学位論文要旨



No 127720
著者(漢字) 今野,晃嗣
著者(英字)
著者(カナ) コンノ,アキツグ
標題(和) 秋田犬の行動特性とその遺伝的基盤
標題(洋) The behavioral traits of Japanese Akita Inu and its genetic basis
報告番号 127720
報告番号 甲27720
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1133号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 准教授 村上,郁也
内容要旨 要旨を表示する

東アジア在来犬種の遺伝子構成は祖先種であるオオカミと類似しており、遺伝的多様性も高い。このことは、彼らの起源が欧米で作出された純粋品種より古く、選択育種の歴史も浅いことを示している。ゆえに、日本犬を含む東アジア在来犬種は祖先種と純粋犬種の中間的存在として位置付けられ、またその遺伝的変異の大きさから、イヌの行動特性の個体差と遺伝子多型の関連を解明するためのモデルとして有益な情報を提供する。

本研究は、以上のような原始的タイプの犬種の進化的背景に着目し、イヌの行動特性の遺伝的基盤の探索(第2,3章)並びに原始的タイプの犬種の行動特性の特異性の解明(第4章)を目的として、日本在来の熊狩猟犬を祖先に持つ秋田犬を対象にして研究を行った。

第一に、イヌの行動特性の個体差を測定するための質問紙尺度を開発した。この質問紙尺度を用いた調査を実施し、飼い主の評定値に基づいてイヌの行動特性の構造に関する検討を行った。まず、秋田犬の評定値について因子分析を行ったところ、仮説的に設定した行動特性と同様の5因子構造(攻撃性、社交性、好奇心、神経質、衝動性)が観察された。続いて、この5因子構造の再現性を検討するため、秋田犬とは別の他の犬種の個体群の評定値について因子分析を行った。その結果、秋田犬の個体群で観察されたものと同様の5因子構造が再確認された。このことは、社交性、好奇心、神経質、攻撃性、衝動性といった行動特性が、イヌという動物において普遍的に観察されることを示唆する。本研究の質問紙は、下位尺度の内的整合性に加え、評定者間信頼性及び再検査信頼性も十分であることが確認された。したがって、本研究のイヌ用行動特性質問紙を利用することにより、イヌの5つの行動特性が安定的に測定されることが裏付けられた。

第二に、イヌの行動への関与が推測される新たな候補遺伝子として、アンドロゲン受容体遺伝子(AR exon1)、ドーパミン受容体D4遺伝子exon1領域(DRD4 exon1)、セロトニン受容体1A遺伝子(5HTR1A)といった複数の機能遺伝子に注目し、秋田犬において各個体が示す行動特性の個体差と各遺伝子多型との関連を探索的に調べた。遺伝子解析の結果から、AR exon1及び5HTR1Aに関しては秋田犬において高い多様性が維持されていることが明らかになったが、DRD4 exon1の遺伝的多様性は低かった。秋田犬のAR exon1には、CAG反復配列の繰り返し数が異なる3種類の対立遺伝子が観察された。また、AR exon1の各対立遺伝子頻度は、秋田犬の被毛色によって異なることが発見された。秋田犬の5HTR1Aには一塩基置換に基づく遺伝子多型(A/C)が観察された。

以上の遺伝子解析に基づき、AR exon1及び5HTR1Aの各遺伝子の遺伝子型と秋田犬の行動特性の個体差の関連を調べた。AR exon1を対象に遺伝子型と行動特性の関連を調べたところ、AR exon1のCAG反復配列に見られる遺伝子多型と被毛色の変異が、飼い主の評定値に基づいて算出された個体の攻撃性プロフィールと関連することが発見された。すなわち、オスの赤毛の秋田犬において、相対的に長いタイプの対立遺伝子を持つ個体の方が、短いタイプの対立遺伝子を持つ個体よりも攻撃性が低いことが明らかになった。このことは、イヌの攻撃性がアンドロゲン受容体を介して部分的に調整されていることを示唆している。本研究は、ヒト以外の動物でAR exon1の遺伝子型と行動特性の関連を示した初の研究である。他方、AR exon1の長い遺伝子型を持つ個体の攻撃性が低いという結果は、虎毛のオスにおいては観察されなかったことに留意すべきである。同様に、メスの秋田犬を対象にした分析においても関連は見られなかった。続いて、5HTR1Aの遺伝子型と行動特性の関連を調べたが、いずれの行動特性においても遺伝子型との有意な関連は見られなかった。

