学位論文要旨



No 127719
著者(漢字) 青木,隆太
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,リュウタ
標題(和) 日常生活における気分状態とワーキングメモリ課題に伴う前頭前野活動の関係
標題(洋)
報告番号 127719
報告番号 甲27719
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1132号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松田,良一
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 日立製作所 役員待遇フェロー 小泉,英明
 東京大学 教授 丹野,義彦
内容要旨 要旨を表示する

1.背景と目的

気分状態は認知機能の様々な側面に影響を与えている.気分状態が認知課題のパフォーマンスとどのように関係するかについては古くから多くの心理実験で調べられてきたが,近年では脳機能イメージング技術を用いて,こうした気分と認知の相互作用の基盤となる脳内のプロセスについても研究されるようになってきた.これまでの研究では,前頭前野と呼ばれる脳領域が気分と認知の相互作用において重要な役割を担うことが示されている.前頭前野はワーキングメモリ(WM)機能をはじめとする高次認知機能を司る領域であるとともに,感情や情動の制御にも関与することが知られている.

気分と認知の相互作用に関わる脳活動を調べた過去の研究の多くは,実験的な手法により被験者の気分状態を操作するパラダイムを用いている.しかし,このような手法で誘導された気分状態が,我々が日常生活において自然に感じている気分状態と同一視できるとは限らない.また,実験的に誘導された気分と日常生活のなかで自然に生じる気分では,認知機能との相互作用の仕方や脳活動との関係が異なる可能性もある.

以上の点をふまえ,本研究では日常生活における気分状態が認知課題に伴う前頭前野の活動とどのような関係を持つかについて調べた.実験的手法による気分状態の操作は実施せず,被験者が日常的生活で感じている気分を主観報告に基づき調査した.前頭前野活動の計測には自然な環境下での脳活動計測が可能な光トポグラフィを使用した.また,従来の研究では十分に検討されてこなかった気分"状態"とパーソナリティ"特性"の脳活動との関係性の違いを明らかにすることも目的とした.

2.方法

近赤外分光法を利用した脳機能イメージング装置である"光トポグラフィ"を用いて,WM課題に伴う前頭前野活動を計測した.WM課題にはひらがなの音韻を記憶する"言語性WM課題"と図形の位置を記憶する"空間性WM課題"の2種類を用いた(図1).また,被験者の気分状態やパーソナリティ特性は,自己記入式の質問紙を用いて評価した.WM課題に伴う前頭前野活動と気分状態・パーソナリティの関係は,WM課題中の光トポグラフィ信号(酸素化ヘモグロビン信号:Oxy-Hb信号)変化の大きさと各種質問紙スコアの間の相関解析(性別・年齢,課題成績などを統制した偏相関解析)によって求めた.

3.結果および考察

【研究1:気分状態と前頭前野活動の関係】

健常成人29名を対象として光トポグラフィ計測を実施した.また,"POMS(Profile of Mood States)質問紙"を用いて被験者の最近1週間の気分を評価した.

全被験者の平均の脳活動については,言語性WM課題と空間性WM課題の両方において背外側前頭前野を中心とした賦活が観察され,2つの課題の間で有意な差はみられなかった.一方,個人差に注目した解析では,言語性WM課題に伴う前頭前野活動の大きさとPOMS質問紙のネガティブ気分スコアの間に有意な負の相関がみられたのに対して,空間性WM課題においてはこのような相関は認められなかった.この結果は,日常生活におけるネガティブ気分の高さが言語性WM機能と関係していることを示唆する.また,言語性WM課題と空間性WM課題の間でみられたPOMSスコアと脳活動の相関の仕方の違いは,気分状態と認知機能の相互作用が認知機能の種類によっても異なる可能性を示唆している.

【研究2:前頭前野活動に対するパーソナリティの寄与】

研究1とは別の被験者ら(健常成人40名)を対象として光トポグラフィ計測を実施した.研究2では,言語性・空間性WM課題のそれぞれでWM負荷を2段階(2アイテム条件/4アイテム条件)設定した.また,POMS質問紙に加え,被験者のパーソナリティ特性を調べる質問紙"BIS/BAS(Behavioral Inhibition/Activation Systems)尺度"を用いた.

