学位論文要旨



No 127890
著者(漢字) 山下,喬子
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,キョウコ
標題(和) 多環芳香族炭化水素類のバイオモニタリングに向けた沿道ツツジ葉の利用可能性評価
標題(洋)
報告番号 127890
報告番号 甲27890
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7658号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 栗栖,聖
 東京大学 教授 花木,啓祐
 東京大学 教授 古米,弘明
 東京大学 教授 大岡,龍三
 東京大学 准教授 中島,典之
内容要旨 要旨を表示する

多環芳香族炭化水素類 (PAHs) は,主に化石燃料やバイオマスの不完全燃焼により生成する有機化合物である.生物にとって有害な物質で,BaPが国際がん研究機関 (IARC) の発がんリスク分類Group 1に分類され,その他のPAHsの多くに変異原性が指摘されている.したがって,ヒトや他の生物への曝露という観点からPAHsの排出,輸送経路を把握することは重要な課題である.

都市域の大気中には,自動車排気由来のPAHsが多く存在する.一般に大気中のPAHsは,乾性沈着や湿性沈着により土壌,水域などへ輸送されるが,道路近傍では街路樹の葉へ捕捉される.この性質を利用して,これまでに大気PAHsのバイオモニタリングへの街路樹葉の利用が提案されている.大気中PAHsは粒子態及びガス態で存在しており,大気中PAHs濃度の把握のためにポンプ吸引による粒子やガスの捕集を行う.しかし,植物葉を用いたモニタリングでは,大気捕集用の特殊な装置や電力は不要であり,更に,普遍的な樹種を使用すれば広範囲において同時に採集可能である.

本研究の目的は,ツツジを用いた大気PAHsモニタリングを行う上で,葉中PAHs濃度の変動要因を考察し,バイオモニタリング利用の際に考慮すべき点を議論することである.ツツジ葉中PAHs濃度の変動に関して,(1) 沿道大気汚染物質濃度分布 (NO2, PAHs) の把握,(2) 気象条件によるツツジ葉中PAHs濃度の変化,(3) 沿道大気及びツツジ葉中PAHsの時間変化を検討した.対象とする植物葉は,オオムラサキツツジ (Rhododendron pulchrum cv. Oomurasaki, 以下ツツジ) とした.ツツジ類は日本国内において最も多く植樹されている低木街路樹で,そのうち都市域の街路樹として多く見られるオオムラサキツツジを選定した.

ツツジ葉中PAHs濃度を測定するに先立ち,分析前処理方法の検討を行った.これは,前処理を行わずに分析すると妨害成分が存在し目的の葉中PAHsを測定できない問題や,多量の夾雑物は分析機器に悪影響を与えるという問題が生じるためである.しかし,既往の研究における植物葉中PAHsの分析前処理方法は多様であり,ツツジ葉に対して適当な方法が不明なため,手法を検討する必要が生じた.検討の結果,ツツジ葉からの抽出液中に含まれる色素の除去と添加回収率の観点から,フロリジルによる固相抽出法を選択した.

初めに沿道大気濃度の空間分布を詳細に把握するため,本研究で対象とする現場 (東京都文京区 国道17号線) 沿道のNO2及びPAHs濃度分布を,パッシブサンプラーを用いて測定した.

NO2については,大学に沿った東側沿道での濃度分布が観測された.敷地外まで迫り出た木の樹冠による障壁のある地点で高濃度,障壁の無い門付近では濃度の低い大学構内との大気の混合が促進され,低濃度であった.PAHs濃度分布もNO2と同様の傾向で,正門付近での大気の混合が示唆された.

また,PAHs濃度分布測定を行った場所と同じ区間の4箇所において,ツツジ葉を採集し,濃度を比較したところ,沿道方向における濃度差は見られず個体内のばらつきが大きい結果となった.

次に,様々な気象条件によるツツジ葉中PAHs濃度の変動として,降雨による葉表面からの流出,再揮発,太陽光による光分解によるツツジ葉からのPAHsの脱離を評価するための実験を行った.

初めに,逐次的抽出を行ってツツジ葉中PAHsの存在分布を調べたところ,PAHsは主に葉表面のワックス層中に存在しており,比較的濃度の高いPyr, Fltのような物質は,更に内部に浸透していた.

降雨によるツツジ葉中PAHs濃度の変化を明らかにするため,降雨イベント前後での濃度比較と,雨水接触実験による濃度比較を行った.降水量の異なる3回の降雨イベント前後においてツツジ葉中PAHs濃度の比較を行ったが,濃度減少は見られなかった.次に,採集した葉を雨水と接触させたところ,葉中PAHs濃度を比較する限りにおいて濃度差はなかった.接触後の雨水からPhe, Flt, Pyr, BaAが検出されたがいずれも微量で,葉からの脱離割合は最大でも元の量の7.1%であり,葉に一旦取り込まれたPAHsはワックス層からは簡単に脱離しないと分かった.

