学位論文要旨



No 127770
著者(漢字) 丸山,俊
著者(英字)
著者(カナ) マルヤマ,シュン
標題(和) 半導体量子井戸における光励起キャリアの非平衡性
標題(洋) Non-equilibrium energy distribution of photo-excited carriers in semiconductor quantum wells
報告番号 127770
報告番号 甲27770
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5773号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 准教授 加藤,岳生
内容要旨 要旨を表示する

半導体においては、発光や利得スペクトルをはじめとする多くの光学特性が、キャリアが準熱平衡分布を形成しているとするモデルで説明され、このモデルの有効性は広く受け入れられてきた。しかしその一方で、著しく高いキャリア温度を持つホットキャリアの形成や、準熱平衡モデルから外れた発光スペクトルなど、非平衡が現れたことを示す実験結果も報告されている。半導体量子井戸においても、膨大な研究が行われてきたが、光励起キャリアの準熱平衡・非平衡に関してコンセンサスは確立していない。その最大の原因は、明確な基準に基づくキャリア分布の評価手法が存在しなかったためである。

本論文は、非ドープ半導体量子井戸内に光励起で生成されたキャリア分布の準熱平衡性・非平衡性を定量評価することを目的とし、発光分光測定を行った結果をまとめたものである。熱平衡系の発光と吸収の間にモデルに依らずに一般的に成り立つKennard-Stepanov(KS)関係式を基準として用いることで、キャリア分布の準熱平衡・非平衡の明確な判定を行うだけでなく、それぞれの特徴の定量的な把握を実現した。その過程で、発光励起(PLE)スペクトルの高精度な測定を実現した。さらに、低温領域において励起子PLEピーク強度が減少するふるまいを観測し、その原因が共鳴Rayleigh散乱(RRS)過程と発光(PL)過程の競合であることを特定した。

本論文は、研究の背景と目的を述べた第1章と、以下に説明する第2-5章の全5章からなる。

第2章では、本研究で用いた試料、測定方法、試料の基礎光学評価の結果を示した。キャリア分布状態の明確な判定を行なうために必要となる均一性の高い試料を得るため、試料構造としては単一のGaAs/AlAs量子井戸を選び、界面ラフネスを低減するための結晶成長時の工夫を取り入れた。また、発光と吸収の光学スペクトル形状を得るため、PLおよびPLE測定用の顕微光学系の開発を行なった。特に、試料発光と励起光のエネルギーが近接するバンド端領域のPLE測定は、励起光散乱が信号光に混入するため極めて困難であるが、暗視野励起測定配置、直交偏光子、フィッティングによるデータ処理を組み合わせて散乱光の除去を徹底することにより克服し、全スペクトル領域のPLEスペクトルを高精度に得る手法を確立した。さらに、スペクトルの誤差見積もりと線形性の確認も行なった。

第3章では、線形応答領域で測定されたPL・PLEスペクトルとKS関係式に基づき、光励起キャリア分布の評価と解析を行った結果を示した。KS関係式とは、均一な熱平衡系(温度T)の発光I(hω)と吸収A(hω)の線形光学スペクトルの間に成り立つ一般関係式であり、次式で与えられる。

測定で得られたPLとPLEスペクトルから導出される関数 をプロットし、KS関係式との一致ないしずれを調べることにより、キャリア分布状態を定量化・可視化することができる。スペクトル関数F(hω)=In(PL(hω)/ω2PLE(hω))は、以下でみるように、その直線性を見ることにより準熱平衡・非平衡を判別できるという明確さ・簡便さを持っている。さらに式(1)の右辺がBoltzmann因子の指数部分と同形であることから分かるように、分布関数(占有率)に相当する物理的意味も持っている。

