学位論文要旨



No 127737
著者(漢字) 菅原,哲
著者(英字)
著者(カナ) スガハラ,アキラ
標題(和) 光異性化駆動光誘起スピン転移を目指したスピンクロスオーバーシステムの開発と磁性研究
標題(洋) Development of Spin-Crossover System and Study on the Magnetism toward Photoisomerization Driven Light Induced Spin Change
報告番号 127737
報告番号 甲27737
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1150号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 平岡,秀一
 東京大学 准教授 錦織,紳一
 東京大学 特任准教授 野村,貴美
内容要旨 要旨を表示する

物性化学の分野において、光物性、伝導性、磁性などの異なる機能を同時に併せ持つ、多重機能性の発現を目的とした研究開発が盛んに行われている。中でも物質の磁性を光でコントロールする光磁性の研究は、記憶素子などの分子デバイス開発の観点から興味が持たれている。光磁性物質の中でも、遷移金属錯体のスピンクロスオーバー現象を光で制御する、Light-Induced Excited Spin State Trapping (LIESST)現象がよく知られている。LIESSTは、低スピン(LS)状態の錯体にd-d遷移に相当する光を照射することで励起状態を経由し、電子の緩和過程で高スピン(HS)状態にトラップされる現象である。しかしLIESSTを利用した物質は、熱緩和が障害となり動作温度がこれまでに開発されたものでも最高で130 Kと低く、記録素子などへの実用化には困難がある。そのため、室温光誘起スピンクロスオーバー現象の実現が待ち望まれている[1]。

本研究では、構成分子に光異性化分子を用いることで、その光異性化を駆動力とした室温光誘起スピンクロスオーバー転移の実現を目指した、光磁性物質の開発と物性研究を行った。光異性化分子をスピンクロスオーバー錯体に導入する方法には、(1)対イオンとして用いる方法: 「対イオン駆動光誘起スピン転移(CID-LISC)」と、(2)配位子として用いる方法: 「配位子駆動光誘起スピン転移(LD-LISC)」の2種類が考えられる。これまでにLD-LISCの実現を目指す研究はいくつか報告されてきた[2]。しかし、固体中での光異性化が困難、動作温度が低い、といった問題のため、方法(2)による室温光誘起スピンクロスオーバー転移の実現は未だ至っていない。

そこで本研究では、図1に示すように、対イオンに光異性化分子を導入する分子設計(方法(1))を用いて研究を行った。光異性化分子であるA, B(異性体の関係)を対イオンとして含む錯体CA, CBが、ある温度領域でそれぞれHS状態とLS状態をとるとき、A⇔B間の光異性化反応によってCA⇔CB間の変換が起きれば、光によってスピン状態を制御することが可能となる。動作温度領域が室温付近にくるよう分子設計することで、室温光誘起スピンクロスオーバー転移が実現できる。

本論文は全六章から構成されている。第一章では本研究の背景及び目的として、遷移金属錯体を主体とする分子磁性体全般と光異性化分子、及びそれらを複合した分子集合体に関する物性現象について述べている。

第二章では、LD-LISCを室温で実現させることを目的として 、[Fe(stpy)4(NCX)2] (stpy = trans-/cis-4-styrylpyridine, X = S, BH3)に圧力を印加した際の磁気挙動について述べた。[Fe(stpy)4(NCX)2]はRoux等によってLD-LISC実現を目指して合成された錯体であるが、転移温度が100Kと低温であるという問題がある [2]。スピン転移温度を上昇させLD-LISCの動作温度を上昇させる目的で、この錯体に圧力を印加した状態の磁気挙動を調べた。[Fe(trans-stpy)4(NCBH3)2]錯体は240Kでスピンクロスオーバー転移を示すが、0.5GPaの圧力を印加することで360Kまで転移温度を上昇させることに成功した。一方、[Fe(cis-stpy)4(NCBH3)2]錯体は0.5GPaの圧力下では、スピン転移が125Kで起きることが分かった(図2)。つまり0.5GPaの条件下では、配位子がcis-体とtrans-体の錯体は、室温でそれぞれHS状態とLS状態の異なるスピン状態をとるため、室温LD-LISC発現の条件を満たしているといえる。この結果は、これまで報告されてきたLD-LISC錯体に圧力を印加することで室温付近でのLD-LISCが実現する可能性を見いだす結果となった[3]。

