学位論文要旨



No 127891
著者(漢字) 傅,舒蘭
著者(英字)
著者(カナ) フ,ジョラン
標題(和) 中国・杭州における「山水都市」の創生に関する都市計画史的研究 : 西湖の風景を都市に取り込む都市計画プロセスを中心として
標題(洋)
報告番号 127891
報告番号 甲27891
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7659号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 石川,幹子
 東京大学 准教授 窪田,亜矢
 東京大学 教授 出口,敦
 東京大学 教授 下村,彰男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、中国江南地方の都市、杭州が近接する景勝地である西湖を都市に取り込むプロセスを論じるものである。杭州では、中国特有の近代以降の城壁の崩壊に伴って都市と景勝地が対面した際に、近世以来山水思想に基づいて形成された周辺の景勝地を都市に取り込むことで、近代以降の都市構築を進めた。本論文ではそのプロセスを、杭州市が策定してきた数々の都市計画の変遷とその意図(都市から景勝地を捉える視点)及び当時の市民、観光客や外賓を始めとする外来者による景勝地の認識の変遷から捉える。各章の要旨は以下の通りである。

序章では、本論文の要点となる「山水都市」を、(1)都市周縁部の風景を、都市発展のプロセスで計画的に都市部に接続し、都市の一部として取り込んだ都市、(2)そのプロセスを通じて現代的な都市機能を有すると同時に古代美学的アイデンティティをも持ち合わせる都市と仮定義した。研究の目的として(1)杭州と西湖及び周辺景勝地を対象に、杭州都市部が景勝地を取り込む都市計画の歴史的変遷を明らかにすること、(2) 景勝地に根ざした古来の山水思想と近代以降の都市概念とともに輸入された都市計画思想の相互的な影響を明らかにすること、(3)「山水都市」という概念を明確にすることを目的とした。

第1章「中国江南の都市と山水思想の発展経緯における杭州の位置づけ」では、江南地方の都市の特徴を立地や形態、都市形成の変遷及び発展経緯と、江南地方の都市における山水美学の思想の特徴をまとめた上で、本論文における杭州の事例選定理由を整理した。

中国の古代都市の立地は山脈や河川を考慮して選定され、形態は一般的に都城制に基づいていた。江南地方の都市も基本的にはこれらの規則を踏襲するものであるが、江南地方は地理的に江南丘陵と区分されるように起伏な丘陵地とその間に河湖盆地が配する地形であり、また江南地方は宋・明・清時代の自由経済で経済的な発展を遂げていたため、都城制に従わない都市形態を持っていた。そこで、具体的に宋時代から近代までの揚州や杭州、南京、上海の都市形態を考察し、特徴を整理した。また、蘇州や杭州を例に、江南地方の山水美学の思想は中国古代社会における特別な社会階層である士大夫の庭園や、城外の自然豊かな区域に寺院などとともに作られた景勝地に反映されたことを論じた。これらの江南地方独特の都市の特徴を踏まえ、杭州を本論文の事例として選定した理由を整理した。

第2章「前近代における杭州城と西湖景勝地の形成・変遷」では、杭州の都市と周辺景勝地の前近代における空間変遷を明らかにした。南宋時代に杭州城は「行在」と呼ばれる臨時の首都となり、首都機能を持つ都市としての整備が進んだ。元時代に入ると、王朝の遷移により杭州城はその機能を失い、一時は王朝命令により外城壁も失われたが、元末期には内紛を経て都市を東側に拡張させた城壁が建設された。清時代に入ると、満族が軍事的理由により西湖と隣接する湖浜地区に居を構え、居住地を囲う城壁を建設した。また、都市の拡大に伴い城内外に市(市場)が数多く生まれ、市を中心とする市街地の形成が見られた。