第四章では、秋田犬のヒトに対する視線利用コミュニケーションの特異性を行動実験に基づいて検討した。解決不可能課題の結果、原始的タイプの犬種に分類される秋田犬は、猟犬・牧羊犬グループ及びその他の犬種と比べて、ヒトに対する注視時間が短いことが示された。したがって、イヌがヒトに対して行う視線を利用した行動傾向は、祖先種との遺伝的類似性の影響を受ける可能性が考えられる。一方、単純注視課題の結果、秋田犬とレトリーバーの注視行動には犬種差が見られなかった。一連の課題の結果から、秋田犬はヒトに対する視線コミュニケーションを自発的に開始しそれを維持するような行動傾向が発現しにくいことが示唆されるが、その行動特性は、特定の問題解決状況によって調整されていると考えられる。

以上の研究結果から、秋田犬は遺伝子と行動の多様性を高く保持しており、行動の遺伝的基盤を解明する上で有益な研究資源を提供することが示唆された。本研究の遺伝子と行動特性の関連についての成果は、イヌの遺伝情報に基づく行動予測の実現や、イヌの問題行動の予防や対処に応用できることが期待される。一方、秋田犬の注視行動の特異性に関する知見から、家畜化のプロセスがイヌの行動に与える影響を解明する上で、原始的タイプの犬種の存在が重要であることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

少子化が進む現代社会において、イヌは代表的な伴侶動物として、その役割の重要性が年々増してきている。他方、イヌという動物に関する科学的研究も、とくに進化生物学、認知行動科学の領域において近年急速に発展を遂げている。イヌは形態的・行動的に種内変異が他に例をみないほど大きく、ヒトによる家畜化と人為的な品種改良の歴史がイヌの行動や遺伝子にどのような変化をもたらしたのかという問いをめぐって、多様なアプローチから研究が進められている。

本論文では、祖先種のオオカミと現代の純粋犬種の中間的な存在と位置づけられる原始的タイプの犬種である東アジア犬のうち秋田犬(Japanese Akita Inu)に焦点をあて、彼らの行動特性とその遺伝的基盤を理解することを通して、イヌという家畜動物の多様性が維持される生物学的要因を解明することを目指した。保存会によって系統が維持されている秋田犬は遺伝子の多様性が高く保持されており、祖先種のオオカミと類似した行動特性を有していると推測される。そこで本論文では、秋田犬内の種内変異(個体差)と種間変異(犬種差)という二つの異なる観点から、秋田犬の行動特性と遺伝基盤の統合的理解を進めることを目的とした。

本論文の第一章では、犬の生物科学的研究の重要性ととくに原始的犬種を調査する意義を述べ、日本犬研究の現状と秋田犬についての育種の歴史を踏まえつつ、本研究の目的を明示した。現在のイヌ研究は、欧米で育種改良された純粋犬種に関するものがほとんどで、祖先種に近い東アジア在来犬に関する研究が求められている。