揮発によるツツジ葉中PAHsの脱離速度を明らかにするため,ツツジ葉を揮発実験装置中に放置して算出した減少速度は0.0018~0.0053 h-1であった.これは12時間放置による減少量2~6%に相当する.

光分解によるツツジ葉中PAHs濃度の変化を観察するために,採集した葉に中圧UVランプを照射したが,個体差以上の有意な濃度減少が確認されなかった.

時間変動として,長期及び短期間でのツツジ葉中PAHs濃度変動を測定した.

長期的なツツジ葉中濃度の変動を把握するため,年間を通じたツツジ葉の採集及び大気捕集を行い,ツツジ葉中PAHs濃度と大気PAHs濃度の関係を考察した.ツツジ葉中のPAHs濃度と大気濃度の関係を調べると,ガス態PAHsについて,Phe, Flt, BaA, Chrは気温依存性の分配比に従って濃度が変動していると考えられた.また,主に粒子態で存在する高分子PAHsは,大気との分配ではなく,ツツジ葉中に取り込まれるのみであると推察された.大気中PAHs濃度とツツジ葉中ガス態PAHs濃度比をKleaf/airとし,オクタノール-大気分配係数KOAの関係を調べると高い相関が得られ,ツツジ葉中PAHs濃度は,大気中濃度と平衡状態となっており,気温に応じてその分配比が変化すると考えられた.また,PAHsは主にツツジ葉表面ワックス層に存在することから,主にワックス層と大気との平衡関係になっていると考えられ,ワックス層はオクタノールのような溶媒層として機能していると示唆された.気象パラメータやツツジ葉そのものの季節変化に伴う葉中PAHs濃度の変動は認められなかった.

短期での濃度変動を把握するため,日内のツツジ葉中PAHs濃度の変動を,3時間おきのサンプリングにより比較した.同時に測定した大気濃度は,交通量の増加する朝6時以降に上昇する傾向が見られた一方で,ツツジ葉中のPAHs濃度変動はサンプル内の変動と同程度かそれ以下であった.

ツツジ葉中PAHs濃度プロファイルを,沿道PAHsサンプラーに捕集されたPAHsや大気PAHs濃度のプロファイルと比較すると,PAHsサンプラー捕集量と大気ガス態濃度が類似したプロファイルを示していた.10PAHs (Nap, Acy, Ace, Flu, Phe, Ant, Flt, Pyr, BaA, Chr) に関してPAHsサンプラー捕集量,ツツジ葉中濃度,大気ガス態濃度の相関係数を算出すると,PAHsサンプラー捕集量と大気ガス態濃度の関係のみ,強い相関 (r=0.961) が見られ,ツツジ葉中濃度プロファイルは大気中のものと異なっていた.パッシブサンプラーは時間経過と共に吸着剤への捕集量が比例する段階を経て,最終的には大気との平衡に到達するものであるが,設置期間1週間のPAHsサンプラーは大気ガス態PAHsの濃度に応じた捕集量であった一方,常緑樹のツツジ葉は曝露時間が長く,大気と平衡状態に達していたことを示している.

PAHs種について個別に検討すると,低~中分子量PAHsでは比較的揮発しづらく,存在量も多いPhe, Flt, Pyr, BaA, Chrが明らかに気温に依存した季節変動を示すことが示された.また,高分子量PAHsではBkF, BeP, BaPが年間を通じて安定的に検出されており,採集地域特有の濃度を示すのではないかと思われた.

以上の検討より,大気PAHsのバイオモニタリングにおけるツツジ葉の性質として,場所の代表性,時間解像度,簡便性,適用先の可能性に関してまとめた.まず,本研究で検討した範囲から,ツツジ葉は大気濃度分布の観測される沿道方向においても200 mの範囲を代表することが分かった.また,PAHs濃度はツツジ葉と大気間で気温に強く依存した平衡関係にあるが,1日の間での温度変動には鈍感で,ツツジ葉中PAHsが濃度変化を示すのは月単位だった.

降雨や揮発,光分解といった気象に関する要因によってツツジ葉中PAHs濃度が極端に減少することはなく,バイオモニタリングの際に降雨や先行晴天時間,日射量といった気象条件を考慮せずとも,ツツジ葉中PAHs濃度を評価可能である.更に,必要なツツジ葉量は,沿道に植栽されているツツジの総葉数と比較しても十分に少なく,外観を損ねずにモニタリングを行うことができる.

ツツジは日本で最多の低木街路樹であるため,広範囲でツツジ葉によるバイオモニタリングを行い,濃度比較を行うことが可能である.特にツツジ葉中の高分子PAHs (BkF, BeP, BaP) 濃度の大小は大気濃度レベルを直接的に反映すると考えられ,濃度レベルを比較するための最も単純な手法として用いることができる.その他のPAHsも大気とツツジ葉間で気温に依存した平衡関係にある.特に高濃度で検出されるPhe, Flt, Pyrに着目し,ツツジ葉中濃度によって地域間の大気濃度レベルを比較できる.比較を行う地域の気温を確認する必要はあるが,これら3物質の気温依存性を明らかにしており,大気-ツツジ葉分配比を温度補正することが可能である.

