学位論文要旨



No 127735
著者(漢字) 栗川,知己
著者(英字)
著者(カナ) クリカワ,トモキ
標題(和) 記憶の埋め込みによる自発及び誘起神経活動の形成
標題(洋) Spontaneous and Evoked Neural Dynamics Shaped by Embedding Memories
報告番号 127735
報告番号 甲27735
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1148号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 福島,孝治
 北海道大学 教授 津田,一郎
 理化学研究所 シニアチームリーダー 深井,朋樹
内容要旨 要旨を表示する

生物の神経系がどのように情報を処理しているのかを理解することは神経科学の重要な課題の一つである。適当な認知的な課題あるいは感覚刺激を与えその応答を調べることで、その課題に必要な認知機能または感覚情報の処理が脳のどこで処理されているかが多くの研究を通して、これまで明らかにされてきた。このように神経科学は古典的には、何か外部から刺激を与えその応答を測ることで脳の機能の解明を行なってきた。通常、同じ刺激を与えても同じ応答は返ってこないので、同じ刺激を繰り返し与えてその平均を取ることで、刺激に対する応答を測定する。ここでは、試行間の応答の違いは単なるゆらぎとして処理され、一つの試行がもつ情報は平均化により失われてしまう。

しかし、近年の実験技術、特に多点観測による多数の神経細胞の同時計測技術の発達により、一度の試行から多くの情報を取り出すことができるようになってきた。それにともない、今まで単なるゆらぎだと考えられていたものが、実は組織だった時空間構造をもっていることが明らかにされつつある。また、刺激が与えられる前の状態に応じて、その後の応答が変化するということも明らかになってきた。このように自発神経活動が神経系の情報処理に大きく関与していることが明らかにされてきた(明確な刺激の与えられていない状態での神経系の活動は自発神経活動と呼ばれ、それに対して何らかの刺激が誘起する神経活動は誘起神経活動と呼ばれる)。このことは、自発神経活動の理解が神経系の情報処理の理解にとって重要であることを意味している。

同様に、そもそも情報がどのように表象されているかという点も、神経系の情報処理の理解には重要な要素となる。伝統的な仮説として、外部刺激が神経細胞が構成する力学系のアトラクタとして表象されているという仮説がある。この"表象=アトラクタ"の標準的なモデルとして、ホップフィールドネットワークなどの連想記憶モデルが研究されてきた。このモデルにおいて、刺激の表象はアトラクタとして埋め込まれる。複数の表象があった場合、対応するアトラクタは同じ相空間に埋め込まれるので、多数のアトラクタが共存する多安定状態になる。そして外部からの刺激はその相空間上の一点を選択し、その点がどのアトラクタの収束領域に入っているかに応じて、刺激とそれに対する応答が定まる。

このモデルの利点の一つとして、ゆらぎに対する安定性がある。入力が多少ゆらぎ、選ばれる初期状態が多少変化しても同じアトラクタの吸引領域に入っていれば同じ応答を返すことができる。また同じ理由でダイナミクスにゆらぎが入っていても、アトラクタへ収束する経路が極めて狭くないかぎり、同じ応答をすることができる。このような現象は間接的ではあるが、海馬の場所細胞や嗅覚系の応答などで実験的に支持されている。

このように、"表象=アトラクタ"モデルは大変有用な概念である。しかし、幾つかの問題点も指摘されている。記憶の数が増えて、それに伴いアトラクタの数が増加する。同一相空間でアトラクタが増加するので、必然的に1つあたりの吸引領域は減少する。つまり記憶の安定性は減少する。また、本論文の文脈でより重要な課題として、現モデルでは自発神経活動の解析を行うことが難しい点がある。なぜなら、入力は同一の相空間上にある多数のアトラクタから一つを選択する初期条件であり、系のダイナミクス自体は変化しない。入力がない(すべての要素がゼロ)場合でも同様である。

上述のように、自発神経活動は脳における情報処理に重要な役割を果たしていると考えられるにもかかわらず、今のモデルでは自発神経活動を解析することが難しい。そこで、本論文では、"表象=分岐"という新しい枠組みを提示し、それを実装するモデルを導入し解析する。

我々の枠組みでは入力は系の初期状態ではなく、系のパラメタとして導入される。入力がない状態から、印加した状態へパラメタが変化することで系が変化(分岐)する。この点が、入力が系の初期状態の選択であり系自体は変わらない前述の枠組みと大きく異なる点である。入力に対する応答は、入力により変化した後の相空間上のアトラクタとして定義される。この点はアトラクタとして入力に対する応答が表象されることは前述の枠組みと同様である。

本論文で用いられる枠組みでは、複数のターゲットを記憶する場合でも一つの相空間上に複数のアトラクタが存在する必要はない。なぜなら、入力毎に系の相空間自体が変化し、変化後の相空間構造は入力によって異なり得るからである。したがって、上述の記憶数が増えた場合に記憶の安定性が必然的に減少するという問題は回避できる。実際本論文で導入されたモデルでは、入力により変化した相空間においては少数のアトラクタしか生じない。