全被験者の平均の脳活動については,4条件全てで背外側前頭前野における有意な賦活がみられた(図2).個人差に注目した解析では,言語性WM課題(4アイテム条件)に伴う前頭前野活動の大きさがPOMSネガティブ気分スコアと負に相関し,研究1の結果が再現された.また,言語性WM課題(2アイテム条件)に伴う前頭前野活動の大きさは被験者のBASスコアの高さと正に相関し,報酬に関連するパーソナリティ特性であるBAS特性が前頭前野活動の個人差と関係していることがわかった(図3).さらに,前頭前野のなかでも前頭極(ブロードマン10野)と呼ばれる領域では,言語性WM課題に伴う脳活動とネガティブ気分の高さの負の相関が,パーソナリティの個人差を統制したあとでも有意であった.したがって,ネガティブ気分と言語性WM課題に伴う前頭前野活動の関係性は,単に被験者間でのパーソナリティの個人差を間接的に反映したものとはいえないことが示された.

【研究3:研究1および研究2のデータを統合した解析】

研究1と研究2では光トポグラフィ装置の設定(計測プローブの配置)が異なるが,解剖学的情報に基づき関心領域(ROI)を設定することで,2つの研究に由来するデータを比較・統合することができる.この手法を用いて,個々の研究でみられた前頭極領域におけるネガティブ気分と言語性WM課題に伴う脳活動の間の負の相関を比較したところ,研究1と研究2では相関の強さは統計的に同等であることが示された.さらに,2つのデータセットを統合した計69名分の脳活動データを解析したところ,言語性WM課題に伴う前頭前野活動は,ネガティブ気分のなかでも特に抑うつ気分や疲労気分と強い負の相関を示すことがわかった.この研究で用いた手法は,複数の光トポグラフィ実験で得たデータを集積・統合して解析するための方法として広く使用できるものと期待される.

【研究4:個人内での気分状態の変動と前頭前野活動の関係】

研究1から研究3が"被験者間"でのネガティブ気分と前頭前野活動の相関関係に注目していたのに対し,研究4では"被験者内"での気分状態の変動がWM課題に伴う前頭前野活動とどのような関係にあるかを調べた.個人内での気分状態および脳活動の時間変動を追うために,17名の健常成人に対して研究2と同一の実験を2週間の間隔をおいて3セッションおこなった.その結果,同一被験者内での3回のセッションの脳活動を比較したとき,言語性WM課題(4アイテム条件)に伴う前頭極の活動は,抑うつ気分が低かったセッションほど大きく,抑うつ気分が高かったセッションほど小さいことがわかった.これにより個人内での抑うつ気分の変動に同調して言語性WM課題に伴う前頭極の活動が変化することが示された.

4.結論

以上の研究結果は,健常者の日常生活におけるネガティブ気分が,言語性WM課題に伴う前頭前野(特に前頭極)の活動と負に相関することを示している.また,ネガティブ気分の中でも抑うつ気分については,"個人間"での比較でも"個人内"での比較でも同様の関係性が一貫してみられた.また研究2と研究4の結果は,上記の気分"状態"と脳活動の関係が,パーソナリティ"特性"の影響を統制したうえでもみられることを明らかにした.本研究は全体として,主観的な気分状態と言語性WM課題に伴う前頭前野活動の間にはパーソナリティとは区別される独自の関係性があることを示唆している.また前頭極が内省やメタ認知の機能に関与していることから,脳内で主観的なネガティブ気分が形成される過程には,言語的な内省が関わっている可能性が考えられる.

図1 言語性および空間性WM課題

図2 WM課題に伴う前頭前野の賦活

A) いずれの課題条件においても,背外側 前頭前野を中心として有意なOxy-Hb信号の増加が観察された.

B) 代表的な計測部位(チャネル [Ch] 22)における光トポグラフィ信号の時間変化.

図3 前頭前野活動と質問紙スコアの相関

A) POMSネガティブ気分スコアと言語性WM課題(4アイテム条件)における前頭前野活動の相関を示したプロット.

B) BASスコアと言語性WM課題(2アイテム条件)に伴う前頭前野活動の相関を示したプロット.