また,植栽された地域によって葉の性質が異なる可能性があるが,ツツジ葉と大気との分配によって葉中PAHs濃度が決定するときには,ツツジ葉の光合成機能の変動は影響を与えないものと考えられ,気温差のみを考慮すれば十分である.

審査要旨 要旨を表示する

多環芳香族炭化水素類 (polycyclic aromatic hydrocarbons; PAHs) は、主に化石燃料やバイオマスの不完全燃焼により生成する芳香環が複数結合した有機化合物であり、発がん性及び変異原性を有するものがあることから、重要視される物質群である。都市域においては、自動車排気由来のPAHsが大気中に多く存在することが知られているが、詳細な分析測定には多大な労力を要することから、簡易に測定評価できる仕組みが求められる。そこで、本研究では、道路近傍に存在する街路樹葉を、大気中PAHsのバイオモニタリング試料として利用できる可能性を評価することを目的とし、葉中PAHs濃度の変動要因について評価すると共に、バイオモニタリングに用いる際に考慮すべき点について議論した。本論文は全8章より構成される。

第1章では、基本的な背景と研究の必要性を述べ、研究の目的を示している。

第2章では、PAHsおよび植物へのPAHsの取り込みに関わる既往研究の整理をおこない、既往研究に欠けている部分を明らかとし、本研究を行う意義を示した。

第3章では、本研究において用いた大気中PAHsの測定手法を示すと共に、対象試料としたオオムラサキツツジ(Rhododendron pulchrum cv. Oomurasaki)葉のPAHs測定で問題となる夾雑物の除去手法の検討を行っている。その結果、ツツジ葉からの抽出液中に含まれる色素の除去および添加回収率の観点から、フロリジルカートリッジ (ケイ酸マグネシウム) による固相抽出法が最良であることを示した。

第4章では、本研究で対象とした沿道における大気汚染物質の空間分布を詳細に把握し、ツツジ葉中濃度との関連を議論することを目的とした。沿道NO2及び大気中PAHsについては、パッシブサンプラーを9~50mおきに設置し、濃度測定をおこなった。ツツジ葉中PAHsの空間的な濃度分布を比較評価した結果、大気中のNO2およびPAHsには沿道方向に濃度分布が見られたのに対し、ツツジ葉中PAHsについては、沿道方向における濃度差は見られず、個体内のばらつきの方が大きいことが示された。

第5章では、降雨や揮発、光分解がツツジ葉中のPAHs濃度に与える影響を把握することを目的とした。個別の気象条件に関する検討の前に、ツツジ葉中PAHsが葉のどの部位に存在するかを、逐次抽出法の操作定義により求めた。その結果、PAHsは主に葉表面のワックス層中に存在しており、比較的濃度の高いピレンのような物質では、更に内部に浸透していることが明らかとなった。降雨影響については、実降雨前後に沿道より採取した試料中のPAHs濃度を比較すると共に、採取葉を室内実験にて雨水と共に振とうし脱離したPAHsおよび葉中に残存するPAHsを評価することにより、降雨によるPAHs脱離ポテンシャルが小さいことを明らかにした。揮発については、採取葉に一定時間室内空気を導入し、葉中PAHsの減少量を評価した。光分解の影響については、室内実験により採取葉に紫外線を照射することによる葉中PAHs濃度変化の把握を試みたが、個体差以上のPAHs減少は確認されなかった。

第6章では、長期および短期での大気中PAHs濃度および葉中PAHs濃度の変化を把握することを目的とした。長期的には毎月、大気中PAHsのガス態および粒子態濃度、およびツツジ葉中PAHs濃度を測定し、その季節変動を明らかにした。短期変動については、1日の中で3時間ごとの大気及びツツジ葉のサンプリングを実施し、その変動を示した。

第7章では、ツツジ葉を沿道大気PAHsのバイオモニタリング試料として用いることを想定した場合に生じる問題点と利点を、4~6章までの実験結果に基づき整理し、議論した

第8章では、本論文で得られた結果をまとめると同時に、本研究成果を受け、将来研究への発展の可能性を述べている。

本研究は、大気中PAHsに対し、沿道ツツジ葉をバイオモニタリング試料として用いる可能性について、多くの実測データに基づき評価したものである。降雨や揮発などの影響を評価すると同時に、長期および短期でPAHsのガス態および粒子態、葉中濃度を測定した結果より、葉中PAHs濃度で議論することが有効となるPAHs種や時間的、空間的な適用可能性を示した。本研究は、環境工学の発展に寄与するものであり、よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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