学位論文要旨



No 127744
著者(漢字) 佐野,哲
著者(英字)
著者(カナ) サノ,サトシ
標題(和) 重心系衝突エネルギー7TeVでの陽子+陽子衝突におけるマルチストレンジ粒子生成
標題(洋) Multi-strange Particle Production in Proton+Proton Collisions at √s=7 TeV
報告番号 127744
報告番号 甲27744
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5747号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 早野,龍五
 東京大学 准教授 横山,将志
 東京大学 准教授 山下,了
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 教授 相原,博昭
内容要旨 要旨を表示する

量子色力学(QCD) はグルーオンをゲージ粒子とした強い相互作用を記述する基礎理論である。QCD における2つの重要な性質として、" カラーの閉じ込め" と"漸近的自由"が挙げられる。クォークやグルーオンは通常の状態だとハドロンの内部に閉じ込められているが、非常に高温高密度な環境下において原子核物質は、クォークやグルーオンが閉じ込めから解放された新たな物質に転移すると考えられている。この物質相を"クォーク・グルーオン・プラズマ"(QGP) [1] と呼ぶ。

QGP 生成に関係すると考えられているいくつかの結果が、ブルックヘブン国立研究所の相対論的重イオン衝突器(RHIC) で行われた金+金衝突実験で得られた[2]。QGP 生成には重イオン衝突が適していると考えられているが、それは原子核に広がりがあり、高いエネルギー密度に達している体積が大きいからである。しかし高いエネルギーにおける陽子+陽子衝突においても高いエネルギー密度が生成される可能性がある。陽子+陽子衝突におけるQGP 探索の最初の試みは、フェルミ国立研究所のテバトロン加速器を用いた√s=1.8 TeV の陽子+反陽子衝突実験において行われた(E735 実験[3])。高い粒子多重度イベントにおいて、QGP 生成の兆候とも考えられるかもしれない結果が得られている。2010 年にはヨーロッパ原子核研究機構(CERN) の大型ハドロン加速器LHC において√s=7 TeV の陽子+陽子衝突実験が行われた。E735実験よりも高エネルギーである√s=7 TeV の陽子+陽子衝突ではQGP 生成が期待できる。

QGP 生成の特徴として、ストレンジネス粒子の増加が挙げられる。そこでLHC-ALICE 実験において非ストレンジ粒子からマルチストレンジ粒子までの収量の測定を行った。測定したのはπ, K, p, K0s, Λ, Ξ, Ω 粒子で、Inner Tracking System (ITS) とタイムプロジェクションチェンバー(TPC) による荷電粒子の飛跡検出と、TPC と飛行時間測定器(TOF) による粒子識別を用いて測定した。K0s , Λ, Ξ, Ω は弱い相互作用で崩壊するため、飛程は数cm 程度である。表1 に示した崩壊チャネルの生成物を測定することにより親粒子の収量や運動量を求める。具体的には、飛跡の間の距離や飛跡とビームの衝突点の間の距離などの幾何学的情報から、ある程度適切な粒子の組み合わせを決め、その組み合わせた飛跡について相対論的不変質量を組み、その分布のピークから収量を求めた。

図1 はΞ- 粒子の横運動量スペクトルを粒子多重度に分けて示したものである。その他の粒子も全て粒子多重度ごとに分けて横運動量スペクトルを求めた。Tsallis 関数[4] でスペクトルにフィットを行い、そのフィッティングパラメータから、積分した収量である単位ラピディティ当たりの収量dN/dy を割り出した。またフィッティングパラメータの1つであるスペクトルの傾きと、流体力学モデル[5] を用いて、運動学的凍結温度Tf と流体の表面の速度に対応する量βs を求めた。その結果どの粒子多重度においても共通のTf ~110 MeV という値を得た。一番低い粒子多重度イベントにおいてもβs ~0.3 という値になり、粒子多重度が上がるにつれてβs が約0.7 まで上昇するという結果が得られた。√s=200 GeV の陽子+陽子衝突ではβs ~0 であった。陽子+陽子衝突においてβs がはっきりと有限の値を持つのは√s=7 TeV の実験で初めて得られた傾向であり、高いエネルギーでの陽子+陽子衝突における生成粒子の集団的膨張を示唆するものと考えられる。

