学位論文要旨



No 127768
著者(漢字) 古谷,峻介
著者(英字)
著者(カナ) フルヤ,シュンスケ
標題(和) 低次元量子スピン系における電子スピン共鳴の理論
標題(洋) Theory of electron spin resonance in low-dimensional quantum spin systems
報告番号 127768
報告番号 甲27768
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5771号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 髙田,康民
 東京大学 教授 金道,浩一
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 教授 榊原,俊郎
内容要旨 要旨を表示する

電子スピン共鳴(Electron Spin Resonance, ESR) は電子スピンの集団励起のダイナミクスを調べるために非常に有効な実験原理である。一般にESR 実験では、一様静磁場下における振動電磁波の吸収スペクトルを測定する。線形応答理論によれば、この吸収スペクトルは一様磁化Stot =Σj Sjの動的相関関数と関連付けられる。久保による線形応答理論の提唱は1957 年であるが、ESR の理論的研究はそれよりも以前からなされている。実際、ESR を含む磁気共鳴の一般的な理論として有名な、久保・冨田理論(1954 年)は線形応答理論の雛形になったとも言える。初期のESR の理論は高温展開に基づいており、必然的に、スピン間の相互作用が弱い系にしか適用できない。したがって、化学や生物学、医学などにおけるESR の応用的研究において、初期のESR の理論は成功を収めている。しかし、凝縮系物理、とくに強相関電子系における新奇物性の探索の観点からは、これらの理論は不十分であった。

低次元量子スピン系は、量子効果の非常に強いMott 絶縁体であり、強相関電子系の代表的な系である。特に1 次元量子スピン系は、絶対零度においても長距離秩序を持たないなど、非常に量子効果が強い。2002 年に押川とAffleck は朝永・Luttinger 液体によるダイアグラム展開に基づき、1次元量子スピン系におけるESR の非常に一般的な理論を提唱した。押川・Affleck 理論は、S = 1=2反強磁性Heisenberg 鎖に限られるが、その低温におけるESR 吸収ピークの線幅やずれの温度・磁場依存性に関する統一的な理解を与えた。これ以降、低次元量子スピン系におけるESR による実験的研究が、以前にも増して活発に行われるようになった。低次元量子スピン系におけるESR の理論的研究における主要な課題は、「多彩な系におけるESR の解析」および「基本的な模型においてスピン間相互作用がESR スペクトルに及ぼす影響の詳細な解析」の2 点である。前者は、新奇な物性の開拓を目指す上で重要である。しかしそのためには、後者のような問題意識を持った究が必要である。簡単な模型におけるESR スペクトルの振る舞いの正確な理解なしに、複雑な相互作用を持つ物質のESR の正確な解析は不可能である。本学位論文では、非常に基本的な強相関系である(擬)1 次元量子スピン系において、可能な限りad hoc な仮定を排除したESR の理論を議論する。本学位論文の内容は大きく3 つのテーマ(1) 中間温度領域における半古典的なESR スペクトル(2) ギャップのあるスピン系の低温におけるESR シフト(3) 非磁性不純物をドープした磁場誘起ギャップ系における境界束縛状態のESR への影響に分けられる。

(1)中間温度領域における半古典的なESR スペクトル

一般に、大きさS のスピンを持つ反強磁性Heisenberg 模型は「くりこまれた古典領域」と呼ばれる温度領域を持つ。Chakravarty, Halperin, Nelson らは、正方格子上のHeisenberg 模型を(2+1)次元非線形シグマ模型を用いて表すことにより、この温度領域を議論した。上記の温度範囲は短距離秩序が十分発達するほどの低温かつエネルギー準位間隔が温度に比べて無視出来る程度の高温である。非線形シグマ模型の最も基本的な場はn(x) 〓 (-1)xSx/S であるが、くりこまれた古典領域では、場n(x) を古典的な単位ベクトルとみなす近似が成り立ち、量子効果はすべて結合定数にくりこまれる。そこで本研究では、有効交替磁場を持つ反強磁性Heisenberg 鎖に対して、上記のくりこまれた古典領域における古典近似を行い、モンテカルロ法と動力学計算によって、数値的にESR スペクトルを得た。右図にS = 10 の場合のESR スペクトルを示す。高温極限で支配的な常磁性共鳴(ω'= 0.15 のピーク) はこの領域ではほぼ見えず、ω'=√(H'2 + h'2) の一様磁場(H')・交替磁場(h') 依存性を持つ、反強磁性スピン波によるピークが見つかった。このピークは「くりこまれた古典領域」の高温側および低温側のどちらの領域においても強度が弱まるため、この中間温度領域に特有の振動モードである。

