の情報面の優位性を失わせ、日系糖商の台湾糖輸出取引への参入を可能にしたが、他方で情報化は糖商一般の収益基盤を縮小させ、これに対応するため日系糖商は砂糖生産と見込取引という新たな事業分野に進出することになったとされる。

第6章では、前章に対応して、電信・電話の普及が朝鮮における米穀取引制度にもたらした変化が取り上げられている。電信・電話普及以前は輸出商にとって仲買人に当たる「客主」が情報面で優位にあり、その条件下で輸出商と客主の間では客主に流通マージンを帰属させるインセンティブ契約が結ばれ、それが客主の繁栄の基盤となっていた。しかし、電信・電話の普及の結果、客主の情報面での優位が失われ、輸出商と仲買人との間の取引は手数料契約に変化したとされる。

本論文の貢献として、まず戦前期に日本の統治下に入った台湾と朝鮮について、情報化の原動力と情報化の市場経済発展への含意という一貫した視点から、着実な歴史研究を行った点が挙げられる。特に、2つの地域を対象に、密度の高い実証分析を踏まえた比較研究を行っている点は、本論文のすぐれた特徴である。また、本論文は、これまでの研究にない新しい見方、新しい論点を提示している。なかでも、1910年代の朝鮮における電信架設運動と請願電信制度に着目して、同地で情報化の原動力が総督府から民間、特に民間朝鮮人に移行したことを明らかにしたこと、情報化が朝鮮の米穀取引制度にもたらした変化を契約理論の視点と資料分析を組み合わせて明らかにしたこと、などが特筆される。

いうまでもなく、本論文には残された課題もある。本論文の特徴は明確な視点から歴史過程を分析する点にあり、それは本論文のメリットであるが、反面で視野から落ちる部分が大きいという問題点につながる。すなわち、朝鮮の請願通信制度によって設置された通信施設の経営実態、そこでのインセンティブ制度の機能、台湾の砂糖取引と朝鮮の米穀取引における電気通信の利用実態などである。最後の点を含め、総じて、本論文が設定した2つの問題のうち、情報化の市場経済に対する含意については、さらに踏み込んだ検討を行う余地がある。

しかし、こうした課題は著者の今後の研究によって解決されるべきものと考える。本論文は新しい視点から戦前期における台湾と朝鮮の情報化過程に光を当てたすぐれた経済史研究であり、それは、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を十分に持っていることを示している。審査委員会は全員一致で、李昌〓氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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