図2 はスペクトルより得られた各粒子の収量より求めた粒子比を、各粒子多重度に分けてプロットしたものである。化学凍結モデル[6] でフィットすることにより化学凍結温度Tch, クォークポテンシャルμq 、ストレンジクォークポテンシャルμs、ストレンジネス飽和係数γs を求めた。図3 がフィッティングの結果で、どの粒子多重度でもTch=150-160 MeV, γs=0.5-0.6 という結果が得られた。一番高い粒子多重度のイベントで特別な振る舞いが見えることはないが、Tch とγs は粒子多重度が上がるにつれて多少上昇するという結果が得られた。

図2 における化学凍結モデルとの比較を見てわかるとおり、ストレンジバリオン(Λ, Ξ, Ω )の生成量が多いことが分かる。ストレンジバリオンの生成量の増加はQGP が生成されるような原子核+原子核衝突では観測されているが、図2 に見られるようなストレンジバリオンのみの化学凍結モデルからのずれは√s=7 TeV の陽子+陽子衝突によってで初めて見られた結果である。

今回得られた結果より、LHC エネルギーのような高いエネルギーでの陽子+陽子衝突において、ストレンジ粒子の生成メカニズムに対するさらなる研究が必要であるといえる。

[1] J.C. Collins and M.J. Perry, Phys. Rev. lett. 30 (1975) 1353.[2] STAR Collaboration Phys. Rev. Lett. 105(2010) 022301[3] T. Alexopoulos and et. al, The E735 collaboration, Nucl. Phys. A 498, 181c (1989).[4] C. Tsallis, J. Stat. Phys. 52, 479 (1988).[5] T. Gsorgo and B. Lorstad, CU-TP-717, hep-ph/9509213, LUNFD6/(NFFL-7082)-Rev.1994[6] I.G. Bearden and et al, The NA44 collaboration, Phys. Rev. C 66, 044907 (2002).

表1: K0s ,Λ, Ξ, Ω の基本的な情報。

図1: √s=7 TeV の陽子+陽子衝突におけるΞ- 粒子の横方向運動量分布。

図2: √s=7 TeV の陽子+陽子衝突における粒子比と化学凍結モデルフィットとの比較。

図3: √s=7 TeV の陽子+陽子衝突における化学パラメータの粒子多重度依存性。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は英文で書かれ、本文8章と補章6節から構成されている。第1章は序論で、この研究の背景特に高エネルギー原子核衝突実験によるクォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)研究と、本論文の動機がまとめられている。第2章はこの研究の背景となる高エネルギー陽子および原子核衝突反応の基礎と、これまでに得られた実験的知見のレビューにあてられている。第3章では、本論文のデータ収集に用いられたLHC加速器におけるALICE測定器が紹介され、第4章では実験で用いた陽子ビームの条件などがまとめられている。第5章でデータ解析の詳細が述べられ、第6章で実験結果が示され、第7章でその物理的意味が議論されている。第8章は論文のまとめと今後の課題にあてられ、補章で解析の詳細が補足されている。

この論文の主題は、CERN研究所のLHC加速器での重心系エネルギー7 TeV(7×1012eV) の陽子+陽子衝突で、ストレンジクォークを含む粒子の生成スペクトルを測定し、その物理的意味を考察したものである。LHC加速器は2010年に稼働を開始した世界最高エネルギーの衝突ビーム型加速器で、本論文で用いた実験データは、LHCに設置された大型測定器ALICEを用いて2010年に収集された。