第二章と第三章では、イヌの種内変異に関連して、秋田犬の行動特性の個体差の測定とその遺伝的基盤を検討した。第二章「秋田犬における行動特性の個体差の測定」では、家庭で暮らす秋田犬の行動特性の個体差を測定することを目的とし、イヌの飼い主が回答する質問紙尺度の開発とその汎用性の検討を行った。動物の行動特性の個体差(動物のパーソナリティ)をどのような方法で評価するべきかという問題は、未だ発展途上の領域であるが、本研究では心理学的方法に基づきイヌ用行動特性質問紙を開発し、1頭につき複数の飼い主に評定を求めた。秋田犬と多犬種を対象に独立に分析を行った結果、5つの行動特性(社交性、好奇心、神経質、攻撃性、衝動性)が安定的に測定されることが統計的に裏付けられた。さらに、下位尺度の内的整合性、評定者間信頼性、再検査信頼性といった複数の信頼性指標が確認された。今回開発した質問紙尺度は、従来の質問紙と比べて項目数が少ないことから、イヌの行動特性を簡便に評価できるという利点があり、他の伴侶動物にも応用が期待できる。

第三章では、単一犬種の秋田犬を対象とし、彼らの行動特性の犬種内個体変異と遺伝的多様性との関係を探索的に調査した。秋田犬の行動特性の個体差は、第二章で開発したイヌ用行動特性質問紙に基づいて測定された。各個体の行動特性プロフィールの評定値と遺伝子多型の関連について検討した。行動特性への関与が推測される新たな候補遺伝子として、アンドロゲン受容体遺伝子(AR)に注目した。X染色体上のexon1領域にはグルタミンをコードするCAGの反復配列が存在し、ヒトおよび他の動物研究から、その遺伝多型が疾患や行動に影響を及ぼすことが知られている。分析の結果、本研究の対象個体群においては、AR exon1のCAGの反復配列がそれぞれ23回、24回、26回繰り返す3種類の異なる対立遺伝子(23、24、26)が観察された。行動特性との対応を分析した結果、オスの赤毛の秋田犬においてAR exon1のCAG多型と攻撃性が関連することが示された。この結果は、性ホルモンを制御する遺伝子が行動に関与することを、ヒト以外の動物で初めて報告した点で価値がある。なお、セロトニン受容体1A遺伝子(5HTR1A)についても遺伝的多様性が高く保持されていることが見いだされたが、その多型がイヌの行動に関与しているという積極的な結果は得られなかった。

第四章では、イヌの行動に見られる種間変異(行動の犬種差)を明らかにするために、秋田犬のヒトに対する視線利用行動の特異性を評価した。秋田犬の視線コミュニケーションに関する行動特性を引き出すために、解決不可能課題(イヌ自身では解決できない課題の状況でどれほど人の顔を振り返って見るか)と単純注視課題(餌を得る状況で名前を呼ばれたイヌがどれだけ人の顔を見るか)という二つの異なる実験場面において、秋田犬と他犬種を対象にヒトに対する注視行動を比較した。解決不可能課題の結果、秋田犬とその他の犬種において行動の犬種差が見られ、秋田犬は他の犬種よりもヒトの方を見る注視時間が短く、先行研究のオオカミでの結果に類似することが示された。このことは、秋田犬が祖先種のオオカミと類似した遺伝子構成を有しているという事実と矛盾しない。他方、単純注視課題の結果、秋田犬とその他の犬種間でヒトに対する注視時間の差異は検出されなかった。このことは、秋田犬も他犬種と同様に、ヒトからの視線接触を社会的な報酬信号として適切に利用し、ヒトに対する注視を自発的に発現させそれを維持するような能力を持っていることを示唆する。両実験で結果に乖離がみられたことから、イヌの家畜化の過程における認知能力の変遷について、個体学習による問題解決から人依存の問題解決へという仮説を検討する材料が得られたが、今後、犬種差についてさらなる多面的な調査が必要である。

審査会では、博士論文の中核を構成する一連の研究については全員一致で高く評価され、学位論文として相応しいとの判定が下された。ただし、博士論文としての価値を一層高めるには、研究の背景の説明や研究の意義、さらに総合考察について加筆が望ましいとの意見が出され、主査の指導の下で小規模の加筆が行われた。

以上の経緯をもって本審査委員会は博士(学術)を授与するに相応しいものと認定した。

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