学位論文要旨



No 127738
著者(漢字) 谷口,大相
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,ダイスケ
標題(和) アメーバ状細胞の自発的運動を駆動するイノシトールリン脂質自己組織化波の定量的解析とモデル推定
標題(洋)
報告番号 127738
報告番号 甲27738
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1151号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 澤井,哲
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 准教授 福島,孝治
 東京大学 教授 佐野,雅己
 理化学研究所 主任研究員 佐甲,靖志
内容要旨 要旨を表示する

細胞運動は生命現象における最も普遍的な現象の一つである。細胞運動を行うための分子的な基盤は、原核生物と真核生物が分かれる以前から既に存在したと考えられており、以後今日に至るまで単細胞生物、多細胞生物を問わず進化的に広く保存している。細胞運動は、発生、免疫応答、創傷治癒や癌の転移といった、実に様々な場面において非常に重要な役割を果たしていることが知られている。

細胞運動、特に真核アメーバの細胞運動については、細胞性粘菌や好中球を用いた精力的な研究がこれまでになされ、運動に関与する重要な分子が網羅的に特定されてきた。さらに、近年のライブセルイメージング技術の急速な進展によって、これらの分子のいくつかが自己組織化現象を通じて細胞サイズのマクロな「波」を形成し、アメーバ細胞の自発的運動を駆動する様子が克明に観察されるようになった。

本研究ではこれらの状況を受け、自己組織化する細胞運動関連分子の波の時空間動態を定量的に解析し、波のいかなる性質が具体的にどのような細胞運動を惹起するのかについて詳細に調べた。

具体的な研究試料として、細胞性粘菌のアメーバ状細胞を用い、運動制御分子であるフ ォスファチジルイノシトール3,4,5三リン酸(PIP3)の自己組織化波を解析した。波の時空間 動態を解析するに際しては、波の時間位相を抽出し、それを空間に展開した地図を眺めることで、複雑な波の時空間動態を位相特異点の観点から整理整頓することに成功した。波の自発的な核形成とそれが成長した波どうしが細胞内でせめぎ合うことで、波の特異点は消滅と生成を絶えず繰り返しながら細胞内を動き回る。周囲から孤立した特異点は波に回転を生じさせ、逆に対になった特異点は波を並進させる。これらはそれぞれ細胞に局所的な回転と並進の運動性を付与する。細胞運動の自発性は、波の時空間パターンが遷移し続けることによって維持され、波の時空間パターン編成そのものは、波の特異点の自発的な生成消滅移動によって生み出されることが明らかとなった。

PIP3の自己組織化波が、背後にあるシグナル伝達系からどのような分子的調整を受けて実現しているのかを調べるため、本研究ではPIP3自己組織化波の数理モデルを構築し、その挙動を詳細に調べた。その結果、細胞骨格系であるアクチンからPIP3生成反応へのフィードバックの強さが、波の生成頻度と伝播様式を支配していることが示唆された。この理論的予言を検証するため、薬剤処理によるアクチン量の減少と、変異体によるアクチン量の増幅の二通りの場合において波の様子を実験的に調べ、理論と実験が整合性を持つことを確認した。

トップダウン的に構成した数理モデルの妥当性をさらに検証すべく、本研究ではベイズ統計学を用いて実験データからボトムアップ的にモデル推定を行った。推定されたモデルは、数理モデルと類似した相空間構造を有しており、また、薬剤処理や変異体は相空間における異なる分岐構造を持っており、定性的に区別できることが分かった。

実験データを可能な限り利用し、モデルの検証に役立てるという観点から、本研究ではさらに二つの解析を行った。一つは、PIP3波の波面速度と曲率の関係を計算し、そこからPIP3波の伝播に最低限必要な波の核サイズを見積もることに成功した。アクチンからのフィードバックを弱くするとこのサイズが大きくなることが分かり、これは数理モデルから説明し得えることであり、モデルの妥当性を支持している。もう一つの解析は、PIP3波の位相ダイナミクスの特定である。特に、PIP3の波を伝える場の性質が興奮性なのか振動性なのかを位相場の観点から判別することに挑戦したが、解析結果は画像処理や位相抽出のプロトコルに大きく依存するため、断定的なことが言えるまでには至らなかった。

審査要旨 要旨を表示する

谷口大相氏の博士論文「アメーバ状細胞の自発的運動を駆動するイノシトールリン脂質自己組織化波の定量的解析とモデル推定」は、細胞の複雑な形状変化と運動の背景にある自己組織化ダイナミクスの解明を目指したものである。本論文は10章、218ページからなり、第1章は序論、第2章は背景、第3章は実験系の装置、材料の解説にあてられている。第4章では波の測定と解析結果、第5章ではモデル解析、第6章ではモデルの統計推定について詳しく記されている。そして第7章では、波の速さと曲率の関係からモデルについての検証をおこない 第8章では位相方程式としての描象を統計推定している。そして第9章でまとめと結論が述べられ、第10章ではそれに関する論考と将来展望が述べられている。