量子色力学QCDによれば、原子核を十分に高いエネルギーで衝突させると、陽子・中性子・π中間子などからなる核物質から、クォークとグルーオンからなる新たな高温物質相「クォーク・グルーオン・プラズマ」(QGP)に転移すると考えられている。米国の相対論的重イオン衝突型加速器RHICにおいて行われた先行研究(核子あたり0.1TeV)では、すでにQGP生成を強く示唆する実験結果が得られており、今後はLHCでの重イオン衝突実験により、QGPの詳細研究が進展する予定である。

高エネルギー原子核衝突では、原子核大きな体積において、熱平衡に近い状態を作ることができ、QGP生成に適していると考えられる。これに対し、陽子+陽子衝突は体積が小さいのでQGP生成に適さないと考えられてきたが、最近、米国のテバトロン加速器(重心系エネルギー1.8 TeVの陽子・反陽子衝突)では粒子多重度が高い事象でQGP生成の徴候とも理解できる結果が得られ、LHCのエネルギー領域では、陽子+陽子衝突でもQGPが生成されるのではないかという期待があった。

QGP生成の特徴的な信号として、ストレンジクォークを含む粒子の収量の増加が挙げられる。そこで論文申請者らは、ALICE測定器を用いて非ストレンジ粒子(π,p)とストレンジ粒子(K, Λ, Ξ, Ω)の収量を測定した。

この実験を行う上の要点は、タイムプロジェクションチェンバー (TPC) による荷電粒子の飛跡検出・運動量測定と、TPCと飛行時間測定器 (TOF) を組み合わせた粒子識別である。また、弱い相互作用によって数cmの飛程で崩壊するK0s, Λ, Ξ, Ωについては、崩壊で生成される荷電粒子の飛跡間の距離や、飛跡とビームの衝突点の間の距離などの幾何学的条件を課した上、相対論的不変質量を求めた。

粒子の収量(単位ラピディティーあたりの収量dN/dy)は、粒子の横運動量pT分布を、Tsallis関数でフィットすることによって求めた。Tsallis関数は、粒子発生に関する流体力学モデルで、先行研究でも広く用いられている関数である。フィットの結果、粒子の収量に加え、運動学的凍結温度がTf~110MeVと得られ、また、流体の表面速度βsが粒子多重度とともに0.3から0.7に増加するという結果が得られた。βsが有限値を持つということは、衝突で発生した「流体」が横方向に膨張し、その表面から粒子が発生しているという描像で理解できる。陽子+陽子衝突で有限のβsが観測されたのは、本実験が初である。

次に、粒子の収量の比率(Λ/π, Ξ/π, Ω/πなど)を求め、これを化学凍結モデルでフィットした。ほとんどの粒子収量比率は、化学凍結モデルと良い一致を示したが、ストレンジバリオン(Λ, Ξ, Ω)の収量は、化学凍結モデルの予想よりも1 . 5 ~ 2 倍高いことが見出された。また、フィットから、化学凍結温度がTch=150-160 MeV,ストレンジネス飽和係数がγs=0.5-0.6と求められた。

陽子+陽子衝突において、化学凍結モデルから大きくずれたストレンジバリオンの収量が観測されたのは、本実験が初である。しかしγsは1よりも小さく、重心系エネルギー7 TeVの陽子+陽子衝突でQGPが生成していると結論することはできない。今後高エネルギー陽子+陽子衝突におけるストレンジ粒子生成メカニズムに対するさらなる研究が必要である。

このように、この博士論文は最高エネルギーの陽子+陽子衝突実験で、ストレンジ粒子の生成を初めて測定した結果をまとめたもので、その学術的価値は高い。実験はALICEという大きな国際研究グループで行われたものであるが、論文申請者は本論文に不可欠な測定器であるTPCの校正を行い、本論文に記載されたすべての解析を行った。また、本論文の内容を申請者の学位申請論文とすることについては、ALICE実験グループの代表者の承諾が得られている。このことから、本人の寄与が十分あり、博士号を授与するのに十分な内容であると、審査員一致で判定した。

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