学位論文要旨



No 127722
著者(漢字) 竹井,元
著者(英字)
著者(カナ) タケイ,ゲン
標題(和) 精子鞭毛における運動開始及びエネルギー供給系に関する研究
標題(洋) Studies on motility initiation and energy supply in sperm flagella.
報告番号 127722
報告番号 甲27722
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1135号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 豊島,陽子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 准教授 道上,達男
内容要旨 要旨を表示する

背景

精子は雄の遺伝情報を雌性配偶子に受け渡すために非常に特殊化された細胞であり、その運動は受精の成功になくてはならない。また精子細胞は個体を離れて活動する唯一の細胞であり、その為受精に伴う細胞外環境の変化に単一の細胞で対応し、運動を調節しなければならない。そこで精子はその多様な生殖環境に応じて様々な運動調節機構を発展させてきた。

精子鞭毛運動は主に三つの段階で調節されている。一つ目は鞭毛軸糸上に整列したダイニン分子の活性・協調に関わる調節である。この調節により鞭毛は、ダイニン分子自身のATP加水分解に伴う運動によりダブレット微小管同士の滑りを引き起こし、そのすべりを鞭毛の屈曲に変換し、鞭毛打波を形成し精子が遊泳する為の推進力を得ている。

二番目に、鞭毛運動開始や波形変化に関わるシグナル伝達がある。特に魚類精子は、放精から受精までが短時間で完了する為、運動開始のタイミングの正確な制御に関わるシグナル伝達機構を多様に発達させてきた。多くの硬骨魚類精子では、放精時に精漿と異なる浸透圧に曝露される事によって運動活性化シグナルの引き金が引かれ、Ca(2+)依存的なシグナル伝達により鞭毛運動が開始される事が知られている。一方サケ科魚類精子では、精漿に含まれる高濃度(40 mM)の細胞外カリウムイオンによって運動が抑制されており、放精に伴う細胞外カリウムイオン減少が運動活性化に引き金となる事が知られてきた。しかし先行研究において、10%のグリセリン溶液で精子を一旦処理する事により、通常は鞭毛運動を抑制する濃度のカリウムイオン存在下(100 mM)においても鞭毛運動が開始される事が報告された(Morita et al., 2005)。このグリセリン処理による運動開始機構は非常に特殊な条件下における運動活性化機構であるが、その解明はサケ科魚類精子鞭毛運動機構を理解する上で有用な情報をもたらす事が期待される。しかし、その詳細なメカニズムについては未だ不明な点が多く残っていた。

運動を調節する三番目の段階として、鞭毛運動を維持する為に必要なATP生産に関わる代謝系による調節がある。特に哺乳類精子など射精から受精までに長時間を要する生物は、運動維持の為のATP生産、及び鞭毛全長へ供給する方法が発達してきた。マウス精子では、近年多くの研究により鞭毛運動に必要なATPは主に解糖系により生産される事が示されてきたが、相反する報告もあり未だにその全容の解明には至っていない。またウニ精子では、鞭毛基部に局在するミトコンドリアで生産されたATPを鞭毛全体へ供給する為のATP輸送機構の存在が報告されているが、ウニ精子(40 μm)より長い鞭毛をもつマウス精子(120 μm)ではその様なATP輸送系は報告されていなかった。

これら様々な種の精子の運動調節機構を明らかにすることは、それぞれの種特異的な生殖機構を明らかにするにとどまらず、更には生殖方法の進化・適応を考察する上でも非常に意義深い。そこで私は、これらの運動調節機構について、サケ科魚類精子におけるグリセリン処理による運動開始シグナル伝達機構に関する研究とマウス精子における鞭毛運動とエネルギー供給系の関連に関する研究を行った。本論文では1章においてサケ科魚類精子運動開始機構の結果について、2章においてマウス精子鞭毛運動と供給系の関連の結果について論じていく。