第三章では、対イオンの構造異性体がスピンクロスオーバー現象に与える影響について述べている[4]。鉄二価スピンクロスオーバー錯体として知られる[Fe(4-NH2trz)3]X2 (X = monoanion)の対イオンに、o-, m-, p-の3種類の構造異性体を持つトルエンスルホン酸 (tosH)およびアミノベンゼンスルホン酸 (absH)を用いた錯体を合成し、スピンクロスオーバー転移温度に与える影響を磁化率測定と57Fe Mossbauer分光法を用いて調べた。どちらの対イオンも、それぞれの構造異性体によって転移挙動が大きく変化することを示した。また、アミノベンゼンスルホン酸では溶媒の結晶離脱によって転移挙動の変化は見られないが、トルエンスルホン酸を用いた錯体においては、結晶溶媒の離脱前後でも転移挙動が大きく変化することを見出した。この結果は光異性化分子のようなわずかな分子構造の違いによっても転移挙動が大きく変化することを示唆しており、CID-LISC実現の可能性を見出す結果となった。

第四章では、固体中で光異性化を起こす新規のアニオン性スピロピラン(図3)について述べている。スルホ基を導入したスピロピランの合成に成功し、このスピロピランが溶液中及びKBr希釈した固体中でも光異性化することを示した。このスピロピランが固体中でも光異性化する原因として、電子吸引性のスルホ基がMC型に変化したときのカチオン性インドール部分を安定化させているためだと考えられ、DFT計算を行うことによりこの安定性を明らかにすることができた。室温固体中で光異性化するカチオン性のスピロピランはこれまでに報告されているが[5]、アニオン性の室温固体中で光異性化するスピロピランはこれが初めての報告である。

この新たに開発したアニオン性のスピロピランを用いることで、スピンクロスオーバー錯体を初めとした多くのカチオン性の遷移金属錯体と光異性化分子を組み合わせた分子設計が可能となり、分子設計の幅を拡げることができると期待される。

第五章ではCID-LISCの分子設計の下、対イオンに光異性化分子であるアゾベンゼンスルホン酸 (azoSO3H)を導入した鉄三価スピンクロスオーバー錯体[FeIII(qsal)2]azoSO3・MeOH・H2Oを新規に合成し、その結晶構造、磁気挙動、光応答性について述べている。単結晶構造解析より[FeIII(qsal)2]が配位子のπ-πスタッキングにより一次元鎖を形成し、その間にazoSO3が対イオンとして存在していることを明らかにした(図4(左))。この物質は、結晶溶媒としてメタノールと水を含んだままの状態ではHS状態を示すのに対し、結晶溶媒を脱離させると降温過程で260Kの転移温度を持つ1段階のスピン転移を示し、昇温過程で240Kと320Kに転移点を持つ2段階のスピン転移を示す、非常に特異なスピンクロスオーバー現象を示すことが分かった(図4(右))。また結晶溶媒として水二分子持つ錯体では、降温過程270 K、昇温過程320Kに転移点を持つスピン転移を示すことが分かった。このように、[FeIII(qsal)2]azoSO3は溶媒の吸脱着によりその転移挙動が大きく変化することを見出した。さらに今後の展望として、四章で開発したスピロピランを対イオンに用いた[FeIII(qsal)2]SPSO3NO2についてもその磁気挙動について述べている。

[1]J-F Letard, Laurence G-C, et al., Chem. Eur. J. 11, 4582 (2005).[2]C. Roux, et al., Inorg. Chem. 33, 2273 (1994).[3]A. Sugahara, K. Moriya, M. Enomoto, A. Okazawa, and N. Kojima, Polyhedron 30, 3127 (2011).[4]A. Sugahara, M. Enomoto, N. Kojima, J. Phys.: Conf. Ser., 217 012128 (2010).[5]S. Benard and P. Yu, Adv. Mater. 12, 48 (2000).

