学位論文要旨



No 127877
著者(漢字) 田中,浩平
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,コウヘイ
標題(和) 地震波形データベースを基盤とした地震ハザード評価手法の構築に関する研究
標題(洋)
報告番号 127877
報告番号 甲27877
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7645号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高田,毅士
 東京大学 教授 久保,哲夫
 東京大学 教授 壁谷澤,寿海
 東京大学 教授 纐纈,一起
 東京大学 准教授 本田,利器
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、強震観測網の充実や強震動波形シミュレーション技術の進歩に伴い急速に蓄積されつつある地震波形データベースを基盤とした、地震ハザード評価の新たな枠組みを構築することを主題とする。

近年、データベースの利活用に大きな変化がみられている。限られた貴重なデータを丁寧に分析し、高度な統計的モデリングを実行することにより現象解明や推定を行うという従来の活用法だけでなく、蓄積された膨大なデータ(ビックデータ)が有する情報をいかに取り出し有効利用するかが問われている。この変化を最もよく象徴するのが、検索エンジンサイトGoogleである。Googleは、Web上に存在する膨大なデータを集積したデータベースを構築し、独自のアルゴリズムに従って各ウェブサイトにポイントを与えて整理することで、利用者の目的に応じたサイトをランキング形式で瞬時に提供することに成功している。

このような時代の変化がもたらす影響は、情報分野に限ったことではない。様々な種類のデータベースがデジタル化し、公開されている現代においては、次々に更新される膨大なデータから有用な情報を抽出し、新たな利活用方法を考えることは、分野を問わず重要な課題と考える。特に他分野との結節点の多い建設業においては、関連するデータベースは多岐にわたる。これらを整備・再構築することで、設計や現業にさらに有効にフィードバックできる枠組みを構築できるはずである。本論文ではこのような背景を鑑み、近年急速にデータが蓄積されている地震波形データベースを対象として、地震ハザード評価における地震波形データの有効活用を提案するものである。

地震波形データベースを基盤とすることにより何が改善されるかを、地震動距離減衰式を基盤とした現在の地震ハザード評価と比較することで明らかにする。距離減衰式は、限られた地震記録からモデル式を回帰することによって得られる経験式である。距離減衰式の優れている点は、数少ない説明変数から地震動強さが簡便に推定できること、推定結果の汎用性の高いことなど数多い。しかし欠点が全くないわけではない。1つ目に、地震動の特性を表現する指標をPGA, PGV ,Saといったごく一部の強度指標に限定していることである。構造性能の表現は多様化し、応答評価は高度化しているのに、地震動の表現は地動の最大値を用いている。2つ目の欠点は、推定結果が地震動との関係性に乏しい点である。地震動は無数の地震動指標値の組み合わせからできており、それらのパラメータは相互に関連しながら1つの地震動を構成している。距離減衰式によって推定されるのは、地震動の情報を圧縮したスカラー量であり、その他の地震動情報を十分に活用できていない。本論文ではこの状況を改善すべく、出発点である地震波形データそのものに立ち返るということを行なう。距離減衰式の欠点は、地震波形データから1つの地震動指標が抽出され、他の指標との関係性が断ち切られたところから発生している。そこで生データの集積である地震波形データベースから地震ハザード評価を構築することで、上述の2課題の改善を試みる。

以下では、本論文の構成に合わせて各章の内容の概説を行う。

第1章では、研究の背景や目的、既往研究のレビューと本論文の新規性について概説する。

第2章では、本論文で用いる地震波形データセットが構築される。収集された地震波形データは観測波形が中心であるが、データの不足を補うために統計的グリーン関数法による強震動予測波形が補充されている。観測波形データは、防災科学技術研究所と気象庁、太平洋地震工学研究センター(PEER)のデータセットを対象とした。収集された地震波形データを整理し、工学的基盤程度の標準的な表層地盤条件における地震動を推定するための標準地震波形データセットが構築される。このデータセットはまだまだ改善の余地が残るプロトタイプではあるが、新たなハザード評価の枠組みの基盤としての方向性を示唆するものである。

第3章では、地震波形データセットから目的の地震動を選定するための仕組みとして、波形インベントリーが提案される。インベントリーとは目録という意味である。よって波形インベントリーとは、震源特性や伝搬特性といった地震動のメタデータを事前に整理しておくことで、利用者が目的とする地震動のパラメータと合致するデータを探索し、地震動を選定できるようにするための枠組みを表す。波形インベントリーの利点は以下の4点である。1つ目の利点は推定結果として地震波形データが得られる点である。距離減衰式のように、推定結果から地震動を再現するような労力を払う必要がない。2つ目に地震動選定のための変数を自由に選択できる点である。事前情報が多いほど精度高い評価ができる可能性があり、このような調査結果を有効活用すべきである。距離減衰式に基づく評価では入力変数は決まっており、事前情報の多寡を反映した評価ができなかった。3つ目の利点は地震波形データの整理パラメータを後からいくらでも追加できる点である。将来の地震被害から得られる新たな知見を逐次取り込むような構造になっている。4つ目に地震波形データセットの更新が、即推定結果の精度向上につながる点である。距離減衰式はデータが更新される度に新たにモデル式のフィッティングをする必要があった。

