学位論文要旨



No 127730
著者(漢字) 木下,卓巳
著者(英字)
著者(カナ) キノシタ,タクミ
標題(和) 広帯域色素増感太陽電池に関する研究
標題(洋) Studies on Panchromatic Dye-Sensitized Solar Cells
報告番号 127730
報告番号 甲27730
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1143号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀬川,浩司
 東京大学 教授 松尾,基之
 東京大学 特任教授 久保,貴哉
 東京大学 准教授 佐藤,守俊
 東京大学 特任准教授 内田,聡
内容要旨 要旨を表示する

再生可能エネルギーの利用拡大は、わが国の重要な課題の一つである。なかでも太陽光発電は、日本の再生可能エネルギーの中心を担うと期待されているが、その導入を進めるためにはシステムの低コスト化が不可欠であり、このため次世代太陽電池の研究が進められている。スイス連邦工科大学のグレッツェル教授らにより開発された色素増感太陽電池(DSSC)は、安価な構成材料と平易なプロセスで製造可能であるため低コストで環境負荷の少ない太陽電池として期待されている。現在、その光エネルギー変換効率は、ビピリジル系Ru錯体色素(N719)を用いてアモルファスシリコン太陽電池に匹敵するエネルギー変換効率を達成している。しかし、この色素の吸収端は700nm程度の可視域に留まっているため、単結晶シリコンなどの無機半導体を用いた太陽電池に比べ、太陽光を有効に利用できていない。太陽光には、近赤外域に可視光とほぼ等しい数の光子が含まれているため、近赤外光電変換の実現はDSSCの大幅な効率向上に必要である。しかしながら、色素の光吸収を長波長シフトさせると、色素の最高被占軌道-最低空軌道間のギャップが低下し、酸化チタンやヨウ素レドックス対とのエネルギーレベルの調整が困難になることが課題である。一般的なRu錯体は、最も長波長側の金属から配位子への電荷移動(MLCT)吸収帯で光励起すると、まず励起一重項状態を生成するが、これはRuの重原子効果により直ちに項間交差を起こし励起三重項状態となる。酸化チタンへの電子注入は主に励起三重項状態から起こるので、一重項と三重項のエネルギー差(スピン交換エネルギー)によるエネルギーロスが一般的なビピリジル系のRu錯体において数百m eV程度生じる。本研究ではこのエネルギーロス低減するため、基底一重項(S)から励起三重項(T)へ直接遷移するスピン禁制遷移(S-T遷移)を利用し、励起状態が安定でかつ長い励起寿命を示す増感色素を合成し、広帯域かつ高効率に光電変換が可能な色素増感太陽電池の構築を行うことを目的とした。

第一章では、本研究の背景として色素増感太陽電池の研究の現状を示し、本研究の意義、目的を明確にした。その上で増感色素を長波長化する際の課題や問題点を明らかにし、研究対象となる分子設計や設計指針について述べた。

第二章では、アゾピリジン配位Ruポルフィリンを合成と、このポルフィリンを用いた近赤外光電変換について検討した。Ruポルフィリンの軸配位子にアゾピリジンを配位することで非常に強いMLCT遷移が得られ、酸化チタン上でも強い吸収を示した。その増感色素を用いることでほとんど報告例が無い1100 nm付近の近赤外光電変換を観測することができた。また、酸化チタンに吸着したアゾピリジン軸配位子は、電子伝導パスとして働くが、反対側に位置する吸着に関与しない配位子を別のピリジンへと置換することによって電子の選択的な伝達が可能になり、効率を2倍以上上昇させることができた。さらに置換基の導入により電位の制御も可能になり、電荷分離の方向とエネルギーレベルマッチングの改善によって量子効率を飛躍的に向上できることを示した。

第三章では、アゾピリジン軸配位RuポルフィリンのRuからアゾピリジンへの近赤外MLCTと類似の遷移を利用する目的でより安定性を増したビスアゾピリジン配位Ru錯体を検討した。同時に、エネルギーレベルをマッチングさせたイミノピリジン配位Ru錯体も合成し、立体異性体の分離、立体構造の同定を行った。そして、一部の立体構造のイミノピリジンRu錯体が、 S-T遷移を近赤外領域に示すことを見出した。そのS-T遷移によって、約1050 nmまで広がる近赤外光電変換を実現し、長波長のエネルギー変換効率としては比較的高いエネルギー変換効率1%が得られた。