図1. CID-LISCの概念図

図2 [Fe(stpy)4(NCBH3)2]錯体の磁化率の温度依存性と圧力による効果(左) [Fe(trans-stpy)4(NCBH3)2] (右) [Fe(cis-stpy)4(NCBH3)2]

図3. (上)新規アニオン性スピロピランの光異性化 (下)紫外光照射によるアニオン性スピロピランのUV-visスペクトル変化(KBr中)

図4. (左) [FeIII(qsal)2]azoSO3の結晶構造、(右) [FeIII(qsal)2]azoSO3の磁化率温度依存性(赤:メタノール、水含有、青::結晶溶媒無し)

審査要旨 要旨を表示する

近年、機能性を持つ分子(磁性分子、導電性分子、光応答性分子など)を組み合わせ、様々な外部刺激に対して応答性を持つ多重機能性物質の研究が盛んに行われている。多重機能性物質は、複数の機能性が一つの物質に共存することでそれらの相乗効果による新たな物性現象の発現が期待される。この中で、フント則が保存された高スピン状態とフント則が破れた低スピン状態が基底状態として拮抗するスピンクロスオーバー錯体は、光や温度などの外場に応答して磁性および光学的性質が変化することから機能性分子システムとして関心を持たれている。光でスピン状態を変換するLIESST (Light Induced Excited Spin State Trapping)と呼ばれる現象が多くの鉄錯体で見出されているが、この現象は、スピンクロスオーバー錯体の低スピン状態にd-d遷移に相当する光を照射することで励起状態に遷移した電子が緩和する過程で高スピン状態にトラップされる現象である。しかしながら、高温では、LIESSTによって発現した準安定高スピン状態が低スピン状態へと熱緩和されるため、LIESSTの最高温度はこれまでのところ130Kであり、室温光誘起スピンクロスオーバー転移を発現させる物質開拓が切望されてきた。

本論文は、このような視座に立ち、室温光誘起スピンクロスオーバー転移を発現させる物質開発を研究目的として、様々なスピンクロスオーバー錯体を合成し、配位子や対イオンの構造異性および光異性化を媒介としたスピンクロスオーバー転移の制御に関する研究を系統的に行なったものであり、6章で構成されている。

第1章では研究の背景及び目的として、遷移金属錯体を主体とする光誘起磁性について概観した後、光誘起スピンクロスオーバー現象の現状と課題、室温光誘起スピンクロスオーバー転移の実現のための方法論について述べている。

第2章では、配位子駆動光誘起スピン転移 (Ligand-Driven Light Induced Spin Change (LD-LISC))を室温で実現させることを目的として 、[Fe(stpy)4(NCX)2] (stpy = trans-/cis-4-styrylpyridine, X = S, BH3)を対象にして、スピンクロスオーバー転移の圧力効果について述べている。[Fe(stpy)4(NCX)2]はLD-LISCの実現を目指して合成された錯体であるが、スピン転移温度が低温(100 K)であるという問題があった。そこで、スピン転移温度を上昇させることによりLD-LISCの作動温度を上昇させる目的で、この錯体に圧力を印加し、そのスピンクロスオーバー挙動を調べた。[Fe(trans-stpy)4(NCBH3)2]は240 Kでスピンクロスオーバー転移を示すが、0.5 GPaの圧力を印加することで360 Kまで転移温度を上昇させている。一方、[Fe(cis-stpy)4(NCBH3)2]は0.5 GPaの圧力下では、スピン転移が125 Kで起こることを見出している。即ち、0.5 GPaの条件下では、配位子がcis-体とtrans-体の錯体は、室温でそれぞれHS状態とLS状態の異なるスピン状態をとるため、室温LD-LISC発現の条件を満たしているといえる。この結果は、これまで報告されてきたLD-LISC錯体に圧力を印加することで室温付近でのLD-LISCが実現する可能性を見いだす結果となった。

