学位論文要旨



No 127742
著者(漢字) 伊藤,聖
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,サトシ
標題(和) パイ中間子錫121原子の深い束縛状態の精密分光
標題(洋) Precision spectroscopy of deeply bound states in the pionic 121Sn atom
報告番号 127742
報告番号 甲27742
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5745号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 浜垣,秀樹
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 教授 坂本,宏
 東京大学 講師 井手口,栄治
 東京大学 教授 久保野,茂
内容要旨 要旨を表示する

π中間子原子の深い束縛状態は1996年に、T. Yamazaki らによって初めて発見された。彼らはドイツの GSI 研究所において (d,3He) 反応を用いて精密分光実験を行い、π中間子鉛 207 原子の 2p 状態を観測した。その後、彼らによって同様の実験が鉛 206 標的に対しても行われ、π中間子鉛 205 原子の 1s および 2p 状態の同時観測成功した。

2001年には、K. Suzuki らによって同様の実験が錫の同位体に対して行われ、π中間子錫123、119、115 原子の深く束縛された 1s 状態の束縛エネルギーと幅が精密に測定された。彼らはこの測定値から原子核密度中での光学ポテンシャルのパラメーターである、アイソベクトル散乱長 b1 を導出し、理論計算に基づく関係式を用いて、原子核密度中でのカイラル凝縮量の変化を定量的に求めることに成功した。

このように、π中間子原子の深い束縛状態を精密に測定する事によって、我々は自発的に破れたカイラル対称性の秩序変数であるカイラル凝縮量を知る事ができる。このため、深く束縛されたπ中間子原子は非常に興味深い実験系である。ただ、原子核密度中でのカイラル凝縮量の変化は、有限密度中での b1 パラメーターと真空中での b1 パラメーターの比率で表される。現時点では、原子核密度中の値に対する誤差が真空中の値に対する誤差に比べ非常に大きく、原子核密度中でのより精度の高い結果が待ち望まれている。

そこで、我々は理化学研究所の RIBF 施設における系統的なπ中間子原子の精密分光実験を計画している。RIBF 施設において実験を行う利点は、ビームの強度が GSI に比べ10倍高いことである。ただ、GSI に劣る点もあり、それはビームの運動量広がりが約3倍悪いことである。そこで我々は分散整合という手法を用いて、この運動量広がりが最終結果に影響しないようにする。

この分散整合のために新しいイオン光学の設計を行い、実際にπ中間子原子の深い束縛状態を測定する実験を通して、RIBF 施設での精密分光実験の可能性を検証した。実験は2010年10月に約1週間という比較的短い期間で行った。実験で得られたデータを詳細に解析することによって、我々はπ中間子錫121原子の深い束縛状態である 1s、2p、2s 状態を同時に測定することに成功した(図1を参照)。π中間子錫121原子の深い束縛状態を測定したのは、我々の実験が初である。

また、我々は束縛状態の角度依存性の測定にも成功した(図2を参照)。これまで深い束縛状態の角度依存性が観測された例はなく、我々の実験によって初めて指摘された重要な結果である。実験で得られた結果を理論計算と照らし合わせた場合、1s 状態の角度依存性は誤差の範囲内で理論と一致するが、2p 状態の角度依存性は明らかに理論計算と異なっている。

得られた束縛状態のエネルギーと幅は以下の通りである。

B1s = 3.853 ± 0.013 (statistical) + 0.035/- 0.046 (systematic)

Γ1s = 0.363 ± 0.033 (statistical) + 0.109/- 0.111 (systematic)

B2p = 2.345 ± 0.023 (statistical) + 0.046/- 0.051 (systematic)

B2s = 1.368 ± 0.024 (statistical) + 0.046/- 0.062 (systematic)

以上のように、我々は系統誤差を求め、RIBF 施設における実験では何が系統誤差の原因になるかを調査した。束縛エネルギーの決定精度を向上させるためには、スペクトロメーターの分散を精度よく測定することが鍵となる。また、幅に関しては実験分解能とスペクトロメーターのアクセプタンスを直に測定することが重要であることが示された。また、得られた実験分解能は 0.50 ± 0.05 と見積もられ、分散整合の完全な達成も次期実験の課題である。しかしながら、上で述べた事柄はすべて実現可能なものなので、今後の RIBFでの実験では分解の向上が予想され、自発的に破れたカイラル対称性の部分的回復に関する精度の高い情報が得られると期待される。