第3章の前半では、共鳴励起・非共鳴励起の2つの代表的な励起条件下でのキャリア分布の評価結果を示した。図1(a)に、7-53Kの4つの異なる環境温度Tenvで測定されたPL(赤)とPLE(青)スペクトルを示した。PLスペクトルは共鳴励起を行った場合の測定結果で、その励起光エネルギーを▼印で示した。PLEスペクトルには、27モノレイヤー(ML)と26MLの井戸幅に対応する1s励起子ピーク(X)と、連続状態(Cont)のステップ構造がみられる。それぞれの環境温度のPLとPLEスペクトルから関数Fを導出した結果が、図1(a)中の黒線(エラーバー付き)である。関数Fは、励起光と同じエネルギーをもつデータ点を除き、全エネルギー領域で直線となった。KS関係式と比較するため、関数Fに対し、T*とCをパラメータとする次式を用いたフィッティングを行った(緑破線)。

図中の関数Fの下側に、傾きから導出される温度T*を示した。図2で詳しく説明するが、T*は環境温度Tenvより若干高いものの良い一致を示した。この結果から、共鳴励起条件では、光励起キャリアは全エネルギー領域で準熱平衡分布を形成しており、その温度は環境温度よりも若干高いがほぼ一致していると解釈できることが示された。非ドープ量子井戸の発光と吸収の線形スペクトルの間に、全エネルギー領域で熱平衡関係式(2)が成り立つことが実験的に確認されたのは今回が初めてである。

一方、非共鳴励起を行った場合には注目すべき変化が関数Fに現れた。図1(b)に、非共鳴励起を行った場合のPLスペクトル(赤)、PLEスペクトル(青)、関数F(黒)を示した。関数Fには、1s励起子と連続状態の2つのエネルギー領域の境界で、ステップ状の段差が生じている。その大きさΔは環境温度が低いほど増加している。しかしその一方で、2つの領域の内部ではFの直線性が保たれており、かつ2つの領域内の関数Fの傾きはほぼ一致した。この特徴的な関数Fの形状は、1s励起子と連続状態の2つの部分系の間には非平衡分布が発生しているが、2つの部分系の内部ではそれぞれ準熱平衡分布が保たれていると解釈できる。共鳴・非共鳴という励起条件によって、2つの部分系の間の非平衡Δの有無が変化することは、本研究によって初めて確認された。

図2は、関数Fを特徴づける2つのパラメータ(a)Δと(b)T*-Tenvの環境温度依存性を示したものである。図2(b)より、環境温度が低いほどT*-Tenvは増加しているが、その値は共鳴励起の場合4-5K以下に収まった(●印)。非共鳴励起条件(○印)では共鳴励起条件(●印)よりも増加したが、その差は3-4K程度に留まる小さいものだった。一方、図2(a)より、非共鳴励起条件で観測された非平衡Δは温度低下に伴い急増している。exp(Δ)は、連続状態(1s励起子)の占有率が、キャリア全体が準平衡分布を形成している場合に比べて何倍(何分の一)になっているかを示す指標となっていることを示すことができ、図2(a)の右軸に対応する目盛を示した。7Kで観測されたΔ=5.8は、exp(5.8)=330倍に相当し、2つの部分系の間に生じた非平衡の度合いが非常に大きいことが分かった。

第3章の中間部分では、Δの大きさを決めている要因を特定するため、基底状態(0)・1s励起子状態(1)・連続状態(2)からなる3準位モデルに基づく解析を行なった。その結果、非共鳴励起条件でのΔの値は、励起子再結合レートγ10と励起子イオン化レートγ12で次式を通して決まっていることが分かった。

図3は、測定結果から見積もられたγ10、γ12の値である。γ10は温度変化が小さいのに対し、γ12は大幅な温度変化を示していることから、図2(a)にみられたΔの大幅な温度変化は、γ12のそれに起因するものであると特定できた。

第3章の後半では、キャリア分布が励起光エネルギーEexcによってどのように決まるかを系統的に解明するため、T*とΔのEexc依存性を測定した結果を示した。Δは、Eexcが1s励起子を励起する領域にある場合0、連続状態を励起する領域にある場合一定値をとることがわかった。一方T*は、Eexcが1s励起子を励起する領域にある場合上昇し、連続状態を励起する領域にある場合一定値となった。この結果により、Eexcとキャリア分布の関係が系統的に明らかにされた。光励起で生成されるキャリア形態が励起子であるか連続状態の電子正孔対であるかの違いにより、フォノン系への余剰エネルギーの受け渡し効率が異なることを示唆する興味深い結果となっている。