結果及び考察

1章:サケ科魚類精子におけるグリセリン処理による運動開始機構の解明

まず、グリセリン処理のどの様な効果によって運動が活性化しているのかについて調べるために、処理溶液の浸透圧に着目して実験を行った。その結果、グリセリン溶中のグリセリンを他の物質(塩化ナトリウム、スクロース等)に置き換えた溶液で精子を処理してもサケ科魚類精子は鞭毛運動を開始する事、またその際、運動活性化は処理溶液の浸透圧依存的に起る事が明らかとなった。この結果は、精子を一旦高浸透圧溶液に希釈し、引き続き低浸透圧溶液に希釈する事により起る浸透圧ショックが鞭毛運動開始に必須である事を示している。

次に浸透圧ショックの下流で働くセカンドメッセンジャーについて、Ca(2+)に着目して実験を行った。細胞外のCa(2+)をキレート剤EGTAによって除去してもグリセリン処理精子の運動開始に影響は現れなかったが、細胞内のCa2+をキレート剤BAPTA-AMにより除去するとグリセリン処理精子の運動開始が有意に阻害された。この結果はグリセリン処理精子では浸透圧ショックにより細胞内からのCa(2+)供給が起っている事を示唆している。そこでCa(2+)蛍光プローブ、Fluo-4を用いて高浸透圧処理に伴う細胞内Ca(2+)濃度変化を追跡した。すると、精子がグリセリン溶液などの高浸透圧溶液に暴露されると細胞内Ca2+濃度が増加し、その後精子が低浸透圧暴露されると細胞内Ca2+濃度が急激に減少する事が分かった。一方精子が高浸透圧溶液のみに暴露されたままでは、そのようなCa(2+)濃度の急激な減少は見られなかった。高浸透圧溶液に希釈するだけでは精子は運動を開始しない事から、グリセリン処理による運動活性化には細胞内Ca(2+)濃度の上昇だけでなく低下が必要である事が示唆された。この結果は、細胞膜を除去した精子鞭毛運動に対して比較的低濃度(~10(-8) M)のCa(2+)が阻害的な効果を及ぼすというOkuno and Morisawa (1989)の報告と一致する。

高浸透圧暴露時に精子細胞内Ca(2+)濃度が上昇する事から、この時に精子鞭毛運動に必須である鞭毛軸糸タンパクのリン酸化が起っているのではないかと考えた。そこで、精子の細胞膜除去モデルを用いてリン酸化が起っているかどうかを間接的に調べた。サケ科魚類精子の細胞膜除去モデルは通常、cAMPを含まない再活性化溶液中では軸糸タンパクのリン酸化が起らない為に運動できない。しかし、サケ科魚類精子を一旦高浸透圧溶液に希釈し、その直後に細胞膜を除去するとcAMPを含まない溶液中でも再活性化する事が分かった。これは高浸透圧暴露により軸糸タンパクのリン酸化が起っている事を示唆している。

以上の結果より、高浸透圧溶液ショックによる細胞内カルシウム濃度上昇がサケ科魚類精子鞭毛軸糸タンパクのリン酸化等の運動能の獲得、ここでは「成熟」と呼ぶ、を引き起こし、引き続く低浸透圧ショックにより起る細胞内カルシウム濃度の急激な減少が実際の鞭毛運動の引き金になっている事が示唆された。

この結果は、他の淡水魚、海産魚と同様な浸透圧、及び細胞内カルシウム依存的な運動開始機構を、より進化的に古いサケ科魚類精子も保持している事を示唆しており、この事実は魚類精子運動開始機構の進化を考察する上でも非常に興味深い。今後浸透圧ショックによる細胞内カルシウムイオン供給機構を明らかにし、更に他種の魚類精子と比較する事により魚類精子運動開始機構の進化を解明する上で非常に有用な情報が得られる事が期待される。

2章:マウス精子鞭毛運動とエネルギー供給系の関連に関する研究

マウス精子における鞭毛運動をエネルギー代謝系の関連について、鞭毛運動に必要なATPは主に解糖系により作られているという報告と主に呼吸系により作られているという報告がある。私は、この様な相反する報告は実験間で運動解析方法が異なる事に起因するのではないかと考えた。そこで本研究では、従来測定されてきた運動率、鞭毛打の振動数に加えて鞭毛の屈曲角を測定し、振動数と屈曲角の積として微小管すべり速度を求めた。微小管すべり速度はATP濃度と相関する事が知られているので、このパラメータを用いる事により鞭毛運動とエネルギー代謝系の関連をより正確に評価できると期待される。更に、鞭毛内ATP濃度変化の様子をより詳細に調べるため、鞭毛上の各点における局所的な屈曲の変化を測定した。振動数は鞭毛上のどの点においても一定であるため、局所的な屈曲の減少は局所的な微小管すべり速度の減少、すなわち局所的なATP濃度の減少を示唆する。