図1:π中間子錫121原子の束縛状態。

図2:束縛状態の角度依存性

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなる。第1章はイントロダクション、第2章は実験の概要と使用実験装置の説明、第3章はイオン光学、特に高運動量分解能を実現する分散整合についての説明、第4章はデータ解析、第5章は実験結果、第6章は結果についての議論、考察、第7章はまとめ、である。

π中間子原子の深い束縛状態を精密に測定する事によって、自発的に破れたカイラル対称性の秩序変数であるカイラル凝縮量を知る事ができるため、深く束縛されたπ中間子原子は非常に興味深い実験系である。具体的には、深く束縛された 1s 状態の束縛エネルギーと幅の測定値から、原子核密度中での光学ポテンシャルのパラメーターであるアイソベクトル散乱長 b1 を導出し、理論計算に基づく関係式を用いることで原子核密度中でのカイラル凝縮量の変化を定量的に求めることが出来る。

π中間子原子の深い束縛状態は1996年にT. Yamazaki らによって初めて発見された。ドイツの GSI 研究所における (d,3He) 反応を用いた精密分光実験により、π中間子鉛 207 原子の 2p 状態が観測され、さらに、π中間子鉛 205 原子の 1s および 2p 状態の同時観測がなされた。2001年に、K. Suzuki らによる錫の同位体に対する実験において、π中間子錫123、119、115 原子の深く束縛された 1s 状態の束縛エネルギーと幅が精密に測定され、原子核密度中でのカイラル凝縮の変化を定量的に求められた。

しかしながら、カイラル凝縮の原子核密度中での誤差は依然大きく、より精度の高い結果が待ち望まれている。そこで、理化学研究所の RIBF 施設における系統的なπ中間子原子の精密分光実験が計画された。RIBF 施設を用いる利点は、ビームの強度が GSI に比べ10倍高いことである。ただ、ビームの運動量広がりが約3倍大きいが、分散整合という手法を用いることで、この運動量広がりが最終結果に影響しないようにすることが原理的に可能である。

この分散整合を実現するために新しいイオン光学の設計を行い、実際にπ中間子原子の深い束縛状態を測定することで、RIBF 施設での精密分光実験の可能性を示した。実験は2010年10月に約1週間という比較的短い期間でおこなわれ、得られたデータを詳細に解析することで、π中間子錫121原子の深い束縛状態である 1s、2p、2s 状態を同時測定に成功した。π中間子錫121原子の測定は、この実験が初である。

得られた束縛状態のエネルギーと幅は以下の通りである。

B1s = 3.853 ± 0.013 (統計) + 0.035/- 0.046 (系統)

Γ1s = 0.363 ± 0.033 (統計) + 0.109/- 0.111 (系統)

B2p = 2.345 ± 0.023 (統計) + 0.046/- 0.051 (系統)

B2s = 1.368 ± 0.024 (統計) + 0.046/- 0.062 (系統)

また、束縛状態の角度依存性の測定にも成功した。これまでそのような例はない。理論計算と比較すると、1s 状態の角度依存性は誤差の範囲内で理論と一致するが、2p 状態の角度依存性は明らかに理論計算と異なっている。

しかしながら、課題も残る。実験分解能は 0.50 ± 0.05 と見積もられ、分散整合は完全には達成されていない。束縛エネルギーの決定精度の向上には、スペクトロメーターの分散の精度よい測定が鍵である。また、幅については実験分解能とスペクトロメーターのアクセプタンスを直に測定することが重要である。しかしながら、これらすべては実現可能で、今後の RIBF での実験では、自発的に破れたカイラル対称性の部分的回復に関する精度の高い情報が得られると期待される。

以上、本研究により得られたπ中間子錫121原子における深いパイ中間子束縛状態の束縛エネルギーの決定と角度分布の測定は新しい結果である。また、今後RIBFを用いておこなわれる予定の系統的な実験研究の先駆けとしても、高く評価できる。

なお、本論文の基になった実験データは複数名との共同実験研究により取得されたが、論文提出者は、実験の企画・遂行において中心的な役割を果たし、また、本論文に用いられているデータの解析、まとめ、考察は、本人が中心となって進めたものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク