学位論文要旨



No 127716
著者(漢字) ゴロウィナ,クセーニヤ
著者(英字) KSENIA,GOLOVINA
著者(カナ) ゴロウィナ,クセーニヤ
標題(和) 日本人男性と婚姻関係にあるロシア人女性移住者の文化人類学的研究 : エイジェンシーの視点から見たライフクラフティングの過程
標題(洋) Russian Female Migrants Married to Japanese Men : The Process of Life-Crafting From the Perspective of Agency
報告番号 127716
報告番号 甲27716
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1129号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 木村,忠正
 東京大学 准教授 箭内,匡
 東京大学 准教授 渡邊,日日
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、日本人男性と婚姻関係にある50人の日本在住ロシア人女性移住者を対象とし、ポストモダン社会の特徴である過渡性を背景として、彼女たちの移住を決めたタイミングから、将来像を含む現在に至るまでの人生そのものの作り方(ライフクラフティング)のプロセスを考察し、対象者の人生における越境と日本人男性との結婚の位置付け及びその意味を探ることを目的としたものである。

本論文のための文化人類学的な調査は、第1期2008年1月~9月、第2期2010年1月~2011年2月に行われ、調査地は主として東京都・新潟市・富山市である。50人のロシア人女性インフォーマントの他、彼女たちの状況を理解するに当って重要と判断された20人のサイドインフォーマントのデータを採用している。主な調査方法として用いたのは、インタビュー、参与観察、関連組織での聞き取り、文献調査(ロシアへの出張を含む)などである。

本論文の理論的枠組みとして、データ分析の際にまず用いたのは、グラウンデット・セオリーである。本アプローチは、調査において収集されたデータの記号化を行うことで、データ自体の独自性に基づきながら、その共通点と相違点を明らかにし、徐々に特定の議論をまとめていくという解釈である。次に、2つ目の理論的枠組みとなったのは、女性移住研究で頻繁に使われるエイジェンシーという用語を取り入れたアプローチである。これは、社会理論研究のストラクチャー対エイジェンシーというフレームワークを利用したもので、先行研究の解釈を発展させた形で用いることとした。

本論文は、序論に続く10章から構成されており、各章ごとの内容は以下のとおりである。

序論では、本論の目的と上述した理論的枠組み及び論文の構成を説明する。繰り返しになるが、本論の目的は、日本人男性と婚姻関係にあるロシア人女性たちのライフクラフティングの描写を通して、エイジェンシーの働きを明らかにした上で、彼女たちの人生における結婚の意味を考えることである。本論全体は、彼女たちの今までの人生の背景となる「構造」を、「根の層」と呼べる歴史・地理のような彼女たちとの距離が最も遠い部分から、彼女たち自身の心理的状態という近い部分まで考察し、彼女たちが囲まれ、内面化してきた層を1つ1つ剥がしていくような方法で、問題の核心を見届けるという構成で作り上げられている。

まず、第1章では、議論の大きな背景となるポストモダニティの特質とエイジェンシー論について述べ、女性の人生において、彼女たちのライフチョイスを大きく左右するものとしての結婚について、ジェンダー問題を考慮しながら、全体としての現代女性と、その中でのロシア人女性について考察する。

第2章では、現代ロシア人女性を取り巻く歴史的・社会経済的・ジェンダー的状況に焦点を当て、彼女たちが移住を企図し、実際の行動に至って「移住者」に変るまでのプロセスにおいて機能する、メディアにおける女性移住者像と、ロシアを出発点とする移住を困難なものにし、アクターの閉じ込め性の原因となって恐怖を煽りながらも、だからこそ出国したいという気持ちを高めるビザ取得概念について考察する。また、ロシア人女性を取り巻く国際結婚事情についてのデータを挙げ、日本でのロシア人女性による国際結婚と異なる形態をとるが、エイジェンシーの側面では繋がりが明確になることもある、エジプトでの結婚を事例として、ロシア人女性の向上戦略について述べる。

続いて第3章では、対象者の一部が属すロシア極東と日本海側都市に代表される、日露間移住の歴史的な形成・実践について述べ、対象者の地理的属性に細かく焦点を当て、日露関係の歴史性が、彼女たちの移住パターンに与える影響について考察する。更に、近年改善されていると言われる、ロシアにおける地域ごとのリソースの不均等な分布について、異なる出身地を持つインフォーマントに、来日前後の教育状況を含むどのような可能性の差異があるかを、地理的属性によって作成したユニットのマトリックスを用いることで、分析する。