(2)ギャップのあるスピン系の低温におけるESR シフト

(1) では大きなスピンS を持つHeisenberg 鎖を考えた。実験的にはS = 1/2 やS = 1 を持つ、1 次元性の強い磁性絶縁体が重要である。最近のS = 1 Heisenberg 鎖化合物Ni(C5H14N2)2(PF6)(NDMAP と略記) [T. Kashiwagi et al., Phys. Rev. B 79, 024403 (2009)] や、S = 1/2 梯子化合物(C5H(12)N)2CuBr4 (BPCB と略記) [E. C izmar et al., Phys. Rev. B 82, 054431 (2010)] における詳細な高磁場ESR 実験をもとに、これらの実験により得られた共鳴周波数の磁気依存性を数値的・解析的手法により詳細に調べた。左上図はKashiwagi らによるNDMAP のESR の実験結果と本論文の解析(量子モンテカルロ(QMC) およびform factor perturbation theory (FFPT)) との比較である。量子モンテカルロによる数値計算だけでなく、可解な場の理論のまわりの摂動計算を行い、ESR の共鳴周波数を解析的に得た。これらの理論計算は実験結果をよく説明し、マグノン間の斥力相互作用が共鳴周波数に及ぼす影響を明らかにした。

右上の(a,b,c) 図は、C izmar らによるS = 1/2 梯子化合物BPCB の共鳴周波数(°, + 印) と温度依存密度行列くりこみ群による計算結果(実線、破線) の比較である。一般に、ESR は異方的相互作用に敏感であり、各異方的相互作用毎に、定性的にも異なる振る舞いを示す。この比較により、我々が仮定したハミルトニアン、とくに異方的相互作用が妥当であったことがわかる。BPCB の異方的相互作用を詳細に決定するために有効な今後の実験設定の提案も行った。

(3)非磁性不純物をドープした磁場誘起ギャップ系における境界束縛状態のESRに及ぼす影響

強相関系における不純物問題は凝縮系物理の重要なテーマのひとつである。量子スピン系においても例外ではなく、非磁性不純物を1 次元量子スピン系にドープした場合の、熱力学量への影響が詳しく調べられている。不純物濃度が十分低い場合、1 次元量子スピン系において非磁性不純物はスピン鎖を切る境界の役割を果たす。多くの場合、境界の影響は種々のパラメータの補正としてのみ現れる。しかし以下で考える模型では、境界に局在した状態が現れ、かつESR 測定で明確に観測できることがわかった。

近年、交替的なDzyaloshinskii-Moriya (DM) 相互作用を持つ量子スピン鎖化合物のESR 測定が活発に行われている。例えば、KCuGaF6 [I. Umegaki et al., Phys. Rev. B 79, 184401 (2009); Physica E 43, 741 (2011)] やCu-PM [S. A. Zvyagin et al., Phys. Rev. Lett. 93, 027201 (2004); Phys. Rev. B 83, 060409(R) (2011)] などが挙げられる。S = 1/2 反強磁性Heisenberg 鎖はゼロ磁場下でギャップレスな励起を持つ。しかし、交替的DM 相互作用がある場合、一様な磁場下で有効交替磁場を生じるため、最低励起状態への励起ギャップが生じる。低温において、この系はmassive な場の理論のひとつであるsine-Gordon 模型で定量的に記述できることが知られている。したがって、磁性不純物の影響は、この場の理論に含まれる量子化された質量を持つ粒子の散乱問題を解くことにより議論できる。幸い、境界のあるsine-Gordon 模型は適切な境界条件の下で可解であるため、非摂動的に散乱問題を解くことができる。その結果、実験的に実現している条件下で、境界束縛状態という境界に局在した自由度が現れることを見出した。