第4章では、キャリア分布評価を行う過程で確認されたPLEスペクトル形状の温度変化の大きさと原因を調べるため、様々な環境温度でPLEスペクトルを調べた結果を示した。励起子準位に対して共鳴励起を行った際に散乱光が急激に増加する現象であるRRS過程と関係があると推測し、PLEスペクトルとともにRRSスペクトルの測定も行い比較した。

図4は、異なる3つの環境温度(4.6 K、9.0 K、19.2 K)で測定した(a)PLEスペクトルと(b)RRSスペクトルである。温度低下に伴い、27MLの励起子PLEピークが大幅に減少していることが確認された(図4(a))。反対に、27MLの励起子のRRS(//)ピーク強度は急激に増加している(図4(b))。PLEとRRSの強度変化は全く同じエネルギー領域で生じており、RRSが強い場合、PLE強度(すなわちPL強度)が減少するという関係があることを示している。より広い温度範囲で測定を行った結果、このようなPLEとRRS強度の相関した温度変化は、30K以下の低温領域で顕著となり、PLEピークの減少量は4Kで50%にも及ぶことが分かった。RRS強度が低温で増加したことは、励起子基底状態の分極緩和時間が低温で長くなったことを示しているが、それによってPLE、すなわちPL強度が抑制されることは、本研究によりはじめて実験的に示された。30K以下の温度領域ではRRS過程との競合によってPLEスペクトルが吸収スペクトル形状からずれることに留意する必要がある。第3章では、関数Fのエラーバーにこの影響を含めることによって考慮した。

最後に第5章で、本研究で得た知見をまとめ、その意義と今後の課題を記した。

図1 異なる4つの環境温度Tenvで測定されたPL (赤)、PLE (青)スペクトルと関数F(黒)のプロット。(a)はPLスペクトルを共鳴励起条件で測定した場合、(b)は非共鳴励起条件で測定した場合の結果。式(2)による直線フィッティング(緑破線)から見積もられる温度T*も示した。

図2 (a)Δと(b)T*-Tenvの環境温度(Tenv)依存性。黒丸(●)と白丸(○)印はそれぞれ共鳴励起条件と非共鳴励起条件の結果を示している。緑破線はアイガイドである。

図3 実験結果から見積もられた励起子再結合レートγ10と、励起子イオン化レートγ12。

図4 異なる環境温度で測定された(a)PLEと(b)RRS(//)スペクトル。

審査要旨 要旨を表示する

半導体中のキャリアのエネルギー分布に関しては、これまで準熱平衡分布に従うものとして、発光スペクトルや利得スペクトルを始めとする多くの光学特性が議論され、その有効性は広く認識されてきた。光励起されたキャリアは必然的に非平衡状態となるが、バンド内緩和の時間スケールが他の時間スケールに比べて十分短い場合には、バンド内のキャリアの分布はほぼ熱平衡状態にあると考えることができる。しかし、その一方で、準熱平衡モデルとはかけ離れた発光スペクトルが観測された実験結果も報告されており、明確な基準に基づくキャリア分布の評価手法が存在しないこともあり、光励起キャリアの準平衡・非平衡に関するコンセンサスは未だ確立していない。本論文では、非ドープ半導体量子井戸において、光励起で生成されたキャリア分布の準平衡・非平衡を定量的に評価することを目的として、発光分光測定を行った結果をまとめたものである。

本論文は日本語で書かれ全5章からなる。まず第1章では、光励起キャリアの分布に関するこれまでの研究報告について、非ドープ量子井戸を対象としたものを中心に紹介し、キャリア分布評価の基準として本研究で用いるKennard-Stepanov (KS)関係式について述べている。KS関係式は、熱平衡系の発光と吸収の間に一般的に成り立ち、吸収スペクトルと発光スペクトルの比からキャリア温度が得られる関係式となっていることから、この表式の成立の有無が熱平衡の基準になり得ることを述べている。また、4章で述べる共鳴Rayleigh散乱(RRS)とHeitler 効果に関する説明も行っている。