第4章では、女性移住と国際結婚に関する先行研究を幅広く用いて、結婚移住や国際結婚の定義の見直しを試みると同時に、対象者が日本で属している結婚の種類を詳細に紹介し、彼女たちの結婚において「国際性」がとる形を探る。このように、第4章までは、対象者を取り囲む最も大きな「構造」、つまり、現代性やジェンダー、歴史性、社会経済的状況、地理的属性、移住と国際結婚の経験について説明する。

次の第5章では、彼女たちの越境経験に注意を払い、来日からロシアへの物理的・象徴的「行き来」までを、その語りから描写する。その中で、彼女たちの移住動機として再形成されたエスニシティの問題や背景となった文化的空間の特徴について明らかにし、それらが日本でのアイデンティティ構築にどう関与するかを考察する。また、日本人男性との結婚の際の両親による反対、暮らしの交渉などについて論じる。更に、彼女たちの中に存在し続け、行動を特徴付ける「ロシア像」についても細かく述べ、ロシアにおいて社会文化的意味合いを持つものとして見出された「ベンチ」という、「モノ」でありながらも、彼女たちの日本での経験理解に役立つ象徴について考える。

第6章では、夫となる日本人男性と妻との関係に焦点を当て、まず、男性の年齢や職業について述べる。その中で、国際結婚における既存の男性像について明らかとし、ステレオタイプ的な「年上であること」への期待の形成プロセスに注目する。また、日露カップルの愛情表現に関わる葛藤やセクシュアリティについて、現代日本における結婚の形態を論じながら考察する。

続く第7章では、対象者の来日前後の教育と職業について、先行研究のデータを紹介しながら議論を展開し、これまで強く主張されてきた女性移住者の「働きたい」という気持ちを疑問視する。彼女たちは、成長の可能性がある場合でも、キャリアの追求ではなく、単純労働や働かないことを選ぶのだが、そのような移住者の状態と心理を探り、内面から彼女たちのエイジェンシーを抑制する構造的機能を見出しながら、「怠慢」や「臆病」な状態の背景を問う。更に、この議論のために「移動のリテラシー」というコンセプトを示し、移住者にとって必要であるが、対象者の多くに確認できなかった当概念の内容を論じ、その欠如が対象者を臆病な状態に導くと仮定する。最後に、移住者のエイジェンシーを理解するのに重要とされる、ロシア人女性移住者による仕送りについて紹介し、そこから彼女たちとロシアに残った家族(語りに登場した両親や兄弟)との関係について論述する。

第8章では、対象者の心理的状態を細かく考察し、インフォーマントの一部に見られる、エイジェンシー発揮度が最大限制限されているケースを中心に議論する。逃避としての移住を大きな背景枠組みとして、日常における引きこもりや破壊的な行為、生活習慣性の否定などについて、事例を挙げながら述べ、逃避という問題そのものについて幅広く議論を行う。

次の第9章では、来日前後に生まれた彼女たちの子供に焦点を当て、「移住者」や「成功した妻・母」としてのアイデンティティ構築において、母の人生における子供たちの位置付けと「道具性」について論じる。また、第7章及び第8章で示した彼女たちのある種の諦めという心理状態の理解に繋がる、子供たちへの「責任の転嫁」について述べる。更に、生まれた「ハーフ」の子供たちの教育問題やアイデンティティなどについても紹介する。

結論を含む第10章では、まず、インタビューの最後の質問である彼女たちの将来の夢について考察し、幾つかの方向性を見出しながら、ポストモダニティの過渡的特質が許す限り、そこに生きる彼女たちの現在における「姿」を描写する。また、改めて、彼女たちが後にしたロシアの90年代・2000年代の特徴について、語りの中に登場し続けたロシアとの象徴的「行き来」を反映させる形で述べるとともに、越境を通して形付けられる彼女たちにとっての結婚の意味について論じる。このように、彼女たちの日本におけるライフクラフティングの考察を通して、これまでの女性移住者研究には見られなかった、彼女たちの僅かに「悲しい」複雑性で特徴付けられる多くの矛盾を含む状態を、その一時性を考慮しながら示すこととする。

審査要旨 要旨を表示する

ゴロウィナ クセーニヤ氏の論文、『日本人男性と婚姻関係にあるロシア人女性移住者の文化人類学的研究 ー エイジェンシーの視点から見たライフクラフティングの過程』の目的は、現在日本に居住する、日本人男性と結婚をしたロシア人女性たちの、人生の設計と遂行、すなわち「ライフクラフティング」のプロセスを考察し、彼女たちにとっての「越境」と「結婚」のありようと価値付け、その意味を探求することである。本論文のデータは、2008年1月 ー 9月、2010年1月 ー 2011年2月に東京都・新潟市・富山市で行われた文化人類学的調査によって、主として50人のロシア人女性インフォーマント、またそれを補足するものとしての20人のインフォーマントから得られたものである。調査方法として用いられたのは、個人面談、ロシア人女性が多く集まる集まりなどでの、インタビュー、参与観察と、関連組織での聞き取り、ロシアでの文献調査などである。