第四章では、S-T遷移の遷移強度の制御を検討した。S-T遷移は、スピン軌道相互作用により、励起一重項への許容遷移が励起三重項への禁制遷移に遷移強度を貸すことによって観測される。この時、2つの状態間のエネルギー差が小さくなるほど遷移強度を貸す割合が大きくなる事が知られている。つまり、S-T遷移の強度を向上させるためには、スピン交換エネルギーを制御することが必要だと考えられる。そこで、スピン禁制遷移を示すイミノピリジンRu錯体を基に、系統的に配位子のπ共役系の大きさを変化させたRu錯体を合成し、吸収の変化を測定した。π共役系を小さくしたRu錯体では、S-T遷移は最も長波長域に現れる結果となった。また、強く現れるS-S吸収と長波長域のS-T吸収とのエネルギー差を見積もると、π共役系の拡張に伴いエネルギー差が減少する事が明らかとなった。これは、π共役系を小さくした錯体Ru錯体の場合、配位子のπ軌道に対する金属のd軌道との重なる割合が大きく、比較的大きな交換エネルギーを与えるが、一方共役系を拡張したRu錯体では、π軌道内の電子が非局在化することによってd軌道と重なる割合が小さくなり、交換エネルギーが減少すると考えられる。さらに、共役系を拡張したRu錯体では一重項と三重項のエネルギーレベルが近接することによりスピン-軌道相互作用が強くなり、スピン禁制遷移の振動子強度が大きくなることを見出した。

第五章では、Ru錯体の配位子のπ共役系を大きく拡張することでスピン交換エネルギーが減少するという本研究で得られた新規概念を元に、強いスピン禁制遷移を示す増感色素としてπ共役系の大きなターピリジル配位子を有するホスフィン配位Ru錯体を合成し、近赤外光電変換に関する検討を行った。この新規色素は800nm付近に比較的強い吸収ピークを示し、吸収スペクトルと発光スペクトルとのエネルギー差がこのRu錯体と同じターピリジル配位子を有するRu錯体であるブラックダイ(BD)と比べて非常に小さくなっていた。低温の吸収スペクトルと時間分解発光測定、時間依存密度汎関数法(TD-DFT)による解析により、この長波長吸収帯がスピン禁制遷移に由来するものであることが明らかとなった。また、この錯体を用いたDSSCは1020 nm付近から立ち上がる入射光-電流変換効率(IPCE)スペクトルを示し、既存の高効率色素であるBDやN719に比べ、IPCEを低下させることなく、分光感度波長を100nm以上長波長化することに成功した。擬似太陽光下では、有機系太陽電池のなかで最も高い短絡電流密度が得られ、一般的な無機系太陽電池に匹敵する電流値を得ることができた。

第六章では、第五章で検討したπ共役系拡張によるスピン軌道相互作用の向上などのように、スピン許容な遷移を借りる量を増やすことによって遷移強度を増加させる方法とは別に、遷移強度自体を向上させることに着目した。非常に大きなスピン軌道相互作用によって遷移強度を借りたとしても、借りる対象となる遷移以上の強度を得ることはできない。そこで、スピン許容な一重項一重項遷移の遷移確率を大きくすることによって禁制遷移強度の向上を検討した。これは、スピン軌道相互作用がある程度有効に働いている系でしか適応できないため、本研究で合成したRu色素と、重原子効果によって大きなスピン軌道相互作用を示すOs錯体に対して発色団を導入し、その変化を考察した。Os錯体に発色団としてスチリルベンゼンを導入することにより、スピン禁制遷移の強度を50%ほど向上させることに成功した。さらに光電変換特性が既存のOs錯体に比べ5倍近く向上した。一方で、本研究で開発したRu錯体にも発色団の導入を検討し、ビチオフェンをターピリジルに導入した色素では、紫外から可視領域でモル吸光係数が大幅に向上した。しかし、近赤外領域の吸収強度はMLCTバンドの短波長シフトによって全体的に低下した。今後、長波長化と吸収強度の改善を両立が課題であることが明らかになった。

第七章では、色素増感太陽電池のタンデム化について述べた。太陽光は広帯域にフォトンを有しているので、単一のセルでの光電変換では光学ギャップ以上のフォトンを吸収した際に生じる熱的なエネルギー損失と、光吸収がない波長領域での光学的エネルギー損失が必ず生じるため理論的な変換効率に限界がある。タンデム型太陽電池は、それぞれ異なった波長域で光電変換を行うセルを複数積層させることによってエネルギー損失を最小限に抑えることができる太陽電池である。これを色素増感太陽電池へと応用すればさらなる高効率化が期待できる。しかし、長波長感度に優れた高効率色素が存在しないことから、長波長光吸収セルの改良が課題となっている。そこで、既存の可視光吸収色素N719と新規に合成した錯体を用いてタンデム型色素増感太陽電池を構築し、更なる効率の向上の検討を行った。トップセルのTiO2膜厚制御により電池性能を最適化することで11.4%の光エネルギー変換効率を得ることに成功した。