また、この新しい枠組みは実験と相反するものではない。例えば嗅覚系では入力が印加、この系ではにおい物質を与えることにより、応答する神経細胞の発火パタンがにおい物質の種類に応じて異なるパタンに変化することが報告されている。また、におい物質を排除するとその発火パタンは元の発火パタンに戻ることも報告されている。

この枠組みに基づき本論文では、以下の3つのネットワークモデルを導入した。そして自発神経活動と誘起神経活動の関係、特に自発神経活動において誘起神経活動に似たパタンが出現するという、実験で特徴的に見られる現象に何らかの機能的な意味があるのかという点に着目して、解析を行った。

1.ホップフィールドネットワーク(HNN)を改変したネットワークモデル。具体的にはHNNからネットワークの結合強度を

のように改変した。但しここで(ημi,ζμi)〓は学習するべき入力とそれに対応する出力パタンのペアを表す。詳細は本論文で述べられるが、新しい結合形より入力印加時のダイナミクスがHNNと同じ形の表現されることになる。これにより、入力印加時にターゲットが安定な固定点となる。

本研究ではこのモデルが多数のペアを学習することができ、その記憶容量は0.7N (ここでNは要素数)程度であることを、数値シミュレーションを用いて示した。また学習数が極少数の場合を除き、自発神経活動はカオスとなり、ターゲットに他の入力パタンやランダムパタンに比べより近づく挙動を示すことを明らかにした。

2.ランダムネットワークに学習を導入したモデル。上のモデルは新たな枠組みの元、多数の学習が可能であることを示したが、結合強度は予め上述の結果が得られるようにデザインされていた。したがってこの結合強度がどの程度特殊であるのかを調べるために、本モデルでは、ランダムネットワークから学習を行うモデルを導入した。採用された学習則はよく用いられるヘブ則のようにシナプス前細胞、後細胞の二体相関で定まる簡単な学習則であり、新しい枠組みのための特殊な学習則ではない。

この結果、学習パラメタと学習時の入力強度がある程度の条件をみたせば、このモデルでも多数の学習ができることを示した。さらにこの場合、ネットワーク構造は先のモデルに類似した特徴を持つ構造が形成されていることを明らかにした。

3.強化学習を用いた複数のシナプスの時間スケールをもつレイヤー型のネットワークモデル。このモデルではレイヤー間結合強度が学習により変化することで、入力と出力を学習する。この結果、最大の記憶容量を実現する時間スケールの関係が存在し、その関係を満たすところで、ターゲットを変遷するような自発神経活動が形成されることを明らかにした。

以上のように本論文では近年注目を集めている自発神経活動の機能の解析を行うために、伝統的な"表象=アトラクタ"の枠組みに変わる"表象=分岐"という枠組みを提案し、この枠組みに基づいた3つの異なるモデルを導入した。そして、それらについて自発神経活動と誘起神経活動の関係に着目した解析を行った。結果として、3つのモデルで記憶が形成される領域では自発神経活動はターゲットを変遷する構造が形成されることを示した。ターゲットは入力パタンを印加した時の応答と考えられるので、以上の結果は新しい枠組みのもとで、記憶を行うために形成される構造として、自発神経活動が誘起神経活動と似たパタンを遷移するが形成される可能性を示唆していると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

栗川知己氏の博士論文Spontaneous and Evoked Neural Dynamics Shaped by Embedding Memoriesは記憶の埋め込みに関して、力学系から新しい視点を提示し、それにより自発神経活動と刺激による誘起活動の間の関係、さらにそれが学習によりいかに形成されるかを示したものである。本論文は5章118ページからなり、第1章は導入説明、第2,3,4章では神経ネットワークのモデルと解析が行われ、第5章では全体の考察と今後の展望が述べられている。

神経系がどのように情報を記憶し、処理しているのかを理解することは神経科学の重要な課題の一つである。入力刺激に応じて、ある出力が現われるように神経系は学習により形づけられていく。近年、神経細胞の同時計測技術の発達により、明確な刺激の与えられていない状態でも神経系は自発的に活動しており、これは組織だった時空間構造をもっていることが明らかにされ、またこれと刺激後の誘起神経活動との連関も見出され、自発神経活動と神経系の情報処理がいかに関連しているかの理解が待たれている。

一方で、記憶の伝統的な仮説としては、多数のアトラクタを持つ力学系を用意し、入力に応じてそれぞれのアトラクタに落ちるよう初期条件が選ばれるという描像がとられてきた。この立場での連想記憶モデルは広く研究されてきた。しかし、この描像では、自発神経活動の解析を行うことは困難である。というのは、この見方では、入力がないと初期条件を設定できなくなり、時間発展を記述できないからである。仮にそれが克服できたとしても、この描像では神経活動の時間発展は入力の有無によらず同一の力学系で記述されているので、自発活動と誘起活動の関連を議論するのは困難である。