序論と第1章では、本論の目的、議論の背景となるポストモダニティの特質、エイジェンシー論について説明を行い、ロシア人女性、引いては現代女性全体にとっての結婚、ジェンダーの問題を概観する。第2章では、現代ロシアにおける女性たちを取り巻く歴史・社会・経済的環境、ジェンダー的状況に焦点を当て、「ビザ取得」の困難をめぐる一連の現象、また、比較検討の事例として、エジプトでのロシア人女性の結婚を取り上げ、ロシア人女性の向上戦略について述べる。第3章では、日露間移住の歴史的な形成・実践について述べ、日露関係の歴史性が、彼女たちの移住パターンに与える影響について考察する。また、異なる出身地と学歴によって、どのような移住後の差異があるかを分析する。第4章では、女性移住と国際結婚に関する先行研究を検討して、その「国際性」がとる形を明らかにする。

第5章からは、彼女たちの語りの資料を中心として、彼女たちの越境経験を描き出す。その中で、彼女たちの移住動機として再構成された「エスニシティ」が、日本でのアイデンティティ構築にどう関与するかを考察する。また、ロシアにおいて高齢のロシア人女性たちが公園などの「ベンチ」で時間をつぶす社会現象を、対象女性たちの日本における経験を理解するのに役立つ象徴として取り上げる。第6章では、日本人男性との愛情表現に関わる葛藤やセクシュアリティについて、現代日本における結婚の形態を論じながら考察する。第7章では、対象者の来日前後の教育と職業を背景に、日本に来てからしばしば陥る「引きこもり」とも表現できる状態と心理を探り、内面から彼女たちのエイジェンシーを抑制する構造的機能について考察する。この議論の過程で、移住者にとって必要である「移動のリテラシー」という概念について、また、移住者の仕送りについて記述し、そこから彼女たちとロシアの家族(両親や兄弟)との関係について論述する。第8章では、移住における「逃避」の要素を大きな背景枠組みとして、インフォーマントの一部に見られる、日常における「引きこもり」や破壊的な行為、生活習慣の乱れなどについて、事例を挙げながら議論を行う。第9章では、来日前後に生まれた彼女たちの子供に焦点を当て、子供をめぐる彼女たちの行動から、自分の願望を仮託する「責任転嫁」の側面を明らかにする。結論である第10章では、彼女たちの将来の夢について考察し、幾つかの方向性を見出しながら、ポストモダニティの過渡的な性格が彼女たちに与えている影響を考える。最後に、日本人男性と婚姻関係にあるロシア人女性移住者の、日本におけるライフクラフティングの検討を通して、彼女たちが置かれた多くの矛盾を含む状態が、どのように変化しうるものかを考察する。

審査では、ゴロウィナ クセーニヤ氏が調査したロシア人移住者たちのさまざまな生き方が全体の傾向をどの程度表しているのか、内面の心理にまで踏み込む方法が有効であったか、この研究が現代ロシア研究に収斂するのか、もしくは日本社会研究として意味を持つのか、といった質疑がなされた。それに対して、調査対象者たちの多様性は、全体の傾向を示すのに十分である、語りのレベルにおいて表現されている彼女たちの意識は解析されうる、日本という社会環境におけるロシア人移住者の研究であって、他の社会での適応との比較は次の課題である、といったことが確認された。

審査を通じて、前記の内容を持つ本論文は、以下の三点において、文化人類学に対する貢献が顕著であることが明らかになった。第一に、日本国内に散らばって住むロシア人女性を丹念に調査し、一つのデータ群を収集したフィールドワークとその成果のエスノグラフィーは、濃厚で迫力を持ったものであり、移住者研究に一級の資料を提供した。第二にグローバリゼーションの趨勢の中での越境という現象が、私たちに何を与え何を可能とするのか、という点をロシア人女性を対象に鮮やかに描き、現代のポストモダン状況の理解を前進させた。第三に、ロシアからの女性移住者たちが、結婚を一つの契機として「停滞」に陥るという特異な現象から、女性のエイジェンシーに関する議論を逆照射するかたちで、調和的な結論に留まることなく、正確に現状を見据え、将来を展望する議論につなげた。

むろん、審査員から指摘された、理論的枠組みが、必ずしもデータの複雑さをとらえ切れていない、といった憾みはあるが、本論文の持つ価値は、十二分に高いものがあり、本論文は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしていると判断された。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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