第2章の前半では、真核細胞の運動に関する、アクチンの重合、フィラメント形成とその調節についての分子生物学的知見について解説し、走化性運動における極性形成にフィードバックが存在しており、これと自発的運動との関係や、アクチンの波についてこれまでの知見について述べている。章の後半では、細胞運動の数理的研究についてのこれまでの流れを述べ、比較的単純な細胞の形状についての理解が進んでいることが述べ、アメーバ状細胞のように複雑な形が依然として謎につつまれているという学問分野の状況を確認している。

第3章では、実験対象としたキイロタマホコリカビDictyostelium discoideum(通称:細胞性粘菌)について述べ、本研究で利用した可視化プローブ、変異体の内容、培養方法、顕微鏡の測定系について述べられている。

第4章では、細胞性粘菌の基質に接着した膜上を伝わるフォスファティジルイノシトール3リン酸、とF-アクチンの波について、まずその測定と解析方法を述べ、続いて位相とその特異点の解析結果、波が細胞端に到達した後の膜の変形のパターンについての概要を述べて、さらに波の自発的生成の観察結果、その頻度がPI3キナーゼの阻害剤やアクチン重合の阻害剤によって顕著に低下することを報告している。4章の後半では、これらの波のパターンについてより詳しい解析を行い、位相の特異点が出現する機構を、波と波の相互作用の位相依存性を調べることで、位相が不連続的にリセットされる、興奮系特有の現象として理解できることを突き止めている。さらに、膜の回転や反転が位相の特異点の数とその周りの位相の空間的配置のキラリティー(いわゆるトポロジカルチャージ)によって決まること、さらに特異点の生成と消滅によって、そうした運動モード間の遷移が説明できることを実験データの解析を中心に詳細に述べている。章の最後では、発火頻度や興奮性が変化していると思われる条件として、いくつかの変異体と細胞が接触する基盤にたいする依存性について述べ、こうした知見からモデルの定式化を視野に入れて、PIP2, PIP3の拡散係数について、FRAP(Fluorescence Recovery After Photobleaching)法によって見積もっている。

第5章では、PIP2,PIP3の代謝調節についての先行研究からの諸知見をもとに、反応拡散方程式を導出し、ヌルクライン解析から、系が興奮性を示しやすいことを明らかにしている。さらに、波が細胞端に到達した際に、PIP3依存的に膜が延長するという測定結果に基づき、界面を記述するのに一般的に用いられる計算手法であるフェイズフィールド法によって、反応拡散と膜の変形がカップルした方程式を導出し、その解析から細胞端における波の消失や反転が膜の変形の度合いにいかに依存するかを明らかにしている。章の後半では、導出した数理モデルの数値計算を行い、細胞形状が変形しない条件における波の動態について、モデルシミュレーションから予想される振る舞いと実験データとの比較を行い、数理モデルが少なくとも観察されるほとんどすべてのパターンを再現できることを確認している。

第6章では、逆に実験データをもとに、反応拡散方程式を統計推定している。前半では推定するパラメータの事前分布について述べ、また事後分布の推定とサンプリングのアルゴリズムについて述べている。後半では、実際のデータから得られたパラメータに基づいて、そのヌルクラインの構造を解析し、野生株と変異体のデータを比較して、興奮性の消失が双安定性の出現をともなっていることを導いている。またアクチン重合を阻害した条件下において推定されるヌルクライン構造は、第5章でアドホックに設定した数理モデルにおけるヌルクライン構造と同様の構造をもっていることを示している。

第7章は、モデルのさらなる検証をおこなうため、反応拡散場のモデル系で予想される波の曲率と進行速度との関係を示し、これと実験データから得られた関係も示し、比較をおこない、第8章ではさらに縮約されたモデルとして位相方程式を考え、これについても統計推定をおこない、これらの結果を踏まえ第9章で波の生物学的意義の考察、特にランダムワークと餌の探索行動にとっての重要性、接着による足場に依存した動きや、物体への接触による細胞運動の変調、さらには化学物質の勾配をのぼる運動(いわゆる走化性)にたいする影響について議論し、今後の展望、将来に残された問題について記述している。

以上のように、本論文は、アメーバ状細胞の形状全てを説明するものではないが、粘菌の増殖期から飢餓の初期において典型的にみられる、比較的大きな膜の形状変化について、その背後にあるアクチン重合とPIP3の時空間的パターンについて詳細な解析をおこない、数多くの新発見を含んでいる。こうした波は、近年、粘菌にとどまらず、ヒトを含めた動物細胞の多くの細胞腫で観察されており、波の時空間的ダイナミクスによる形状の制御は、真核細胞に普遍的にあると考えられる。本論文の内容は、そうした一般性のある現象にたいして、これまでなかった定量的かつ詳細な解析をおこない、現象論的な数理モデル解析の助けをかりて、観察される時空間パターンの自己組織化にとって重要な性質を抜き出すことに成功している。加えて、数理モデル解析については、応拡散波によって境界が変形し、それによってさらに波が変調されるという、非平衡系の動力学研究一般に対しての新しい問題を提示している。なお、本論文中の第2章から4章は、澤井哲、北原麻衣、大貫武彦との共同研究、第5章は石原秀至との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって、実験解析、モデル解析をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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