第3章では、対イオンの構造異性体がスピンクロスオーバー現象に与える影響について述べている。筆者は鉄(II)スピンクロスオーバー錯体として知られる[Fe(4-NH2trz)3]X2 (X = monoanion)の対イオンに、o-, m-, p-の3種類の構造異性体を持つトルエンスルホン酸 (tosH)およびアミノベンゼンスルホン酸 (absH)を用いた錯体を合成し、スピンクロスオーバー転移温度に与える影響を磁化率測定と57Fe Mossbauer分光法を用いて調べているが、どちらの対イオンでも、それぞれの構造異性体によってスピン転移挙動が大きく変化することを見出している。この結果は光異性化による分子構造の変化によってスピン転移挙動が大きく変化する可能性、即ち、対イオン駆動光誘起スピン転移 (Counter-Ion Driven Light Induced Spin Change (CID-LISC))の可能性を示唆するものである。

第4章では、固体中で光異性化を起こす新しいアニオン性スピロピランを合成することに初めて成功し、このスピロピランが溶液中及びKBr希釈した固体中でも光異性化することを示した。このスピロピランが固体中でも光異性化する原因として、電子吸引性のスルホ基が開環体(MC型)に変化したときのカチオン性インドール部分を安定化させていると考え、DFT計算を行うことによりこの安定性を定量的に明らかにした。室温固体中で光異性化するカチオン性のスピロピランはこれまでに報告されているが、室温固体中で光異性化するアニオン性スピロピランは初めての報告である。この新たに開発したアニオン性スピロピランを対イオンに用いることで、スピンクロスオーバー錯体をはじめとした多くのカチオン性遷移金属錯体と光異性化分子を組み合わせた分子設計が可能となり、光応答性分子磁性の設計に関する幅を大きく拡げることが期待される。

第5章では対イオン駆動光誘起スピン転移 (Counter-Ion Driven Light Induced Spin Change (CID-LISC))の分子設計の下、対イオンに光異性化分子であるアゾベンゼンスルホン酸 (azoSO3H)を導入したスピンクロスオーバー鉄錯体,[FeIII(qsal)2]azoSO3・MeOH・H2O (Hqsal = 2-[(8-quinolinylimino)methyl]phenol),を新規に合成し、その結晶構造、磁気挙動、光応答性について述べている。単結晶構造解析より[FeIII(qsal)2]が配位子のπ-πスタッキングにより一次元鎖を形成し、その間にazoSO3が対イオンとして存在していることを明らかにした。この物質は、結晶溶媒としてメタノールと水を含んだままの状態ではHS状態を示すのに対し、結晶溶媒を脱離させると降温過程で260 Kの転移温度を持つ1段階のスピン転移を示し、昇温過程で240 Kと320 Kに転移点を持つ2段階のスピン転移を示す、非常に特異なスピンクロスオーバー現象を示すことを見出している。さらに4章で開発したアニオン性スピロピランを対イオンに用いた錯体,[FeIII(qsal)2]SPSO3NO2、を開発し、この錯体のスピンクロスオーバー転移温度が、アニオン性スピロピラン(SPSO3NO2)の光異性化反応により、150 Kから200 Kに変化することを見出している。この発見は、CID-LISCによる室温光誘起スピンクロスオーバー現象の実現に道を拓くものである。

第6章は、第2章から第5章における特筆すべき重要な成果をまとめた後、今後の展望について述べている。

以上のように、本論文は、室温光誘起スピンクロスオーバー転移を発現させる物質開発を研究目的として、様々なスピンクロスオーバー錯体を開発し、配位子や対イオンの構造異性および光異性化を媒介としたスピンクロスオーバー転移の制御に関する研究を系統的に行なったものであり、分子磁性をはじめとする関連分野への貢献は多大なものがある。

なお、本論文中の研究は全ての章にわたって論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

よって、本論文は博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。

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