審査要旨 要旨を表示する

人間の主観的な心理状態と脳の生理学的応答の対応関係を解明することは、心理学と生物学を結び付けるうえで重要な目標のひとつである。本論文は日常生活における主観的な気分に注目し、これがワーキングメモリ課題に伴う前頭前野の活動とどのように関係するかを調べている。

本研究の第1章では序論として気分と認知の相互作用について扱った先行研究に触れ、前頭前野という脳領域が重要な役割を果たすことを述べている。また、日常生活における気分と前頭前野活動の関係を調べるにあたって、光トポグラフィと呼ばれる脳機能イメージング装置を用いて自然な環境下で脳活動計測をおこなうことの意義について説明している。

第2章では日常生活における気分と認知課題に伴う前頭前野活動の関係を個人間での相関解析により検討している。健常成人29名を対象とした実験で、被験者の過去1週間における気分をPOMS(Profile of Mood States)質問紙を用いて調査し、また言語性および空間性のワーキングメモリ課題に伴う前頭前野活動を光トポグラフィにより計測した。その結果、被験者が主観的に報告したネガティブ気分の高さと言語性ワーキングメモリ課題に伴う前頭前野活動の大きさの間に負の相関が見出された。一方、空間性ワーキングメモリ課題に伴う前頭前野活動の大きさとの間にはこのような相関はみられなかった。なお本章では、光トポグラフィを用いて計測したワーキングメモリ課題に伴う前頭前野活動が、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)や陽電子放射断層法(PET)などの他の脳機能イメージング装置を用いて計測した結果とよく一致していることも述べている。

第3章では、前章で述べた気分と脳活動の相関関係が、性格特性の個人差の影響によるものかどうかを検討している。まず、健常成人40名を対象とした実験において、前章の実験でみられた気分と前頭前野活動の相関関係が独立な被験者群でも再現されたことを報告している。またこの実験ではBIS/BAS(Behavioral Inhibition System/Behavioral Activation System)尺度という質問紙を用いて被験者の性格特性も調査し、気分と前頭前野活動の間にみられた相関が、単なる性格特性の個人差の影響では説明できないことを示した。さらに、解剖学的ラベルを利用して設定した関心領域に基づく解析では、ネガティブ気分と言語性ワーキングメモリ機能に伴う脳活動の負の相関が、前頭極(ブロードマン10野)領域において特に強くみられることを明らかにした。

第4章では、第2章と第3章の結果を比較し、二つの実験で得られた気分と前頭極活動の間の相関の強さが統計的に同等であることを示した。なお本章でも解剖学的ラベルを利用した関心領域に基づく解析を使用しており、これは光トポグラフィを用いた研究におけるメタ分析の手法として有効であるといえる。

第5章では、個人内での気分変動と前頭極活動の関係を検討している。健常成人17名に対して2週間おきに3回気分調査と脳活動計測を実施した結果、個人内でみたときに抑うつ気分が相対的に高い場合ほど言語性ワーキングメモリ課題に伴う前頭極活動が小さいことが明らかにされた。この結果は前章で示された個人間での抑うつ気分と前頭極活動の相関解析結果と合致する傾向であった。

第6章では総合考察として、各章の実験で得られた知見をまとめている。第一に、抑うつ気分が高いほど言語性ワーキングメモリ課題に伴う前頭極の活動が小さいという関係は、個人間でも個人内でも共通してみられる現象であった。第二に、性格特性に関する質問紙を併用した実験(第3章)と個人内での気分変動を追跡した実験(第5章)の結果から、気分と前頭極活動の間には性格特性の影響を分離したうえでも有意な関係があることが示された。第三に、気分と前頭極活動の間の有意な関係は、どの実験でも言語性ワーキングメモリ課題に関してのみ観察され、空間性ワーキングメモリ課題に関してはこうした関係はみられなかった。また、一連の研究で得られたネガティブ気分の高さと言語性ワーキングメモリ課題に伴う前頭極活動の関係を、前頭極の機能が自分自身の心理状態の主観的な把握に関連するという知見と結び付けて考察している。

前頭極は霊長類の進化に伴い急激に発達した脳領域であり、動物モデルを用いた研究だけでこの領域の機能を明らかにすることは困難であった。本研究はこれまで十分に調べられていなかった日常生活における主観的な気分と言語性ワーキングメモリ課題に伴う前頭極活動の関係に光をあてたものであり、人間に特有と思われる脳の働きの理解に貢献するものといえる。したがって、本審査会は博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定する。

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