上図は、Umegaki らによって得られたKCuGaF6 の共鳴周波数の磁場依存性のデータと、境界のあるsine-Gordon 模型によるESR スペクトルのピーク位置の比較である。多くの共鳴モードはバルクのsine-Gordon 模型の粒子による励起と同定されているが、一部の共鳴モード(U1,U2,U3) はその起源が不明のまま未解決であった。これら"unknown modes" の共鳴周波数と、境界束縛状態を含む励起モードの共鳴周波数は定量的に同一の磁場依存性を示すことから、これらが同一のものである可能性が非常に高い。境界束縛状態自体は、場の理論・統計力学の分野でよく知られているものであるが、実験的な発見は初めてであり、今後の高精度な実験により詳細に調べられることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。

第1章は、序論であり、本研究で展開される研究の背景となる電子スピン共鳴と関連する実験状況の概要が述べられている。

第2章は、本研究のテーマである電子スピン共鳴をスピンの運動の形態から理解するために、roter modelを導入し、スピンの運動を古典的に表現して、そのモデルの適応範囲を丁寧に調べ、大きなスピンSの系ではこのモデルが適用される温度領域があることを明らかにしている。そして、このモデルを用いて、S=2やS=10の場合の電子スピン共鳴の吸収スペクトルを求め、そこでの交替磁場によるピークの存在を示し、外部磁場への依存性を明らかにしている。この部分は、すでに論文として出版されている(Phys. Rev. 83(2011)224417.)。

第3章は、ギャップのあるスピン系の代表的系である一次元S=1反強磁性ハイゼンベル磁性体とS=1/2ラダー格子での電子スピン共鳴の吸収ピークが常磁性共鳴の位置からどのようにずれるかに関して非線形シグマ模型を通して解析している。ここでは、Form factor展開なる新しい方法を考案し、磁場中の励起に関して統一的な描像を得、共鳴周波数の磁場依存性を求めることに成功している。これらの結果を対応する物質での実験結果と詳細な対応も調べている。この部分は、すでに論文として出版されている(Phys. Rev. B84 (2011) 180410(R), Phys. Rev. Letter 108 (2012) 037204 )。

第4章では、不純物がある場合の端点における不純物モードの電子スピン共鳴の吸収ピークへの効果を調べている。いくつかの一次元S=1反強磁性ハイゼンベル磁性体物質の電子スピン共鳴実験において、基本的な励起である、ソリトンやブリーザーなどでは説明できず未解決な共鳴準位とされていたものがあった。その由来を明らかにするため、端点のモードに関する場の理論的定式化としてsine-Gordon模型の散乱問題を解き、そのエネルギー準位を求めた。これを用いて、上記の未解決な共鳴準位は不純物による一次元鎖切断によって生じる端点に付随する励起モード(境界束縛状態)からの寄与であることを明らかにした。

第5章は、全体のまとめに当てられている。

これらの成果は、電子スピン共鳴が物性解明の非常に敏感なプローブであることを明らかにし、関連する量子磁性の特徴を明らかにする理論構築を与えており新しい物性研究を拓くものであり、物性物理学の新しい展開を与えるものと評価できる。

なお、第2章は押川正毅氏、Ian Affleck氏、第3章は押川正毅氏、鈴木隆史氏、高吉慎太郎氏、前田義高氏、PierreBouillot氏, Carinna Kollath氏、Thierry Giamarchi氏、第4章は押川正毅氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究推進したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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