一方、元々潟湖であった西湖は唐時代以降、杭州の用水確保のための貯水湖として堤の整備が始まり、宋時代には橋や亭の建設、植栽整備が施され、西湖は貯水池のみならず市民の憩い機能を持つものとなった。元時代にはマルコポーロによる西湖湖畔の賑わう様子が記録されている。明時代にも堤の整備が行われ、清時代には皇帝の行幸の為に行宮の建設や小瀛洲・湖心亭・阮公の三島の整備が行われた。このように、西湖では、現在の景勝地に繋がる様々な整備が長期間の歴史の中でそれぞれの時代の事情により行われてきた。そしてこうした景勝地としての西湖の形成には各時代の士大夫の持つ「山水」の美学思想が大きく影響を与えていた。

第3章「近代都市計画の影響による西湖と都市部の接続及び西湖の都市化(1907-1931)」では、近代の杭州の都市形態に大きな影響を与えた「日本租界・通商場計画」と「新市場」湖浜地区計画」に焦点を当て、それらの計画背景と計画による都市の変容を捉えた。

杭州は日清戦争後に締結された下関条約で日本が開港を要求した港の1つであり、「日本租界・通商場計画」は日本租界とそれに隣接して各国の通商場を設置する計画であった。この計画対象地は杭州城外であったものの杭州では最初の近代都市計画として位置づけることができるが、日本政府の資金不足から租界計画は失敗に終わった。1900年代初頭には、杭州を縦断する鉄道が建設され、城壁の一部が壊された。さらに、1911年の辛亥革命による政権交代で清時代に建設されていた満城城壁は破壊された。満城城壁は西湖に面する箇所を杭州城城壁と共有していたため満城城壁の破壊は西湖と都市の隣接を創出することになった。そして城壁の破壊に伴って被害を受けた元満城内の地区の再生を目指し作成されたのが「「新市場」湖浜地区計画」である。本計画は道路計画や土地利用の指定、公園や学校などの公共施設整備まで多岐に渡り、計画施行後は道路の拡張、商業を中心とする土地利用、街路景観の西洋化などの変化が生まれた。特に西湖と隣接する湖浜空間には西洋風の公共水辺空間の創設と共に西湖へ至る道路整備に依る都市と西湖の空間的な連続性が生まれた。

「「新市場」湖浜地区計画」の実施はその後の「西湖環湖道路計画(1920)」「西湖博覧会計画(1922)」に繋がり、新市場地区のみならず西湖全域の都市化整備を加速するものとなった。

第4章「マスタープラン策定期における西湖を中心とする都市構造の形成・西湖風景の破壊(1932-1978)」では、1932年に初めて策定された都市計画マスタープランである「市政府分區計劃」から1978年の「改革開放」以前までの都市計画及び西湖風景区の建設変遷を整理した。この時期の都市計画には詳細な地区計画の策定はなかったため、杭州の都市計画史を整理する上では1つの区切りとみなすことができる。

終戦後の1953年に杭州市は都市計画を策定し、西湖を中心とする行政区、文化区とリゾート区の建設を進め、旧西湖景勝地を西湖風景区として杭州の都市内に取り込んだ。湖岸沿いにホテルの建設が行われるなど、この時期に西湖風景区は杭州「山水都市」の重要な一部として建設が行われ、西湖を中心する都市構造の実現に資した。しかし、建設規制が明確ではなかったため、西湖山水風景との調和への配慮が足りないなどの課題も残した。杭州市はその度数回、都市計画の修正や新たな都市計画の策定を試みたものの、「大躍進(1958-1960)」、「3年の都市計画中止(1961-1964)」、「文化大革命(1966-1976)」の相次ぐ政治的背景の影響を受け、それまでの観光やリゾート、文化を中心とした都市から重工業の工業都市を目指す方向への転換を余儀なくされた。

一方、西湖風景区は1949年の新政権成立後、一部の敷地を行政や軍が占有し、軍や高層幹部専属のリゾート病院やホテルなどが数多く建設された。同時に、花港観魚、柳浪聞鶯、植物園、動物園など一般人向けの公園整備もなされた。しかし、1966年からは「文化大革命」の「破旧」の思想の影響をうけて、西湖風景区内の「山水」風景を構成する遺跡に対する破壊運動が行われた。