まず解糖系基質(グルコース)、又は呼吸系基質(ピルビン酸、βヒドロキシ酪酸)のいずれかのみが存在する条件下における鞭毛運動を解析した。すると、どの基質が存在する条件下でも鞭毛運動に大きな違いが現れない事が解った。この結果はマウス精子が解糖系、呼吸系のどちらでも運動を維持する為に充分なATPを生産・供給できる事を示している。

次に、解糖系阻害剤αクロロヒドリン(ACH)により解糖系を阻害した場合の鞭毛運動を解析した。すると解糖系基質存在下だけでなく、呼吸系基質存在下においても解糖系阻害により鞭毛の屈曲角及び微小管すべり速度が減少する事、また特に鞭毛先端部で著しく屈曲が減少する事が解った。この結果は呼吸系基質が豊富に存在する条件下でも解糖系を阻害する事により鞭毛内、特に先端部のATP濃度が減少する事を示唆している。

そこで細胞内ATP濃度を逆相HPLCにより直接測定した。すると呼吸系基質存在下においても解糖系阻害により鞭毛内ATP濃度が減少し、鞭毛内ADP、AMP濃度が増加する事が解った。これらの結果はウニ精子においてATP輸送系を阻害した場合の結果と酷似しており、すなわち鞭毛基部に局在するミトコンドリアで生産されるATPが、解糖系阻害下では鞭毛先端部まで行き渡らない事を示唆している。また、筋肉細胞において解糖系がATP輸送系として働いている事を示唆する報告もなされている。これらの事実を基に、私はマウス精子における解糖系の役割として、従来知られていたATP生産系としての機能に加えて、ATP輸送系としての働きも備えているというモデルを提唱する。このモデルを実証する為には更なる研究が必要であるが、このモデルが運動細胞におけるエネルギー恒常性に関して、新たなブレイクスルーになる可能性を秘めている。

審査要旨 要旨を表示する

精子は雄の遺伝情報を雌性配偶子に運ぶために非常に特殊化された細胞であり、そのためには運動機能が大変重要である。精子は個体を離れて活動する細胞であり、受精環境に単一の細胞で対応し、運動を調節しなければならない。そのため、精子はその多様な生殖環境に応じて様々な運動調節機構を発展させてきた。

ところで精子の運動を実質的に担っている鞭毛運動を調節する仕組みについては、さまざまな研究がなされてきた。竹井氏は、そのなかで主に二つの調節機構について研究を行い、優れた成果を学位論文にまとめた。第一は、魚類精子を用いた精子鞭毛運動の開始機構に関するもので、第二は哺乳類精子を用いた、鞭毛運動維持のために必須なエネルギー(ATP)代謝と、その輸送に関するもので、それらを2章に分けて報告している。

第一章では、サケ科魚類精子のグリセリン処理による運動開始について解析している。自然界において、サケ科魚類の精子はK+濃度の高い精漿から低い淡水中に放精されるために生じる、細胞膜の過分極が引き金となり、鞭毛運動を開始させることが明らかになっている。しかし、先行研究によって、高濃度グリセリン処理でも運動が開始されることがわかっていた。竹井氏その仕組みについてさらに詳しく検討した。

まず、グリセリン処理のどの様な効果によって運動が活性化しているのかについて、処理溶液の浸透圧に着目して実験を行った。その結果、グリセリンを他の物質(塩化ナトリウム、スクロース等)に置き換えた溶液で精子を処理しても、サケ科魚類精子は鞭毛運動を開始する事、またその際、運動活性化は処理溶液の浸透圧依存的に起る事が明らかとなった。すなわち、精子を一旦高浸透圧溶液に希釈し、引き続き低浸透圧溶液に希釈する事により起る浸透圧ショックが鞭毛運動開始に必須である事を示した。