第3章の後半部では地震動の選定数を定量的に決定する方法について議論する。目的のパラメータに完全に一致する地震動は数が限られるため、地震動の選定にはパラメータの幅を設定する必要があるが、地震動が過不足なく選定される適切な幅を設定する必要がある。本論文では情報量によって選定地震動の十分性を定量化し、選定幅を設定する。

第4章では波形インベントリーの具体的な活用例が示される。はじめに波形インベントリーによるシナリオ型地震動評価が行われる。地震諸元や地震動指標値をシナリオとした場合に、シナリオに合致した地震動がデータセットから選定される。選定地震動群は設計用地震動群として活用されることが一般的であるが、第4章では選定地震動群の様々な活用方法が示される。例えば、観測波形群のベンチマークとしての利用がそのひとつである。現在、強震動予測波形の検証として、シミュレーション結果が距離減衰式のばらつきの範囲内に収まることを確認している。しかしこれでは強度指標による比較しかしておらず、地震動の検証という点では不十分である。そこで波形インベントリーによる選定地震動をベンチマークとすることでより多角的な指標で検証を行えることを示した。また、同様のスキームを用いて既往設計用地震動の裕度評価も行う。

第5章では、波形インベントリーを用いた確率論的地震ハザード評価が構築される。従来評価では、距離減衰式を用いていたために、利用者の目的に応じた任意の地震動指標でハザード評価を行うことが困難であった。またハザード結果は単一の地震動指標値で表現されるため、それに対応する模擬地震動を作成するためにはその他の地震動指標値を何らかの方法で設定する必要があった。5章では、波形インベントリーによる確率論的地震ハザード評価を提案することで、これらの課題が改善できることを示す。

第6章では、波形インベントリーによる応答ハザード評価手法を提案する。構造性能は基本的に目標性能レベルと応答のクライテリアがセットで記述される。例えば、耐震等級1では「極めて稀に発生する地震による力」に対して「倒壊、崩壊等しない」程度とある(カッコは著者)。この場合に前者のかぎかっこが性能レベルの設定、後者がクライテリアを表している。現在の性能設計では、上述のように性能レベルの設定が外力の強さに対してなされていることが多い。その場合には、"極めて稀"に発生する地震動のレベルを定量的に評価することが困難で、既往設計用地震動からのキャリブレーションが行われる。

しかし実際には、より上位の概念に対し性能レベル設定がされることが望ましい。上位の概念とは、構造物の応答値、構造物の状態、生命の安全、修繕コスト、復旧期間、経済損失などである。例えば「地震による構造物が崩壊の年間発生確率が10-4以下である」とあれば、火災や交通事故といった他の死亡リスクと比較することにより、耐震レベルが妥当であるか判断できる。このような上位概念の計算を行うためには、対象構造物ごとの詳細解析が必要となり、評価の不確実性も増大する。すなわち、詳細解析を実行するための地震波形を準備することと、評価の不確実性をできるだけ低減することが課題である。6章では、これら2つの課題を改善する手法を提案し、応答のクライテリアとその超過確率の組み合わせで性能が規定される場合の、性能検証手法を提案する。

第7章では、各章における結論をまとめ、将来の展望や地震波形データベースを基盤としたときの将来像について述べる。

以上をまとめる。本論文では地震波形データベースを基盤とした地震ハザード評価の新たな枠組みを構築することを試みる。従来の距離減衰式による評価の2つの課題、「地震動の表現がごく一部の指標に限られること」と「推定結果と地震動との関係性に乏しいこと」を改善することを目的とする。そして提案手法を用いることによるメリットが、シナリオ型地震動評価、確率論的地震ハザード評価、応答ハザード評価の3つの地震ハザード評価手法において検証される。

審査要旨 要旨を表示する

審査委員会は、上記論文提出者が提出した博士学位請求論文「地震波形データベースを基盤とした地震ハザード評価手法の構築に関する研究」に対し、提出約1年前の予備審査、本論文と提出者が審査委員に対し個別に行った説明およびその時の応答、論文発表会(口頭による最終試験)とその時の応答および各審査委員が指摘した事項に対する提出者の対応、発表会後に開催した審査委員会での審議を通して、当該論文の審査を行った。以下にその審査結果の要旨をまとめる。