こうして近代初期から長期間をかけて築き上げてきた西湖風景区は政治的背景を理由に大きく後退するのであった。

第5章「詳細都市計画時期における西湖と都市部の関係の見直し・西湖の再生(1979-2007)」では、1978年の「改革開放」の国の政策調整に従う杭州市の都市計画制定から現代に至るまでの都市計画と西湖風景区の建設変遷を整理した。

改革開放後最初に策定された「1983-2000年杭州市城市総体計画」は文化大革命前に杭州が目指していた風景観光都市の形成を再び謳っており、文化大革命による風景区の破壊を経てもなお西湖を中心とした山水都市を再生しようとする姿勢からは、杭州の一貫した都市計画に対する意図を読み取ることができる。また、計画では西湖風景区の保護を目的として市街地の建造物に高さや色彩の制限が設けられ、西湖風景区を中心とした都市整備を目指していた。都市の拡大に伴い制定された1996年計画では、環状高さ規制により都市部の高さ規制の対象とする範囲を拡大した。更に湖浜計画では西湖上の視点場から都市部を見る視線上に位置する建築の高さ規制を強めたものの、実際には高層建造物の建設が可能となったため、都市部は高層ビルの乱立という課題に直面することになる。

都市側の高さ規制の導入と 共に、文化大革命で破壊された西湖風景区では文化遺産の修復と保護に向けて様々な事業と保護計画の策定が続いた。2002年以降始まった、西湖風景名勝区総体計画を始めとする世界遺産登録を目指す一連の動きは都市部と風景区に高さ規制を設けるなど、杭州の山水都市としての価値をより一層高める上で重要な計画となった。

第6章「杭州における「山水都市」の創生に関する総合的な考察」では、前の五章の内容を都市構造の変遷と思想の変化の二つの側面から総合的な考察を行った。

まず、都市構造の変遷について考察すると、景勝地(庭園)、杭州城(都市部)、「市」(集市と周辺に形成された市街化部分)、郷村の四つの要素が抽出された。この四つの要素をめぐって、都市形態は(1)城内の寺院や庭園と城外の景勝地を通じて城が自然と繋がる段階(宋時代から清時代)、(2)城と景勝地の間の地区における都市計画整備による都市形態の変化の兆し(1907-1932年)、(3)マスタープランによる西湖を中心とする都市構造の形成(1932-1978年)、(4)景勝地と都市の間の中間エリアの創出と農村部を含めた広域の風景保護の四段階のダイアグラムにまとめられた。さらに空間構造の形成に影響を与えた思想を考察すると、近代以前は山水思想が西湖側の風景形成のみならず都市側への影響も与えていたが、近代に入ると都市計画思想が杭州の空間形成に影響を及ぼすようになり、山水思想は停滞した。しかし、1990年以降になると、都市形成に山水思想と都市計画思想が相互に影響を及ぼすようになった。

上記の分析に加え、杭州が山水都市を実現した要因を、都市の外側に長い歴史をかけて形成された山水都市の物理的な表現としての西湖景勝地の存在、近代の城壁崩壊による都市と西湖景勝地の近接というきっかけ、近代以降の計画思想の一貫性、景勝地を都市に取り込むための有効な都市計画手段の運用、風景という文化的価値の発展と市民への普及、新たな都市問題に対する早急な対応の6点に整理した。

このように中国古来の山水思想と近代以降の都市計画思想が重なり合うように影響を与え、杭州の西湖を都市に取り込む都市構造を実現させた。

終章では、各章で得られた知見の整理を行うとともに杭州の例から山水都市を再定義した。

杭州の事例に基づくと、山水都市は既に中国の古代に形成されており、景勝地(庭園)を中心に「城」(都市部)、「市」(集市と周辺に形成された市街化部分)、「郷」(農村)の3者は物理的な接続はなかったものの文化的な繋がりを持っていた。しかし、近代に入り城壁が撤去され、景勝地と都市が物理的・視覚的な繋がりを持ち始めた。さらに近代化が進むと、都市は一方的に拡大を続け、市は都市郊外部に取り込まれるようになった。景勝地も都市化の影響を受け、景勝地の特徴が失われた。