次に浸透圧ショックの下流で働くセカンドメッセンジャーとして、Ca(2+)に着目し、各種阻害剤による実験、細胞内濃度の蛍光プローブを用いた解析を行った。その結果、精子が高浸透圧グリセリン溶液に暴露されると、細胞内Ca(2+)濃度が増加し、その後、精子が低浸透圧暴露されると、細胞内Ca(2+)濃度が急激に減少する事が分かった。すなわち、高浸透圧暴露時に精子細胞内Ca(2+)濃度が上昇して、精子鞭毛運動に必須である鞭毛軸糸タンパクのリン酸化がCa(2+)依存的に起る。この時に精子は運動能を獲得するが、一方、既に報告されているようにCa(2+)は運動開始そのものに対しては阻害的に働くので、運動はまだ開始されていない。それが、続く低浸透圧曝露により起る細胞内Ca(2+)濃度の急激な減少が引き金となって実際の鞭毛運動を開始させる事が明らかになった。この結果は、他の淡水魚や海産魚と同様な、浸透圧及び細胞内Ca(2+)依存的な運動開始機構を、それらより進化的に古いサケ科魚類精子も保持している事を示唆しており、魚類精子運動開始機構の進化を考察する上でも非常に意義深い研究成果である。

第二章では、マウス精子を用いた、鞭毛運動とエネルギー供給系の関連に関する研究成果が述べられている。鞭毛運動の振動数や波形はATP濃度に強く依存している。ところで哺乳類精子におけるATPについては、鞭毛全長にわたって存在する解糖系により作られているという報告と、鞭毛基部に存在するミトコンドリアの呼吸系により主に作られているという報告があり、その決着はついていなかった。竹井氏は、従来測定されてきた運動率、鞭毛打の振動数に加えて鞭毛の屈曲角を測定し、微小管すべり速度を求め、微小管すべり速度と相関すると考えられるATP濃度を推定するという新しい手法を導入した。さらに精子に含まれるATPやADP、さらに解糖系の中間産物の濃度を詳細に検討した。

その結果、解糖系基質(グルコース)、又は呼吸系基質(ピルビン酸、βヒドロキシ酪酸)のいずれかのみが存在する条件下においても、鞭毛運動に大きな違いは現れなかった。次に、解糖系阻害剤αクロロヒドリンにより解糖系を阻害した場合の鞭毛運動を解析した。すると解糖系基質存在下だけでなく、影響を受けないと予想される呼吸系基質存在下においても微小管すべり速度が減少する事、特に鞭毛先端部で著しく屈曲が減少する事がわかった。また、細胞内ATP濃度を逆相HPLCにより直接測定すると、呼吸系基質存在下においても、解糖系阻害により鞭毛内ATP濃度が減少し、鞭毛内ADP、AMP濃度が増加する事が解った。これらの結果は、ATPが解糖系阻害下では鞭毛先端部まで行き渡らない事を示唆していた。そこで竹井氏は筋肉細胞において、解糖系がATP輸送系としても働いている事を示唆する報告からヒントを得て、解糖系が従来知られていたATP生産系としての機能に加えて、ATP輸送系としての働きも備えているというモデルを提唱し、コンピューターシミュレーションをおこなった。その結果、解糖系が鞭毛基部で生産されたATPを、鞭毛先端部まで輸送することで、鞭毛先端部での大きな屈曲運動が維持される可能性を示した。この研究成果は、運動細胞におけるエネルギー基質であるATPの恒常性に関して、新たなブレイクスルーになる可能性を秘めている、非常に意義深いものである。

竹井元氏が提出した本論文は、以上述べたように、まずサケ科魚類精子における運動開始における浸透圧変化と細胞内Ca(2+)の関わりの詳細を明らかにした。さらに解糖系が哺乳類精子鞭毛運動維持のためのATP産生だけでなく、ATP輸送系としても働くことを示した。これらの研究成果は、ともに従来の説を覆し、もしくは発展させた、きわめて意義深いものである。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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