第八章では、DSSCの広帯域化の実現に向けた本研究の結果をまとめた。本研究では、広帯域色素増感太陽電池の実現に向け、励起状態のスピン制御というこれまでに無い視点に基づいた分子設計により、広帯域かつ高効率な増感色素の合成とデバイス性能の向上を実証した。これは、分子設計においてこれまで不足していた新しい概念を提供するものである。今後の本研究の進展によって、低コストで高効率な色素増感太陽電池の実用化が可能になると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

太陽光発電は、わが国において再生可能エネルギーの利用拡大を図る上で重要であり、その導入をさらに進めるためには発電の低コスト化が必要となるため、様々な次世代太陽電池の研究が進められてきた。なかでも、色素増感太陽電池(DSSC)をはじめとする有機系太陽電池は、次世代太陽電池の一つとして期待されているが、既存の有機系太陽電池の光吸収波長は可視光領域に限られており、太陽光に多く含まれる近赤外光を有効に利用できていないため無機系太陽電池に対し低い光電変換効率に留まっている。本論文は、近赤外領域において光電変換効率の高いDSSCを実現する目的で、色素の基底一重項(S)から励起三重項(T)へ直接遷移するスピン禁制遷移(S-T遷移)を利用し、高効率光電変換が可能なDSSCの構築を行った結果を纏めたもので、以下の八章からなる。

第一章では、本研究の背景とDSSCの研究の現状を示し、増感色素の吸収波長域を長波長化する際の課題を明らかにし、本研究で取り組む新たな分子設計の指針について述べている。

第二章では、アゾピリジン配位Ruポルフィリンを、新たにDSSCの増感色素として用いて近赤外光電変換を検討し、1100 nmに及ぶ近赤外光電変換に成功したことが述べられている。また、増感色素分子の非対称化により電子移動の方向制御を行い、DSSCの光電変換効率が向上できたことが述べられている。

第三章では、ビスアゾピリジン配位Ru錯体とイミノピリジンRu錯体について検討し、一部の立体構造のイミノピリジンRu錯体が近赤外領域に強いS-T遷移を示すことが見出されている。また、そのS-T遷移を利用し約1050 nmまで広がる近赤外光電変換が可能なDSSCを実現したことが述べられている。

第四章では、Ru錯体の配位子のπ共役系の大きさを系統的に変化させ、スピン交換エネルギーを制御できることが述べられている。なかでも、共役系を拡張したRu錯体では、スピン禁制遷移の振動子強度を飛躍的に向上できることが述べられている。

第五章では、第四章の結果に基づいて、強いスピン禁制遷移を示す増感色素としてπ共役系の大きなターピリジル配位子を有するホスフィン配位Ru錯体を合成し、これを用いたDSSCの近赤外光電変換を検討している。その結果、既存のDSSCに比べ、分光感度を低下させることなく光電変換波長域を100nm以上長波長化させることに成功したことが述べられている。ここではさらに、有機系太陽電池のなかではこれまでで最も高い短絡電流密度が得られ、一般的な無機系太陽電池に匹敵する電流密度が得られたことが述べられている。

第六章では、重原子効果によって大きなスピン軌道相互作用を示すOs錯体に対し、発色団を導入することによりスピン禁制遷移の強度を5割程度向上させ、これを用いたDSSCの光電変換特性については5倍程度まで向上できたことが述べられている。

第七章では、既存の可視光吸収色素と本研究で合成したRu錯体を用いてタンデム型DSSCを構築し、従来より高い11.4%の光エネルギー変換効率を達成したことが述べられている。

第八章では、本研究で行ったDSSCの広帯域化に関する結果をまとめ、今後の展望について述べられている。

以上のように、本論文は広帯域色素増感太陽電池の実現に向けて、励起状態のスピン制御というこれまでに無い視点に基づいた分子設計により高性能のDSSCを実現したもので、次世代太陽電池の開発に大きな意義をもたらすばかりでなく、当該分野の色素分子設計に対し新しい考え方を提供するものであり、その学術的意義は大きい。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として相応しいものであると審査委員会は認め、合格と判定する。

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