本論文の主要な結果は、2章から4章までに述べられている。第2章では、本研究で用いた量子井戸試料やその測定方法、基本光学評価の結果などについて述べている。また、均一性の高い試料を得るため、単一の非ドープGaAs/AlAs量子井戸を選び、界面ラフネスを低減するためのデザインなどについて触れるとともに、本研究の中心となる発光と吸収の光学スペクトルを精度良く測定するための暗視野励起配置、直交偏光子、スペクトル形状の不変性を利用したフィッティングによる励起光散乱の除去方法など、本研究で新たに開発した実験手法について述べている。

第3章では、光励起キャリア分布の準平衡・非平衡の評価を行った実験結果について述べている。線形応答領域で測定された発光(PL)スペクトルと発光励起(PLE)スペクトルが得られれば、KS関係式を用いて、2つのスペクトルの比の対数であるスペクトル関数が直線性を持つ場合は準平衡と見做すことができ、その傾きからキャリア温度を評価できる。実験により得られたPLEスペクトルでは、27モノレイヤーと26モノレイヤーの井戸幅に相当する1s励起子ピークと、その上に連続状態のステップ構造が見られた。励起子ピークのエネルギーで励起した共鳴励起条件では、スペクトル関数はほぼ全エネルギー領域で直線となり、キャリアは全エネルギー領域で準平衡状態にあると結論付けた。これにより、非ドープ量子井戸で全エネルギー領域においてKS関係式が成り立つことを実験的に初めて実証した。また、キャリアの温度は、環境温度より若干高く、環境温度が低いほど環境温度との差は増加するものの、環境温度より少し高い準平衡状態にあると結論付けた。

一方、非共鳴条件で励起した場合のスペクトル関数は、1s励起子と連続状態の2つのエネルギー領域の境界でステップ状の段差を持つことを見出した。そのステップ幅Δは、環境温度が低いほど増加するが、2つの領域の内部では関数の直線性は保たれており、かつ2つの領域内の関数の傾きはほぼ一致することから、2つの部分系の間には非平衡分布が実現しているが、それぞれの部分系の中では準平衡分布が保たれていると解釈された。3章の中盤では、3準位モデルに基づく解析を行い、ステップ幅Δの大きさを決める因子である励起子再結合レート、励起子イオン化レートを評価し、各準位のエネルギー占有率の平衡分布からのずれがΔと対応し、Δの温度依存性がイオン化レートの温度依存性により説明できる可能性について述べている。3章の後半では、キャリア温度が励起光エネルギーによってどのように変化するかを系統的に調べている。励起光エネルギーが1s励起子の領域にある場合には、励起光エネルギーの上昇とともにキャリア温度が上昇し、連続状態を励起する領域にある場合には、キャリア温度は一定値となる結果を得た。このことは、フォノン系への余剰エネルギーの伝達効率が、励起されるキャリアの状態によることを示唆しており、興味深い結果である。

第4章では、これまでの実験により、PLEスペクトルの形状と強度が強い温度依存性を持つ事実に着目し、その原因を明らかにするため、共鳴Rayleigh散乱(RRS)過程が関与していることを明らかにした実験結果について述べている。共鳴励起条件では、環境温度の低下とともにPLEピーク強度が大幅に減少し、反対に励起子のRRSピークが急激に増加した。30K以下では、2つのピークは競合しており、低温になるに従い励起子基底状態の分極緩和時間が長くなっていることを示唆する結果を得ている。

第5章では、本論文で得られた知見をまとめ、その意義と展望について述べている。

以上、本論文は、半導体量子井戸における光励起キャリアの準平衡性・非平衡性を評価するための新たな実験方法を提案したものであり、非平衡性の原因に迫る知見を与える研究として意義あるものと認められる。励起条件によって、量子井戸のキャリアの非平衡性が変化することを明らかにしただけではなく、非平衡分布を定量的に特徴づける重要なパラメータを定義し、その原因となる遷移レートなどの新たな知見も得たことは高く評価される。本論文の内容は、論文提出者が主体となって試料の設計、実験系の構成から測定および解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。よって、審査員全員が学位論文として十分なレベルにあり、博士(理学)の学位を授与できると判断した。

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