本論文は、わが国で1995年の阪神大震災以降、全国に整備された地震観測網で観測され蓄積される多くの地震観測記録(地震波形データベース)と、強震動波形シミュレーション技術の進歩により各種構造物の耐震設計や地震防災対策に利用される目的で作成されてきた地震動波形を基盤として、それらを波形データベースとして構築した上で、それらの効果的な利活用方法について提案したものである。

第1章では、研究の背景や目的、既往研究を調査した後、本研究の位置づけを明確にしている。研究の背景や動機としては、1)過去地震が起きるたびに日本全国の約2300箇所(K-NET,KiK-net)で観測される観測記録は年々膨大な量のデータが蓄積されつつあるものの、それらが耐震工学において十分に活用されていない事実があること、2)強震動シミュレーションにより作成された各地の地震波形データについても特定の地域の構造物の設計や防災には活用されているものの、それ以上の利用がなされていないこと、3)近年、工学システムのより高度な耐震設計や評価において、簡易な地震動指標や応答スペクトルよりも時刻歴波形が多用されることから、設計や評価の目的に応じた条件に合う地震動時刻歴波形が必要とされる場合が多くなってきたこと、が指摘されている。これらの指摘は適切なものであると考える。

第2章では、本論文で基盤的な役割を果たす地震波形データベースの作成について記載されている。対象とする地震観測記録は、我が国の防災科学技術研究所と気象庁、米国の太平洋地震工学研究センター(PEER)のデータセットを対象としている。さらに、大地震、近距離の地震観測記録は通常十分でないことから、強震動予測手法により計算された波形も貴重なデータベースとして補充されている。これにより、地震マグニチュード、震源と観測地の距離、地震種別において広範な領域をカバーしたデータベースを構築している。

第3章では、地震波形データセットから目的の地震動を選定するための仕組みとして、波形インベントリーが提案されている。「インベントリー」という呼び名は各地震波形に目録を付したデータベースであることを意味している。地震マグニチュード、震源からの距離の他に、観測地の地盤条件などにより分類整理され、それらが目録のような役割を果たし、指定した目録に合う地震動波形を複数選定することが可能となる。論文では、このような選定方法の利点を従来から多用されてきた経験的地震動距離減衰式と対比している。本提案手法の利点としては、時刻歴波形が直接選定されること、データベースの更新容易性,等が指摘されている。

第4章では波形インベントリーの具体的な活用例を提案している。指定した条件に応じて地震動波形が選定できるという特徴を活かせば、いろいろな活用例が考えられる。従来の距離減衰式に基づく地震動予測手法に比較して、複数の時刻歴波形群を選定することができ、それらの平均特性やバラツキ特性も選定された波形群から直接求めることが可能となる。次に、波形インベントリーが地震動特性を時刻歴波形という最も情報量の完備した状態で構築されている利点を利用して、シナリオ型地震による地震動評価に容易に適用できるほか、地震動予測手法による地震動波形の検証にも利用することが可能である。この章では、活用方法のひとつとして、超高層建物の既往耐震設計で用いられてきた設計用地震波形を、本インベントリーによる結果により検証しており、既往動的設計が要求する耐震裕度について興味ある結果を報告している。

第5章では、波形インベントリーを用いた確率論的地震ハザード評価手法の構築を試みている。決定論的には震源の条件を設定すればほしい波形を選定することができるが、それを確率論的な問題に拡張している。ここでは、震源の情報を観測地の地震動に変換する方法として従来の地震動距離減衰式を用いていた部分を、波形インベントリーに置き換えることによって、容易に波形インベントリーによる確率論的地震ハザード評価手法を構築することができることが示されている。

第6章では、波形インベントリーの応用例として、時刻歴波形を用いた構造物性能検証手法が提案されている。性能設計の考え方に基づき、時刻歴波形を用いた動的解析による構造性能検証方法が提案されており、従来の性能設計に比べて一歩進んだ耐震設計手法の構築を目指している。

第7章では、得られた成果をまとめるとともに、今後の課題と、耐震設計・評価の今後の方向性についても言及している。また、最後に、審査委員からのコメントがあり、既往のデータ範囲を超えるような事象、例えば、2011年3月11日のマグニチュード9.0の連動型地震による地震動評価についてどのように対応すべきかという問いに対しても、将来の事象の不確定性と関連付けながら、本データベースの有効性と限界についても適切に記述している。

以上をまとめると、本論文では、地震波形データベースを基盤とした地震ハザード評価の新たな枠組みを構築し、その地震波形データベースの有用性を提示していることから、今後のさらなる発展が期待できる研究提案と評価できる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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