景勝地の特徴の喪失と過度な都市化は、景勝地保全の必要性を再認識させることとなり、景勝地を取り巻く空間は、人々との関わりに根ざした「文化的景観」として捉え直されることとで、景勝地と都市及び農村(郷)との調和的な接続関係を志向する、現代の「山水都市」が成立するに至った。

このような山水都市の歴史的展開において、山水思想を体現する景勝地は、人々が暮らす都市と自然とを媒介する特別な空間として存在し続けてきた。景勝地を拠り所として、それを取り巻く都市と農村(郷)の一体的な調和を志向する「山水都市」の思想は、杭州の成熟した将来像を指し示すのみならず、自然景勝地を手がかりとした都市・地域デザインの基軸となると結論づけた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国・杭州を対象に、杭州都市計画史において、都市が西湖及び周辺景勝地を計画上取り込む過程を歴史的に明らかにすることを目的としている。これによって中国古来の山水思想が都市側から見て、都市が周辺環境に対して都市を開いていくことによって山水都市というべきものを実現しているということを実証的に明らかにすることを目的としている。

論文は8つの章から成っている。

序章において、研究の目的・方法を明らかにするとともに、本論文で用いる主要概念の定義をおこない、既往研究について述べ、本論文の構成を示している。特に杭州の都市計画の歴史に関して、資料を網羅的に発掘し、史実を明らかにすることを通して上記の目的を達成しようとしている。

第1章は、中国江南の都市とそこにおける山水思想の発展経緯について主として文献をもとに明らかにし、その中での杭州の位置づけを論じている。

第2章は、南宋から元、明、清時代における杭州城の都市形成の歴史を文献をもとに総括している。同時に、西湖景勝地の形成について、唐時代以来の山水景の形成と変遷について概略的にまとめている。以上、第2章においては前近代における杭州都市計画の概要を簡潔に明らかにしている。

第3章から第5章にかけては、杭州の近代における都市計画の歴史を一時資料をもとに明らかにする章で、本論文の中心的な位置を占めている。

第3章においては、1907年に杭州に鉄道が建設されて城壁が一部開削された時点を杭州の都市の近代化の始まりと見なし、そこから初の全市的な総合計画が立案される1932年の前までを対象としている。とりわけ、新市場湖浜地区計画(1914年)及び西湖環湖道路計画(1920年)について、その内容を詳説し、これによって西湖から都市部を見る眺望点が誕生したことを明示し、都市部と西湖との接続がいかなる思想によっておこなわれたのかを明らかにしている。

第4章においては、1932年から1978年のマスタープラン策定期に焦点を当て、それぞれの計画内容を一時資料を基に初めて明らかにし、その背後にある計画思想を論じている。さらに、西湖との関係に関して、西湖風景区の建設によって周辺開発が進み、総体として西湖の風景が破壊されていった事情を明らかにしている。

第5章は、1979年以降の詳細都市計画の導入期における西湖と都市部との関係の見直しについて延べ、西湖風景の再生に関する試みを紹介している。とりわけ、都市部における高さ規制の実施や多様な視点場の導入とビューコリドーの保護などの施策が相次いで実施されていった様子を詳細に明らかにしている。

第6章においては、杭州において「山水都市」という概念がいかにして古来の山水思想から派生したかを明らかにすると共に、近代以降、山水都市の思想が都市計画の全体プランのなかでどのように具体化されてきたのかを実証的に明らかにしている。

結章では、以上をまとめ、ふたたび結論を時代ごとの自然と都市との関係のダイアグラムよって簡潔に述べている。

以上、本論文は、中国杭州における西湖との関係を都市計画史の視点から明らかにして、山水思想がどのように都市計画上、計画立案されていったかを具体的な計画図をもとに実証的に明らかにしている点で、初めての試みであり、えられた論点は今後の中国における都市-自然関係を考察する際にきわめて有用であるといえる。また、今後の中国における都市計画史研究の礎をなす論文として高く評価することができる。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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