この点を考えて、栗川氏の論文では、力学系の分岐としての表象という新しい枠組みが提示される。この枠組みでは入力は系の初期状態ではなく、力学系そのものを変える入力項で与えられる。入力の強さはその項のパラメタとして導入され、それに応じて神経活動の状態は変化し、入力がないときの自発活動状態から、誘起活動状態へと変化(分岐)する。この描像では、多くの入出力関係を記憶するために複数のアトラクタが存在する必要はない。入力毎に系の相空間自体が変化し、適正な状態がつくられればよいからであり、記憶はこうした分岐構造の集合を与えるような力学系として埋め込まれることになる。

この新しい枠組みに基づき本論文では、3つのネットワークモデルを導入し、その振る舞いが調べられ、入出力関係の記憶がいかに神経活動の力学系にうめこまれるか、そして自発神経活動と誘起神経活動の関係が詳しく解析されている。

第1章で上記のような本論文の方向が示された後、第2章では入出力関係を埋め込むように、従来の連想記憶モデルを改訂する。具体的には、学習するべき入力とそれに対応する出力パタンのペアを(ημi,ζμi) (iは神経素子、μは入出力ペアのインデックス)としたときに、出力の相関だけで結合行列を決める従来の形ではなく、入出力で決める以下の形

が提唱される。理論的考察とシミュレーションからこのモデルが多数の入出力関係を学習できることが示される。具体的には、神経素子数をNとすると、その記憶容量は0.7N程度となる。この時、入力がない状態での自発神経活動は一般にはカオスを示すが、これはランダムではなく、記憶されているターゲットたちに選好して近づく挙動を示す。入力を与えると、このカオス状態から、入力に対応した出力を示す誘起活動への選択的変化が生じる。この結果は自発神経活動において誘起神経活動に似たパタンが出現するという、最近の実験結果と対応している。

第2章では多数の学習が可能であるように結合強度をデザインしたものであった。では、入力下で出力すべきターゲットの情報を受けていって、多数の入出力関係を学習できるであろうか。この問いに答えるべく第3章では、シナプス前細胞、後細胞の二体相関で定まるヘブ則タイプの簡単な学習則が導入される。ただし、出力がターゲットとずれていると結合強度を変えるという点が重要である。この結果、学習パラメタと学習時の入力強度がある程度の条件をみたせば、このモデルが逐次に多数の学習ができることがシミュレーションにより示された。形成されたネットワーク構造はもちろん第2章のモデルと同一にはならないが、興味深いことに、結合強度と入出力ξ、ηとの符号の関係では先のモデルに適合した構造が形成されていることが見出された。そして、形成された自発活動は第2章で見出されたと同様に、ターゲットたちに選好性を持ったカオス的振る舞いを示す。

以上の第3章の学習規則では、ターゲットの全情報が必要とされていた。ターゲットと出力の間の差という一つの情報だけを用いた強化学習で、入力関係を学習できるであろうか。第4章では、大域的結合ではなく、入力、中間、出力の3層からなる型神経ネットワークを用いて、層間に2つのシナプスの時間スケールを導入することでこの問いに答えている。まずヘブ則を拡張した学習規則を用いて、入出力学習の遂次記憶が可能であることが示される。この場合、最大の記憶容量を実現するにはフィードバックのシナプス変化がフィ-ドフォーワードのよりも十分速いという条件が見出される。次いで、この系においてもターゲットを変遷するような自発神経活動が形成されている。

第5章は得られた結果の脳科学への意義、今後の展望にあてられている。

以上のように、栗川知己氏の学位論文では、神経系の形づくる記憶に関して、従来のアトラクタ描像と異なった、力学系のフローの入力による変容(分岐)に基づく、新しい描像が提示されている。記憶を多重安定系でとらえる従来の描像に替り、入力による力学系の変化の仕方を埋めこんでいくのが記憶である、という新描像である。その結果、自発脳活動と誘起脳活動の連関が議論出来るようになる。この描像を具現化した、3つのモデルが導入され、学習による力学系変化と入力による力学系変化をつなぐ解析がなされている。その結果、誘起活動で現われるパタンへの選好性を持った自発的カオス活動が見出された。出力を準備した自発活動が入力のない時に既に存在しているという栗川氏の知見は、近年の嗅覚系などの実験との対応でも興味深い。もちろん、この新描像により、汎化、カテゴリー化を含む脳理論をいかに展開するか、本論文で示唆された実験との対応をいかにして明確にして検証していくか、など今後なすべきことは多い。とはいえ、本論文は、今後展開されるべき脳理論の新しい方向への基盤をあたえたものとして大いに注目されるものである。

なお、本論文の2,3,4章は金子邦彦との共同研究であるが,いずれも論文の提出者が主体となってモデル化、シミュレーション、理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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